生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
圧倒的な静寂の中で、ぼくの意識はゆっくりと浮上していく。
閉じていたまぶたを押し上げるようにして目を開くと、そこには言葉を失うほどの幻想的な光景が広がっていた。
頭上には幾千万という数の星々が、漆黒の天蓋を埋め尽くすようにして煌めいている。
天の川の帯が夜空を二分するように横たわり、青白く鋭い光を放つ一等星から砂粒のように微細な星屑までが、まるで手が届きそうなほどの距離で瞬いていた。
だが、驚くべきは頭上だけではない。
ぼくの足元にも、寸分違わぬ星空が広がっていた。
波一つ立たない、鏡のように平滑で広大な水面。
それが、夜空のすべてを反射している。
空と水面の境界線は完全に溶け合い、地平線という概念すら喪失していた。
まるで天地の区別がない宇宙のただ中に放り出され、虚空にポツンと浮かんでいるかのような、途方もない錯覚。
足の裏には確かに水面を踏みしめる、ひんやりとした感触があるにも関わらず、視覚は自分が無重力の星海を漂っているのだと錯覚させる。
風の音も、
虫の声も、
都市の喧騒も、
ここには何一つ存在しない。
あるのは、永遠に続くかと思われる絶対的な静寂と、冷ややかで澄み切った空気だけだった。
ぼくは、世界でひとりぼっちになった感覚を、身体の芯から深く味わっていた。
普通であれば、この見渡す限りの無の世界に放り出されたら恐怖や心細さに苛まれるのかもしれない。
しかし、ぼくの心を満たしていたのは、圧倒的なまでの安堵感と、甘美な心地よさだった。
誰の目も、
嘆きも、
悪意も、
ここには届かない。
この壮大で残酷なまでに美しい景色を、ぼくという、ちっぽけな存在が完全に独り占め出来ている。
その事実が、たまらなく痛快で、胸のすくような思いだった。
ぼくは、星空を映す鏡のような水面の上で、ゆっくりと足を踏み出した。
ピチャリ。
微かな水音が静寂を破り、足元から小さな波紋が広がっていく。
その波紋が足元の星々を優しく揺らし、光の輪となって遠くへと消えていく。
歩き出しても、景色は何も変わらなかった。
どこまで行っても、完璧な星空。
どこまで行っても、圧倒的に美しい景色。
どこまで行っても、ぼくだけの世界。
疲労感は全くなく、身体は羽のように軽かった。
永遠に歩き続けられる。
そんな確信めいた予感が、ぼくの背中を優しく押し続けていた。
●
どれくらい歩いたのだろうか。
時間という概念すら曖昧になった頃、変わらないはずの景色に変化が訪れた。
前方で、星を映す水面に誰かが横たわっているのだ。
近づいていくと──それは少年だった。
薄汚れた囚人服を着て、仰向けに倒れている。
普通なら「誰だ?」と問うところだろう。
しかし、ぼくの口からは、とても自然に。
あらかじめ用意されていた台詞のように、その名前がこぼれ落ちた。
「ソラハキミト?」
その声に反応して、少年はゆっくりと身体を起こした。
そして、不思議そうな顔をしてこちらを見上げ、首を傾げた。
「誰だい?」
その顔立ちは、ぼくの記憶にある自分自身の顔を、そのまま十五歳ほどに若返らせたような造りをしていた。
ただ、ぼくのような日陰者の陰鬱さは微塵もなく、そこには純朴で真っ直ぐな、夏の太陽のような明るさの残滓が感じられた。
「話をしよう」
ぼくは、彼の目の前の水面にしゃがみ込み、そう提案した。
ソラハ少年は、目を瞬かせながら聞き返す。
「話って?」
「順番こはどうだい?」
ぼくがそう言うと、少年は少し警戒を解いたのか、あどけない顔でニコッと笑って頷いた。
「じゃあ、ぼくからね」
ぼくは、彼に向かって自分の最期を語り始めた。
「ぼくはね、拳銃自殺したんだ。こう、右のこめかみから左に向けて、パァンとね」
そう言いながら、ぼくは右手の親指と人差し指でピストルの形を作り、自分のこめかみに当てて引き金を引く真似をした。
弾丸が頭蓋骨を撃ち抜く軌道を、指先でなぞってみせる。
それを見たソラハ少年は、顔をしかめて身震いした。
「うええ……怖くなかったのかい?」
「ちっとも」
ぼくはあっけらかんと答えた。
「そうしたら、こうなるって予感があったんだよ。ぼくは子どもの頃から直感には自信があってね。そのせいで父さんをいつも困らせてた。……ま、突拍子もないのがぼくのアイデンティティってことで」
ぼくの言葉を聞いて、ソラハ少年は少しだけ羨ましそうな、どこか遠くを見るような目をした。
「おっ父か……いいなぁ」
彼には父親がいなかった。
その短い言葉に込められた寂しさを感じ取り、ぼくは肩をすくめて言った。
「でも、ぼくには母がいなかった」
その事実を伝えると、ソラハ少年はハッとして、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめん」
「いいよ。気にしないで」
ぼくは軽く手を振って、彼の謝罪を受け流した。
「そして、ぼくの話はこれでおしまいだ。次はそっちの番だよ」
ぼくに促され、ソラハ少年は少しの間、ためらうように下を向いていた。
やがて、ぽつりぽつりと、重たい口を開いた。
「おいらは……首を吊ったんだ」
その言葉の重みに、水面の星空がわずかに揺らいだような気がした。
テロの実行犯として死刑執行されたのだから、それは絞首刑を意味している。
「苦しかった?」
ぼくが静かに尋ねると、少年は両手で自分の首元を掻きむしるような仕草をして、顔を苦痛に歪めた。
「物凄く。息ができなくて、身体中がパンパンに膨れ上がって、爆発しそうだった」
その生々しい告白に、ぼくは静かな怒りと、この世界の理不尽に対する呆れを感じた。
「……苦しまなければならないような事はしてないのに。神サマってクズだよね」
ぼくが同情と皮肉を込めて呟くと、ソラハ少年は意外な反応を示した。
彼はブンブンと激しく頭を振って、ぼくの言葉を否定したのだ。
彼の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、星を映す水面に落ちて小さな波紋を作っていく。
「違うんだ……オイラ、約束を守れなかったんだ」
彼は泣きじゃくりながら、振り絞るようにそう答えた。
「約束って?」
ぼくが問いかけると、彼は涙を拭いながら答えた。
「一生懸命。それに、一緒に酒を飲むんだって……スイじっちゃんと、約束したのに」
一緒に酒を飲もうという約束。
そして、一つの所領に命を懸けるように、一生懸命に働くという誓い。
「どうして守れなかったの?」
ぼくがさらに促すと、ソラハ少年は嗚咽を漏らしながら、彼が追い詰められていった悲劇の引き金を語り始めた。
「弟が、イサクの病気が重たくなって……金が必要になったんだ」
──ぼくの名前、ウラベイサクのルーツ。
「でも、オイラにはそんな蓄えはなくて……。どうしたらいいか分からなくて泣いてたら、ある日、知らない大人がやってきて、オイラにこう言ったんだ。『弟を助けたいなら、何でもやるか?』って」
「ふーん」
ぼくは相槌を打ち、話の続きを促した。
裏社会の人間か、テロの首謀者。
目ざとく、追い詰められた少年に目をつけたのだ。
ソラハ少年は、当時の絶望的な状況を思い出すように、身を震わせながら言葉を続けた。
「おいらは『何でもやる! だから弟を助けてくれ!』って、地面に頭を擦りつけて頼んだんだ。そしたら、その大人は冷たい目をして、こう言ってきて……『その命をかけてでも?』って」
その言葉の裏にある、卑劣で残酷な意図。
ぼくはため息をついて、彼の言葉を引き継いだ。
「で、『弟を見捨てるのか?』って言われたんでしょ?」
その言葉に、ソラハ少年は目を丸くして、パチクリと瞬きをした。
「な、何でわかったんだ?」
彼にとっては想像もつかない悪意だったのだろう。
だが、ぼくの知識からすれば、手垢のついた陳腐な脅し文句でしかなかった。
「ヒトのゲスさは、昔から一緒か。あーやだやだ」
ぼくは呆れたように肩をすくめた。
弱者の愛情や責任感を逆手に取り、
逃げ道を塞いで、
──都合のいい捨て駒にするのだ。
いつの時代も、権力者や悪党が使う手口は変わらない。
「で、銃を持たされて、外人を撃ったんだよね」
当時の世界的テロ。
その引き金となった事件の全貌が、ぼくの中でパズルを組み立てるように見えてきた。
「うん……外人なら誰でもいいって言われたんだ」
ソラハ少年は、罪悪感に押しつぶされそうになりながらコクリと頷いた。
誰でも、か
ぼくは、そのあまりにも行き当たりばったりで、かつ世界を巻き込むギリギリの綱渡りだった事実に、思わずケラケラと笑い声を上げてしまった。
「そりゃ運が良かったね。実行犯がキミじゃなきゃ、本当にもう一度、世界大戦が始まってた所だったよ」
彼が徳の高い善良な少年だったからこそ──
『同盟国の要人』という最小限の被害にとどまり、世界は最悪の結末を免れたのだ。
歴史の闇に葬られたテロの真相は、あまりにもお粗末で、そして悲しいものだった。
ぼくは、星空を映す湖面からゆっくりと立ち上がる。
彼から語られた過去の真実。
それは、ぼくが知りたかったルーツの一部であり、この世界が隠してきた悲しい歴史のピースだった。
「うん、そろそろいい頃合いだ」
文字数もいい感じだし
ぼくはソラハ少年の前に立ち、彼の額にそっと人差し指を当てた。
「世界に真相を伝えてくれて、ありがとう。君が背負わされた理不尽は、みんながしっかりと受け取ったよ」
ぼくは、彼の純粋な瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「時間は巻き戻せないけど……父さんと酒を飲む約束は、果たしてあげる」
その瞬間
ぼくの指先から、眩いほどの銀に輝く光が溢れ出し、ソラハ少年の身体を包み込み始めた。
「こ、これは?」
ソラハ少年は、自分の身体が光の粒子となって解け始めているのを見て、驚きの声を上げた。
ぼくは、彼に向かって、最高に優しく、そして誇らしげに答えた。
「奇跡だよ。人類が大好きなものさ」
ぼくはニコッと笑い、最後に彼に──
これから形を変えて、主人公たちを導く存在となる彼に向けて、願いを託した。
「ぼくの残りカスと、勇者たちを助けてくれよ。……ミカタ」
その言葉を合図にしたかのように、ソラハ少年の身体は完全に光の奔流となり、水面と星空の世界を真っ白に染め上げた。
──そして、世界は星空に溶けていく