生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
熱帯特有の湿気を帯びた重い風が開け放たれた窓から病室へと流れ込み、真っ白なカーテンを力なく揺らしていた。
五十年前、運命の日。
──僕の容体は、死への峠に差し掛かっていた。
朦朧とする意識の中、向こう側の景色は白く霞み、時間の感覚すらも曖昧に溶けていく。そんな限界を迎えた脳裏に、走馬灯のように呼び起こされるのは、これまでの長く、そしてあまりにも濃密だった僕自身の人生の軌跡だった。
日本有数企業の一角を担うまでに会社を成長させた。そのトップとして君臨した日々は、数え切れないほどの栄光に彩られていた。
だが同時に、巨大な権力を維持するために切り捨てざるを得なかった無数の挫折や後悔も、澱のように心の底に沈殿していた。事業における輝かしい達成の裏には、己の理想には届かなかった未完の夢がいくつも転がっていたのだ。
しかし、死の淵を彷徨う僕の心を今、最も強く支配し締め付けているのは、企業の実績でも自らの命の惜しさでもなかった。
ソラハキミト。
泥だらけの顔で「一生懸命」に働くのだと僕に誓った、あの少年のことだった。
過酷な環境から母親と弟のイサクを救うため、工場で僕にすがりついてきたあの十歳の少年の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。彼の純粋で真っ直ぐな瞳は、薄汚れたこの世界の中で唯一の希望の光のように僕には見えていた。彼が立派な大人へと成長していく姿を見届けることこそが、僕の密かな生き甲斐ですらあったのだ。
それなのに。
裁判で、彼に即座に死刑判決が出たという知らせを聞いた時、僕は熱に浮かされた頭でも、この事態が何もかもが異常であると直感した。いくらなんでも、早過ぎるのだ。
国際的な大事件であり、背後関係や動機の解明には途方もない時間がかかるのが道理だ。それにも関わらず、彼は逮捕からわずかな時間で有罪を宣告され、極刑が確定した。事件の記録も、少年の名前や生い立ちも、国家レベルの戒厳令によって不自然なほど厳重に隠匿されていた。
──それはまるで、全てが最初から仕組まれた舞台であり、段取りが決まっていた茶番劇だと疑ってもおかしくないほどの不気味さだった。
彼を操った真の黒幕が、真相を闇に葬るために、最も弱い末端の「駒」である彼を一刻も早くこの世から消し去ろうとしている。そうとしか思えなかった。
僕は今、遠く離れた異国の地で病床に伏している。言葉すら発することができない。指先を動かす力すら残されていない。
その気になれば、それなりの権力を持っているはずの僕が、今この瞬間、最も助けを必要としている彼の味方になってやる事がどうしても出来ないのだ。
海外へ発つ前、僕は彼と交わした約束を思い出していた。
『君が立派な大人になったら、一緒に酒を飲み交わそう』
僕は必ず生きて帰って、成長した彼と笑い合いながらグラスを傾けるはずだった。それが、永遠に叶わなくなってしまった。
なぜ。何故だ。
答えの出ない疑問が、熱に浮かされた脳内で呪いのように反芻する。
何が悪かったのだろうか。彼を過酷な運命に巻き込んだのは誰だったのか。どうして僕は、もっと彼を身近に置いて保護してやらなかったのか。
どうして、どうして、と。後悔の念が、尽きることなく湧き上がってくる。
人の身で、人々を救うなどという大義を掲げること自体が、そもそも烏滸がましい傲慢だったのだろうか。無力感と自己嫌悪が、僕の魂を鋭くえぐり、耐え難い苦悶となって全身を駆け巡った。
──やがて、意識が遠退き始め、死が間近に迫っていることを僕自身が悟り始めた。
燃えるような熱は引き、代わりに氷のような冷たさが足先から這い上がってくる。思考が極度に鈍化し、輪郭を失って混濁していく。最後に残ったのは、ただ一つの純粋で強烈な感情だけだった。
ああ、坊主
出来る事なら、今すぐにでも会いに行ってやりたい
冷たい鉄格子の向こう側でも構わない。お前のすぐそばに行って、言葉を交わして、話がしたい。絶望に震えるその肩を抱きしめて、お前は決して一人ではないのだと伝えてやりたい。
そして、この世界は決して絶望ばかりではなく、こんなにも広く、美しいものに溢れていたのだと、僕が見てきた景色を全て教えてやりたい。共に未来を語り、笑い合いたかった。
ただ、それだけだったのに。
僕の命の灯火がふっと消え去るその瞬間、僕の魂は千切れんばかりの強い未練と、執念にも似た願いを抱いた。
──その痛切な願いは、極めて歪んだ形で成就された。
◆
──ガタゴト、ガタゴト。
不規則な揺れと、腹の底を響かせるような重低音のエンジン音。意識が浮上し、ゆっくりと目を開けた僕の視界を覆っていたのは、完全な暗闇だった。
鼻をつくのは、古い木の匂いと、微かな埃っぽさ、そして体の周りに敷き詰められている氷の冷たさ。周囲を手探りで確認すると、硬い木の板がすぐ数センチの距離で僕の身体を囲い込んでいた。
そこは、狭い箱の中だった。
どうやら僕は、木箱のようなものに冷蔵マグロのように詰め込まれ、何らかの荷物として運搬されているようだった。
何が何だか、全く分からない。
先ほどまで異国の病床で死の淵にいたはずの僕が、なぜこんな暗い箱の中にいるのか。だが、一つだけ直感的に理解できることがあった。このまま、大人しくここに閉じ込められているのは危険だ。僕は両腕を胸の前に引き寄せ、力いっぱい上の板を押し上げようとした。
病床にあった僕の身体は、骨と皮だけのように衰弱していたはずだった。しかし今、僕の腕には、妙に軽く、しなやかな力が宿っている。
「……ッ!」
渾身の力を込めると、ミシミシと木が軋む音が鳴り、釘が抜け落ちる乾いた音が響いた。力づくで箱の中から這い出ると、そこは、走行しているトラックの荷台のようだった。
頭上には幌が張られているが、その隙間から容赦なく冷たい夜風が吹き込んできた。外は暗く、どうやら深夜のようだ。僕は幌を掴んで身体を支え、運転席の方へ向かって「おぅい」と呼びかけようと口を開いた。
しかし、喉がカラカラに乾き切っており、砂を噛むような違和感と共に、コヒューッという掠れた音しか出なかった。
おかしい。声が出ないだけではない。身体の重心も、視線の高さも、何もかもが僕のものとは違っている。
ふと、月明かりに照らされた自分の身体を見下ろして、僕は息を呑んだ。
全身が、枯れ木のようにガリガリに痩せ細っていたのだ。
──だが、それは病に侵された老人の肉体ではない。
若く、本来なら生命力に溢れているはずの若い肉体が、異常なまでの栄養失調状態に置かれたような、痛ましいほどの細さだった。そして気付けば、胃袋を雑巾のように力強く絞り上げられるような、ひどい空腹感を突然覚えた。
ただの空腹ではない。命を削るような、飢餓の感覚だ。それを自覚した途端、足から急速に力が抜け、立っていることすら辛くなり、僕は荷台の冷たい鉄の床へと崩れ落ちるように横になった。
その時だった。
幌の隙間から差し込む青白い月明かりを反射して、荷台の隅でキラリと光る物体が目に止まった。
それは、手鏡だった。
僕は床を這いずるようにしてそれに近づき、震える手で鏡を拾い上げた。そして、その鏡面を覗き込み──心臓が止まるほどの強烈な驚愕に襲われた。
そこに映っていたのは、シワが刻まれた老人、アカシャウスイの顔ではなかった。
ガリガリに痩せ細り、頬はこけ、見る影もないほどにやつれてはいるが。
その顔立ちは、紛れもなく、あの夏の日に出会った十歳の少年が、十五歳ほどに歳をとって成長した姿──
ソラハキミト少年が、鏡の中から僕の顔を覗いていたのだ。
僕が、ソラハの坊主……?
混乱が脳内を駆け巡る。
死の間際に抱いた「お前のすぐそばに行きたい」という強烈な願い。それが、僕の死後に発現した異能の力となり、死刑執行後に何らかの理由で保管されていたソラハキミトの遺体に乗り移り、蘇らせてしまったのだろうか。──それは今となっても分からない。
そうして、僕が鏡を握りしめたまま固まっていた、まさにその瞬間だった。
──パンッ! パンッ!
深夜の静寂を切り裂き、乾いた破裂音が連続して鳴り響いた。
銃声だ。
「っ!?」
その音の直後、トラックは凄まじいスキール音を立てて急ハンドルを切り、バランスを崩して激しく横転した。
天地がひっくり返るような圧倒的な衝撃。僕は荷台の中でボールのように跳ね飛ばされ、積まれていた他の木箱の残骸たちに叩きつけられた。しかし、若返ったこの肉体に備わっていた反射神経のおかげか、僕は咄嗟に身体を丸めて見事な受け身を取り、大事に至ることはなかった。
横転し、横倒しになった荷台の中で、僕は荒い息を吐きながら蹲った。
何が起きた?
銃撃戦?
僕はどうなったのだ?
頭の中はひたすらに混乱し、恐怖と疑問が渦巻くばかりだった。
やがて、ひしゃげて破れた幌の入り口に、数本の懐中電灯の強烈な光が鋭く差し込んだ。外から中をのぞいてくる、野太い声と粗野な大人数名の気配が現れる。
「お、お頭! てぇへんだ!」
一人の男が、荷台の奥で蹲る僕を懐中電灯で照らし出し、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「ブツが、ブツが生きてやす!!」
ブツ。
それは裏社会の隠語で、盗品の対象を指す言葉だ。
僕はもう、何が現実で何が悪夢なのか分からず、ただひたすらに震えることしかできなかった。
「騒ぐな、バカども」
遅れて、男たちの喧騒を制する落ち着いた足音と共に、一人の少年が現れた。
金髪を自由に遊ばせ、ジャケットを羽織ったその少年は、横転した荷台にひらりと入り込むと、トラックの中で怯える僕を見下ろし「ヒュゥ」と面白そうに口笛を吹いた。
そして、彼はその真っ赤な目で僕の顔を真っ直ぐに見据え、ひどく飄々とした、しかし底知れない冷酷さを孕んだ態度で話しかけてきた。
「おはよう少年テロリスト。リビングデッドとは運が良い」
彼はニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、圧倒的な力の差を見せつけるように、僕に対して残酷な二つの未来を提示した。
「オマエに選択肢をやろう」
少年はしゃがみ込み、僕と目線を合わせた。
「このまま外国の資産家に売り飛ばされて大人しくホルマリン漬けになるのと、足掻いてオレたちと一緒に裏の世界で生きていくか。……今すぐ、選びな」
──この日、僕は『ウラベ』と名乗った。
「裏の世界にしか寄る辺ない者」その決心を心に刻み込むために。