ある日の夕方。
ヤニねことヤクねこは、近所のスーパーに来ていた。
ヤクねこのカゴには、野菜、卵、肉、調味料。今日と明日の食事を考えながら、必要なものが順番に入っていく。
一方、ヤニねこのカゴは空だった。
「先輩、何か買わないんですか?」
「金ないにゃ」
「じゃあなんで来たんですか?」
「暇つぶしについてきたにゃ」
「そうですか……」
ヤクねこも、それ以上は聞かなかった。どうせ聞いても、ろくな理由は出てこない。
ヤニねことしても、特に目的はない。外に出れば何かあるかもしれないし、なければ帰ればいい。
金を使わない暇つぶしとしては優秀だった。
そのまま精肉売り場へ差しかかったところで、ヤニねこの足が止まった。
「…………」
鼻が動く。
ジュウジュウと焼ける肉の匂い。小さなホットプレートの上では、一口サイズに切られたウインナーがころころと転がっている。
その隣には紙皿と爪楊枝。
そして――。
『ご試食どうぞ』
「無料……」
ヤニねこの目から光が戻った。
「先輩?」
さっきまで死んだ魚みたいな顔をしていた猫が、急に生き返った。
「無料って書いてあるにゃ」
「書いてありますね」
「食べていいにゃ?」
「試食ですから、一個くらいなら」
言い終わるより先に、ヤニねこは試食台へ向かっていた。
「どうぞー。新商品の粗挽きウインナーです」
「いただくにゃ」
一本。
口へ放り込む。
噛む。
「うまいにゃ」
「ありがとうございます。よかったら商品もそちらに――」
「考えとくにゃ」
ヤニねこは立ち去った。
もちろん買わない。
買う金がないので、考える余地もあまりなかった。
そのまま青果売り場を一周し、再び精肉売り場へ戻ってくる。
「…………」
何食わぬ顔で試食台へ近づいた。
「どうぞー」
「いただくにゃ」
二本目。
また立ち去る。
今度は鮮魚売り場を一周。
三度目。
「いただくにゃ」
三本目。
店員の笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。
「……先ほども召し上がりましたよね?」
「?」
ヤニねこが首を傾げる。
「これは三周目のニャーにゃ」
「同じ方ですよね?」
「時間が経ってるにゃ」
「五分くらいですよね……?」
時間が経てば別人になるわけではない。
それでもウインナーは食べた。
少し離れたところから様子を見ていたヤクねこが、とうとう声をかける。
「先輩、そろそろやめた方がいいですよ」
「まだ三本にゃ」
「本数の問題じゃないです」
「無料なのにかにゃ?」
「食べ放題ではないですから」
ヤニねこは試食台を見る。
まだある。
無料の肉が、まだある。
だが店員には、完全に顔を覚えられた。
「…………」
珍しく頭を使う。
「顔覚えられたにゃ」
「でしょうね」
「ニャーにいい案があるにゃ。別人になればいいにゃ……」
「先輩……やめてくださいね」
止められた。
つまり、まだ実行はできる。
数分後。
「…………」
ヤクねこは頭を抱えていた。
サングラス。
マスク。
ヤニねこが、それだけ装着して戻ってきた。
服は同じ。
髪型も同じ。
耳も尻尾も同じ。
「どうにゃ?」
「先輩です」
「まだ何も言ってないにゃ……」
「見れば分かりますよ」
「店員には分からないかもしれないにゃ」
「絶対、分かりますよ……」
分かった。
「あの……」
試食台の店員が困った顔をする。
「先ほどの方ですよね?」
「違うにゃ」
「声も同じですよ」
「きっと双子にゃ」
「さっき猫耳出てましたよね?」
「双子だからにゃ」
追い返された。
「失敗したにゃ」
「成功すると思ってたんですか?」
しかしヤニねこは諦めなかった。
無料の肉が、まだそこにある。
その事実だけが、普段ほとんど使われない知恵を次々と引っ張り出していた。
次に現れたヤニねこは、スーパーのポリ袋を頭から被っていた。
目の位置だけ穴が空いている。
「…………」
「…………」
「どうにゃ?」
「不審者です」
「顔見えないにゃ」
「そういう問題じゃないです!」
袋越しに猫耳が思い切り突き出していた。
当然失敗。
さらに数分後。
精肉売り場の通路を、段ボール箱が歩いていた。
カサ。
カサカサ。
両側から足だけが出ている。
上から猫耳も出ている。
しかも異様にタバコ臭い。
「…………」
店員が固まる。
段ボールは、そのまま試食台の前で止まった。
「初めて来た客にゃ」
「先輩、喋ったら終わりですよ!」
少し離れたところから、ヤクねこの声が飛んできた。
段ボールの中から、
「しまったにゃ」
と聞こえた。
「もうやめましょうよ、先輩……」
ヤクねこが段ボールを引っ張る。
「まだ食べられるにゃ」
「流石に買ってください……」
「金ないにゃあ」
「じゃあ諦めてください!」
引きずられながらも、ヤニねこの目は試食皿から離れなかった。
諦める理由は十分にある。
だが無料だった。
そんな時だった。
試食皿に残っていたのは、最後の一個。
「…………」
ヤニねこが止まる。
反対側から、小学生くらいの男の子が近づいてきた。
子供も最後のウインナーを見る。
ヤニねこも見る。
「…………」
「…………」
視線がぶつかる。
もう一度、ウインナーを見る。
二人の手が、同時に動いた。
「…………!」
ヤニねこの方が、ほんの少し早かった。
「やったにゃ」
爪楊枝を掲げる。
「先輩!!」
ヤクねこがついに我慢できず、首根っこを掴んだ。
「何やってるんですか! 相手子供ですよ!」
「早い者勝ちにゃ」
「そういう問題じゃないです!」
「社会は厳しいにゃ」
「先輩が厳しくしてるんですよ!」
ヤクねこは慌てて店員から新しい試食を一つもらい、小学生へ渡した。
「すみません……」
その横で、ヤニねこは最後の一本を食べていた。
「うまいにゃ」
「反省してください!」
反省より、肉だった。
それでもヤニねこは試食台から離れない。
ウインナーを食べ終えると、脂のついた指を眺める。
次に、自分の指。
長年の喫煙によって、爪や指先はうっすらヤニ色になっていた。
「…………」
ウインナーの脂。
ヤニ汚れ。
何かが繋がった。
ヤニねこが指同士をこすり始める。
「何してるんですか?」
「脂でヤニ落ちないかなって」
「試食コーナーで指洗わないでください!」
落ちなかった。
「ダメだったにゃ」
「でしょうね!」
今度はホットプレートを見つめる。
熱々。
ヤニねこがポケットからタバコを取り出した。
「…………」
先端をホットプレートへ近づける。
「先輩」
ヤクねこの声が低くなった。
「なんにゃ?」
「それ、何しようとしてます?」
「火あるからにゃ」
「戻してください」
「ライター節約できるにゃ」
「戻してください……」
ヤニねこは渋々タバコを引っ込めた。
「ケチにゃ」
「スーパーで着火しようとする人に言われたくないです」
しかし、そこでまた何かが繋がった。
ウインナー。
煙。
タバコ。
「…………」
また嫌な顔になった。
「先輩」
「そういえば、ウインナーって燻製あるにゃ!」
「ありますけども……」
「タバコも煙出るにゃ」
「嫌な予感しかしないです」
「これで燻製したら、高級になるんじゃないかにゃ?」
「ならないです」
「煙なら同じにゃ」
「同じじゃないです!」
ヤニねこは試食を一本取り、口元へ持っていく。
反対の手にはタバコ。
「ちょっとだけにゃ」
「やめてください、先輩!」
ヤクねこがヤニねこの頭を押さえつけた。
「痛いにゃ!」
「商品にタバコの煙かけないでください!」
「高級感出るかもしれないにゃ!」
「ヤニ臭くなるだけです!」
「……あの」
二人の動きが止まった。
試食担当の店員が立っていた。
もう笑顔ではなかった。
「申し訳ありませんが、試食はもうご遠慮いただけますか?」
「なんでにゃ?」
「なんで分からないんですか、先輩……」
ヤニねこは不満そうにタバコをしまった。
「無料って書いてあるにゃ」
「無料ですけど、何度も食べていいという意味では……」
「もしかしたら、買うかもしれないにゃ」
店員の表情が、ほんの少しだけ戻る。
「では、商品はいかがでしょうか?」
「シケモクしかないにゃ……」
「先輩!」
完全に終わった。
その後、ヤクねこが買い物を続けている間も、ヤニねこは遠巻きに試食コーナーを見ていた。
まだ食べたい。
だが近づけば、店員に止められる。
普通なら、そこで終わる。
そこで再び、段ボールを被った。
「先輩、もう帰りますよ」
カサカサ。
「…………」
返事がない。
「先輩?」
カサカサカサカサ。
「どこに行くんですか!」
段ボールが精肉売り場へ走った。
無駄に速い。
「ちょっと! 止まってください!」
今度は警備員まで来た。
「まだ一個しか食べてないにゃ!」
「嘘つけ! 何個食べたんですか!」
「数えてないにゃ!」
「一番ダメな答えですよ!」
スーパーの中を、タバコ臭い段ボールが駆け抜ける。
カサカサカサカサ。
「止まってください!」
「ニャーは客にゃ!」
「客は段ボール被って逃げません!」
売り場を一周したところで、ヤニねこはあっさり捕まった。
◇
数十分後。
ヤニねこはスーパーの事務所前で座っていた。
横にはヤクねこ。
前には売り場責任者と警備員。
頭には、まだ段ボール。
「まずそれ取ってください」
「取ったら顔覚えられるにゃ」
「もう覚えられてますよ……」
段ボールを取られる。
ヤニねこは不満そうだった。
「試食って無料じゃないのかにゃ?」
「無料ですが、食べ放題ではありません」
「書いてないにゃ」
「普通は分かります」
「ニャーには分からなかったにゃ……」
堂々と言うことではなかった。
「買うかもしれない客に冷たいにゃ」
「何を買う予定だったんですか?」
ヤニねこは少し考えた。
「タバコにゃ……」
「ここはウインナーの試食の話をしています」
警備員が顔を伏せた。
笑っているのか、疲れているのかは分からない。
最終的にヤニねこは、今後この店舗で試食コーナーへ近づかないよう強く注意された。ついでに、変装のため勝手に使った段ボールの件でも怒られた。
スーパーそのものを完全出禁にはされなかったが、
「次に同じことをしたら、本当に入店をお断りします」
と念を押された。
「ニャーはまだ何もしてないのに……」
「今日めちゃくちゃやったでしょう!」
◇
店の外。
ヤクねこがレシートを見ていた。
「先輩、今日、変装用にいくら使ったんですか?」
サングラス。
マスク。
帽子。
その他、途中で買ったどうでもいい物。
ヤニねこが指を折る。
「……九百円くらいにゃ」
「そのお金で、ウインナー三袋買えましたね」
「…………」
「で、何本食べたんです?」
「分かんないにゃ……」
「だいたいで」
ヤニねこが考える。
「十本くらいにゃ?」
「小さく切ったやつを?」
「うんにゃ」
ヤクねこはもう一度レシートを見る。
「普通に買った方が安かったですよ」
「でも十本タダで食べたにゃ」
「変装に九百円使ってますよ」
「ウインナーには使ってないにゃ……」
「そういう問題じゃないです」
ヤニねこは少し考えた。
変装に使った金は、ウインナー代ではない。
だからウインナーは無料。
理屈としては完璧だった。
本人の中では。
「…………」
そして胸を張る。
「ニャーの勝ちにゃ」
「何に勝ったんですか?」
本人にも分からない。
とりあえず勝ったことにして、一服しようとポケットへ手を入れた。
「…………」
ない。
反対側。
「…………」
尻ポケット。
「…………」
段ボールの中にもない。
「タバコがないにゃ……」
「知りませんよ」
「さっきまであったにゃ」
「逃げてる時に落としたんじゃないですか?」
ヤニねこの顔から、みるみる元気が消えていく。
無料のウインナーを十個ほど食べた。
変装に九百円使った。
試食コーナーへ近づけなくなった。
警備員に捕まった。
そして、タバコまでなくした。
「…………」
ヤニねこはスーパーを振り返る。
頭の中で、ようやく収支が計算された。
「今日、赤字にゃ……」
「今気づいたんですか?」
その場にしゃがみ込む。
「ニャーはなにも悪いことしてないのに……!」
「全部先輩がやりました」
終。