生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
薄暗い非常口の緑色のランプだけが、部屋の輪郭をぼんやりと照らしている。
その部屋の隅で美しい和服を着崩し、顔を膝に埋めてボロボロと泣いている女性。それは紛れもなく、さきほど玄関先で愛想良く団体客を出迎えていた「三つ子」のうちの一人だった。
「一体、何が……?」
シルヴァレッタは暗闇の中で困惑の声を漏らす。彼がさらに一歩を踏み出し、彼女に事情を尋ねようとした──まさにその時だった。
ガラララッ!
背後の廊下で、大宴会場の重たい引き戸が乱暴に開け放たれる音が響いた。分厚い戸によって遮られていたカラオケの重低音や下品な歓声、そして酔客たちの馬鹿騒ぎのボリュームが鼓膜を破くほどの勢いで廊下に溢れ出す。
「おっとっと、いけねえ転ぶとこだった」
「部長、お供しますよ。足元気をつけてくださいね」
どうやら宴会の席を中座した会社員たちのようだ。足音は四人分、ドカドカと無遠慮にシルヴァレッタのすぐ近くへと向かってきている。
「……ッ!」
シルヴァレッタは咄嗟に身を翻し、泣いている三つ子の一人が隠れている部屋へと滑り込んだ。
突然、薄暗がりからヌッと現れた見知らぬ男に三つ子の彼女はビクッと肩を震わせ、「ひっ……!」と悲鳴を上げそうになった。シルヴァレッタは彼女の細い肩を引き寄せると、もう片方の手でその小さな口をギュッと塞いだ。
「大丈夫だ、俺は敵じゃない。静かに」
シルヴァレッタは耳元で極めて優しく、落ち着いたトーンで諭すように囁いた。
その声に悪意が含まれていないことを直感で悟ったのか、あるいは更なる恐怖で声も出なかったのか……彼女は恐怖に見開いていた目を少しだけ和らげ、小さくコクンと頷いた。
二人が息を潜めていると、空き部屋のすぐ外、廊下で立ち止まった会社員たちの会話が襖越しにハッキリと聞こえてきた。
「しかし部長、いいんですか? あの女の子を泣かせたままで。……後で旅館からクレームが来たり、トラブルになりません?」
部下と思しき若い男の声が、少しだけ心配そうに尋ねる。
「ハッハッハ! 大丈夫だ、気にするな。こっちはたんまり金払ってこの宿に泊まってやってるんだぞ。万が一何か言われても、口止め料にしては高過ぎるくらいの札束を落としてやってるんだ。むしろ、向こうからオレたちに頭を下げて然るべきだろ。不快な思いをさせてスミマセン……ってな!」
部長と呼ばれた男が、酒焼けしたしゃがれ声で下劣な笑いをこぼす。
「しっかし、専務のアレ、えげつなかったですねー。いくら酒の席とはいえ、今時の若い子にあんな屈辱的な事させるなんて……」
「そうか? オレには最高の余興だったぜ。いたいけな少女が涙をグッと堪えて耐える姿……たまらなかったなぁ。見てて背筋がゾクゾクしたよ!」
ぼくは心底、嫌気が刺した。
詳しい内容は分からない。想像したくもない。……だが、彼らが宴席のノリと権力を笠に着て、出迎えをしてくれたあの美しい三つ子たちに対し、人間としての尊厳を粉々に踏み躙るような卑劣な振る舞いを強要したことは窺い知れた。
「ガハハハ! だろう? 世間じゃコンプライアンスだなんだと堅苦しいことばっかり言われるが、一皮剥けば俺たち人間なんてのは昔から何にも変わっちゃいないのさ。勝手に社会が一人歩きしてるだけ! 今も昔も、金と権力を持つ者が、持たざる者を好きにいたぶる。好きなモンは好き! 欲望は抑えなくて良い……自分に正直じゃなきゃあ、この厳しい競争社会で出世なんて出来やしないんだぜ?」
部長と呼ばれた男が、己の下劣さを正当化するような胸糞の悪い哲学を語る。
「なるほど、勉強になります! ……でも、途中で一人逃げちゃったじゃないですか。あれヤバくないですか? 警察とか呼ばれたりして……」
「平気平気。他の二人は最後まで残って、あんなことやこんなことまで、大人しく付き合ってたじゃないか。何せ専務の『もっと際どいリクエスト』にもちゃんとお応えしてくれたんだ。……どうせ逃げた子は女の子の日ってヤツで、お酒に自分の血が滲むのを嫌がっただけだろ!」
「「「「ハッハッハッハッハ!!」」」」
下劣極まりない、嘲笑のコーラスが廊下に響き渡る。
やがて彼らは、またドカドカと足音を立てて遠くへ去っていった。
静寂が戻った薄暗い空き部屋の隅。シルヴァレッタは、ゆっくりと少女の口から手を離した。
彼女は悔しさか、あるいは自分だけが逃げてしまったことに対する姉妹への罪悪感からか、ガチガチと歯を鳴らし、ガタガタと激しく全身を震わせていた。和服の袖を強く握りしめる彼女の指先は白く鬱血している。
その痛々しい姿をジッと見つめていた、シルヴァレッタ。
──突如として、彼の両腕がブルブルと痙攣するように震え出した。
「な、何だ……?」
シルヴァレッタは、自分の意志とは無関係に暴走を始めた両腕を見つめ、戸惑いの声を漏らす。
「どうして震え、てっ……!」
腕だけではない。次第にその激しい震えは全身へと波及していった。シルヴァレッタは自らの身体を強く抱きしめ必死に痙攣を抑え込もうとするが、震えは一向に収まる気配がない。まるで、身体の内側から見えない炎が吹き上がっているかのようだった。
……ぼくには、この不可解な現象の理由がハッキリと理解できていた。
シルヴァレッタが、クロムやマラカイトとバーで酒を飲んでいた時のことだ。あの時クロムはシルヴァレッタについて「コイツ、三大欲求が食欲しか残ってねーみたいなんだ」と語っていた。実際、彼には睡眠欲がないようであり、クロムが胸元をはだけて見せても情欲のようなものは一切示さなかった。
しかし、ぼくは彼の行動を観察し続けていて少し違う見解を持っていた。彼に欠落しているのは三大欲求というより、人間を人間たらしめる根源的な感情……『七つの大罪』と呼ばれるものが極めて希薄なのだと推測していた。
クロムの裸体を見ても反応しないのは『色欲』が薄いから。
眠らないのは『怠惰』と無縁だから。
ならば、今回は──『憤怒』だ。
いたいけな少女の尊厳がコケにされ、下劣な言葉で蹂躙された。それでも、元は銀の銃弾に過ぎないシルヴァレッタの意識は相手に対する「怒り」という感情を正しく理解し、処理することができない。彼には、悪意に対する憎悪のメーターが存在しないとも言える。
しかし、肉体は別だ。
この身体は元々は、ぼくの、普通の人間のものだ。
理不尽な精神的暴力を目の当たりにしたぼくの肉体は、自律神経を激しく逆立て、アドレナリンを過剰に分泌させ、他者を傷つけた悪意に対するどうしようもない『憤怒』の反応を、震えという身体的兆候で引き起こしてしまっているのだ。
意識は怒っていないのに、身体だけが激しい怒りに打ち震えている。
そのギャップが今のシルヴァレッタを激しく戸惑わせ、パニックに陥らせていた。
──これはぼくにとって本意じゃない。
ぼくの存在が彼の物語にケチをつけるわけにはいかない。
だからぼくは身体に命令する。
鎮まれ
鎮まれ
鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ鎮まれ!!
……数十秒の格闘の末、やがてアドレナリンの波が引き、シルヴァレッタの身体の激しい震えはゆっくりと収まっていった。
よし
「はぁっ……はぁっ……」
ホッと一息をつき、額に浮かんだ汗を拭うシルヴァレッタ。
彼は乱れた呼吸を整えると、再び、同じ部屋の隅で膝を抱えて震えている三つ子の一人へと向き直った。そして彼は一切の躊躇なく両腕を広げ、彼女の身体をギュッと強く抱きしめる。
「あっ……」
「辛かったな。……すまない。護ってやれなくて、すまない……」
シルヴァレッタの声は、彼自身も驚くほど震え、そして熱を帯びていた。
目の前で理不尽に傷ついているこの少女の姿を、どこか不器用で、けれどいつも必死に生きている『コバルト』の姿と重ね合わせたのだろう。彼は、心からの心配と、深い慈愛の籠もった声で彼女を慰めた。
その、あまりにも不器用で真っ直ぐな心意気が、彼女の凍りついていた心を溶かした。
「あああああぁぁぁぁぁっ!!」
彼女は、それまで必死に押し殺していた感情を一気に曝け出し、シルヴァレッタの広い胸の中に顔を埋め、子供のようにワンワンと泣き叫んだ。
理不尽な扱いを受けた屈辱。他の二人を置いて逃げてしまった罪悪感。そして、助けてくれる大人が誰一人としていなかった絶望。その全てを涙に変えて、彼女はシルヴァレッタの胸の中で泣き続けた。
⬛︎◆▲
一頻り泣き喚き、ようやく感情の波が落ち着いた頃。三つ子の一人は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、鼻をすすりながらシルヴァレッタに尋ねた。
「……貴方は、誰なんですか?」
当然の疑問だ。宴会場の近くの空き部屋に、見知らぬ男が入り込んできて自分を助けてくれたのだから。
それに対して、シルヴァレッタは静かに、しかし力強く答えた。
「お前の味方だ」
その言葉に嘘偽りがないことは、先ほどの抱擁で彼女も痛いほど感じ取っていたのだろう。まじまじとシルヴァレッタの目を見つめ、そして「味方……」と呟いた。
「着いてきてくれ。会わせたい人物がいるんだ」
シルヴァレッタがそう言うと、彼女は黙ってコクリと頷き、彼の手を取った。
二人は部屋を出て、宴会場からの客や従業員の目を盗みながら、コッソリと、けれど足早に三階の自室へと移動した。
「戻ったぞ」
シルヴァレッタが障子を開けると、万が一の事態に備えて着替えを済ませ、臨戦態勢で待機していたコバルトの姿があった。コバルトはシルヴァレッタの後ろからおずおずと姿を現した、自分と瓜二つの女性の姿を見て目を丸くした。
「……やるわねシルヴァレッタ。話が早いわ」
コバルトは驚きを隠すように腕を組みつつ、彼を褒めた。
「コバルト、相談したい事がある」
シルヴァレッタは真剣な表情で歩み寄り、先ほど空き部屋で聞いた大会社の社員たちによるゲス極まりない会話の内容をコバルトに共有した。
話を聞き終えたコバルトの顔が苦悶に歪み、ギリッと奥歯を噛み締める音が部屋に響く。
「……世も末ね」
コバルトは、痛烈な嫌悪感を込めたコメントを吐き捨てた。
「俺はこの子を今すぐここから逃してやりたいと思う」
シルヴァレッタが、真っ直ぐな目で提案する。
「協力してくれないか」
「当たり前でしょ」
コバルトは即答した。
「クズ共の吹き溜まりに、この子たちを置いておくわけにはいかない」
彼女はすぐに頭を切り替え、プロフェッショナルとしての顔つきで作戦を立案し始める。
「とりあえず今日はこの子だけでも夜逃げさせるわ。明日の朝、騒ぎになるでしょうね……その騒ぎに乗じて残りの二人も逃がしましょう。近辺にいる組織の関係者か協力者に連絡を取って、事情を説明して、彼女を安全な場所へ引き取ってもらうところから動くわよ」
手際よく脱出の手はずを整えるコバルトの姿を見て、三つ子の一人は「え? え? 組織……?」と、話のスケールの大きさに完全に困惑し、目を白黒させている。
そんな彼女の肩に、シルヴァレッタがそっと手を置いた。
「ここから逃げたいなら、俺たちは全力で協力する。……後は、君の気持ち次第だ。どうしたい?」
その問いかけに、彼女はハッとしてシルヴァレッタの顔を見つめた。
これから先の人生も、あの地獄のような宴席に呼ばれて権力者たちの慰み者にされる。それは現代を生きる彼女たちにとって到底耐えられるものではないだろう。
彼女の瞳に、確かな決意の光が宿る。
「……逃げたいです」
彼女は、小さく、けれどハッキリと頷いた。
⬛︎◆▲
深夜、人目を避けるようにして旅館の裏口から抜け出した三人。コバルトは迎車のタクシーを手配して、旅館から離れた林道で息を潜めて待っていた。
凍てつくような寒さの中、三つ子の少女の肩は小刻みに震えている。シルヴァレッタが自分の羽織っていた丹前を脱ぎ、無言で彼女の肩に掛けてやった。
十数分後。
雪の降る夜の暗がりの中、一本道の奥から、こちらに近づく一台の車のヘッドライトが見えた。
「随分早いわね……偶々近くを通りかかってたのかしら?」
怪訝になりながらも、コバルトは安堵の息を吐く。深夜遅くに来訪する車両。当然それはコバルトが手配した車だろうと誰もが思っていた。
しかし。
その車がさらに近づき、山道にポツポツと立っている街灯に照らされ、その意匠が確認できる距離になると……隣に立っていた三つ子の一人が、喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げた。
「ヒッ……!」
彼女はガタガタと震え出し、後ずさりをしてシルヴァレッタの背中に隠れるようにしがみついた。
薄暗い街灯に照らされても判別できるほど、その車は、雪景色にはおよそ似つかわしくない、趣味の悪い、血のように真っ赤なスポーツカーだった。
キキィィィッ!!
スポーツカーは三人の目の前で乱暴な急ブレーキをかけ、スリップしながら停車した。バタン、と運転席のドアが開き、中から恰幅の良い、顔のデカいシルエットの男性が姿を現した。
車のヘッドライトが煌々と光る暗闇の中、男は、怯える三つ子の少女の姿を見つけると猫撫で声で話しかけてきた。
「なぁーにコソコソ逃げようとしてんの、ソラハ二号ちゃーん? ……オレ様から逃げられると本気で思ったか? この、実験動物風情が」