生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
「院長先生、こちら患者さんの問診票です」
事務員が控えめな声とともに、クリップボードに挟まれた一枚の紙を僕に手渡してきた。
「ありがとう」
僕は短くお礼を言って受け取る。白衣のポケットからペンを取り出しつつ、何気なくその問診票に目を落とした。
記載された内容を確認した瞬間、僕の視線は特定の項目に釘付けになった。
氏名欄にはそれらしい名前が書かれているが、問題は生年月日の欄だ。月日がゾロ目、年齢もゾロ目が記載されていた。さらに視線を下へ滑らせると、現在の症状や過去の病歴を問うチェックボックスの欄が特殊な埋められ方をしていた。
本来なら該当箇所にレ点を入れるだけのボックスが、ボールペンで真っ黒に塗りつぶされ、その上からご丁寧にバツマークが書き足されていた。
「……」
僕は無言で問診票を読み込んだ。事務員は特に怪しむ様子もなく、「では、準備ができたらお願いいたします」と一礼して診察室を出て行った。
僕は一人残された診察室で、小さく息を吐いた。
この奇妙な問診票は、決して患者の精神的混乱から生じた落書きではない。僕が身を置く裏の組織、DOEが僕を極秘裏に呼び出したい時に使う暗号だ。
ここはウラベメンタルクリニック。
僕が大学の医学部を卒業し、精神科医としての研鑽を積んだ後に開業した、僕自身の城だ。
開業資金は、僕を拾い上げ、この戸籍と学ぶ機会を与えてくれた歴史研究財団、DOEからの提供によるものだ。とはいえ、このクリニック自体は完全に真っ当な表の仕事であり、違法な薬の処方だったり裏社会の人間を匿うような、やましい事は一切していない。
上を向いて猛烈な勢いで働き続けているこの時代において、「メンタルクリニック」という名称や、精神的な不調を気軽に医師に相談するという概念は、まだ世間的な知名度がひどく低かった。そのため客入りは決して良くはなく、待合室は常に人がまばらだ。
しかし、僕には「人類の救済」という揺るぎない目標があった。
僕は、僕を訪ねてくる、社会のシステムからこぼれ落ちて精神を病んで困っている患者一人一人と真摯に向き合った。丁寧に話を聞き、時には投薬を行い、時には環境調整のアドバイスをした。
……その努力の甲斐あってか、この頃から少しずつ、口コミを頼りに訪れる患者の数は増え始めていた。
僕は診察室のドアを開けて「どうぞ」と患者を招き入れた。先程の問診票を書いた男が診察室に入ってきた。くたびれた作業着を羽織り、目深に帽子を被ったその男は、挙動不審な素振りでパイプ椅子に腰を下ろした。
僕は穏やかな声で尋ねた。
「どうされましたか?」
男は僕と目を合わせず、周囲を気にするように小声で答えた。
「へぇ。嫌な『夢』を見るんです……」
『夢』それが次の暗号のキーワードだ。
「どんな夢ですか?」
僕はカルテにペンを走らせながら、問いを重ねた。男は顔を少しだけ上げ、帽子の中から鋭い目を覗かせて言った。
「……『港』で溺れる夢でやんす」
「そうですか。それはお辛いですね」
僕はその後の問いにも淡々と応じ、そして一般的な抗うつ薬の処方箋を書いて彼を帰した。
……今夜、僕は港へ出向かなければならない。
あの問診票の書き方と、この短いやり取り。患者が語った『夢』の『場所』こそが、今夜の集合地点を示している。DOEの構成員が、どうしても僕に直接会って伝えなければならない要件があるのだ。
◆
その日の深夜。
僕は愛車を走らせ、人気のないひなびた港へと到着した。潮の香りと、古いエンジンオイルの匂いが入り混じった海風が、窓の隙間から吹き込んできた。
僕は車のエンジンを切り、ヘッドライトを落とした。街灯すらまばらな暗闇の中、波が防波堤に打ち付ける単調な音だけが響いていた。
じっと待つこと、十数分。
不意に、運転席の窓ガラスがコンコンと軽く叩かれた。僕は警戒を解かずに、手回しのハンドルをクルクルと回して窓を開けた。
「お兄さん、こんな深夜になんの用?」
暗がりの中から、どこかふざけた、しかし聞き慣れた少年の声がした。月明かりに照らされたその顔は、金髪を無造作に遊ばせた少年──ディーだった。
「……子供が夜出歩く方が問題だ」
僕がそう返すと、ディーは「違いねえ」とケラケラと笑った。僕は内側からドアのロックを解除し、彼に助手席へ乗り込むよう促した。ガチャリとドアを閉め、車の中に入ったディーは、シートの座り心地を確かめるように体を沈めながら問いかけてきた。
「クリニックは盛況かい? ウラベ」
「ボチボチだ。食うには困ってないよ」
僕がそう答えると、ディーは「そりゃ残念」とあからさまに肩をすくめ、助手席のシートにさらに深く寄りかかった。
「それで、今回のお目当てはなんだい? わざわざディーが出向くなんて珍しいじゃないか」
僕が本題を切り出すと、ディーは拍子抜けするほどあっけらかんと言い放った。
「いんや、今日は雑談しにきた」
「……雑談?」
「そうさ。たまにはオマエの顔を見て、下らねえ話でもしようかと思ってよ」
ディーは悪びれもせずケラケラと笑っていた。しかし、不老不死の時を生きる彼が、単なる思いつきでこんな行動をとるとは思えなかった。
やがて、ディーは窓の外の暗い海へと視線を移し、ぽつりと話を切り出した。
「昨日、アンジュが組織を抜けたよ」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
アンジュ。ディーと同じく不老不死であり、行き場のない人々に安らぎの場所を作るという、どこまでも純粋で気高い夢を抱いていた銀糸の髪の女性。──そんな彼女が、DOEを去った。
「……そんなに、今の組織は酷い状況なのか」
僕は、隠しきれない心配を口にした。
「ああ。あのおっかねーけど聖母みてーなアンジュが、ついに愛想をつかすぐらいにはな」
ディーは自嘲気味に鼻で笑い、軽口を叩いた。
「退職金はたんまり渡してやったさ、オレ様のへそくりからな。それとプレゼントも。後はアイツが自分の力で、デカい夢を叶えられるかどうかだ」
「……アンジュなら、きっと成し遂げるさ」
ディーは窓の縁に肘をつき、夜の港の向こう、遠くで眩く輝くコンビナートの光を見つめた。
「今は『高度経済成長』ってヤツで、世の中全体イケイケドンドン、空前の好景気だしな。抜けるには良いタイミングだったと思うぜ?」
高度経済成長。その言葉の通り、今は復興の時期を完全に終え、驚異的なスピードで経済規模を拡大させていた。国民の所得は倍増し、テレビや冷蔵庫、自動車といった新しい豊かさの象徴が次々と家庭に行き渡り、街には建設ラッシュの槌音が響いていた時期だった。
「人々が豊かになれば、心に余裕ができる。余裕ができれば、誰かに手を差し伸べようとする連中も増える。その景気の波と社会の熱気にうまく乗れれば、アンジュの目指す『人が人と手を繋ぎ、助け合う場所』ってのも、すんなり形になるかもな」
ディーの言う通りだった。社会全体が上を向き、明日は今日よりも良くなると誰もが信じているこの熱気の中であれば、彼女の慈愛の活動もきっと多くの賛同者を得られるだろうと僕は感じていた。
だが、アンジュの未来が明るいかもしれないという希望の反面、彼女が去らざるを得なかったDOEという組織の現状は、どうしようもなく暗かった。僕はハンドルを両手で握りしめ、ディーに向かって重い口を開いた。
「……どうしようもないのか。組織の腐敗は」
僕が古巣を心配して尋ねると、ディーは小さく舌打ちをした。
「真面目な活動の方は、持ってあと数年だな」
ディーは、冷徹な分析を口にした。
「本来の目的である歴史の探究やオーパーツの保護を志している研究者連中には、もう見切りをつけさせてる。根っこが腐り切るまでに、何とか安全なルートで逃がしておくつもりだ」
ディーの見立てでは、もう数年もしないうちに、DOEは完全に大義を失い、金と権力だけを求める下劣なごろつき集団に変わってしまうというのだ。
僕もその見立てには全面的に同意だった。
資金提供の窓口となっている幹部たちとのやり取りの中でも、ここ最近求められる作戦の対象や要求が、ひどく強引で、個人的な欲に塗れているのを感じていた。遺跡の重要さよりも出土品の横流しによる利益を優先し、邪魔な人間は容赦無く排除する。かつて僕が感嘆した、人類の奇跡を探求するという崇高な理念は、消え去ろうとしていたのだ。
「……悲しくないのか?」
僕は、ディーの横顔を見つめて聞いた。
「お前も、あの組織に拾われて救われた立場なんだろ?」
不老不死という特異な存在ゆえに、世界から孤立していた彼を迎え入れ、居場所を与えてくれたのはDOEだったはずだ。その組織が腐り落ちていく様を見るのは、身を切られるような思いではないのか。
しかし、ディーはフッと鼻で笑い、どこまでも冷めた目で夜の海を見据えた。
「そん時のリーダーは、とっくの昔に死んでる」
彼は、吐き捨てるように言った。
「オレを拾ってくれたヤツも、理念を語り合った仲間も、みんな寿命で死んじまった。今残ってるのは、その遺産に群がるただのハイエナどもだ。──終わった話だ、気にする必要はねえよ」
それは、途方もない時を生きる不老不死ならではの諦観であり、同時に、強がりにも聞こえた。
しばらくの間、車内には波の音だけが静かに流れていた。やがて、ディーは深く息を吸い込み、先程までの冷めた空気を振り払うように、ニッといつもの無邪気で獰猛な笑みを浮かべて僕を見た。
「……もういよいよダメだってなった時は、オレとお前もDOEを抜けよう」
唐突な、しかし力強い提案だった。
「そして、新しい組織を作ろうぜ!」
ディーの真っ赤な瞳には、過去を惜しむ影はなく、未来を切り開く野心が燃えていた。
「新しい組織?」
「ああ。オレたちのやり方で、オレたちの理想を追求する、新しいハコだ。ロマンのない連中なんか放っておいて、もっとデカくて面白いことをやろうぜ!」
不老不死である彼は、決して立ち止まらない。絶望するのではなく、常に次のゲーム盤を求め、前へ前へと進もうとする。その圧倒的な生命力とバイタリティに、僕はいつも救われてきたのだ。
「お前がいれば、悲しいことなんて何もねぇよ!」
ディーはそう叫ぶと、僕の顔の前に、固く握った拳をドンと突き立てた。
「頼んだぜ、相棒!」
彼のその真っ直ぐな信頼に、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ソラハ少年の肉体で蘇り、人類の救済という途方もない夢を掲げた僕。それを、この不老不死の少年は誰よりも理解し、共に歩もうとしてくれているのだ。
「……ああ。こちらこそ、頼りにしてるよ」
僕は微笑み返し、右手の拳を作ると、ディーの突き出した拳にコンと軽く小突くように合わせた。
小さな衝撃が、二人の間に新たな契約を刻み込んだ。
この二年後
僕たちはDOEに見切りをつけた
そして、かつての組織のノウハウを流用し、僕の「人類の救済」という大義を成し遂げるための資金源となる新たなハコ──
ニセモノの『D.O.E』を立ち上げたのである