生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
あれから三ヶ月ほど経過した。
シルヴァレッタとコバルトの二人は、クロガネからの「どうしても来て欲しい」という懇願──ほとんど泣き落としに近いような連絡──に折れ、ミカタをラピスラズリに預けて、三つ子たちがいる『迫害同盟』の保護施設へと向かうことになった。
休日で賑わう駅のホームから電車に乗り込み、下り方面へと突き進む。車窓から見える景色は、駅を通過するごとに背の高いビル群から低層の住宅街へと変わり、やがて険しい山々の稜線が空を覆うようになっていく。電車に揺られること数十分、山麓の終点駅で二人は電車を降りた。
そこからの道のりが想像以上に過酷だった。
駅前のロータリーから乗り込んだおんぼろのローカルバスは、古いディーゼルエンジンを苦しげに唸らせながら、急勾配の山道を30分以上も登り続ける。舗装されているとはいえ、時折車体が大きく弾むように揺れる。
これほど山奥深く、木々に覆われて外界から隔絶された場所となれば、世間の目から逃れて身を隠すには確かにうってつけの立地だろう。
「大丈夫か、コバルト」
大きく揺れる車内、乗り物酔いの心配がないか不安で尋ねるシルヴァレッタ。
「平気よ。……こんな山奥に引きこもってる連中、やっぱりまともな団体だとは思えないわよね」
コバルトは苦々しそうに感想を述べた。
やがてバスが終点らしき寂れた停留所に到着し、そこから、さらに冷たい風が吹き抜ける山林の獣道を歩いた先に、目的の施設はひっそりと佇んでいた。元はどこかの大企業の保養所か、あるいは別の宗教団体の修練施設だったのだろうか。古びてはいるが、コンクリート打ちっぱなしの異様に立派で堅牢な造りの建物だ。
その重厚な玄関前で、二人を出迎える人物がいた。
かつて精神科医としてぼくたちの前に現れた男、クロガネだった。
「遠いところをよく来てくれました。お待ちしていましたよ、お二人とも」
彼は以前と変わらぬ飄々とした口調で出迎えたが、その顔には不自然なほど色の濃い、真っ黒なサングラスがしっかりと掛けられていた。
彼には『至近距離で目を合わせた相手を強制的に深い眠りに落とす』という、恐るべき能力がある。こうして分厚いレンズで視線を覆っていれば、意図せず相手を眠らせてしまうという暴発が防げるのだ。
しかし、コバルトは彼を全く信用していなかった。
「悪いけど、バンダナをつけさせて貰ってるわ」
そう、彼女はバスを降りる前から自分の両目をぐるぐると真っ黒のバンダナで覆っているのだ。後ろで固く結び目を作り、完全に視界を塞いだ状態になっている。
「大丈夫なんですか?」
「フン、舐めないでよ」
そう言い、彼女は歩き出す。
「これくらい、どうってことないわ」
言葉通り、彼女の足取りに一切の迷いはなかった。視覚を完全に絶っているにもかかわらず、彼女は空間認識能力を極限まで研ぎ澄ませることで、周囲の物体の反響や、障害物の位置、人間の呼吸の気配までを正確に察知していた。段差を軽やかに避け、クロガネと一定の距離を保ちながら、目が見えているのと全く大差のないスムーズな行動を取ってみせた。
「……こちらです」
クロガネの先導に従い、シルヴァレッタと目隠しをしたコバルトの二人は、施設の中央にある広いホールへと通された。
天井が高く、ステンドグラス越しに色とりどりの木漏れ日が差し込むそのホールの奥には、職員と思しき数名の他、教会の修道服に身を包んだ若い女性が一人、静かに佇んでいた。
「二人に紹介します。あちらにいる彼女が、この『迫害同盟』を束ねる盟主さまです」
クロガネが恭しく手で示して説明するが、シルヴァレッタとコバルトの反応は、即座の否定だった。
「いや、おかしい。そんな筈はない」
シルヴァレッタが淡々と事実を突きつけるように言う。
「そうよ! だって、盟主はウラベキミトの旧い友人だって言ってたじゃない! ウラベキミトって言ったら、もうとっくに死んでる初老のマッドサイエンティストでしょ? その同年代なら、お婆ちゃんのはずじゃない!」
目隠し越しでも、気配から年齢を正確に察知したのだろう。コバルトが鋭く矛盾を突いた。
すると、ホールの奥に立つ修道服の女性が、ゆっくりと口を開いた。
「驚かせてしまって申し訳ないワ」
やや片言のアクセントが混じってはいるが、非常に流暢な日本語だった。ゆったりとした修道服を着ているため体型や肌の露出はほとんど見えないが、顔立ちの彫りの深さや、青みがかった瞳の光から、彼女が外国にルーツを持つ人物であることが窺えた。
困惑する二人に、クロガネがさらりと、とんでもない説明を付け加える。
「簡単に説明すると、彼女は不老不死なのです」
ダイヤモンドだけじゃなかったのか……しかしそれなら納得だ。
シルヴァレッタとコバルトも腑に落ちたようで、彼女の存在を難なく受け入れた。
「不死は言い過ぎヨ。不老長寿ってところネ」
盟主は、お茶目にウインクをしてニコリと訂正した。
「……わたくしの事は今はどうでもいいノ」
盟主はパチンと手を叩いて、場を強引に区切った。
「そんなことより、今日は二人にどうしても会わせたい人物がいるノ。……どうぞ、入っておいデ!」
彼女はホールの入り口に向かって、大きく通る声を響かせた。
しかし──
十秒、二十秒。……どれだけ待っても、重厚なドアの向こうからは誰も現れなかった。静寂だけが、気まずくホールを満たす。
「……あの子ハ?」
痺れを切らした盟主が、近くに控えていた団体職員に小声で尋ねる。
「あの……あと五分、だそうです」
職員の申し訳なさそうな報告を聞いた瞬間、盟主の眉間にピキッと青筋が浮かんだ。
「……ちょっと、失礼するワ」
そう言って彼女は席を立ち、修道服の裾を翻してズカズカとホールの外へ出て行った。
その数秒後。
ゴチン! という、硬い頭を容赦なくゲンコツで叩いたような、ひどく鈍い音が廊下から鳴り響いた。
げん
こつ
その後、盟主が首根っこを掴んでズルズルと、一人の女の子をホールへ引きずり込んできた。
「ふぅ……会わせたい人物がいるノ」
盟主は乱れた修道服の襟元を直し、ニッコリと聖母のような微笑みを浮かべて話題を繰り返した。
「ほら、挨拶しなさイ」
盟主に背中を小突かれ、引きずり出されてきた少女がおずおずと顔を上げる。ショートボブの髪に、ジャージ姿。どこか鬱屈とした雰囲気を醸し出す少女だった。
「……やっほー、コバルト」
彼女が気まずそうに片手を上げると、目隠しをしていたコバルトがハッと顔を上げた。
「その声は、マイカ!」
コバルトは弾んだ声を上げた。
「相変わらず、気配を隠すのだけは超一流ね! 私、アンタがさっきまで廊下にいたなんて全く気づかなかったわ」
コバルトが旧友を絶賛する。暗殺者として極限まで感覚を鍛え上げたコバルトでさえ感知できないほどの隠密能力。それだけでも、このマイカという少女が、ただの一般人ではなく裏社会で生き抜いてきた只者ではないことが分かる。
しかし、手放しで褒められたマイカは、そんな事はどうでも良いようで、どこかモジモジとしており、コバルトとの再会を喜ぶというよりは別の人物の存在を強烈に意識して緊張しているようだった。
彼女はチラリと、シルヴァレッタの顔──いや、ぼくの顔を盗み見て、顔をリンゴのように真っ赤に染めながら、恥ずかしそうに両手を後ろで組んでこう続けた。
「ウ、ウラベも久しぶり。……元気、してた?」
ふざけんな
何やってんだ生前のぼく
ぼくは、この肉体の本来の持ち主である『ウラベイサク』としての記憶のほとんどを失っている。名前すら思い出せなかったほどだ。だから、マイカという少女と過去にどんな関係があったのか、全く思い出すことができない。
だが、この乙女チックな反応と恥じらい方は、どう見てもただの知人や友人に対するそれではない。どこか好意を寄せているような、強烈な思慕を感じさせる態度だ。……社会のゴミのように孤独に生きてゴミらしく死んだはずだろ、ぼくは。
今後のシルヴァレッタたちの冒険譚がひどくややこしくなってしまう予感がした。
「まったく、アナタの方から『どうしても挨拶したい』って言ってきたんでしょウ?」
盟主がプリプリと怒りながらマイカの脇腹を小突く。
「だ、だってぇ……」
マイカは反論しようとするものの、再びシルヴァレッタの方をチラチラと見ては顔を赤くし、最終的には恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、口を噤んで俯いてしまった。チキショーめ。
さて、再会の余韻がホールに漂う中、パンッ!とクロガネが手を叩いて再び空気を切り替えた。
「懐かしい旧交を温めるのはその辺りにして。……本題に入ります」
「え、マイカに会うのが本題じゃなかったの?」
コバルトが目隠しの下で目を丸くして疑問を返す。
「違います。マイカさんの件は、ただの偶然の再会です。……私があなた方をわざわざこんな山奥まで呼んだのは、もっと深刻な問題があるからです」
クロガネの声は、精神科医としての重く沈痛なトーンを帯びていた。
「……どうぞ、お入りください」
クロガネが促すと、ホールの重厚な扉がギィと音を立ててゆっくりと開いた。
そこから姿を現したのは、三ヶ月前にあの雪山の旅館から救い出した三つ子の姉妹のうちの一人──二号こと『ニゴ』だった。
彼女の目は真っ赤に腫れ上がり、頬には涙の跡がこびりついている。彼女は一目散にシルヴァレッタの元へと駆け寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついてボロボロと大粒の涙をこぼした。
「どうか、どうか姉妹を救ってください……ッ!」
悲痛な叫びが、広いホールにこだまする。
「……イチゴとサンゴに、一体何があったの!?」
コバルトが驚いてバンダナを外し、深刻な表情でニゴの肩を支えながら問いかけた。クロガネが、メガネの奥の目を伏せながら静かに説明を引き継ぐ。
「イチゴさん、サンゴさん。二人の精神的症状は、現在極めて深刻な状態にあります……」
⬛︎◆▲
彼によれば、事の発端は皮肉にも『絶対的に安全な場所』を手に入れたことだった。
あの苛烈な研究者の男による、十八年間に及ぶ実験という名の常軌を逸した虐待、そして社会の悪辣な大人たちからの理不尽な搾取。彼女たちは物心ついた時から、常に命の危機と尊厳の破壊に晒され続け、緊張の糸を張り詰めさせ続けて、何とか精神を保ってきた。
しかし、この迫害同盟という外界から完全に隔離された安全圏に避難できたことで、その十八年間張り詰め続けていた糸が、フツリと切れてしまったのだという。
「イチゴさんは『レットダウン効果』が強く出ています」
クロガネが臨床心理の観点から解説を始める。
「過度なストレス状態や緊張状態から解放されたことで、心身のバランスが崩壊し、極度の無気力と抑うつ状態に陥ってしまっているのです。時折PTSDも発症しており、今は食事も喉を通らず、点滴で栄養を与えている状態です」
「そんな……」
「そしてサンゴさんは『凍りつき反応』が強く出ています。安全な部屋であるにもかかわらず、いつまた危害を加えられるのではないかという恐怖のフラッシュバックから抜け出せず、部屋の隅で膝を抱えたまま、文字通り石のように硬直してしまっているのです。話しかけても、瞬き一つしません」
クロガネの言葉に、シルヴァレッタもコバルトも絶句した。
「そして……こうして気丈に振る舞っているニゴさんも、今は小康状態を保っていますが、いずれこのままだと『サバイバーズギルト』──自分だけが助かった、あるいは姉妹を苦しませているのは自分のせいだという強い罪悪感──を強く発症してしまうでしょう。……時間の問題です」
精神的苦痛を受けた人物は、窮地から救い出しただけでは本当の意味で助からない。
……その後の心のケアこそが最も重要なのだ。
精神科医であるクロガネも、当然そこは重々承知しており、この三ヶ月は彼女たちの治療とケアに不眠不休で全力で当たっていた。
しかし、十八年間という長すぎる虐待の歴史と、心に刻まれたあまりにも深い傷は、彼のアプローチだけでは限界を迎えていた。──手に負えなくなっていたのだ。
「そこでコバルトさん。あなたにお願いがあります」
クロガネは、深々と頭を下げた。
「な、何よ……」
あまりにも深刻な事態と、臨床心理の専門家である彼すら手を拱いている難題。暗殺者として育てられ、人を殺める技術しか教わってこなかったコバルトにとって、他人の心をケアするなどというタスクは、どんな危険な任務よりも難易度が高かった。彼女はプレッシャーにたじろぎ、後ずさりする。
しかし、クロガネが顔を上げて口にしたお願いは、信じられないほどシンプルなものだった。
「二人を、どうか励ましてやって欲しいのです」
「……励ます?」