刃道 JINDO〜刃、冴ゆるは青春の道〜   作:るるの

2 / 2
第2話『佐倉 楓』

◇ 2035年10月24日

 

薄暗い自室の中、デスクのホログラムモニターに広がる満天の星空が、柔らかな光を投げかけていた。

 

オンラインクラフトRPG『ステラ・アトリエ』。

広大なワールドで素材を集め、拠点を組み立てるこのゲームは、佐倉楓にとって何よりの息抜きだった。

 

「――よしっ、これで今日の分の木材と鉱石の整理、全部完了!」

 

ヘッドセットのマイクに向かって明るく声をかけると、スピーカーの向こうから、どこか控えめで柔らかなウィスパーボイスが返ってきた。

 

『メイプルさん、今日も夕方遅くまで素材集めを手伝ってくださって……本当にありがとうございました』

 

相方のプレイヤー名は『こげパン』。

 

人見知りで普段はソロで遊んでいたところを、楓が声をかけて以来、半年ほど固定ペアを組んでいるクラフト仲間だ。いつも丁寧すぎる敬語で話す彼女は、ゲーム内でもパンや焼き菓子のアイテムばかりを驚くべき精度で作り出す、少し不思議で可愛らしい職人プレイヤーだった。

 

「お礼なんていいってば! あたしの方こそ、こげパンさんが作ってくれた新しい家具のおかげで、屋根の幾何学の計算がぴったり合って大助かりだし♪」

『ふふ、喜んでいただけてよかったです……。あの、メイプルさん……実は、少しだけお伝えしておきたいことがありまして』

 

少し言いにくそうに、こげパンが小さく息を呑む気配が伝わってきた。

 

『私……来年の春から、遠方の高校へ進学することになりまして。実家を出ることになるので、生活環境もいろいろ変わりますし……ゲームにログインできる環境が、しばらくなくなってしまいそうで』

「えっ……実家を出て遠くの高校に!? それはすごいじゃん!」

 

驚きつつも、楓は猫目をパッと見開いて笑声を返した。

 

「そっかぁ……こげパンさんと遊べなくなるのはすっごく寂しいけど、進学おめでとう! 新しい場所での生活、応援してるよ」

『ありがとうございます……! メイプルさんも、高校受験……頑張ってくださいね』

「うん、ありがと! それじゃあ、またね。おやすみ!」

『はい、おやすみなさいです……』

 

通話が切れ、静寂が部屋を満たす。

ログアウトした画面が暗転し、楓はヘッドセットを外して机の上に置いた。

 

「実家を出て、遠くの高校かぁ……」

 

椅子の上で膝を抱え、小さく呟く。

カーテンの隙間から夕暮れが夜へと溶け込んでいく中、楓の視線は、机の片隅に置かれたままの『進路希望調査票』へと静かに落とされた。

 

「……ま、悩んでても始まらないか。下の手伝いでも行こっ!」

 

ぽん、と自分の両頬を軽く叩いて気合を入れると、楓は部屋を出てトントンと階段を降りていった。

階下へ近づくにつれ、ハサミの小気味よい金属音と、石鹸やトニックのどこか懐かしい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

1階の理髪店は、そろそろ本日の営業時間を終えようとしているところだった。

施術用の革椅子に腰掛けているのは、本日最後の客――背筋がすっと伸びた、上品で落ち着いた佇まいの女性だ。鏡の前で父親が丁寧に仕上げのブローを行っている。

 

「お疲れさま、お父さん。何か手伝うことある?」

「お、楓。ありがとう、助かるよ。もうすぐ終わるから、待合席の雑誌だけ軽く整えておいてくれるかい?」

「はーい!」

 

気さくに返事をして待合席へ向かおうとした瞬間、楓の猫目がふと、施術中の女性客の手元へと引き寄せられた。彼女の膝元に広げられていたのは、一冊のスポーツ専門誌。その見開きページに、思わず息を呑むような光景が印刷されていた。

 

暗がりの空間を鮮やかに切り裂く、青と銀の閃光。

 

空中に静止して淡く発光しているのは、歪み一つない完璧な正多面体の立体結晶――まるで最新のMRグラフィックで描かれたような、息をのむほど美しい光のアートだった。

ゲームの建築や弾道計算が大好きな楓の心臓が、トクンと跳ねる。

 

「……あ、あの。すみません」

 

好奇心を抑えきれず、楓は思わず声をかけていた。

 

「それって……来月出る新作のMRアクションゲームですか? すごく綺麗な幾何学のグラフィックですね!」

 

声をかけられた女性客は驚く様子もなく、鏡越しに楓の視線を受け止めると、ふっと目元を柔らかく緩めた。

 

「ふふ、ゲームに見えるかしら?」

 

落ち着いた、どこか凛とした響きのある声。女性は手元の雑誌を少し傾け、楓に見えやすいように角度を整えてくれた。

 

「これはね、ゲームではないのよ。自分の身体と光の剣で、空間に心と計算を刻み込む――『刃道(JINDO)』という、最新のテクノスポーツなの」

「スポーツ……? これが、ですか……?」

 

画面の中のデータではなく、現実の空間に光を描くスポーツ。

常識を覆されたような衝撃に呆然とする楓の視界に、誌面の大見出しが飛び込んできた。

 

『日本プロ刃道リーグ・アークキャンバス部門特集――神薙 凛華(かんなぎ りんか)選手が魅せる、空間幾何学の極致』

 

黒髪のボブカットに、氷のように澄んだ瞳を持つクールな女性選手。

その写真と「神薙 凛華」という名前が、楓の胸の奥深くに鮮烈な熱となって焼き付いていた。

 

「はい、お疲れ様でした。いかがでしょう?」

 

父親が鏡を合わせ、女性客が満足そうに微笑んで立ち上がる。

お会計を済ませ、「ありがとうございました」とお客さんを見送った後も、楓の頭からは先ほどの誌面の光景が離れなかった。

床に落ちた髪を箒で掃き集め、タオルを洗濯籠に運びながらも、心臓の奥が落ち着きなく高鳴っている。

 

(刃道……神薙、凛華……)

 

「お父さん、片付け終わったから部屋に戻るね!」

「お、ありがとうな楓」

 

小走りで階段を駆け上がり、自室のドアをバタンと閉める。

楓はそのままデスクへ滑り込み、ホログラム端末を素早く起動した。

そして、検索バーに指先を滑らせて文字を打ち込む。

 

『刃道 アークキャンバス 神薙凛華』

 

エンターキーを押すと同時に、無数の検索結果と動画のサムネイルが空中に展開された。一番上に表示された公式チャンネルの動画――『JPL公式:神薙凛華 プレシジョン・アークキャンバス完全記録』を、迷わずタップする。

画面が暗転し、静寂の中に厳かなピアノの旋律が流れ始めた。

 

舞台は、13m×13mの四角い透過ケージ。

 

その中央に立つ神薙凛華が、右手に握った演武用光剣『アーク』を静かに構えている。

曲のテンポが一段上がった瞬間――神薙の身体が弾かれたように宙を舞った。

 

「っ……!?」

 

息を呑む楓の前で、信じられない光景が繰り広げられる。

神薙が光剣を一閃させるたび、空中に鮮烈なメタリックブルーの軌跡が刻まれ、消えることなくそのまま空間に固定されていく。

滑らかなアクロバットと、ミリ単位のブレもない剣筋。

宙返りしながら放たれた幾筋もの光のラインが、空間の中で見事に結像し――息をのむほど精緻な『巨大な十二面体の立体結晶』となって宙に浮かび上がった。

 

(嘘……本当に、空間に幾何学を描いてる……!)

 

画面の隅には、リアルタイムで判定されるスコアが表示されていた。技の難易度と正確さを示す『技術点(TES)』、そして音楽との調和や表現力を測る『芸術点(PCS)』。

 

光の残像がわずかでも歪めば減点。

身体の軸がブレて着地が乱れれば減点。

 

120秒という極限の時間の中で、空間を完全に支配する超高精度のプレシジョン・スポーツ。

楽曲のクライマックス、激しい旋律とともに神薙が最後の跳躍を見せる。

空中で光剣を鮮やかに旋回させ、完璧なポーズでピタリと床に着地した。

 

――ジャーン。

 

楽曲の最後の一音が消え去ると同時に、空間に描かれた幾何学アートの最後の光の粒子がピシリと完成し、眩い青の輝きを放って静止する。

 

『Score: 98.45 ―― PERFECT SYNCHRO』

 

画面の向こうで沸き起こる大歓声。

汗ひとつ乱さず、凛とした瞳で一礼する神薙の姿を見つめながら、楓はキーボードに手を置いたまま完全に硬直していた。

 

(すごい……)

 

画面の中のキャラクターをコントローラーで動かすのとは違う。

自分の肉体と計算で、現実の空間に光を刻み込む世界。

 

(あたしも……これを、やってみたい……!)

 

胸の奥底から突き上げてくる激しい熱に、楓の猫目が眩い光を宿していた。

しばらく続いていた動画が終わり、自室に再び静けさが戻ってくる。

画面の中の歓声が消え去ったあとも、楓の胸の奥では激しい鼓動がドクドクと鳴り続けていた。

熱くなった指先で、もう一度再生ボタンを押しかけ――ふと、視線がデスクの隅の『進路希望調査票』に留まる。

 

(……あたしも、やってみたい。だけど――)

 

熱を帯びていた心が、冷たい現実に引き戻されるように急速に冷えていく。

そんな思いを抱える翌日からも、いつもと変わらない日常が流れていった。

 

夕方、学校から帰れば「お姉ちゃん!」と駆け寄ってくる妹・茜の宿題を見守り、ふわふわの毛並みを揺らすポメラニアンのマリィのリードを引いて風澄商店街を散歩する。

 

すれ違う近所の人たちに「楓ちゃん、いつも妹のお世話えらいねぇ」と声をかけられれば、いつものように愛想よく笑って会釈を返す。

 

家に帰れば、1階の店では両親が忙しそうにハサミを動かしている。

楓は手慣れた手つきで茜の手を洗わせ、台所に立って夕飯の支度を手伝う。

 

物心ついた頃から、これが楓の当たり前の日常だった。

 

自営業で夕方から夜にかけて手が離せない両親を支えるため、小学校の頃から部活動には入らず、妹の面倒や家事をこなしてきた。誰に強制されたわけでもない。大好きな家族の力になりたくて、自分から進んで引き受けてきた役目だった。

 

(全日制の高校に行って、あんな本格的なスポーツを始めたら……)

 

平日の夕方は部活動で帰りが遅くなる。土日だって遠征や練習試合で家を空けることになるはずだ。

そうなれば、茜のお世話は誰がするのか。店の繁忙期に、誰が両親を助けるのか。

 

(……無理だよね。あたしがワガママ言っちゃダメだ)

 

夜、茜を寝かしつけたあと、自室に戻った楓は机に向かった。

ホログラム端末に表示された神薙凛華の凛々しい立ち姿を、名残惜しそうに指先で見つめる。

胸の中に灯った小さな火花を、ぎゅっと自分の手で握りつぶすように。

楓は端末の電源を静かに落とし、白紙のままの進路調査票を、引き出しの奥へとそっとしまい込んだ。

 

 

数日後の放課後、夕日が差し込む3年2組の教室。

机を向かい合わせにして、仲の良い女子グループでノートを広げていたとき、誰からともなく進路の話題が持ち上がった。

 

「ねえ、みんな進路調査票、もう提出した? 私、親と志望校で揉めててさー」

「あ、うちも! 公立にしてほしいって言われてるんだけど、行きたい私立の制服が可愛くて……」

 

ペンを回しながら盛り上がる友人たちを前に、楓は苦笑いを浮かべながら、開いていた数学のノートに視線を落とした。

 

「楓はもう決めたの? 数学も英語もできるんだから、結構どこでも選べるでしょ」

 

話を振られ、楓はいつものように気さくな笑みを取り繕って肩をすくめる。

 

「あたし? うーん、うちは実家の店も忙しいし、茜もまだ小さいからね。通いやすくて部活もないような近場の高校に適当に決めるつもりかな」

 

何気ない風を装ったその言葉に、グループの一人――いつも前向きで運動神経の良い友人が、じっと楓の顔を見つめていた。

 

「……適当に、か。楓らしいけど、なんか勿体ないな」

 

友人はそう呟くと、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で続けた。

 

「実はね、私……都心の高校を受験しようと思ってるんだ」

「えっ、都心まで? 通うの大変じゃない?」

「うん。でも、どうしても挑戦してみたいスポーツがあってさ。最近話題になってる『刃道』って競技、知ってる? 光の剣を使って戦う最新のARスポーツなんだけど」

 

その単語が出た瞬間、楓の心臓がトクンと小さく跳ね上がった。

 

「……知ってる。すごく、綺麗なやつだよね」

「そう! テレビの試合を見て一目惚れしちゃってさ。強豪校に入って、本気で上を目指してみたいんだ。周りからは無謀だって言われたけど……やっぱり、一度きりの高校生活だし、自分が一番ワクワクすることに全力でぶつかってみたいじゃん?」

 

夢を語る友人の横顔は、教室に差し込む西日を浴びて、眩しいほどに輝いていた。

その眩しさに、楓の胸の奥がきゅっと痛む。

友人は楓のわずかな表情の揺らぎを見逃さず、そっと覗き込むように笑いかけた。

 

「楓ってさ、いつも妹ちゃんやお店のことばっかり優先して、周りに気を遣ってばっかりでしょ? でもさ……楓自身は、本当にやりたいこと、ないの?」

「え……」

「楓が本気で夢中になってるところ、あたし見てみたいよ。もし心の中で迷ってる何かがあるなら――自分の気持ちに、嘘ついちゃダメだよ」

「……バレてたかぁ」

 

楓は降参するように両手を軽く上げると、照れくさそうに、けれどどこかホッとしたような笑みを浮かべた。

 

「実はね……あたしも最近、刃道の動画を見たの。アークキャンバスっていう演武種目なんだけど、すごく綺麗で……現実の空間に光を描くのって、こんなにワクワクするんだって思っちゃってさ」

「ほら、やっぱり! 絶対そうだと思った!」

 

友人は自分のことのように嬉しそうに目を輝かせ、机から身を乗り出してきた。

 

「でもさ、夕方はお店の手伝いもあるし、茜の面倒もあるし……あたしが勝手に部活なんて始めたら迷惑かけるんじゃないかって、ずっと言い出せなくて」

「家族にちゃんと相談してみなよ。楓がずっと家のこと頑張ってきたの、お父さんたちだって絶対知ってるんだからさ。話す前から諦めちゃダメだって!」

「……うん。そうだよね」

 

背中をポンと押してくれた友人の温かさに、楓の猫目がふわりと柔らかく細められる。

 

「ありがと。あたし、今日帰ったらちゃんと家族に話してみるよ」

「うん! お互い、目指す高校に向けて頑張ろ!」

 

夕暮れの教室で笑顔を交わし、ノートを鞄にしまった楓の足取りは、先ほどまでとは見違えるほど軽くなっていた。

 

 

その日の夜、1階の店のシャッターが下ろされ、2階のリビングに家族全員が揃った夕食の後。

茶碗を片付け終え、父親と母親が並んでお茶を飲んでいる食卓へ、楓は意を決して進み出た。

膝の上で両手を握りしめ、ごくりと喉を鳴らす。

 

「……お父さん、お母さん。ちょっと、進路のこと……相談があるんだけど」

 

いつもと違う楓の真剣な声音に、両親が顔を見合わせ、居住まいを正した。

 

「どうしたんだい、改まって」

「あたしね……行きたい高校があるの。そこで、本気でやってみたいスポーツがあって」

 

声がわずかに震える。

 

足元では、気配を察したポメラニアンのマリィが心配そうに楓を見上げていた。

 

「でも、それを始めたら平日の夕方は部活で遅くなるし、土日も練習や遠征で家にいられなくなると思う。茜の面倒も見られなくなるし、お店の手伝いもできなくなっちゃう……自分のワガママだって分かってる。迷惑かけるのも分かってる。だけどあたし、どうしても……!」

「お姉ちゃん!」

 

楓の言葉を遮るように、リビングの隅で絵の具を洗っていた茜がタカカと駆け寄ってきた。

小柄な体で楓の腰に勢いよく抱きつくと、くりくりとした瞳を真っ直ぐに見上げてくる。

 

「茜、もう4年生だよ? マリィのご飯もあげられるし、鍵っ子だってお留守番だってちゃんとできるもん! お姉ちゃん、ずっと茜の面倒ばっかり見てくれてたでしょ? だから……お姉ちゃんがやりたいこと、我慢しないでやって!」

「茜……」

 

妹の小さな手の温もりに、楓の目頭がカッと熱くなる。

父親が穏やかに目元を細め、隣の母親と顔を見合わせて微笑んだ。

 

「迷惑だなんて、一度も思ったことはないよ。楓、お前は昔から周りのことばかり気遣って、自分の欲しいものややりたいことをずっと後回しにしてきたからな」

「そうよ。高校生くらい、自分の大好きなことに思い切り夢中になりなさい。家のことはお父さんとお母さん、それに頼もしい茜に任せておけばいいの」

 

母親が立ち上がり、リビングの棚から一冊の真新しいパンフレットを持ってきて、楓の手元にそっと差し出した。

 

「……え?」

 

受け取った冊子の表紙を見て、楓は思わず目を見張った。

 

『私立 翠風館高等学校 ―― 表現力とテクノロジーの融合。来年度より「刃道部」新設・第一期生募集!』

 

「……翠風館高校? どうしてこんなの、お父さんたちが持ってるの……?」

「数日前に来られた、あの上品な常連の女性客を覚えているかい?」

 

父親が優しく微笑みながら言った。

 

「お会計のあと、『お嬢さんにどうぞ』って置いていかれたんだよ。お前が興味津々に雑誌を見ていたのを、ちゃんと見ていてくださったんだろうね」

 

手の中のパンフレットを見つめる楓の視界が、じわりと滲んだ。

知らず知らずのうちに、周りの誰もが自分の背中を押してくれていた。

 

(あたし、刃道をやりたい。この学校で、あの光を描きたい――!)

 

「……お父さん、お母さん、茜。あたし、翠風館高校を受験する。絶対に合格して、刃道部に入る!」

 

零れ落ちそうになる涙を手で拭いながら、楓は満面の笑みで、力強く宣言した。

 

 

こうして、楓の受験生としての本格的な日々が幕を開けた。

 

それまで「通えればどこでもいい」と放り出していた勉強机を綺麗に片付け、分厚い過去問題集と参考書を積み上げる。毎晩のようにログインしていたオンラインゲームも、「合格するまでお預け!」と自ら端末の利用制限をかけた。

 

得意の数学や英語は、ゲームの数値計算や海外サーバーでのチャットで培った感覚が活き、模試でも順調に得点を伸ばすことができた。数式をパズルのように組み立てて解を導き出す快感は、ゲームの攻略法を見つける感覚によく似ていた。

 

けれど、立ちはだかったのは苦手科目の壁だった。

 

特に国語――古文の複雑な活用や、感想文のような「正解が一つではない記述問題」には何度も頭を抱えさせられた。

 

(うう……数学みたいに明確な計算式があればいいのに! なんで昔の人はこんなに遠回しな言い方ばっかりするの……!)

 

シャーペンの後ろでこめかみをトントンと叩き、背中まで伸びたポニーテールを苛立たしげに揺らす。

 

そんな夜遅く、カリカリと机に向かっていると、決まって控えめなノックの音が響く。

 

「お姉ちゃん、はい。あったかいの持ってきたよ」

 

パジャマ姿の茜が、両手で大事そうにマグカップを運んできてくれた。

中に入っているのは、湯気をふわりと立ち上らせる大好物のホットミルク。表面には茜が器用に振りかけてくれたシナモンシュガーが浮いている。

 

「ありがとう、茜。ちょうど頭がパンクしそうだったんだ」

「えへへ。茜ね、静かに絵本読んでたんだよ。お姉ちゃんのお邪魔にならないように!」

 

妹の誇らしげな笑顔と、ホットミルクの優しい甘みが、疲れた頭と冷えた体をじんわりと解きほぐしてくれる。足元を見れば、ポメラニアンのマリィが楓の足首にふわふわの顎を乗せ、丸くなって静かに寝息を立てていた。

階下からは、夜遅くまで明日の仕込みやタオルの洗濯をする両親の微かな物音が聞こえてくる。

 

(あたしは、一人で戦ってるんじゃない)

 

机の正面には、あの上品な女性客が置いていってくれた翠風館高校のパンフレット。

表紙に踊る『刃道部新設』の文字を見つめるたび、自室の端末で何度も繰り返し見た神薙凛華の演武が、鮮やかに脳裏へ蘇る。

13メートルの空間に描かれる、歪みのない完璧な光の結晶。

 

(あたしも、翠風館のケージの中で、あの綺麗な光を絶対に描いてみせる――)

 

息抜きに編み棒を動かして妹とお揃いのマフラーを少しずつ編み進めながら、楓はペンを再び強く握り直した。

家族の支えと、胸に宿した眩い憧れを力に変えて。

吐く息が白くなる厳しい冬の寒さの中、楓は一歩一歩、春の光へと手を伸ばし続けていた。

 

◇ 2036年2月16日

 

年が明けてからの日々は、あっという間に過ぎ去っていった。

凍てつくような寒さの中で迎えた私立翠風館高等学校の入試本番。張り詰めた緊張感の中、楓は神薙凛華の演武と家族の笑顔を胸に思い浮かべながら、持てるすべての力を解答用紙にぶつけてきた。

そして迎えた、Web合格発表の日の午前十時。

自室のデスクの前、楓は正座をしてホログラム端末の画面を見つめていた。

ごくり、と喉が鳴る。冬の冷たい空気の中、握りしめた指先にはじんわりと汗が滲んでいた。

 

「……よし」

 

震える指先で、画面に表示された合否照会システムに自分の受験番号とパスワードを入力する。

決定ボタンをタップした瞬間、短いロードの後に画面がパッと切り替わった。

 

『――合格おめでとうございます』

 

桜色のフレームに彩られた画面の中央、鮮やかな文字とともに、自分の受験番号がくっきりと浮かび上がっていた。

 

「……あった……! 受かった……っ!」

 

張り詰めていた息が一気に解け、楓は立ち上がって両拳を高く突き上げた。

 

「お父さん! お母さん! 茜! 受かったよーーっ!!」

 

部屋のドアを勢いよく開け放ち、階段を駆け下りる。

1階の店舗では、知らせを聞いた母親がハサミを置いて駆け寄って抱きしめてくれ、父親が満面の笑みで頭をぽんぽんと叩いてくれた。足元では茜が「お姉ちゃんすごい! おめでとう!」と飛び跳ね、マリィが歓喜の声を上げるように楽しげに吠えている。

 

家族全員の温かい祝福に包まれ、目頭を熱くしていたその時――

 

ポケットの中のスマートフォンが、ピロンと軽やかな通知音を響かせた。

取り出して画面を開くと、中学の教室で背中を押してくれた友人からのメッセージだった。

 

『受かったーーーーーっ!! 楓、そっちはどうだった!?』

 

画面越しに飛び跳ねてくるようなビックリマークの連続に、楓の口元が自然とほころぶ。

弾むような指先で、すぐに返信を打ち込んだ。

 

『あたしも受かったよ! 翠風館高校、合格!!』

 

送信したコンマ数秒後、すぐに既読がつき、歓喜のスタンプとともにメッセージが連投されてくる。

 

『やったあああ!! 本当におめでとう!!うちも春から新しい場所で、本気で刃道始めるからね。楓も絶対にアークキャンバスで活躍してよね!』

『うん! お互い合格できて本当によかった。高校に行っても、絶対に負けないからね!』

『ふふん、こっちのセリフ! 大会で、絶対に全国の舞台で会おうね!』

『約束!!』

 

スマートフォンの画面を胸に抱きしめ、楓は窓の外を見上げた。

まだ冷たさを残す風澄町の空に、柔らかな春の陽光が静かに差し込んでいる。

 

(待っててね、アークキャンバス。あたし、絶対にあそこで舞ってみせるから――!)

 

◇ 2036年4月8日

 

桜の花びらが風澄町の坂道を淡いピンク色に染め上げる、抜けるような青空の朝。

1階の理髪店、中央のセット面に置かれた大きな鏡の前に、真新しい翠風館高校のブレザーに身を包んだ楓がちょこんと腰掛けていた。

背中にかかるのは、中学までトレードマークだった緩やかなポニーテール。

 

「……本当に、切っちゃっていいんだな?」

 

背後に立つ父親が、革のシザーケースから愛用のハサミを取り出しながら、少し名残惜しそうに尋ねてくる。

 

「うん! 高校からは、新しいあたしでスタートしたいの。お父さん、バッサリいっちゃって!」

 

楓が鏡越しにニッと笑って頷くと、父親は「よし、任せろ」と頼もしく腕をまくった。

シャキ、シャキ、と澄んだ金属音が静かな店内に心地よく響き渡る。

長年伸ばしてきた栗色の髪が、ひと房、またひと房とケープを滑り落ちていく。首筋に触れる空気がすうっと軽くなり、視界が一段と明るく開けていくのを感じた。

バリカンが襟足を軽やかに撫で上げ、仕上げのドライヤーの風が吹き抜ける。

 

「――はい、完成だ」

 

父親が手鏡を合わせ、楓は鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめた。

惜しげもなく刈り上げられた、ボーイッシュでスタイリッシュなベリーショート。

艶やかな栗色の短い髪が輪郭をすっきりと際立たせ、いたずらっぽく輝く茶色の猫目がぐっと引き立っている。

 

「わあああっ! お姉ちゃん、すっごくカッコいい! モデルさんみたい!」

 

足元で飛び跳ねる茜が目をキラキラと輝かせ、ポメラニアンのマリィも嬉しそうにフワフワの尻尾を左右に振った。

 

「ふふ、ありがと! うん、すごくいい感じ!」

 

楓は鏡の前で立ち上がり、真新しい制服のネクタイをキュッと締め直した。

平日はキッチリと、けれど動きやすく。襟足の軽快さと相まって、全身から新しい一歩を踏み出すエネルギーが満ちあふれてくる。

玄関へ向かうと、母親がお弁当と水筒を手渡してくれた。

 

「楓、入学おめでとう。思い切り楽しんでおいで」

「行ってきます、お父さん、お母さん! 茜、マリィ、お留守番よろしくね!」

「うん! お姉ちゃん、いってらっしゃい!」

 

カランコロン、とドアベルの涼やかな音を残して外へ飛び出す。

風澄商店街の石畳に踏み出した瞬間、爽快な春風が刈り上げたばかりの首筋を心地よく撫でていった。

 

すれ違う近所の人たちに「楓ちゃん、高校入学おめでとう!」「髪切ってカッコよくなったね!」と声をかけられ、満面の笑みで手を振り返す。

 

目指す場所は、高台にそびえる私立翠風館高等学校。

春の陽光を浴びながら石畳の坂道を登りきり、満開の桜が咲き誇る校門をくぐり抜けた。

 

厳かな空気の中で行われた入学式。

 

壇上に立った校長の口から「今年度より新設された刃道部」という言葉が響いた瞬間、楓は膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。

 

(いよいよ、始まるんだ――!)

 

式が終わり、新入生たちがそれぞれの教室へと散っていく中、楓は配られた校内マップを片手に、足早に渡り廊下へと向かっていた。

 

(確か、練習場所は校舎裏の古い体育館って書いてあったよね……!)

 

春の柔らかな日差しが差し込む渡り廊下を抜け、木々に囲まれた静かな小道へ足を踏み入れた、その時だった。

 

タタタタタッ――!

 

前方から、激しく床を蹴る足音が響いてきた。

 

「わっ……!?」

 

正面の角から飛び出してきた人影に、楓は思わず立ち止まって身を引いた。

すれ違いざま、視界をかすめたのは――顔を真っ赤にして、脱ぎ捨てたローファーを両手に抱え、必死の形相で走り去っていく小柄な少女の姿。

ふわりと風が舞い、透き通るようなライトピンクの長い髪が、楓の目の前を鮮やかに翻る。

その瞬間、焼きたてのパンのような、甘く香ばしい優しい香りがふっと鼻腔をくすぐった。

 

「…………?」

 

あっという間に校庭の方へと駆け去っていく後ろ姿を、楓は目を丸くして見送った。

 

(すっごい勢いで走っていったけど……何かあったのかな?)

 

首をかしげながらも、香ばしい匂いの余韻を振り払うように「よしっ」と小さく気合を入れる。

曲がり角の先、年月の入った古い体育館の木製ドアが、わずかに開いているのが見えた。

隙間から漏れ聞こえる微かな電子音。

楓は迷わず歩み寄り、ガラガラと重い引き戸を勢いよく開け放った。

 

「こんにちはーっ! 刃道部の見学、いいですか!?」

 

元気いっぱいの声を張り上げて体育館の中へ飛び込む。

フロアの中央には、透明なケージと淡く浮かぶホログラムのリング。そしてその傍らには――ジャージ姿に知的なメガネをかけた長身の男性が、手元の黒い光剣をまじまじと見つめたまま、魂が抜けたように固まっていた。

 

「……あ、あのー? 先生……?」

 

楓がおずおずと近づいて声をかけると、男性――神風は「はっ!」と大きく肩を揺らし、慌ててメガネを直しながら振り返った。

 

「お、おや……失礼しました。あまりの衝撃に、少し我を忘れてしまっていたようで……こんにちは。見学の新入生ですか?」

「はい! 普通科1年の佐倉楓です! あたし、アークキャンバスをやりたくて翠風館に入学したんです!」

 

迷いのない真っ直ぐな言葉に、神風はメガネの奥の瞳をパチクリと瞬かせた。

 

「アークキャンバスを……? 新設のこの部で、演武種目を目指して来てくれたのですか」

「はい! プロの神薙凛華選手の演武を見て、どうしても自分の手で空間にあの光を描いてみたくて!」

 

楓が目を輝かせて身を乗り出すと、神風の口元に穏やかで嬉しそうな笑みが広がった。

 

「それは頼もしいですね。ちょうど今、ギアの感度テストをしていたところなんですよ。……よろしければ、持ってみますか?」

 

神風がデスクのラックから取り出したのは、白とシルバーの洗練された流線型ボディを持つ演武用光剣『アーク』だった。

 

「わあ……」

 

そっと両手で受け取った瞬間、吸い付くようなグリップの質感と、完璧に計算された重量バランスが手のひらを通して伝わってくる。

手元で軽く構え直すだけで、まるで自分の腕の延長線になったかのような心地よいフィット感に、楓の全身を微かな興奮と痺れが駆け抜けた。

 

(これが……光を描くための、あたしの剣――)

 

手の中の光剣を見つめる楓の茶色い猫目に、眩い光が灯る。

それを見た神風は、先ほどまでの驚きを静かな期待へと変え、温かな眼差しで微笑みかけた。

 

「どうやら、とてもいい手に握ってもらえたようですね。……改めて、ようこそ刃道部へ、佐倉さん」

「はいっ!」

 

楓は光剣を胸の前にしっかりと引き寄せ、刈り上げたばかりの襟足を揺らして満面の笑みを咲かせた。

 

「あたし、絶対にこの部で――誰よりも綺麗な光を空間に刻んでみせます!」

 

 




■あとがき
早速ですが、応募キャラを元に話を進めさせてもらいました。
『佐倉 楓』ちゃんは、裏表が殆どなく序盤の軌道に乗せるのに扱いやすくて助かりました。
勝手ながら、作品に落とし込みやすくするよう、不足していた家族設定や中学時代を付け加えてもらいました。
…1話より倍の文字数になるとは思わなかった(笑)

GALS様、素敵なキャラをありがとうございます。

☆今回の登場人物☆
『佐倉 楓(さくら かえで)』
実家の理髪店を手伝う、面倒見のいいしっかり者の長女。幾何学や計算が得意で、神薙凛華の演武に心を奪われアークキャンバスを志す。高校入学に合わせてポニーテールからベリーショートに一新した。

『佐倉 茜(さくら あかね)』
楓の妹(小学4年生)。愛犬のマリィと共に、大好きな姉の挑戦を全力で応援する健気な妹。

『神薙 凛華(かんなぎ りんか)』
日本プロ刃道リーグで活躍するトップ選手。冷徹なまでの正確さと美しさを誇る空間幾何学の演武で、楓の人生を大きく動かした憧れの存在。

『神風 悠一(かみかぜ ゆういち)』
私立翠風館高等学校の刃道部顧問。桜子に続き、アークキャンバス志望の楓がやってきたことに大きな期待を寄せる。

『楓の中学時代の友人』
前向きで運動神経の良いクラスメイト。楓の本心を見抜いて背中を押し、自身も都心の高校で刃道の世界へと飛び込んだ。次に会うときは……

『理髪店の女性客』
楓の実家の店に現れた、佇まいの美しい上品な女性。楓に刃道の存在を教え、翠風館高校のパンフレットを残していった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。