生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
「弁解のチャンスを与えるわ」
完全に時間が凍りついた世界で、ただ一人、自由に動く少女アオイ。
彼女は、ぼくたちの周囲をまるで品定めするかのようにゆっくりと歩き回りながら、無邪気さを装った酷薄な声でそう言った。
彼女の足元では、空中で静止したままの木の葉が不可視の床に落ちているかのように留まっている。
遠くの海で波飛沫を上げていた白波も、まるで彫刻のように固定され一枚の絵画のようになっていた。
その異常極まりない光景の中心でアオイは歩みを止めて、ぼくたちを真っ直ぐに見据えた。
「私のご機嫌を取れれば、無傷で返してあげても良いわ」
甘ったるい、それでいて背筋が凍るような冷酷さを孕んだ言葉だった。
『ご機嫌を取れれば、無傷で返してあげる』
その言葉の裏にある真意は、逆だ。
「ご機嫌を取れなければ、傷を負わせる」
という、明確な脅迫だった。
ここはシルヴァレッタの夢の中、あるいは過去の記憶のビジョン。
ぼくたちはそこにアクセスしただけの、実体を持たない透明な傍観者に過ぎない。
しかし、彼女はぼくたちを認識し、あまつさえ危害を加える手段を持っていることを示してきた。
首筋に冷たい刃を突きつけられているような絶対的な死の気配。
動けないぼくの額から、冷や汗がツーッと流れ落ちるような錯覚を覚えた。
『なら聞かせてくれ』
ぼくは、張り裂けそうになる緊張を必死に押し殺し、震えそうになる声を喉の奥で無理やり固定して、言葉を紡いだ。
『キミたちの世界は、西暦何年に終わったんだ?』
沈黙を破ったぼくの問いかけに、コバルトが「何を言っているの!?」と驚愕の視線を向けてくる気配を感じた。
しかし、これがぼくなりの「ご機嫌取り」であり、同時に、この圧倒的な絶望の状況から少しでも情報を引き出そうとする足掻きだった。
ぼくのその問いを聞いた瞬間。
アオイの顔から冷酷な笑みがスッと消え、代わりにパッと花が咲いたような、心底嬉しそうな明るい表情が浮かんだ。
「あら、今回の世界はちゃんと『西暦』なのね」
彼女は、まるで珍しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
今回の世界。
ぼくは、やはりそうか、と心の中でひとりごちた。
彼女は、過去に何度も世界が滅び、その度にやり直すというループを体験している。
そしてその中には「西暦」という概念すら失われてしまった世界線もあったのだ。
「いいわ、教えてあげる。……さっきアンタたちが見た光景は、西暦2030年の出来事よ」
アオイは、事もなげにそう答えた。
二〇三〇年。
その数字を聞いた瞬間、ぼくは頭の中を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
あまりにも近すぎる。
遠い未来のおとぎ話などではない。
ぼくたちが今生きている時代から、ほんの少し先の未来。
もし、ぼくたちの住む現実世界でも、あの巨大なトカゲの怪物──『人類の慣れ果て』が現れるのだとしたら、対策を立てるための時間があまりにも足りなすぎる。
動けない身体の奥底で、ぼくの心臓が早鐘のように打ち始めた。
絶望感が、じわじわと魂を侵食していく。
「逆に、アンタたちはいつなのよ?」
アオイが、小首を傾げて尋ねてきた。
その瞳には、無邪気な好奇心と共に、獲物をいたぶるような底意地の悪さがチラついている。
「……これが私のご機嫌取りってこと、忘れてないわよね?」
彼女の声が一段低くなり、空間の圧力が一気に増した。
答えなければ、ただでは済まない。
その無言の圧に耐えかねたように、コバルトが悲痛な声で答えた。
『西暦一九九九年、三月よ』
コバルトの声は、僅かに震えていた。
彼女もまた、ぼくと同じ絶望的な計算に行き着いたのだろう。
一九九九年。
つまり、あの地獄のような光景の日まで、ぼくたちの世界には僅か三十年ほどしか猶予が残されていないのだ。
人類の文明を根底から覆し、全てを滅ぼす災厄が、三十年後に迫っている。
一人の人間が大人になり、少し老いを感じる程度の短い年月。
そんな短い期間で、あんな途方もないバケモノたちをどうやって防げばいいというのか。
「1999年。へぇ……」
アオイは、顎に手を当てて興味深そうに呟いた。
彼女にとっては、ぼくたちの焦燥など取るに足らないことなのだろう。
彼女は指揮者のように、凍りついた空気を指先でなぞるように漂わせて、次の質問を投げかけてきた。
「そういえばアンタたち『第三次世界大戦』って言葉にひどく驚いてたわよね。……どうして?」
その問いに、ぼくたちは言葉を失った。
一つ前のビジョン。
そこでは、この世界が第三次世界大戦に差し掛かる真っ只中にあり、それが原因で世界が滅びに向かうかもという話があった。
確かにぼくたちはそこで驚きを露わにした。
この少女はその様子を見ていたのだ。
見られて、いた。
初めから。
だが、いつまでも黙っているわけにはいかない。
思考を整理しなくては、早く。
ぼくたちの歴史において、第三次世界大戦というものは存在しない。
する前提もない。
その歴史の決定的なズレについて、盟主が静かに、そして厳かに口を開いた。
『わたくしたちの世界でハ、世界大戦と呼ばれる出来事は一度しか起きませんでしタ』
盟主の声は、世界の歴史の重みを代弁するかのように、静まり返った空間に響き渡った。
『全ての国が疲弊シ、完全な痛み分けとなったのでス』
その言葉を聞いて、アオイは不思議そうに眉をひそめた。
「痛み分け? 戦力差は無かったの? 三倍の数には勝てないって言うじゃない」
彼女の指摘は、戦争というものの冷酷な真理を突いていた。
圧倒的な国力と武力を持つ大国が、小国を蹂躙する。
それが確かに普通の歴史の常だ。
『弱い国同士が手を取り合って、強い国は孤立したんだ』
空中に浮かんだまま動けない妖精のミカタが、一生懸命に声を張り上げた。
『それで、喧嘩両成敗になったんだって。オイラは母ちゃんからそう聞いたぞ!』
ミカタの言う通りだった。
それはぼくの歴史の知識とも完全に合致している。
かつての世界大戦において、大国たちは自らの力を過信し、覇権を唱えようとした。
しかし、それに危機感を抱いた無数の小国や中堅国が、思想や宗教の壁を越えて強固な同盟を結んだのだ。
決して一つ一つの国に強大な武力があったわけではない。
しかし、「大国に呑み込まれるわけにはいかない」「その先の独裁を許すわけにはいかない」という結論を共に等しくし、団結した同盟国たちの抵抗は凄まじく、戦いの均衡は奇跡的に保たれたのだ。
その結果、
誰も勝利を掴めず、
泥沼の国土戦が世界中のあちこちで発生した。
終わりの見えない消耗戦。
膨大な命が失われる。
経済は崩壊する。
あらゆる国土は荒廃する。
大国も、小国も、分け隔てなく全てが平等に傷付いた。
勝者なき戦争が延々と続き、やがて世界は「これ以上戦えば、人類そのものが自滅する」という限界点まで疲弊しきった。
そして、全ての国が武器を置き、指導者たちは不本意ながらも「興和を結ばざるを得なかった」のだ。
それが、ぼくたちの世界における唯一の世界大戦の結末だった。
その後、戦争と呼ばれるような事態は一度も発生していない。
──戦争では誰も得しない、と学んだからだ。
あったはずの成功体験は、幻と消えた。
ミカタと盟主の説明を聞いたアオイは、ふーんと息を吐く。
そして、どこか感心したような、それでいて呆れたような表情を浮かべた。
「パスのヤツ、上手くやれたんだ。へぇー」
アオイの口から漏れた、その謎めいた言葉。
パス。
それが何を、あるいは誰を指しているのかは分からない。
しかし、その口ぶりからして、ぼくたちの世界の歴史が「痛み分け」に終わったのは、単なる偶然ではないようだった。
その「パス」と呼ばれる何かが歴史の裏で暗躍し、意図的に均衡を保たせた事が伺えた。
アオイは、小さく肩をすくめると、再びぼくたちに向かって尋ねた。
「で? その戦争って、結局何年かかったのかしら?」
その問いに対し、マイカが緊張で引きつった声で答えた。
『一九一〇年から一九三五年。……別名、四半世紀戦争と呼ばれてるっす』
彼女の答えを聞いた瞬間、アオイの目の色が変わった。
二十五年という途方もない期間ではない。彼女が反応したのは、その戦争が始まった「開始年」だった。
「1910年か。……なるほどね」
アオイは、何か重大なパズルのピースがカチリとはまったかのように、一人で深く納得したように頷いた。
一九一〇年。
その年に何があったというのか。
ぼくたちの歴史において、世界大戦が勃発した年でしかない。
だがアオイの反応を見る限り、それは単なる戦争の始まりではなく、何か決定的な特異点であることを示しているようだった。
そして彼女は、まるでぼくたちから必要な情報を全て引き出し終えたかのように、パンッと軽く手を叩いた。
「よし。アンタたちの世界がどういう状況にあるのか、だいたい分かったわ」
アオイは、先ほどまでの探るような視線を引っ込め、絶対的な支配者としての冷徹な顔に戻った。
そして、恐ろしいほどに澄んだ声で、高らかに宣言した。
「それでは、判決を言い渡します」
判決。
その言葉の響きに、ぼくたちの間に絶望的な緊張が走った。
ご機嫌取りの時間は終わったのだ。
ここから下されるのは、彼女の気まぐれによる絶対的な裁き。
「アンタたちに事情があるのも、よーっく理解しました」
アオイは、まるで慈悲深い裁判官を気取るように、大げさな身振り手振りで言葉を紡いだ。
「あのバカのルーツを探って、世界の滅亡を防ごうとしてるんでしょう? 7月も差し迫っているし、急ぐ理由も充分です」
彼女は唐突に「七月の危機」について語った。
それはぼくらの知らない新たな事実。
まだ、ぼくらには解決しなければならない喫緊の問題が残されているらしい。
しかし、コバルト達は安堵していた。この前置きなら無罪放免になると、そんな甘い希望を見出してしまったのだろう。
「ですが」
冷酷な反語が告げられる。
「私とお兄ちゃんの甘い時間を邪魔したことは、断じて許される事ではありません」
アオイの瞳に、再びドス黒い狂気が宿った。
彼女にとって、世界の滅亡や人類の存亡など、どうでもいいことなのだ。
彼女の絶対的な価値基準は、ただ一つ。
「愛するお兄ちゃんとの時間を邪魔されたかどうか」
その一点のみだった。
「数分の出来事ではありますが、罪は罪。罰が必要でしょう。よって──」
アオイは唇を三日月のように歪め、死刑宣告を下すように言い放った。
「アンタたちの中から一名、精神牢獄の刑に処します」
精神牢獄。
その言葉の意味するところは分からない。
しかし、それが単なる苦痛で済むような甘いものではないことだけは、彼女の邪悪な笑みから十分に伝わってきた。
一名。
誰かが犠牲にならなければならない。
コバルト、ミカタ、マイカ、盟主。
彼女らは、この理不尽すぎる判決と誰かが犠牲になるという現実に、完全に思考が追いつかず、フリーズしてしまっていた。
動けない身体の中で、彼女らの魂が悲鳴を上げているのが気配で伝わってくる。
『ぼくが、その罰を受けよう』
だから、一切の躊躇なく声を上げることができた。
ぼくのその発言に、コバルトたちが『なっ!?』と激しく動揺する気配が伝わってきた。
どうして、と心が叫んでいるのが分かる。
理由は単純だった。
コバルトたちはぼくと違って、現実世界で重大な戦力であり、役割がある。
彼女たちがここで精神を破壊されれば、世界の希望が絶たれてしまう。
しかし、ぼくは違う。
ぼくは、すでに死んでいる「ウラベイサク」の魂の残滓であり、シルヴァレッタの身体を間借りしているだけの、ただの「亡霊」だ。
失うものなど何もない。
未来も、希望も、守るべき肉体すら持たない。
ここは、この無価値なぼくが犠牲になるべきだ。
それが最も合理的で、最も被害の少ない選択だった。
ぼくの即答を聞いて、アオイは心底楽しそうにニヤリと笑みを深めた。
「よろしい。自己犠牲の精神、素晴らしいわ」
アオイは、パチパチと乾いた拍手を送ってきた。
その拍手は、世界で最も悪趣味な称賛に聞こえた。
「では、他の四名……四名? えっと、三名と一匹は、強制退去で勘弁してあげましょう」
彼女は、左手でぼくたちに軽く手を振ると、右手の指を天に向ける。
『イサ──』
コバルトが、悲痛な声でぼくの名前を呼ぼうとした。
しかし、その声は最後まで紡がれることはない。
パチン、と鳴らされた軽快な音と共に、ぼくの周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間、
コバルト、ミカタ、マイカ、盟主の姿が、まるでテレビの電源を切ったかのように、フッと完全に消滅した。
彼女らは、この悪夢のような夢の世界から、現実へと強制的に弾き出されたのだ。
残されたのは、凍りついた瓦礫の山と、
悪魔のような微笑みを浮かべた少女、
そして逃げ場を失ったぼくの魂だけだった。
「さて、お見送りも済んだことだし」
アオイは、ぼくの目の前まで歩み寄り、ぼくの目を覗き込むようにして言った。
「続けて、刑の執行です」
彼女の声は、まるで遊園地のアトラクションの案内でもするかのように弾んでいた。
『具体的には、何をされるんだ?』
ぼくは、せめて自分がこれから受ける地獄の正体を知っておきたくて、震えそうになる声を必死に抑えて尋ねた。
アオイは、
今日一番の、
最高に無邪気で、
最高に邪悪な、
にこやかな笑顔を浮かべて、こう答えた。
「ありとあらゆる精神的苦痛をその魂に叩き込まれるだけよ。……簡単なおつとめでしょう?」