生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
月明かりに照らされて血塗れの姿を現したその赤い眼の少年は、三年前に裏社会を震撼させた『アルファベット狩り』の関係者を示唆し、暗殺組織ジュエルの一期生・ダイヤモンドと名乗った。
金髪を無造作に遊ばせたその姿は、どこにでもいる生意気な中学生のようにしか見えない。
しかし、彼から放たれるプレッシャーは、これまで対峙してきたどんな敵よりも重く、冷たく、そして圧倒的だった。
「冥土の土産に教えてやるよ、か弱い後輩ちゃんたち」
ダイヤモンドは、ひどく軽薄な、それでいて絶対的な自信に満ちた声でそう言い放つと、ツカツカと無造作な足取りでコバルトとラピスラズリに向かって歩み寄り始めた。
その歩みには、一切の警戒や防御の姿勢が見られない。
完全なる無防備。
いや、それは自分に向けられる、いかなる攻撃も無意味であるという絶対的強者の傲慢さの表れだった。
「舐めないでッ!」
鋭い怒声を上げ、コバルトが動いた。
彼女は自身の並外れた空間認識能力を頼りに、相手の死角を突き、最短距離で急所を仕留める暗殺術を幼少期から骨の髄まで叩き込まれている。
彼女は力強く地面を蹴り、ダイヤモンドの懐へと飛び込もうとした。
だが──
彼女の身体は、ぼくたちがこれまで何度も見てきた、あの洗練された精細で美しい動きを見せることはなかった。
地面を蹴る足はもつれ、
踏み込みは浅く、
突き出した拳は空気を切る鋭い音を立てることすらない。
それはまるで、
体育の授業で初めて格闘技の真似事をした、
見た目通りの中学生の少女が放つ、
ひどく弱々しく、不恰好なパンチだった。
「な……っ!?」
己の身体の異常に最も驚いたのは、他でもないコバルト自身だった。
彼女の顔に、明確な恐怖と混乱が浮かぶ。
ダイヤモンドは、そんな彼女のへっぴり腰のパンチを、顔色一つ変えずに左手で難なく受け止めた。
パシッという軽い音が響く。
そして彼は、まるで鬱陶しい羽虫でも追い払うかのように、無造作にその手を払い除けた。
「きゃあっ!」
コバルトはバランスを崩し、無様に地面に尻餅をついた。
──受け身すら取れない。
彼女の顔は蒼白になり、信じられないものを見るように自分の震える両手を見つめていた。
空間を掌握する感覚も、鍛え抜かれた身体能力も、全てが消え失せている。
「教えてやるって言ったろ。黙って聞いてな」
ダイヤモンドは、地べたに這いつくばるコバルトを見下ろしながら、右手を顔の高さまで持ち上げた。
彼の中指には、月明かりを反射して鈍く光る、無骨な銀色の指輪が嵌められている。
「ウラベの組織、RVS──ReVerse Struct──が作成した、とあるオーパーツの構造を逆算して生み出した装置だ」
ダイヤモンドは、その指輪を誇らしげに見せつけながら、残酷な真実を口にした。
「これによって、周辺の人類は強制的に『人類の常識』に収められる。物心ついた時から暗殺組織に育てられました、だの、規格外の怪力を持っています、だの。そんな漫画みたいな『非常識』は、全てこの指輪の射程内では『常識』に書き換えられるのさ。──お前らは今、ただのひ弱な女子中学生と、チビなゴスロリ少女にすぎない。……常識的だろ?」
その言葉を聞いて、ぼくは意識の奥底で愕然とした。
オカルトじみた先史遺物であるオーパーツ。
その構造を逆算して作られた装置が『オカルトじみた非常識を否定し、常識に押し込める』という機能を持っているだなんて、そんな無茶苦茶な理屈が罷り通ってしまっている。
だが、実際に目の前でコバルトが、そして怪力を誇るラピスラズリが文字通り無力化されている以上、それは紛れもない事実なのだ。
コバルトがこれまで、どれほどの血と汗を流し、生きるか死ぬかの地獄のような訓練に耐え抜いてあの身体能力と空間認識能力を身につけてきたか。
彼女の人生そのものとも言えるその努力の結晶を、こんな小さな指輪一つが「非常識だから」という理由だけでチャラにするなんて。
ぼくは、そのあまりにも理不尽な放漫さに対して、激しい憤りすら感じていた。
「……で、そこのアンちゃんは誰だい?」
ダイヤモンドの視線が、尻餅をつくコバルトから、その後ろで静かに佇むシルヴァレッタへと向けられた。
彼はニヤニヤと嬉しそうな笑みを浮かべ、少し首を傾げて問いかけてくる。
「KILが開発した人類監視AIは、今回オマエの存在を出力しなかった……オマエ、一体何者? 幽霊か何か?」
その問いかけには、警戒よりもむしろ、予定調和を崩してくれた未知の存在に対する「期待」のようなものが混じっているように見えた。
彼は何故だか笑みを隠しきれず、獰猛な瞳をキラキラと輝かせている。
「……シルヴァレッタ」
シルヴァレッタは、己の名前を短く、静かに口にした。
その問いにダイヤモンドはふと目を細め、どこか探るようなトーンで疑問を投げかけた。
「……ウラベの子じゃなくて?」
ウラベの子。
その言葉に、ぼくの意識は大きく揺れた。
この金髪の少年は、ぼくの──ウラベイサクの存在を知っているのか。
そして、ウラベ博士の残した『RVS』や『KIL』といった遺産を自由に使いこなしている。
彼もまた、あの狂気的な研究の産物、あるいは関係者ということか。
「お前には関係ない!」
シルヴァレッタは、ダイヤモンドの言葉を遮るように鋭く叫び、即座に戦闘を仕掛けた。
彼はコバルトを飛び越え、ダイヤモンドとの距離を詰める。
彼の肉体の動きは、全く鈍っていなかった。
『人類の常識』に収めるという指輪の効果が、彼には及んでいないのかもしれない。
だとすれば、おそらく彼の本質が人間ではなく、オーパーツである意思を持った弾丸だからだろう。
シルヴァレッタの放った鋭い右ストレートが、空気を引き裂きながらダイヤモンドの顔面へと迫る。
それは、間違いなく渾身の一撃となるはずだった。
──バシィ!!
だが、鈍く重い衝撃音と共に吹き飛ばされたのは、シルヴァレッタの方だった。
「がはっ……!」
シルヴァレッタの身体が宙を舞い、豪邸の石畳の上に無様に転がる。
彼を撃墜したのはダイヤモンドが放った、全体重の乗った強烈なハイキックだった。
少年の細い脚から繰り出されたとは到底思えない、まるでトラックに撥ねられたかのような破壊力。
大の大人を、たった一撃で完全に沈めてしまったのだ。
「ぐぅっ……! こ、これは、『非常識』じゃないのかッ!」
シルヴァレッタは、地面に伏しながら肋骨を押さえ、血を吐くような声で苦悶した。
常識に収める装置を発動させておきながら、ダイヤモンド自身が放ったその一撃は、明らかに常人の枠を大きく逸脱した『非常識』な力だったからだ。
「ああ、それも言おうと思ってたんだよ。最後まで人の話を聞かずにトチッたオマエが悪い」
ダイヤモンドは、つまらなそうに肩をすくめると、悪びれる様子もなく、あまりにも衝撃的な言葉を口にした。
「オレ、不老不死だからさ。人間じゃなくて人外なんだよ。だから人類のカウントから、そもそも除外されてんの」
不老不死。人外。
その言葉は、絶望的な事実としてその場にいる全員の心に重くのしかかった。
自分たちの能力は奪い去りながら、敵だけは圧倒的な力を保持したまま存在している。
ルールそのものを根底から覆す、完全なるチートだった。
「……逃げろ、二人ともッ!」
シルヴァレッタは、痛む身体を無理やり動かし、バッとダイヤモンドに飛びかかった。
彼は自らの身を挺して少年の背後に回り込み、その身体を両腕で力一杯羽交い締めにした。
「シルヴァレッタ!」
「シルヴァレッタ様!」
コバルトとラピスラズリが悲鳴のような声を上げる。
「今は逃げるしかない! ここは俺が抑える!」
シルヴァレッタは、自身が囮になるという決死の覚悟を叫んだ。
今の無力化された彼女たちがここに残っていても、無駄死にするだけだ。
それを誰よりも理解しているコバルトは、唇を強く噛み締め、逡巡しながらも決断を下した。
「……必ず、必ず応援を呼んで戻ってくるから! 死なないでよ!」
「組織の者に伝えますわ! どうかご無事で!」
二人は後ろ髪を引かれる思いで背を向け、暗闇に包まれた豪邸の外へと全力で駆け出していった。
彼女たちの足音が遠ざかっていくのを、シルヴァレッタは安堵の思いで見送った。
「……ヒロインを逃すとか、主人公気取り?」
ダイヤモンドは忌々しげに舌打ちをすると、羽交い締めから逃れるために、シルヴァレッタの顔面に向かって強烈な肘打ちを見舞った。
「ぐっ!」
鼻柱を砕くような衝撃に、シルヴァレッタの腕の力が一瞬緩む。
その隙を突き、ダイヤモンドは素早く身を翻して拘束から逃れた。
しかし、シルヴァレッタは倒れ込みながらも執念で手を伸ばし、ダイヤモンドの足首をガシッと掴んで再びその動きを封じた。
「しつこいアンちゃんは嫌われるぜ?」
ダイヤモンドは冷たい目で見下ろすと、胸元のポケットから小さな筒状のデバイス──ペンライトを取り出した。
「大人しく眠ってな!」
彼がスイッチを押した瞬間、ペンライトの先端から強烈な閃光が放たれた。
閃光を浴びたシルヴァレッタの意識が、急速にブラックアウトしていく。
彼の肉体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、視界が完全に真っ暗に染まった。
ぼくは直感した。
このペンライトは、あのクロガネの能力を再現し、小型化して持ち運べるようにした『クロガネフラッシュ』のモバイル版に違いない。
「安心しな、『アルファベット』じゃなきゃ殺しゃしねーよ」
……『アルファベット』じゃなきゃ?
「さて、アイツらを追うか」
ダイヤモンドが足首を掴む手を振り解こうとした、その時ぼくは渾身の力を込めて、
「──させない」
その足をぐっと握った。
「っ!?」
ダイヤモンドが弾かれたように足元へ視線を落とす。
そこには、完全に意識を刈り取ったと思われていたぼくの目が、強く睨み返していた。
「何だと!? 生命は全て眠りにつくはずだろ!」
ダイヤモンドの獰猛な瞳に、初めて明確な動揺と恐怖が走った。
彼は無意識のうちに数歩後ずさる。
クロガネの能力を再現したこのデバイスは、絶対には違いない。
屈強な大人であっても、獰猛な動物であっても、強制的に睡眠のスイッチが入る。
それが効かない存在など、本来はあり得ないのだ。
ぼくは隙をついてバッと立ち上がり、再び背後からダイヤモンドの身体を力強く羽交い締めにした。
「……亡霊だからね」
ぼくは、ひどく冷たく、静かな声でそう発言した。
死した人間には、睡眠の能力は及ばない。
クロガネの時と同じだ。
シルヴァレッタの意識が落ちたことで、ぼくという『死者の自我』が表層に浮かび上がり、この肉体のコントロールを奪い返したのだ。
だが、
ぼくがその声を発した、
その直後。
ダイヤモンドの身体が、急にピタリと硬直した。
暴れて拘束を解こうとしていた彼の力が抜け、まるで魔法にでもかけられたかのように動きを止めたのだ。
「……どうした?」
あまりにも不自然な反応に、ぼくはつい気になって尋ねてしまった。
すると、
ダイヤモンドはゆっくりと首だけを後ろに向け、
ぼくの顔──ウラベイサクの顔をまじまじと見つめた。
その表情は、先ほどまでの傲慢で狂気に満ちた少年のものではなかった。
彼の口から零れ落ちたのは──
「……ウラベ?」
迷子になった子供のような、ひどく弱々しく、今にも泣き出しそうな震える声だった。
その声には、深い悲しみと、信じられないほどの郷愁が込められていた。
不老不死の人外と名乗った彼が、ウラベイサクの顔を見て、そしてぼくの声を聞いて、まるで失ったかつての親友にでも再会したかのような反応を示したのだ。
しかし、その硬直は長くは続かなかった。
「……ッ!」
ダイヤモンドはハッと我に返ったように顔を背けると、バッと力任せにぼくの拘束を振りほどいた。
そして、コバルトたちが逃げていった方向とは全く別の、闇の奥へと向かって、逃げるように走り出してしまった。
あっという間に夜の闇に溶け込んでいくその後ろ姿を見送りながら、ぼくは小さく息を吐いた。
よく分からないが、どうやら最悪の窮地は脱したようだった。
⬛︎◆▲
翌日。
昼下がりの明るい日差しが差し込む、ラピスラズリの住む高級高層マンションの最上階。
アンティーク家具が並ぶ豪室のリビングに、シルヴァレッタ、コバルト、ラピスラズリの三人が集まっていた。
部屋の中央に置かれた大型の液晶テレビからは、昼のワイドショーのニュース音声が重苦しく流れている。
『──市内の高級住宅街にある住宅から、大量の血痕が発見されました。住人は長期の海外旅行中で不在であり……』
テレビの画面には、黄色い規制線が張られた昨夜の現場の映像が映し出されていた。
「D.O.Eの構成員の死体は、組織の者が回収できました。でも、大量の血痕を拭き取る時間まではなかったようで……家主が帰ってきて警察に通報し、この騒ぎになったようですわ」
ラピスラズリが、ティーカップを両手で包み込みながら、暗い顔で報告した。
彼女の声には、いつもの優雅さは欠片もなく、深い疲労感が滲んでいた。
「当面、派手な動きは出来ませんわね……」
彼女はそう言いながら、窓の外の景色に目を向けた。
その言葉の裏には、警察の捜査の手が伸びることへの懸念だけでなく、ダイヤモンドと名乗ったあの少年の持つ、恐るべきオーパーツへの警戒が強く含まれていた。
「……ええ」
コバルトもまた、悔しそうに唇を強く噛み締めていた。
彼女は自身の両手をじっと見つめ、昨夜の無力感を反芻しているようだった。
「ダイヤモンドの発言が真実なら、私たちの敵は『人類の常識』そのものという事になるわ。私たちがどれだけ訓練を積もうが、どんなに『非常識』な才能を持っていようが、あの指輪の前では全て無力化されてしまう。……文字通り、手も足も出ない」
幼い頃から死線を潜り抜けてきた彼女にとって、自分がただの無力な少女に成り下がるという恐怖と絶望は、想像を絶するものだっただろう。
部屋に重苦しい沈黙が降りた。
敵は不老不死の人外であり、こちらの能力を完全に封じ込めるチートアイテムを保持している。
さらに、AIによる行動予測まで駆使して先回りしてくるのだ。
一体どうやって対抗すればいいのか。三人には、その糸口すら見えなかった。
その絶望的な空気を打ち破るように、ソファに深く腰掛けていたシルヴァレッタが、静かに、しかし確かな意志を持った声で発言した。
「エルムに相談しよう」