生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
みなさんに、五十と五年前の話をしよう。
まだこの国が今のように豊かではなく、人々が額に汗して泥臭く働くことが当たり前だった時代。焼け野原からの復興の熱気と、煤煙の匂いが街を覆う。どこにでもありふれていた、そんな夏の日の出来事だ。
僕は黒塗りの社用車の後部座席で窓を少し開け、うだるような熱気とともに流れ込んでくる街の景色を静かに眺めていた。未舗装の道が土煙を上げ、けたたましいエンジン音を響かせるオート三輪が忙しなく駆け抜けていく。遠くを見渡せば、無数に立ち並ぶ町工場の煙突からモクモクと黒煙が立ち上っていた。容赦なく照りつける太陽の下、汗水流して働く人々の活気と喧騒が、この国の力強い鼓動のように感じられた。
(まだまだ、足りないな)
僕は一つ息を吐き、独りごちた。
もっとこの国を豊かにしていかなくてはならない。遍く人々が今日の飯に困らず、明日の未来を笑って語れるような、そんな余裕のある社会を創り上げる。それが、上に立つ者の責務なのだと僕は信じて疑わなかった。
やがて車は、僕が経営を束ねる会社に属している一つの工場へと到着した。車のドアが開かれると、うだるような熱波と共に、作業着姿の職員たちがずらりと整列しているのが目に入った。
「社長さまがわざわざ足を運んでくださるなんて、感激の極みです!」
先頭に立っていた工場長が、額に滝のような汗をかきながら、地面に思い切りぶつけそうな勢いで深く頭を下げた。
「皆さん、僕のことは結構です」
僕は並んでいる工員たちを見渡し、労いの声を張った。
「この茹だるような暑さの中、本当にお疲れ様です。倒れてしまっては元も子もない。さあ、日陰の中でお休みください」
僕が職員たちにそう促した直後、工場長が揉み手をしてすり寄ってきた。
「さ、さ! この暑い中、社長さまを外にそのままにはしておけません。どうぞ、室内の涼しいところへご案内いたします」
へり下る彼に導かれ、僕と秘書は工場の敷地内にある事務棟へと歩を進めた。この当時、クーラーなどという気の利いたものはなく、ただ扇風機が首を振っているだけの簡素な木造の建物だが、それでも直射日光を避けられる分だけマシだったのだ。
さて、屋内に移動して帳簿でも見せてもらおうかと思った、次の瞬間だった。
「おやっさーん! 今日こそオイラを雇ってくれよー!」
突然、元気いっぱいの大きな声が工場中に響き渡った。
見れば、十歳ほどの小柄な少年が、土煙を上げながらこちらに向かって突進してくるではないか。少年は勢いそのままに、僕らの目の前の地面へと豪快に宙を舞い、そのまま地面に身を投げ出して土下座の姿勢で滑り込んだ。
ズザザァッ! と見事な滑走だった。
「コラッ、このクソガキ! この忙しい時に、なんて傍迷惑な真似を!」
工場長が顔を真っ赤にしてワナワナと震え、少年を怒鳴りつけた。そしてハッと僕の視線に気づくと、慌てて愛想笑いを浮かべた。
「へへ、すいやせん社長さま……。このクソガキが自分を雇え雇えと、ここ毎日しつこくうるさいもんでして……すぐに叩き出します!」
弁明する工場長をよそに、這いつくばった少年は地面に頭を擦り付けながら必死に叫んだ。
「工場の中がダメなら、水汲みでも使いっ走りでもなんでもやる! 母ちゃんとイサクを食わせてやらなきゃならないんだ、オイラは!」
その声には、十歳の子供とは思えないほどの切実さと、絶対に退かないという悲壮な覚悟が宿っていた。
その必死さにどうしようもなく心を打たれ、感銘を受けた僕は、しゃがみ込んで片膝を立て、少年の目の前に顔を近づけた。
「顔を上げて」
僕の静かな声を聞き、少年は土にまみれた顔を上げた。丸く大きな瞳が、僕の顔をマジマジと見つめてきた。
「じっちゃん、誰だい?」
その言葉に、工場長が「コラ、社長さまに向かって無礼な!」と悲鳴のような声を上げた。だが、僕はそれを手で制し、少年に優しく尋ねた。
「僕に、君の話を聞かせてくれないか。……何があったんだい?」
少年は戸惑いながらも、そのまっすぐな瞳で僕を見据え、たどたどしくも力強い言葉で事情を語り始めた。
元々、少年の母親はこの工場に勤めていたらしい。しかし、過酷な労働で体を壊してしまい、ついに働けなくなってしまった。布団に伏せながら「ごめんね、ごめんね」と何度も申し訳なさそうに謝ってくる母を見て、少年はいても立ってもいられなくなったのだという。
「オイラには、母ちゃんの他に弟がいるんだ。イサクっていうんだけど、身体が弱くて、少し頭も悪いんだ。だから……だから、みんなをオイラが食わせてやりたいんだよ!」
嘘偽りのない、まっすぐな訴え。
この若さで家族を背負おうとするその心意気に、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「工場長」
僕は立ち上がり、冷や汗を流している工場長を振り返った。
「彼を、この工場で雇ってあげなさい。責任は全て僕が取る」
「しゃ、社長さまがそう仰るなら……」
渋々ながらも首を縦に振る工場長を見て、少年の顔がパァッと明るくなった。
「本当かい!? オイラ、雇ってもらえるのかい!?」
期待で胸を膨らませる少年に、僕は微笑みかけた。
「ああ、約束しよう。……でも坊主、君も僕に一つ、約束出来るかな?」
「何をだい?」
「一所懸命に働く事だ」
僕がそう言うと、少年は「あたぼうよ!」と快活な返事を返した。しかし直後、彼はふと小首を傾げた。
「でもじっちゃん、言葉が違うぜ?」
「何がだい?」
「イッショケンメイじゃなくて、『一生懸命』って言うんだぜ! 一生、その命をかけて尽くすんだ!」
少年は胸を張り、自信満々にそう言い放った。
元々は武士が一つの所領に命を懸ける「一所懸命」が語源であり、彼が口にしたのはそれが転じた言葉だ。だが、僕はその間違いを訂正する気にはなれなかった。彼の瞳に宿る、命を懸けて家族を守るという『一生懸命』な決意があまりにも眩しかったからだ。
「おっと、こりゃ失敬!」
僕が片目をつむって軽く返すと、少年は言葉の正確な意味も分かっていないだろうに、「シッケー、シッケー!」と嬉しそうに飛び跳ねた。
「ところで、まだ名前を聞いてなかったな坊主。……僕はアカシャウスイだ。君の名前は?」
僕の問いかけに、少年は太陽の下で向日葵が咲き誇るかのような、混じり気のない満面の笑顔を向けた。
「スイじっちゃんか、よろしくな!」
そして少年は、力強くその名を口にした。
「オイラは、ソラハキミトってんだ」