生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
マラカイトに案内されたのは、先ほどの居酒屋とは打って変わって、重厚なマホガニーの扉の奥にある隠れ家のようなオーセンティックバーだった。
店内は間接照明によって薄暗く照らされており、耳に心地よい音量で上品なジャズが流れている。磨き上げられたカウンターの奥には、宝石のように美しい色とりどりの酒瓶が整然と並び、ベストを蝶ネクタイで締めた初老のバーテンダーが、静かにグラスを拭き上げている。
「みっともないところを見せてごめんなさいね。ここはアタシの奢りよ」
化粧室でしっかりとメイクを直し、泣き腫らした顔を誤魔化してきたマラカイトは、カウンター席に腰を下ろすなり、すっかり気を取り直した様子でそう提案してきた。彼女の凛とした佇まいは、先ほどまで「彼ピがほしい」と泣き叫んでいた女と同一人物だとは到底思えない。
「良いのか? 随分と高そうな店だが」
シルヴァレッタが、壁に並んだ酒瓶の数々を眺めて、躊躇する。
「ここはアタシの奢りよ」
マラカイトは、有無を言わさぬ凄みを効かせた声で、もう一度念を押した。
黙れ、レス未満のお兄さん。
「ここは奢られておこうぜ、シルヴァレッタ。……さっきの姉さんの痴態を黙ってればいいんだろ?」
クロムが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら身も蓋もないことを言う。その言葉選びにマラカイトの眉尻がピクリと跳ねた。そのセリフを聞いてようやく思い至ったのか、シルヴァレッタは「なるほど」と深く頷いた。
ほどなくして、それぞれの前にグラスが運ばれてきた。マラカイトの前には淡いチェリーのカクテルが、クロムの前には琥珀色のウイスキーが。そしてシルヴァレッタの前には(値段を気にしていた様子を見てバーテンダーが気を利かせたのか)フレッシュな柑橘類を使ったノンアルコールのレモネードが置かれた。
コホン、とわざとらしく咳払いをして仕切り直したマラカイトは、細い指でグラスのステムを上品に傾け、ジト目でこちらを見てきた。
「……で、二人はどういう関係なの?」
彼女のその質問には、明確な疑念が混じっていた。彼女はさっきまで「彼ピとイチャイチャしながらお酒を楽しみたい」と泣き喚いていた。つまり、どうやら傷心のマラカイトの目には、居酒屋で仲睦まじく飲み交わしていたこの二人がそういう『甘い関係』に映ったらしい。
「飲み友達ってところか。今日が初日だけど」
クロムがグラスの氷をカランと鳴らし、肩をすくめて答える。すると、マラカイトは信じられないといった顔をして、大きく目を見開いた。
「と、友達? あんなに仲良さそうに酒を酌み交わして、二人きりで楽しそうに話す男女が? あり得ないわ!」
驚きを露わにする彼女を見て、ぼくはふと思う。
彼女もコバルトやクロムたちと同じく、孤児を集めて暗殺者を育て上げる『ジュエル』という裏社会の組織の出身だ。幼い頃から生きるか死ぬかの訓練を強いられ、人を殺すことだけを教え込まれてきた彼女にとって、男女が下心も打算もなく、ただ純粋に「友達」として酒を飲むという平穏な関係性は、まったくの未知のものなのだろう。
「んなこと言ってたらキリねーよ姉さん。……何ならコイツ、コバルトと同棲してんだぜ?」
クロムが意地悪な笑顔を浮かべ、シルヴァレッタを茶化すように特大の爆弾を投下した。
「な、なななな!」
マラカイトの顔が、瞬く間に手元のチェリーカクテルのように真っ赤に染まった。
「ダメよ、そんなの! あの子まだ未成年よ! そんな若いうちから男を知り尽くすだなんて羨ま、……はしたないわ!」
一瞬、本音がポロリと漏れかけたがギリギリで踏みとどまり、妹分のコバルトの貞淑を本気で心配するマラカイトだった。
「あー、大丈夫だろ。コイツに限って間違いなんか起きねーよ」
クロムは鼻で笑うと、突拍子もない行動に出た。
着ているダボダボのセーターの襟口を指で引っ掛け、手前にぐっと引っ張ったのだ。
薄暗い照明の下、ボーイッシュな彼女の無防備な胸元と、白い肌の谷間がシルヴァレッタの目の前にさらけ出される。
「ひゃっ!?」
マラカイトは、突然のクロムの過激な行動に完全にフリーズし、顔から火が出そうなほど赤くなって目を丸くした。
しかし、当のシルヴァレッタはというと。
目の前に突きつけられたクロムの胸元を、数秒ほどキョトンとした顔で見つめ……その後、ゆっくりと天を仰いだ。その視線の先にあるのは、バーの天井に備え付けられた空調の吹き出し口だ。
「……暖房が効き過ぎているか? 店員に言えば温度を落としてくれるだろう。客は俺たちだけだからな」
大真面目な顔で、一般的な反応とはかけ離れた、完全に見当違いな回答を口にするシルヴァレッタ。彼の中では、クロムが暑がっているようにしか見えていなかったらしい。
「ホラな」
クロムはやれやれと言った反応をして、パチンと襟元を戻した。
平静を装ってはいるが、襟元を直すクロムの耳たぶが暗がりの中でも分かる程にほんのりと赤くなっている。
安全な相手——絶対に手を出してこない男だと分かっているとはいえ、男性の目の前でマジマジと自分の胸元をはだけて見せつけるのは、流石の彼女でも相当恥ずかしかったらしい。
胸元だから耐えられた。パンツだったら危なかった。
「……そうだったわね。貴方、元は弾丸だったんだっけ」
マラカイトは深い溜息をつき、全てが腑に落ちた様子で呟いた。
「なら、人間の欲求なんてものとは無縁なのかしらね」
「おー、それそれ。そういや聞いてみたかったんだ」
クロムが思い出したように、身を乗り出して口にする。
「コバルトに聞いたんだけどよ。シルヴァレッタ、お前寝てないんだって?」
シルヴァレッタは静かに頷いた。
「そうだな。例外を除いて、一度も睡眠をとっていない。どうやらその必要がないようだ」
「な? コイツ、食欲しかねーんだよ。姉さんがコバルトのこと心配する必要は何処にもねー」
クロムがあっけらかんと答える。それを聞いて、マラカイトは口をあんぐりと開けたまま、しばし言葉を失っていた。
「……本当に、バケモノね貴方。人類に敵意を抱いてないのが救いだわ」
それは、裏稼業に携わる者としての本能から出た、心底からの素直な感想だったのだろう。
「そうか……」
バケモノという言葉に、シルヴァレッタは少しだけ視線を落とし、寂しそうな表情を浮かべた。自分でも己の異常性は理解しているらしかったが、改めて他人の口からそう断言されると、彼でも社会からの疎外感を感じてしまうのだろうか。
それを見たマラカイトは、いくらなんでも言い過ぎたと思ったのか、慌てて弁明する。
「ご、ごめんなさい! お酒が入り過ぎて、つい口が滑ったわ。他意はないのよ!」
クックック、と、慌てふためく姉貴分の姿を見て、クロムが楽しそうに笑いをこぼす。
「えーと、そうね。別の話題にしましょう、何がいいかしら?」
気まずさを誤魔化すように、話を切り替えようとするマラカイト。それを聞いて、シルヴァレッタは、ならば、と話題を切り出した。
「貴女に一つ尋ねたいことがあった。……良いだろうか?」
「何かしら? お姉さん、何でも答えちゃう!」
場を明るくしようと、わざとオーバーな反応を返すマラカイト。
「あの日、どうやって俺の事を『弾丸そのもの』だと知ったんだ?」
シルヴァレッタのその質問を聞いて。
マラカイトの笑顔が、ピシリと凍りついた。
お、気付いてたか。やるじゃん、シルヴァレッタ。
ぼくは心の中で、彼に盛大な拍手を送った。
あの日。路地裏で巨大な拳銃を携えて現れたマラカイトは、シルヴァレッタに向かってこう言ったのだ。『聞こえた限りの話だけど、今の貴方は弾丸そのものなんでしょ?』と。
「あの日の依頼人との秘匿通信……コバルトの手続きは完璧だった」
シルヴァレッタは、グラスの表面についた水滴を見つめながら、純粋な疑問を投げかけるように言葉を紡ぐ。
「組織の防諜技術に、盗聴やハッキングの挟み込む余地はなかった。あの密室での話を聞くことが出来たのは俺と、コバルトと、モニター越しの依頼人の三人だけだ」
シルヴァレッタの目は、逃げ場を塞ぐようにマラカイトを真っ直ぐに捉えていた。
「なのにあなたは、『聞こえた限りの話』として、俺が弾丸だと知っていた。……どうやったんだ?」
ジャズの音色だけが流れるバーの中で、沈黙が降りた。
マラカイトはこめかみに冷や汗を一つ流し、美しい唇を真一文字に結んだ笑顔で押し黙ったままだ。グラスを持つ彼女の指先が、微かに白くなっている。
「……そういやよー」
張り詰めた沈黙を破るように、クロムが唐突に発言した。
「ジュエルにいた頃、チビ達が隠れんぼをしてたら、シナバーの奴だけいつまでも見つからなくて騒ぎになったことがあったよな」
突然の思い出話。しかし、その言葉を聞いたマラカイトは、ギギギ、と油の切れた機械のようにぎこちなく首をクロムの方へ向けた。
「そしたら途中で外から帰ってきたマラカイト姉さんが、『アタシに任せて』って言って、ものの数分でシナバーを見つけたんだよ」
クロムは、琥珀色のウイスキーを転がしながら、何となしに思い出を話し続ける。マラカイトの顔が、みるみるうちに血の気を失い、青ざめていく。
「そん時、見つかったシナバーがボソッと言ったんだよ、『ズルい』って。あの、普段は泣き言ひとつ言わないシナバーがだぜ? 今でもハッキリ憶えてる。すげー恨めしそうだったぜ」
そう、思い出を楽しみながら語るクロム。しかし彼女の目は少しも笑っていなかった。
マラカイトは、顔に引きつった笑顔を固めたまま、身動き一つ取れないでいた。
「んで、ズルっていうと……実はこの間、似たようなことがあってさ」
クロムはウイスキーをグイッと飲み干し、氷をカチンと鳴らして、マラカイトに鋭く問いかけた。
「姉さん、なんかウチらに隠し事あっか? ……例えば、能力とか」