◇ 2036年4月8日
ドアの上部に表示された路線図を仰ぎ見ようとして、桜子はそっと息を呑んだ。
朝の混雑に揺れる車内。右を見ても左を見ても、大人たちや他校の生徒たちの背中と肩が視界を遮っている。つり革に手を伸ばそうとすれば届かなくはないけれど、腕をピンと伸ばし続けなければならないのが少し恥ずかしくて、彼女は胸の前で小さく学生鞄のストラップを握りしめていた。
(……すごい、人……)
人見知りの胸が、緊張でキュッと小さく収縮する。
ふわり、と。
混雑した車内の息苦しさの中で、桜子の制服の袖口から微かに甘く香ばしい匂いが立ち上った。焼き立ての小麦と濃厚なバターの、どこか優しく懐かしい香り。
「ん……? なんだか、すごく美味しそうな匂いがしない?」
「パン屋さんかな……うわ、お腹空いてきちゃった」
すぐ近くに立っていたスーツ姿の男性や、スマホを操作していた女子高生が、ふっと鼻を鳴らして顔を上げる。不意に漂った柔らかな香りに、車内のピリついた空気がほんの少しだけ丸くなるのを肌で感じて、桜子は顔を赤らめながら首をすくめた。
ガタゴトと揺れる電車。
窓の向こうには、つい先ほど新幹線を乗り継ぎ、降り立ったばかりの大都市『やまとみらい』の残像がまだ脳裏に焼き付いている。
空を突くような高層ビル群。街のあちこちで立体的に踊っていた、鮮やかなホログラムの広告や輝く光の粒子。世界中から最先端が集まるというあの街は、息をのむほど眩しくて。
そして――どこか恐ろしかった。
あんな光の真ん中にいたら、自分なんて一瞬で影に呑み込まれてしまう。
だから、これでいいのだと思う。
あの巨大な都市を通り過ぎて、トンネルの向こうにある静かな町を目指すのは。
(ここなら……私のことを知っている人は、ひとりもいない)
過去の自分も、私を縛っていたすべてのことも。
誰も私を知らない場所で、私は新しくやり直すんだ。
小さく息を吐き出し、桜子は碧眼を伏せた。
透き通るようなライトピンクの髪が、混雑した車内のわずかな隙間で揺れていた。
『――まもなく、トンネルに入ります。揺れにご注意ください』
車内に流れる穏やかなアナウンスと同時に、ガタン、と大きく車体が揺れ、視界が一瞬で真っ暗な闇に包まれた。
電車が長いトンネルへと滑り込んだのだ。ゴオオという重厚な走行音が車内に響き渡り、やがて速度を落としながら、闇の向こう側に眩しい光の出口が見え始める。
トンネルを抜けた瞬間、窓の外の光景が一変した。
「わぁ……」
思わず、小さな吐息が漏れた。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの豊かな緑と、なだらかな丘の斜面に身を寄せ合うように並ぶ、風情ある街並みだった。大都市の喧騒が嘘のように、穏やかで優しい光が注ぎ込んでいる。
『まもなく、風澄――風澄です』
車内アナウンスとともに列車が滑り込んだホームは、古い木造の温もりを残した静かな駅だった。ドアが開き、乗客の波に押されるようにして桜子はホームへと降り立つ。
改札へと向かう通路の頭上では、古風な街灯の脇から、柔らかな光の粒子で描かれたARホログラムが浮かび上がっていた。
『ようこそ、風澄町へ』
文字の周りを、光の葉っぱがサラサラと舞うような控えめで美しい演出。最新技術が主張しすぎることもなく、歴史ある街並みにそっと溶け込んでいる。
(本当に……すごく、静かで綺麗なところ)
新しく用意したばかりの私立翠風館高等学校の制服の裾をそっと整え、桜子は改札を抜けた。
駅前には綺麗な石畳の坂道と、どこか温かみのある風澄商店街が伸びている。
過去の自分を遠く置き去りにしてきたこの町で、彼女の新しい一歩が静かに踏み出された。
石畳の坂道を、春風とともにゆっくりと登っていく。
風に舞う桜のイメージにぴったりの、柔らかな陽光が注ぐ朝だった。
そして、坂道を登りきった高台にその学校は佇んでいた。
『私立 翠風館高等学校』
満開の桜並木に彩られた校門の前に差し掛かった瞬間、桜子はふっと足を止めた。
「……あ」
校門をくぐる新入生たちが、吸い寄せられるようにこちらを振り返る。
ハーフアップにまとめた透き通るようなライトピンクのロングヘアに、吸い込まれそうな碧眼。小柄で可憐な雰囲気を漂わせながらも、しなやかに制服を着こなす彼女の姿は、桜の木の下で一際目を引いていた。
「ねぇ、あの子……新入生かな? すごく可愛くない?」
「髪色もすごくキレイ……どこかのプロダクションの子かな」
周囲から聞こえてくる囁き声。
人見知りの桜子の顔が一瞬でカッと熱くなった。人に見つめられるのが何より苦手な彼女は、居心地の悪さにキューッと胸を小さくすくめてしまう。
(う、うわぁ……見ないでください……!)
胸の前で小さく鞄を抱きしめると、逃げるように俯きながら、新入生たちが吸い込まれていく体育館へと慌ただしく駆け込んだ。
◇
熱気に包まれた体育館の中、案内された席にちょこんと腰を下ろした桜子は、ようやく小さく息を吐き出した。
やがて開式が告げられ、壇上に立った校長が静かにマイクへ向かって語り始める。
『――新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。本校は、知性を育む普通科に加え、一人ひとりの個性と美しさを磨く「芸能表現コース」を両輪として発展してまいりました。表現力と最新テクノロジーの融合を目指し、今年度より新設された「刃道部」をはじめ、皆さんが新たな可能性を羽ばたかせるための舞台が、ここには整っています……』
校長の言葉を聞きながら、桜子は膝の上でそっと両手を重ねた。
芸能表現コースのあるような、自分とはまるで無縁に思える華やかで眩しい世界。
だからこそ、ここを選んだのだ。過去の自分を知る人が誰一人いないこの場所で、目立たないよう静かに普通科の生徒として過ごしながら、この人見知りで気弱な自分を少しずつ変えていけたら――そう願いながら。
無事に式は幕を閉じた。
◇
新入生たちが各教室へと移動を開始し、体育館のざわめきが徐々に遠ざかっていく。
人混みを避けるように少し遅れて廊下へ出た、その時だった。
ヒュッ、と。
校庭から吹き抜けた強い春風が、桜子の身体を包み込む。
「わっ……」
不意の風に驚き、桜子は慌ててハーフアップの髪とスカートの裾をキュッと手で押さえた。可憐なライトピンクの毛先が指の隙間からふわふわと揺れる。
パッと風が止んだその隙間。耳奥をくすぐる音があった。
校舎の奥、緑に囲まれた古い体育館の方向から聞こえる音。
――ピピッと鳴る、電子的な判定音。
――空気を鋭く切り裂く、微かな重低音。
「……なにか、あるのかな……」
その音が持つ独特の間合いと速度感に、彼女の足は吸い寄せられるように、自然と歩み出していた。
渡り廊下を抜け、校舎の裏手へ。
青々と茂る木々に囲まれた敷地の奥に、目的の場所――年月の入った古い体育館が佇んでいた。
重い木製の引き戸がわずかに開いており、そこから漏れ出る光と電子音が、桜子の足を引き寄せる。
そっと覗き込んだ内部は、外観の古めかしさとは対照的な光景が広がっていた。
フロアの中央に設営された、薄型フレームで囲まれた透明なケージ。その周囲にはいくつかの計測用デバイスが置かれ、空間には淡いホログラムのリングや数値データが静かに浮遊している。
ケージの傍らで、タブレット端末を手に静かに数値をチェックしていたのは――長身で爽やかな雰囲気を纏った、一人の男性だった。
ゆるやかな天然パーマの髪に、知的なメガネ。着こなしたジャージ姿からも、どこか育ちの良さと落ち着きが感じられる。
(あ……だれか、いる……)
思わず引き返そうとした瞬間、床の木板がかすかにキシッと鳴った。
男性がしなやかな動作で振り返り、メガネの奥の瞳を和やかに細める。
「おや、新入生ですか? こんにちは」
低く落ち着いた、とても柔らかな声音。
不審がる様子もなく、優しく会釈を向けてくる様子に、桜子は跳び上がるように肩をすくめて深々と頭を下げる。
「ひゃいっ……! あ、あの……申し訳ありませんっ! 覗き見をするつもりでは……その、変な音が聞こえたので、つい……っ」
敬語がパニックを起こしてしどろもどろになる桜子を見て、男性はくすりと穏やかに微笑んだ。
「いいんですよ、遠慮なさらないでください。調整中の音が外まで漏れてしまっていたようですね。驚かせてしまいましたか? 私は今年からここで刃道部の顧問を務めることになりました、神風悠一と申します」
「か、神風先生……です、ね。……あの、『刃道』……ですか?」
聞き覚えのない言葉に、桜子は吸い込まれそうな碧眼をパチクリと瞬かせた。神風は「おや」と少しだけ不思議そうに首をかしげる。
「ご存知ありませんでしたか? 入学式でも校長がお話しされていたのですが……そうですね、まだあまり馴染みがなかったかもしれません」
神風は手元のタブレットを脇のデスクに置くと、桜子に目線を合わせるように少し腰を落とし、丁寧な敬語で分かりやすく説明を始めた。
「刃道というのはですね、あの世界中で流行したARスポーツ『HADO』の技術と、日本の伝統的な剣術を融合させて生まれた最新のテクノスポーツなんです。頭に超軽量のARバイザーを装着し、専用の『光剣』を手にして空間に浮かぶ的を斬り合ったり、光の残像で立体アートを描いたりするんですよ」
そう言って、神風はラックに収められていた一本のスタイリッシュな黒い柄――光剣『セイバー』を手に取ってみせる。
「最大の特徴は『完全非接触原則』です。相手の身体に直接攻撃を当てることは固く禁じられています。ですから怪我の心配もありませんし、重い防具をつける必要も一切ありません。力押しが通用しない分、純粋な速度と空間認識力、そして正確な間合いだけが試される世界なんです」
「非接触……防具も、いらない……?」
桜子の胸の奥が、トクンと小さな音を立てて跳ねた。
相手の力任せな重圧も、防具越しに見上げる圧迫感の恐怖もない。
ただ空間の光を切り拓き、自分自身のスピードと間合いだけで完結する世界。
「ええ。ですから体格の小さなお子さんや女性であっても、技術と工夫次第でいくらでも立ち回ることができます。……もしよろしければ、少し触ってみますか? ちょうど機器の感度テストをしていたところなんです」
神風はそう言うと、静かで柔らかな物腰のまま、光剣『セイバー』のグリップを桜子の方へとそっと差し出してきた。
「えっ……あ、私……っ」
戸惑う桜子だったが、差し出された光剣から目を離すことができなかった。
吸い寄せられるように、小さく華奢な手がそっと柄へと伸びる。
指先がシリコンエラストマーのグリップに触れた瞬間――桜子の瞳がほんのわずかに見開かれた。
(かる……い……?)
あまりの軽さだった。
重く手首に負担のかかる竹刀や木刀の感触とは、まるで違う。手元に重心が計算し尽くされた超軽量の炭素繊維フレーム。まるで自分の体の一部がそのまま延長されたかのような、完璧なバランス感。
桜子は無意識のうちに、スッと足を引いて背筋を伸ばしていた。
「居つき」のない、軸のまったくブレない美しい立ち姿。神風のメガネの奥の瞳が、一瞬だけ鋭く細められたのを、桜子は気づかない。
「では、バイザーなしの簡易テストモードを起動しますね。空間のどこかにターゲットが出現しますから、軽く振ってみてください」
神風が手元の端末を操作すると、ケージの中にファッと淡い青色の光が灯った。
――ピコン。
電子音とともに、ターゲットとなる『リング』が一つ、空間に浮かび上がる。
……だが、その出現位置は、ケージの上空――高さ3メートルを超える、天井間際の空間だった。
「おや、初期設定の出力を間違えて上空に……すみません、今下げま――」
神風が端末に手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
パンッ! と。
体育館の床を蹴る、破裂音のような澄んだ衝撃音が響いた。
「え――」
神風の思考がフリーズする。
視界から、146cmの少女の姿が一瞬で消えていた。
桜子の制服のスカートがふわりと翻り、ライトピンクのハーフアップが美しい尾を引く。
「っ……ふぅ……!」
鋭く短い呼気が、高高度の空気を小さく震わせる。
彼女の身体は、まるで重力をあざ笑うかのように、一瞬で3メートルを超える上空へと跳び上がっていた。
信じられないほどの爆発的なバネ。
空中という不安定な足場において、彼女の身体は一ミリのブレもなく澄み渡っていた。
手にした光剣『セイバー』の重心を、指先の感覚だけで瞬時に捉え直す。
右上から左下へ、流れるような絶妙な弧を描く――光の刀身が空間を鮮やかに斜め一閃。
シュッ――!
コンマ数秒の滑らかな刃筋。
桜子の放った一筋の閃光は、吸い込まれるように上空のリングの「真中心」――倍加点を生む『フォーカス』の極小の点を、刃の真ん中で寸分違わず一刀両断に切り開いていた。
ピピッ――!
鮮やかな電子音とともに、光のリングが弾けるように消滅する。
ト、キュッ。
羽毛が舞い降りるかのように着地した桜子の足元から、上履きと床が擦れ合う小さく澄んだ摩擦音が響いた。揺れていたハーフアップの髪が、静かに肩へと落ちる。
「……はぁ……」
胸の奥に溜まった熱を外へ押し出すように、桜子は静かに、どこか凛とした長い息を吐き出した。
「………………」
体育館の中に、完全な静寂が訪れていた。
神風は手元の端末を持ったまま、完全に固まっている。メガネの奥で、その瞳が大きく見開かれていた。
(……今、3メートル近く跳んだ……? それに、初見のギアで……寸分違わぬフォーカスを……)
目の前で起きた事象の規格外さに、神風の背筋に冷たい戦慄と、絶大な興奮が走り抜けていた。
(あ……私……っ)
静寂の中で、ハッと我に返った桜子は、自分の手の中で青く微振動する光剣を見つめて青ざめた。
握ってしまった。
「もう二度と握らない」と誓ったはずの剣を。
脳裏に、ほんの一瞬だけ――暗い防具の面金の奥から自分を見下ろす、大柄な相手の圧倒的な威圧感と圧迫感がフラッシュバックする。キューッと胸が苦しくなり、桜子は逃げるように神風へ光剣を差し出した。
「あ、あのっ……! すみません、私……対人競技は苦手で……っ!」
「え? あ、いや、君――」
「か、考えておきますっ……! 失礼しましたっ!」
神風へ光剣を押し付けるように返すやいなや、桜子はくるりと背を向け、脱ぎ捨てていた靴を引っ掴んで体育館を飛び出した。
「あ、ちょっと待って――!」
神風の呼ぶ声を背中に受けながら、桜子は校庭を無我夢中で駆け抜けた。ライトピンクのハーフアップが、春風に激しく揺れていた。
残された神風は、手元に戻された光剣『セイバー』と、彼女が消え去った体育館の入り口を交互に見つめ、ぽつりと呟いた。
「なるほど……彼女が、花守 桜子さん……ですか」
メガネのフレームをそっと押し上げると、神風の口元に、静かだが抑えきれない笑みが浮かんでいた。
◇
茜色に染まる夕暮れ時。
風澄町の静かな下り道を、桜子はぽつぽつと一人歩いていた。
落ち着きを取り戻した胸の奥に、さきほどの光剣の「信じられないほどの軽さ」と、空間を切り裂いた感覚が、微かな熱となって残っている。
(怖くなかった……むしろ……)
首を振って、余計な思考を払いのける。
夕陽がやさしく照らす街並み。その一角に佇む建物が、今日から彼女が身を寄せる場所だ。
深く息を吸い込み、制服の裾をそっと整える。
カバンからほんのりと漂う甘いパンの香りに包まれながら、そっと扉へ手をかけた。
静かに開いたドアの向こう、光の射す室内へ一歩を踏み入れる。
「お邪魔します……」
過去を置いてきた小さな町で、彼女の新しい青春が、今静かに幕を開けた―――
☆今回の登場人物☆
『花守 桜子(はなもり さくらこ)』
過去の自分を知る人がいない静かな風澄町へとやってきた新入生。極度の人見知りで目立たずに過ごすことを望んでいるが、常人離れした跳躍力と正確無比な剣技の才能を秘めている。
『神風 悠一(かみかぜ ゆういち)』
私立翠風館高等学校の刃道部顧問。知的で物腰柔らかな青年教師。機器のテスト中に迷い込んできた桜子の規格外な身のこなしと才能を目の当たりにし、強い衝撃と興奮を覚える。