生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
翌朝。
東の空がわずかに白み始め、都市の喧騒がまだ深い眠りの中にある頃。
キャンピングカーを出たシルヴァレッタは、冷たい空気に白い息を吐きながら、職場である高級マンションへと向かっていた。
彼としては珍しく、一人ではない出勤だ。
その肩のすぐ横に淡い光を放つ手のひらサイズの妖精、ミカタがフヨフヨと宙を浮いて同行している。
真新しいスニーカーでアスファルトを踏みしめ、いつものようにマンションの裏口へと回る。
厳重なセキュリティゲートを従業員用のカードキーで解除し、コンクリート打ちっ放しの殺風景なバックヤードへと足を踏み入れた。
そこは、表のエントランスの豪華絢爛な装飾とは打って変わって、配管が剥き出しになった薄暗い空間だ。
清掃用具やゴミの回収カートが整然と並べられており、清掃員たちが着替えや休憩に使う場所でもある。
バックヤードには、すでに先客がいた。
無精髭を生やし、よれた作業着に身を包んだ先輩職員──ケイだ。
彼はパイプ椅子に深く腰掛け、ブラックコーヒーの缶を片手に新聞に目を通していた。
「おはよう、相変わらず早いな」
ケイは新聞から目を上げることなく、気怠げに声をかけてきた。
「おはようございます。ケイさんも早いですね」
シルヴァレッタは淡々と挨拶を返した。
すると、彼の肩のあたりでパタパタと羽ばたいていたミカタが、元気よく前に飛び出した。
「おはよう! オッサンの手にあるカンカンはなんだい?」
ミカタはケイの顔のすぐ目の前まで飛び、缶コーヒーを指差して無邪気に声をかけた。
しかし、ケイの視線は新聞の紙面に落ちたまま、ピクリとも動かない。
ミカタが目の前で手を振っても、彼の目には全く映っていないようだった。
やはり、バナジウムの推測は正しかった。
オーパーツの干渉を受けていない一般人であるケイには、この妖精の姿を視認することはできないのだ。
シルヴァレッタが無言でミカタの様子を見つめていると、不意にケイが新聞をパサリと折りたたみ、視線を上げた。
「……そこにいるのか? 妖精さんは」
その言葉に、シルヴァレッタはわずかに目を見開いた。
「どうやら、オレには見えねーみたいだ。リーダーの言う通りだな」
ケイは缶コーヒーをテーブルに置き、肩をすくめた。
どうやら、バナジウムからミカタの存在についての情報共有がすでに成されていたらしい。
彼らのような、裏の仕事を請け負う組織の情報伝達の早さには、いつもながら感心させられる。
「オーパーツ解析の進捗は、どうなっていますか?」
シルヴァレッタが、昨日バナジウムに預けた銀色の果実についての調査状況を尋ねる。
「ああ、それなら便利屋のヤツが主体となって、組織のネットワークをフル稼働させて頑張って調査してる。だが……正直、難航してるみたいだ」
ケイは顎の無精髭をジョリジョリと撫でながら、芳しくない進捗を共有した。
「材質一つとっても現代の科学じゃ解析不能のブラックボックスらしくてな。どんな原理で彼女たちを『非常識』に作り変えたのか、全く手掛かりが掴めないらしい。しばらく時間はかかりそうだ」
「そうですか。よろしくお願いしますと伝えてください」
「おう、言っておく」
そんな二人の会話の最中、ミカタはスタッフルームの隅に立てかけられていた清掃用具の束に興味を引かれたようだった。
「おお、モップだ! コレ、細くて軽くて使いやすそうだな!」
ミカタは小さな両手でモップの柄の真ん中あたりをしっかりと掴み、フンッと気合を入れて空中に持ち上げた。
彼の体格からすれば巨大な丸太を掲げているようなものだが、妖精の持つ不思議な力なのか、モップは軽々と宙に浮き上がった。
シルヴァレッタはその光景を指差し、ケイに向かって尋ねた。
「……どう見えます?」
ケイは目を丸くして、宙に浮くモップを凝視した。
彼の目にはミカタの姿が映っていないため、そこには信じられない光景が広がっているはずだ。
「……驚いた。モップが、ひとりでに宙に浮かんでるようにしか見えねえな。ポルターガイストも真っ青だぜ。本当に居るんだな、妖精ってヤツは」
裏社会のベテランであるケイでさえ、その超常的な現象には感嘆の息を漏らすしかなかった。
「なるほど」
シルヴァレッタが呟くと、ケイは呆れたように苦笑して忠告した。
「人目につきたくなきゃ、その妖精に物を持たせるのは控えた方がいいな。エントランスでモップが勝手に踊り出してたら、住人が腰を抜かすどころの騒ぎじゃ済まねえぞ」
それはそう。
シルヴァレッタはミカタに「それは俺がやるから置いてくれ」と優しく言い聞かせ、モップを受け取った。
ミカタは「ちぇっ、つまんないの」と口を尖らせたが、素直にモップを手放した。
その後、シルヴァレッタはスタッフルームを出て、エントランスや共用廊下の清掃業務に入った。
床をモップで磨き上げ、観葉植物の落ち葉を丁寧にちりとりで拾い集める。
ミカタはシルヴァレッタの周囲を飛び回りながら、「几帳面だなぁ」と無邪気な感想を漏らしている。
静寂に包まれた朝のマンションで、シルヴァレッタはちりとりでゴミを拾いながら、ふとミカタに尋ねた。
「それで、イサクという名について……何か思い出せたか?」
昨夜、キャンピングカーの中でシルヴァレッタが「ウラベイサク」という名を口にした直後、ミカタは突然ポロポロと大粒の涙を流して泣き崩れてしまったのだ。
シルヴァレッタとコバルトは突然の事に激しく困惑し、ミカタの身を案じて何度も声をかけた。
しかし、ミカタは「すまねぇ、すまねぇ……」と、まるでうわごとのように繰り返すばかりで、結局何も語らないまま、最後には泣き疲れて眠りに落ちてしまったのだ。
あの時、ミカタの魂の奥底で何が共鳴したのか。
ぼく自身も、その理由が気になって仕方なかった。
シルヴァレッタの問いかけに対し、ミカタは空中でピタリと止まり、うーんと小さな腕を組んで首を捻った。
「それがよぉ……。なーんも思い出せねぇんだ」
ミカタの澄んだ瞳に、困惑の色が浮かぶ。
「イサクって名前を聞いた瞬間、ただ悲しくて悲しくて、心がギューッと張り裂けそうになったって事だけは覚えてるんだけど。どうしてそんな風になったのか、誰に謝りたかったのかはサッパリなんだ。……ごめんな、上手く説明できなくて」
ミカタは申し訳なそうに羽をしょんぼりと下げた。
シルヴァレッタは一通り拾い集めたちりとりのゴミをゴミ袋に丁寧に詰め込みながら、静かに「そうか」と呟いた。
無理に聞き出すことではないと判断したのだろう。
彼はそれ以上追及せず、再び黙々と清掃作業に戻っていった。
だが、シルヴァレッタの意識の奥で傍観しているぼくの思考は、その言葉をきっかけに深く沈み込んでいた。
この妖精は、つい一年前、あの廃工場で誕生したのだと言っていた。
そして、この一年間はずっと誰にも見えず、誰にも相手にされずに孤独に過ごしてきたと。
ならば、彼が聞いた「イサク」という名が、生前のぼく──つまり、つい最近自ら命を絶った「ウラベイサク」という青年そのものを指しているとは考えにくい。
ぼくとこの妖精には、直接的な接点は無いと考えて良いだろう。
だが、それならば……彼を泣かせた「イサク」という名は何なのだろうか?
ぼくの脳裏に、かつて隠し部屋で見つけたあの研究レポートの記述が蘇る。
非合法研究組織RGBにおいて、ウラベ博士が自らの手で作り上げた『最低傑作』、それがぼくだ。
博士は、わざわざぼくを引き取り戸籍上で自分の息子として迎え入れ、「ウラベイサク」という名前を与えた。
なぜ、そんな名前をつけたのか。
ウラベ博士が、最低傑作であるぼくにその名前を与えた意図。
何か別の、狂気的な意味があったのか。
ぼくは、この名前を巡る因果の深さに、薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
⬛︎◆▲
一通りの清掃業務を終え、バックヤードで着替えを済ませたシルヴァレッタは、ケイに挨拶をしてマンションを後にした。
朝の日差しがすっかり高くなり、街は行き交う人々と車の音で活気付き始めている。
「お疲れ様だぜ!」
ミカタはシルヴァレッタの隣をフヨフヨと浮きながら、元気よく同行している。
彼は自由気ままに飛び回っていた。
「そうだ。キャンピングカーに戻る前に、どこか行ってみたい場所はあるか?」
シルヴァレッタが、ふと足を止めてミカタに尋ねた。
せっかく外の世界に出たのだから、何か見たいものがあるだろうという彼なりの気遣いだった。
ミカタは空中でクルリと一回転し、少し考えてから答えた。
「緑のある場所なんてどうだい? コンクリートばっかりじゃ息が詰まっちゃうよ。ホラ、オイラは妖精だしさ。木や草の匂いがする所に行きたいな!」
そのリクエストを聞いて、シルヴァレッタは少し思案した。
街中に公園はいくつもあるが、ミカタが満足するような豊かな自然が残っている場所となると限られてくる。
「……あの公園に行くか」
広大な敷地を持つ公園。
そこはぼくが自らのこめかみに銃口を当てて命を散らした地であり、銀色の弾丸であったシルヴァレッタがぼくの肉体に意識を宿した、始まりの運命の場所でもあった。
駅からだいぶ歩いた先に、その公園は広がっていた。
都市部の喧騒が嘘のように静まり返り鬱蒼とした雑木林。
その間を縫うようにサイクリングロードが延び、広大な芝生の広場では、家族連れがバドミントンやフリスビーを楽しんでいる。
敷地の奥には古い時代の建築物をそのまま移築した、まるでタイムスリップしたかのような野外博物館のエリアが広がっている。
豊かな自然と、歴史の重みが見事に調和した、広大で美しい公園だった。
「うわぁー! すっげー広いな! 木がいっぱいだ!」
公園に足を踏み入れた途端、ミカタは歓声を上げて高く舞い上がり、ケヤキやクヌギの枝葉の間を弾むように飛び回り始めた。
風に揺れる葉の音と、野鳥のさえずりが心地よく耳に響く。
シルヴァレッタは、はしゃぐミカタを急かすことなく、ゆっくりとした足取りで公園の奥へと進んでいった。
舗装された道から外れ、落ち葉が厚く積もった薄暗い雑木林の小道へと入っていく。
そこは、公園の喧騒から完全に隔離されたような、静寂で冷たい空気が澱む場所だった。
やがて、シルヴァレッタの足がピタリと止まった。
太い樫の木の根元。
周囲には人の立ち入った形跡がなく、ただ枯葉が静かに降り積もっているだけの空間。
ここが、
あの日、
ぼくが人生に絶望し、引き金を引いた場所だった。
社会に居場所がなく、誰にも必要とされず、ただ「生きているのに向いていない」という絶望感に押し潰され、冷たい金属の感触をこめかみに押し当てた記憶が蘇る。
倒れ伏した時の土の匂いが今も生々しく感じ取れた。
シルヴァレッタは無言のまま、かつて自分が撃ち込まれ、血の海に沈んでいたはずのその地面をじっと見つめていた。
彼なりに、この場所に対して何か特別な感慨を抱いているようだった。
「おや?」
ふと、木々の間を飛び回っていたミカタが、シルヴァレッタの元へと舞い降りてきた。
ミカタはシルヴァレッタの足元、ちょうどぼくが頭を撃ち抜いて倒れたその一点を見つめ、うーん? と小さな腕を組んで考え込んだ。
彼はその地面の周りをフワフワと旋回し、鼻を近づけるようにして何かを嗅ぎ取ろうとしている。
やがて、ミカタは顔を上げ、不思議そうな、しかし確信に満ちた声でこう発言した。
「ここ、なんかあるぞ?」