生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
旅館から少し離れた所にある広大な駐車場には、昨夜の団体客たちを乗せた大型観光バスがアイドリング音を響かせながら停まっていた。
雪化粧をした木々の間、ひんやりとした朝の空気が漂う物陰に身を潜めながら、ぼくとクロガネは並んでその光景を眺めていた。ぞろぞろとバスに乗り込んでいく大会社の社員たちの顔には、温泉宿の風情を満喫したような穏やかさは微塵もなく、ただ己の欲望を発散し尽くしたという下劣な疲労感だけが張り付いているように見えた。
「旅先の景色や風情には興味なし、ね」
ぼくは、彼らの後ろ姿を冷ややかな目で見送りながらポツリとこぼした。
「タイパ重視って言葉を免罪符にしてるのかな。そんな風にしか余暇を消費できないから、余計にストレスが溜まるんじゃないの」
「……もっともです」
隣に立つクロガネが、静かに、しかし確かな軽蔑の念を込めて肯定した。
あの団体客のお目当ては歴史ある温泉宿の情緒でも、名湯の効能でもなく、昨夜聞こえてきたような権力を笠に着た悪辣な乱痴気騒ぎだけだったらしい。日頃の鬱憤を、自分より弱い立場の者にぶつけることでしか解消できない哀れな大人たち。彼らの乗ったバスは、吐き出す排気ガスだけをこの美しい温泉街に残していくように、ゆっくりと動き出した。
バスの出発に合わせ従業員たちがずらりと並んで深々と頭を下げた。その中には、昨夜救出した「二号」を除いた、残りの三つ子の二人の姿もあった。お揃いの美しい和服に身を包んだ彼女たちは笑顔を貼り付けながらも、どこか心ここにあらずといった様子だった。……姉妹の身を案じているのが遠目にもわかった。
その重たいエンジン音が完全に聞こえなくなるまで、彼らは見事な所作で頭を下げ続けていた。ようやくバスが見えなくなり、顔を上げた従業員たち。その中で割烹着姿の品のいい女将が、三つ子の二人に優しく問いかける声が静かな朝の空気に乗ってこちらまで届いた。
「ところで、二人はニゴちゃんを探すんだって?」
「はい……」
三つ子のうちの一人が、申し訳なさそうに一歩前に出て頭を下げた。
「大事な姉妹ですので……どうしても心配なんです。勝手を言って申し訳ありませんが、今日はお休みをいただいてもよろしいでしょうか?」
彼女の懇願には、不安と怯えが入り混じっていた。逃げ出した姉妹を探しに行きたいが、それが雇い主である旅館にどれほどの迷惑をかけるか、彼女たちなりに痛いほど理解しているのだろう。
しかし女将の反応は、あまりにも温かいものだった。
「大丈夫、大丈夫よ!」
女将はしわくちゃの顔に満面の、元気な笑顔を浮かべて、彼女たちの背中をバンバンと叩いて勇気づけた。
「今日はお客様の予約も入っていないし、若い子たちで探しに行っといで! ニゴちゃん、きっと近くで迷子になってるだけだろうから、見つけたら温かいお茶でも飲ませてあげるんだよ。イチゴちゃん、サンゴちゃん!」
「女将さん……ありがとうございます!」
三つ子の二人は、その優しさに触れてパッと顔を輝かせた。過酷な運命を背負わされた彼女たちにとって、この旅館の女将の存在は数少ない「人間の善意」に触れられる相手なのかもしれない。ぼくは、彼女たちの境遇に少しだけ胸が締め付けられる思いがした。
「さ、みんなも仕事に戻るよ!」
女将の号令で従業員たちは三つ子の二人を残し、足早に旅館の奥へと戻っていった。
静寂が戻った駐車場。三つ子の二人が「さあ、私たちも探そう」と顔を見合わせた、まさにその瞬間だった。
バタン、と乱暴に車のドアが開く音が響いた。
駐車場の端には、あの趣味の悪い真っ赤なスポーツカーが止まっていた、中から、一人の男性が降りてくる。
昨夜、雪道でソラハ二号を追い詰め、シルヴァレッタたちを『クロガネフラッシュ』なるクソダサ機械で眠らせた、あの顔のデカい男だ。男の顔は怒りと焦燥で赤黒く、醜く歪んでいた。彼はズカズカと三つ子の二人に向かって歩み寄る。
「何ボサっと突っ立ってんだテメェら!」
朝の静寂を切り裂くような、甲高く耳障りな怒声が響き渡った。
「さっさとあのバカな二号を探しに行け! オレ様の顔に泥を塗りやがって……タダで済むと思ってんのか!」
その暴力的な言葉を浴びた瞬間。
先ほどまで女将の優しさに触れて希望を取り戻しかけていた三つ子の二人は、まるで蛇に睨まれた蛙のようにピタリと動きを止めてしまった。
長年この男から受けてきたであろう支配と恐怖が、彼女たちの足の裏から根を張り、身体を金縛りに遭わせたのだ。ガタガタと肩を震わせ、顔面を蒼白にして、一歩も動くことができない。
それを見た顔のデカい男は、苛立ちを隠そうともせずに大げさに舌打ちをした。
「チッ! どいつもこいつも出来損ないばかり。お前らは尻引っ叩かなきゃ動けねー馬か?」
男は懐をごそごそと探ると、黒く角張った、スタンガンのような機械を取り出した。先端の電極から、バチッ、バチバチッ! と青白い火花が威嚇するように散る。
「「ヒィッ!」」
三つ子の二人は、その青白い光を見た瞬間、悲鳴を上げて身じろぎし、互いに抱き合うようにして後ずさった。過去に何度も、その機械で『調教』という名の暴力を振るわれてきた記憶が蘇ったのだろう。
コバルトに手を出すな
次の瞬間、ぼくの肉体は物陰から勢いよく駆け出していた。
ザッ、ザッ、ザッ! と足元から雪を踏みしめる音が耳に届く。
「──え?」
ぼくは、全力疾走で男の元へと突進していく自分自身を、まるで別人のように眺めているような感覚に陥っていた。
どうして走っている?
何をしようとしている?
思考が追いつくよりも早く、ぼくの肉体は男の目の前へと到達していた。そして、踏み込んだ勢いそのままに──ありったけの力を込めて右腕を大きく振りかぶり、放った。
ゴッ!!!
鈍く、そしてひどく重たい打撃音。
男の無駄に大きい的──顔面のど真ん中に、シルヴァレッタが鍛え上げてくれた強靭な肉体から放たれた右ストレートがクリーンヒットした。
「グエッ!?」
カエルのような奇声を上げ、男の身体が雪の上に無様に転がった。
「な、何だ!? 誰だお前!」
顔を押さえ、鼻血を撒き散らしながら起き上がろうとする男。しかし、ぼくの肉体は彼の問いかけなど完全に無視して、間髪入れずに思い切り蹴りを放った。
ドスッ!!!
「グワッ!」
男の体が再び雪の上を転げ回る。
コバルトとの地獄のような戦闘訓練が活かされているのは間違いない。動きに無駄がなく、体重移動も完璧だ。
しかし
問題は
どうして身体が勝手に動いているのかということだ。
ぼくの意識は怒り狂っているわけではない。自ら飛び出して鉄拳制裁を下すような熱量を持っている自覚はない。にもかかわらず、この肉体は、自らの内に秘められた『憤怒』を代行するかのように、冷酷なマシンのように男を叩きのめそうとしている。
「……へへ、誰が相手でも関係ねぇ!」
雪まみれになった男は、よろよろと立ち上がりながら、懐から昨夜も使ったあの懐中電灯のような機械を取り出した。
「クロガネフラッシュ!」
強烈な閃光が放たれ、ぼくの視界を白く染め上げる。
至近距離で浴びたその光は、通常の人間であれば間違いなく脳のスイッチを強制的に切断し、深い眠りへと突き落とすはずのものだ。
だが、ぼくは止まらなかった。
「なっ!?」
効かないことに驚愕し、目を見開く男。その隙を逃すはずもなく、ぼくは蹴り飛ばされて仰向けに転がっていた男の太鼓腹を、上から思い切り踏んづけた。
「グゥッ!!」
肺から空気を絞り出されるような男の呻き声。
「な、何で? 効かねぇはずが……グエッ!」
ぼくは無言のまま、踏みつけた足を軸にして、もう片方の足で男の横っ腹を容赦なく蹴り付ける。ドスッ、ドスッ! と、肉と骨が軋む嫌な音が駐車場に響く。
……どうしてこんなにも身体が勝手に動くのだろう?
ぼくは止まらない、止まれない。
「ひぃっ! な、ならコイツだ! クラスタースパーク!」
血反吐を吐きながら、男はもう一つの武器であるスタンガンのようなものを握りしめ、ぼくの足に無理やり押し当てた。
「へへ、群発頭痛の痛みを味わいな!」
スイッチが入れられた瞬間、ぼくの脳天をハンマーでカチ割られたかのような、想像を絶する激痛が駆け巡った。
「──ッッ!!」
声にならない悲鳴が脳内でこだまする。
『群発頭痛』……それは別名「自殺頭痛」とも呼ばれる、人類が経験する痛みの中で最悪のものの一つだ。
目の奥をえぐられるような、今すぐ壁に頭を打ち付けて死にたくなるほどの圧倒的な痛みが、ぼくの神経を直接焼き焦がす。痛みで視界がぐにゃりと歪み、何が何だかわからなくなる。
だが
それでも
ぼくの身体は勝手に動き続けた
ぼくの肉体は一切の淀みなく、男を殴り、蹴り付け、容赦なく踏み潰し続けた。
「ギャアアアッ! や、止めてくれ! なんで倒れねぇんだよバケモノォォッ!」
男は完全にパニックに陥り、涙と鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら命乞いを始めた。
「そ、そうだ! あの女たちをお前に貸してやる! オレの所有物だ、好きにしていい! どうだ、悪くない話だろ!?」
よし。殺そう。
ぼくの両手が、男の首の骨をへし折ろうと握りしめ、グッとチカラを込める。
その時だった。
「どうしたんですかイサクくん! 君らしくもない!」
背後から、強い力で両腕を羽交い締めにされた。
クロガネだ。彼は痛む左脚を引きずりながらも必死にぼくに組み付き、全体重をかけてぼくの殺意の暴走を止めに入ったのだ。
ぼくは、低くドス黒い声で応えた。
「コイツを殺す」
口が勝手に動く。それは──ぼくの気持ちを完全に代弁していた。
「そんな事しなくてもいいんです!」
クロガネはぼくを背後からホールドしたまま、男の顔を覗き込むようにして、至近距離でその目を真っ直ぐに見つめた。男は恐怖に見開いた目でその瞳を捉え、ハッと何かに気づいたように顔を強張らせた。
「お前、まさかクロガネ──」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
絶対的な強制睡眠の能力。男の目は急速に焦点を失い、白目を剥いて、そのまま雪の上に崩れ落ちて深い眠りについた。
「ほら、これで目標は達成です! もう良いでしょう!?」
クロガネが、ぼくを羽交い締めにしながら耳元で叫ぶ。
だが、ぼくは黙らない。止まれない。
「コイツはここで殺さなきゃダメだ」
ぼくの身体は、眠る男の頭を踏み砕こうと、必死にもがき続けた。
⬛︎◆▲
数分後。
クロガネが、額に汗を浮かべながら必死にぼくの体を抑え続けてくれたおかげで、やがてぼくの身体に宿った異常な熱はゆっくりと引き、殺意は鳴りを潜めた。
「はぁ……はぁ……」
ぼくは全身の力が抜け、その場に膝をついた。
「……ごめん。身体が、言うことを聞かなかった」
ぼくは荒い息を吐きながら、自分でも信じられない暴走をしてしまったことをクロガネに弁明した。すると、クロガネは乱れたレザースーツを整えながら、ふっと小さく笑みをこぼした。
「いえ、ありがとうございます。少々やり過ぎでしたが、自分もスッキリしました」
彼は、ボコボコにされて眠っている男を見下ろし、心底清々しい顔で言った。彼もまた、この男に一発食らわせてやりたいという強烈な怒りを抱えていたのだろう。
ぼくは、ズキズキと痛む頭を押さえながら、倒れている男の横に転がっている懐中電灯型の機械を顎でしゃくった。
「スッキリしたって……あの『クロガネフラッシュ』のこと?」
ぼくがそう尋ねると、クロガネは一瞬だけバツが悪そうに視線を泳がせた後、小さく息を吐いた。
「……そんな減らず口が叩けるなら、本当に大丈夫そうですね」