生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
あれから月日が流れた。
僕はあの日以来、会社の重役たちには内緒で、少ない暇を見つけては、お忍びで彼が働く工場へと足を運んでいた。運転手だけを待たせ、上着を脱いでノーネクタイの姿で工場の裏手に回る。そこで休憩中の彼と言葉を交わすのが僕の密かな、そして何よりも楽しみな恒例行事となっていたのだ。
「スイじっちゃん!」
木箱に腰掛け手ぬぐいで汗を拭いながら僕を迎える彼の笑顔は、あの日と何一つ変わらない太陽のような明るさを持っていた。
僕が彼のもとへ通い続けた理由は、単なる責任感や同情からではない。彼との対話が、巨大な組織のトップに座っているだけでは、決して知ることのできない現場の「生の声」を聞くための最良の機会だったからだ。
工場の作業工程のどこに無理が生じているか。家庭での母親や弟のイサクくんとのやり取りを通じて知る生活実態の状況。街の人々が休日にどう過ごし、何に笑い、何に怒っているのか。額に汗して泥臭く働く庶民の暮らしのリアルを、彼は嘘偽りなく、ありのままに語ってくれた。
──何よりも、そうした日々のささやかな出来事を満面の笑顔で活き活きと語ってくれるソラハキミト少年という存在そのものに、僕は深く惚れ込んでいたのも事実だった。
過酷な環境にあっても決して希望を失わず、家族のために懸命に生きる。彼のように純粋でひたむきな存在をしっかりと幸福へと導き、誰もが報われる社会を創り上げる事こそが、上に立つ僕の最大の務めである。
彼と話すたびに僕はその実感を強く、そして熱く胸に刻み直すことができたのだ。
月日の流れは、少年の身体を確かに作り変えていた。初めて会った時の華奢な体つきはすっかり消え失せ、今では薄汚れた作業着から覗く腕に、労働によって培われた、しなやかな筋肉が隆起している。
手には分厚いマメができ、背丈こそまだ大人には遠く及ばないものの、その横顔には病気の母と幼い弟を支える「一家の大黒柱」としての逞しさと男らしい覚悟が宿りつつあった。
最近の仕事はどうだい? と僕が尋ねると、彼は少しだけ照れくさそうに鼻の頭を擦って語った。まだ任される仕事は少ない。先輩たちの道具を運んだり、掃除したり、半ば使いっ走りのような仕事ばかり。だが、彼の顔に不満の色は全くなかった。
「でもさ、そのおかげで工場の端から端まで走り回れるから、いろんな部署のオッチャンたちとすっかり顔馴染みになれたんだ! みんなオイラに『坊主、頑張ってるな』って声かけてくれて、たまに飴玉なんかをこっそりくれるんだぜ」
嬉しそうに語るソラハキミト少年。彼はその持ち前の明るさと人懐っこさで、大人ばかりの過酷な労働環境の中において、見事に自分の居場所を築き上げていた。
彼を通じて、多くの職員の世間話や苦労話を伝聞で耳にすることもできた。誰の奥さんが病気がちだとか、誰の家で子供が生まれたとか。そうした血の通った人々の暮らしぶりを知ることは、僕が経営判断を下す上で何よりも代えがたい財産となっていた。
◆
そうして、あの出会いから三年が経った、ある日のこと。
いつものようにお忍びで工場に赴き、裏手の資材置き場へと向かった僕の目に飛び込んできたのは、予想外の光景だった。
いつもなら遠くからでも僕の姿を見つけて元気に手を振ってくれるはずの彼が、今日は工場の物陰に隠れるようにしてうずくまっていたのだ。近づいてみると、彼の小さな肩が小刻みに震えているのがわかった。そして押し殺したような、しゃくり上げる音が微かに聞こえてきた。
「どうした坊主、何があった?」
僕は背後から優しく声をかけた。
ビクッと体を跳ねさせ、少年は慌てて振り返った。その瞳は真っ赤に充血し、頬には大粒の涙の跡がはっきりと残っていた。
「な、なんでもねーやい! 目にゴミが入っただけだって!」
彼はゴシゴシと乱暴に袖で顔を拭い、無理に口角を上げていつもの笑顔を作ろうとした。だが、その声はひどく上擦り、表情は見るに堪えないほど歪んでいた。
経営者として数え切れないほどの人間と対峙し、腹の探り合いをしてきた僕にとって、人の嘘を見抜くことなど造作もないことだ。ましてや、目の前にいるのは純粋すぎる十三歳の少年である。それが強がりの嘘であることなど、火を見るより明らかだった。
僕はゆっくりとしゃがみ込み、彼の目線に合わせて視線を落とした。
「強がるな坊主。……僕に話してごらん」
決して急かさず、ただ彼を受け入れるように、優しく微笑みながら語りかけた。
僕のその静かな声音で、彼の中に張り詰めていた糸がプツリと切れたようだった。ギリッと奥歯を噛み締め、俯いたまま数秒間耐えていた彼だったが、やがて観念したようにポツリと、震える声で白状した。
「……母ちゃん、こないだ死んじまったんだ」
その一言が、僕の胸を鋭い刃で抉った。
病に伏せりながらも、彼の帰りを誰よりも待っていた母親。彼が「食わせてやるんだ」と命を懸けて働いていた一つの理由。それが、永遠に失われてしまったという事実。
僕は、いてもたってもいられなくなり、思わず手を伸ばして彼の小さな身体を強く抱きしめた。
「そうか、そうか……辛かったろう、坊主。泣いていい、泣いていいんだ」
油と汗の匂いが染み付いた彼の背中を、赤子をあやすようにポンポンと優しく叩きながら、僕はただひたすらに慰めの言葉を繰り返した。
僕の腕の温もりに包まれたことで、彼はついに感情の堰を切った。
「うわあああああっ!!」
周囲の目も憚らず、彼は僕の胸に顔を押し付けて大声で号泣した。
「母ちゃん、最後まですまない、すまないって言いながらおっ死んじまった! オイラがもっと稼いで、いい薬を買ってやれば良かったのに! 可哀想だ! 母ちゃんは何も悪い事なんてしてないのに!」
しゃくり上げ、涙と鼻水で僕のシャツを濡らしながら、彼は理不尽な運命に対する悲しみを叫び続けた。
彼の言う通りだ。
懸命に働き、家族を愛した一人の女性がなぜ、こんなにも惨めな最期を遂げなければならないのか。
なぜ、彼のような純粋な少年が、こんなにも過酷な悲しみを背負わなければならないのか。
「そうだ、君たちは悪くない……」
僕は、嗚咽を漏らす彼をさらに強く抱きしめ、天に向かって懺悔するように謝った。
「僕の、僕たち上に立つ者の力が及ばないばかりに、こんなにも不条理な社会を放置してしまっているばかりに……君にそんな苦しい想いをさせてしまって、本当にすまない」
僕は経営者として、社会を豊かにすると誓ってきた。だが現実はどうだ。足元の、僕が一番惚れ込んだ少年一人の家族すら救うことができなかった。己の無力さに対する強烈な憤りが、僕の心を奮い立たせているのを感じた。
どれくらい泣き続けただろうか。僕の腕の中で胸に溜まった悲しみを全て吐き出しスッキリしたのか、やがて彼はゆっくりと身体を離した。
泣き腫らした赤い目をこすりながら、彼は少しだけバツが悪そうに、それでもいつもの眩い笑顔を不器用に作って見せた。
「へへ……。スイじっちゃんには恥ずかしいところ見せちまったな」
照れ隠しのように頭を掻く彼を見て、僕はホッと胸を撫で下ろした。
「何を今更、僕と坊主の仲じゃないか。強がって隠し事をされるより、よっぽどマシさ」
僕はことさら明るい声で反論し、彼の肩を軽く叩いた。
そして、僕は表情を引き締め、真剣な眼差しで彼を見据えた。
「……そうだな、隠し事はよくない。今日は坊主に伝えておかなければならない事があるんだ」
僕が少し勿体ぶった口調で話しかけると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「なんだい? 改まって」
「僕は、これから海外を見て回ろうと思う」
胸の内に秘めていた壮大な決意を彼に告げた。
「この国に居ただけじゃ、人々の暮らしを本当の意味で豊かにすることには限界がある。今の社会の仕組みのままでは、君の母親のような悲劇を無くすことはできない。だから……海外の進んだ技術や思想、新しい社会のシステムを学びに行きたいんだ。海の向こうに行けば、誰もが報われる世界を作るための『答え』が見つかるんじゃないかと思ってね」
僕は彼を真っ直ぐに見つめ、これからの行動について語った。僕の中でくすぶっていた焦燥感は、今日の彼の涙を見たことで決定的な行動への渇望へと変わっていたのだ。
「……だから、坊主とは当分逢えなくなる。達者でな」
僕は寂しさを誤魔化すことなく、率直に別れを告げた。
その言葉を聞いて、少年の顔から少しだけ寂しそうな色が漏れた。
「そっか……。じっちゃん、遠くに行っちまうんだな」
彼は俯き、作業靴のつま先で地面の土を蹴った後、珍しく子供のように甘えたような声で尋ねてきた。
「……次は、いつ会えるんだい?」
その問いに、僕は言葉に詰まった。
世界中を視察して回るとなれば、何年かかるか分からない。帰国の目処など全く立っていなかった。
「……そうだな、僕ももう歳だ。そう長く海外を転々と出来るほど体力には自信がないよ」
僕は苦笑いしながら、空を見上げた。
「だから、こうしよう坊主。次に僕が日本に帰ってきて会う時は、一緒に酒を飲もう。約束だ」
あえて明確な期間は言わなかった。数年後、あるいは十数年後、彼が成人して酒が飲める年齢になっている頃。それまでお互いに健康で、胸を張って再会できることを誓い合う、男同士の約束。
「酒かぁ! オイラ、飲んだことねえけど、強ええぞきっと!」
彼はパァッと顔を輝かせ、力強く頷いた。
「うん、約束だスイじっちゃん! 絶対忘れんなよ!」
彼が差し出してきたゴツゴツとした小さな手を、僕はしっかりと握り返した。
「ああ、忘れないとも。君も、弟のイサクくんを頼んだぞ」
「あたぼうよ!」
彼の笑顔は夏の太陽よりも眩しく、未来への希望に満ち溢れていた。
——僕はこの時の決断を、今でも後悔している。