生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
愛は見返りを求める 一
二月十四日。
灰色の雲が垂れ込め、冷たい風が街路樹の枝を揺らす夕暮れ時。
シルヴァレッタは高級マンションでの清掃の仕事を終え、帰途についていた。
彼は無機質なバックヤードで清掃用具を片付け、先輩清掃員であるケイに短い挨拶を済ませてから、コンクリート打ちっ放しの裏口を抜けて外に出る。
刺すような冬の寒気が全身を包み込む。
ぼくは、彼に主導権を握られた肉体の奥底で、五感を通じて流れ込んでくる街の景色をぼんやりと眺めていた。
──そんな平穏で変わり映えのしない日常のひとコマは、突如として響いた少女の甲高い声によって破られた。
「シルヴァレッタ様!」
声のした方へ振り向くと、そこには街の風景から完全に浮き上がった、一人の少女が立っていた。
フリルがふんだんにあしらわれた純白のゴスロリドレスに身を包んだ、ビスクドールのように愛らしい少女、ラピスラズリだ。
「ラピスラズリ、どうした」
シルヴァレッタが普段通りの平坦な声で尋ねると、彼女は頬をほんのりと赤らめ、もじもじとしながら背中に隠していた両手をスッと前に突き出した。
「これ、バレンタインデーです!」
彼女の小さな両手には、上質な赤い包装紙で包まれ、金色のリボンが丁寧に結ばれた、いかにも高級そうな箱が握られていた。
バレンタインデー。
本来はキリスト教の聖人であるウァレンティヌスに由来する宗教的な記念日だが、この国においては独自の進化を遂げ、製菓会社が主導する一大イベントとして社会に定着している。
『二月十四日に女性から男性へとチョコレートを贈り、愛の告白をする日』
近年では「義理チョコ」や、同性間で贈り合う「友チョコ」、さらには自分へのご褒美としての「マイチョコ」など、その解釈は多様化し、もはや単なる愛の告白の枠を超えた一種のコミュニケーションツールとなっている。
シルヴァレッタは、その華やかな箱を不思議そうに見下ろした後、「ありがとう」と素直にお礼を言って受け取った。
しかし、彼はその箱をまじまじと見つめたまま、ピタリと動きを止めてしまった。
何か深い思索に沈んでいるようだ。
「ど、どうかされましたか……?」
予想外の反応に不安を覚えたのか、ラピスラズリが上目遣いでオロオロと尋ねる。
シルヴァレッタは、大真面目な顔のまま、唐突にこう口にする。
「イサクの分は無いのか?」
イサク。
それは、シルヴァレッタの意識の奥底で傍観している、この肉体の本来の持ち主である「ぼく」のことだ。
まさかこんな場面で自分の名前が出るとは思わず、ぼく自身も驚いた。
その問いに対し、ラピスラズリは気まずそうに視線を泳がせ
──やがて女の勘を炸裂させたようにポツリと呟いた。
「……あたしに悪口を言っていた気がしますので」
すいません
まさに図星だった。
ぼくは初期の頃、正直言って情緒不安定になっていた。
そんな時に彼女がこの「ぼくの顔」に一目惚れして近づいてきたのだとばかり、ぼくは思い込んでいたのだ。
だからぼくは『そんなヤバいヤツは相手にしたくない』と思って、心の中で盛大に何度も悪態をついた事があった。
だが、それは完全な誤解だった。
彼女が本当に惚れ込んだのは、外見ではなくシルヴァレッタの『器の大きさ』だと知ったのだ。
ぼくは己の自意識過剰さを恥じ、今ではすっかり考えを改めている。
ラピスラズリの言葉を聞いて、シルヴァレッタは目に見えて肩を落とし、「そうか……」とひどく落ち込んでしまった。
どうやら彼の中では、ぼくも対等な仲間として扱われており、ぼくが仲間外れにされたことが本気で悲しかったらしい。
「き、気にしないでくださいませ! 来年はイサクさんの分もご用意いたしますので!」
慌てふためいたラピスラズリが必死に弁解すると、シルヴァレッタはパッと顔を輝かせ、「そうか!」と瞬時にご機嫌になった。
あまりにも単純な思考回路だが、その素直さが彼女たちを惹きつけるのだろう。
⬛︎◆▲
その日の夜。
コバルトとの過酷な、本当にただ過酷なだけの戦闘訓練が終わった直後のことだった。
荒い息を吐きながら汗を拭っていたコバルトが、おもむろにシルヴァレッタに近づき、「はい、コレ」と無造作に小さな紙袋を手渡してきた。
「バレンタインデーか」
シルヴァレッタが即座に言い当てると、コバルトは少しだけ目を丸くした。
「……よく気付いたわね」
「ラピスラズリに貰っていてな」
シルヴァレッタが悪びれる様子もなく答えると、コバルトは「ああ」と、なるほどと言わんばかりの顔をした。
そして、彼女の口元はニヤリと、どこか意地の悪い、からかうような笑みを浮かべた。
「じゃあ、こんな話は知ってるかしら?」
「何だ?」
「ホワイトデー、三倍返しよ」
ホワイトデー。
三月十四日に、バレンタインデーのお返しとして男性から女性へキャンディやマシュマロなどを贈るという、これまたこの国特有の商業イベントだ。
その中でいつしか定着したのが「お返しはもらった物の三倍の価値があるものにすべし」という、恐るべき
男性側からすれば理不尽極まりない悪魔のようなルールだが、一種のジョークとして、あるいは愛情の深さを量るバロメーターとして、世間の女性たちの間でまことしやかに語り継がれている。
三倍。
その言葉を聞いた瞬間、シルヴァレッタの動きがピタリと固まった。
彼の中で、未知の数学的脅威が計算不能なエラーを引き起こしたのだろう。
「……三倍か?」
念を押すように確認する彼に対し、コバルトは容赦なくトドメを刺した。
「キッチリ三倍。忘れないでね」
⬛︎◆▲
時は移ろい、季節が冬から春へと変わろうとしていた三月某日。
シルヴァレッタは、ある人物にホワイトデーの相談を持ちかけていた。
その相手は、ジュエル二期生の一人であるマイカだ。
この日、彼らは凄惨な過去から救い出されたソラハ三姉妹──イチゴ、ニゴ、サンゴのお見舞いに訪れた日だ。
その帰り道、シルヴァレッタはコバルトを先に帰し、マイカを駅前のレトロな喫茶店へと誘ったのだ。
当初はシルヴァレッタからの突然のお誘いに頬を赤らめ、クリームソーダを前に目を輝かせて非常に嬉しそうにしていた。
しかし、話題が「他の女たちへのホワイトデーのお返し」だと判明した途端、彼女の機嫌は急降下した。
「どうしたら良いと思う?」
真剣に尋ねるシルヴァレッタに対し、マイカはストローを噛みながらプクーッと頬を膨らませて拗ねた。
「あてぃし、その頃いなかったから知らねっす」
完全にへそを曲げている。
自分がいない間にバレンタインのイベントを満喫し、あろうことかそのお返しの相談を自分にしてくるなど、乙女心としては面白くないに決まっている。
しかし、シルヴァレッタはそんな複雑な女心など微塵も察することなく、ただひたすらに助けを求めた。
「頼む、どうして良いか分からずにずっと放置してしまったんだ。今頼れるのはキミしかいない」
『今頼れるのはキミしかいない』
その真っ直ぐで嘘偽りのないキラーフレーズが、マイカの心にクリティカルヒットした。
「あてぃしだけ……」
マイカは顔を真っ赤にして俯き、ブツブツと何事かを呟き始めた。
「イサクが、いやイサクじゃないんだけど。イサクのカラダがあてぃしを求めてる。ふ、ふひひ……」
キ、キキキm……いや、我慢だぼく。
よくない、それはよくない。
どうやら、この子特有の妄想スイッチが完全にオンになったようだ。
怪しげな笑い声を漏らしながら、すっかり機嫌を直したマイカは、バンッとテーブルを叩いて身を乗り出した。
「……ひとついい考えがありやすぜ、ダンナ」
「何だ? 教えてくれ」
「デートです、お誘いするんですよ。思い出はプライスレス、三倍なんて屁の河童」
品物を三倍の価値で返すのではなく、体験としての価値を提供する。
中々理にかなった、悪くない提案だとぼくも思った。
「それも、普段行ったところのない場所がアゲでしょう。あてぃし達が住んでるこの街なんか、いかがっすか? オススメスポット、紹介しやすぜダンナ」
自分たちが住む街での観光を推奨し、具体的なプランまで提示してくれるという。
マイカは驚くほど優秀なコンサルタントを提案した。
「ぜひ頼む! 助かったよ、マイカ」
シルヴァレッタが、心からの感謝を込めて微笑みを向ける。
その笑顔の破壊力に、マイカは完全に撃ち抜かれた。
「ふひ! イサクの笑顔、これアリぃ……」
彼女は昇天しそうな顔で、だらしなく笑い崩れた。キモ。
そして、その日の夜。
いつも通り、夜の駐車場にひっそりと停められた無骨なキャンピングカーにて。
外の冷たい夜風から完全に遮断された暖かな車内で、シルヴァレッタはコバルトに向かって、本日の成果を誇らしげに報告していた。
「──と、いうわけで十四日は出かけよう、コバルト」
自信満々にデートの誘いを口にしたシルヴァレッタ。
しかし、コバルトの反応は彼の期待とは全く異なるものだった。
彼女は深く頭を抱え、絶望したように深いため息をついた。
「……それ、ラピスラズリにはもう言った?」
「ああ。そういえば、彼女もコバルトのように頭を抱えていたが……二人ともどうしたんだ?」
本気で訳が分からないといった様子のシルヴァレッタ。
当然である。
ホワイトデーのお返しが、まさかのダブりデートなのだから。
しかも相手はコバルトとラピスラズリという、職場仲間同士。
もし二人がシルヴァレッタに対して独占欲に近い好意を抱いていたのなら、修羅場確定の前代未聞なイベントであった。
そこに妖精のミカタが、フヨフヨと飛んできて無邪気に割り込んだ。
「オイラもついてっていいか!」
「当然だ」
シルヴァレッタは即答した。
デートどころか、これでは完全にただのお気楽団体旅行である。
その絶望的なやり取りを見て、コバルトはさらに深く頭を抱えた。
彼女の肩がプルプルと小刻みに震えている。
怒っているのか、呆れているのか。
しかし、数秒後。
コバルトは何かを完全に吹っ切ったように、バッと顔を上げた。
「……ま、いいか」
マイカの提案なだけに?
彼女は全てを諦めたような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて、深く納得した。
結局のところ、シルヴァレッタのこの常識外れでどうしようもない鈍感さも、彼女たちにとっては居心地の良い「日常」の一部なのだろう。
かくして、三月十四日。
ぼくの身体を動かす朴念仁の青年と、元暗殺者の少女二人。
そして妖精一匹という、奇妙で賑やかなホワイトデーの幕が上がるのだった。
……いや、これ。
もしかしてマイカも参加するのでは?