かつて、森の中で白い一匹狼に出会ったことがある。
群れを離れたのか、追い出されたのか。
だが、狼はその事実をまるで気にした様子はない。
ある種の気高さすら感じる姿は、何処までも無駄がなく。
機能性を追求した
菩提樹の根本。
瞑想に耽ると、白狼は何処からともなく現れ、傍らで身体を休める。
それが森と一つになれた証明であり。
白狼が森と自然の化身であった証左。
それだけが己の全て────であった、はずなのに。
森と自然の掟に背いた。
その瞬間から白狼にとって、己は敵となった。
当たり前だ。
自然の摂理に背いたものを、自然が受け入れるはずもなく。
白狼がその化身であったとすれば、敵視は当然の有り様。
それを最後に、白狼の姿は見ていない。
当然だ。爾来、森に足を踏み入れていないのだから。
──まさか、森から遠く離れた地で、その面影を見ようとは。
正直、似ても似つかない。
その振る舞いは洗練されてはいるが、あまりにも生物として無駄が多く。
鋼鉄の両脚は不屈の闘志を表しているが、何処までも歪で自然から遠い。
けれど、その気高さだけは似通っていた。
自ら首輪と口枷を嵌めようと。
誰かに
胸に秘めた誇りに反すれば、主であろうと喉笛を嚙み潰すだろう。
これでは主人の方が、従者の顔色を伺う羽目になる。
まったく、人の愚かさには呆れるばかりだ。
──狼を飼い慣らせるわけもないだろうに。
「……想定よりも、時間がかかったか」
真夜中、巨大なビル──バレエツインズを飲み込んだホロウのほど近く。
運河に沿って作られた舗装路を足早に進む影が一つ。
仕立ての良い執事服。
しかして、それを纏うは白き狼。
拘束具を彷彿とさせる
彼の名は、フォン・ライカン。
新エリー都の家事代行サービス「ヴィクトリア家政」の執行責任者を務める狼のシリオン。
バレエツインズで起きた一連の事件。
当初はバレエツインズで起こる不可解な現象の調査であったはずが、反乱軍の介入を確認。
さらには、別事件の被告人を乗せた飛行船がホロウに向かうハプニング。
最終的に事態は収束を迎えたものの、事後処理は複雑化。
おかげで、こんな時間まで働き通しとなってしまった。
他の同僚の手を借りる選択肢もあったが、生憎と全員女性であり、夜の一人歩きはさせられない。
無論、問題はあるが優秀な仲間が、暴漢如きに後れを取るとも思っていなければ、私生活に首を突っ込むつもりもない。
単純に、そこまで急ぎの仕事というわけでもなく、一人の紳士、男として必要な振る舞いだと考えているだけのこと。
「さて、どうしたものか……」
胸ポケットからチェーンで繋がった懐中時計を取り出す。
蓋を開いて現れた盤と針は、0時を過ぎたところを指し示している。
目下、彼の悩みは今日の夕食に関してだ。
自宅の冷蔵庫には殆んど食材はなかったはず。
24時間営業のスーパーや飲食店もあるにはあるが距離の関係上、向かえば明日の業務に支障が出かねない。
一度自宅に戻った後に着替え、コンビニという手もある。
だが、コンビニの食品は嗅覚の良さ故にか、どうしても防腐剤の匂いが気になってしまい、食が進まない。
「…………おや?」
悩みが解消されぬまま進んでいると、風に乗って得も言えぬ香りが鼻をくすぐった。
風の流れてくる先、出所を見れば、夜闇の中にぼんやりと浮かび上がるシルエットが一つ。
一目で屋台と分かる外観。
鶏ガラの匂いからして、ラーメン屋台で間違いなく。
一点思うところはあったが、たまの外食も悪くはないか、と今日の夕食を屋台に決めた。
「ヴィクトリア家政」の人間として、常に外聞は気にしている。
普段、高貴な方々と接する者として、屋台で食事をするのは外聞に影響するのでは、と思わなくもなかったが、考え方次第だろうと割り切った。
その時────
「────────ッッ!!」
────何の前触れもなく、全身の毛が逆立った。
己自身でも理由が分からない。
決して抗えない生存本能に突き動かされるまま、戦闘態勢に入ってしまう。
まるで、この世に存在しないはずの獣を前にした時のような。
まるで、何者かに己の心臓を鷲掴みにされているかのような。
覚えはある感覚ではあった。
かつて一度だけ体験した誰のせいでもない事故。これは、あの時によく似た────
「……おぉ?」
「…………!」
屋台の向こうから姿を現した店主と目が合い、自分自身が呼吸さえ止めていたことに気が付いた。
心臓が早鐘を打ち、呼吸は浅く短い。
このような姿、人に見せられない、と胸に手を当て、何度か深呼吸を繰り返す。
奇妙で覚えのある感覚は、既に跡形もなく消え去っていた。
その根源を探る気にはならない。
何せ、店に近づく前に考えていた思うところの一点が、目の前に現れたのだから。
「……今日は店仕舞いですか?」
「いや、客足が悪くてね。場所を移動しようと思ったところだが、よければ食ってくかい?」
「よろしいのですか……?」
「ああ。どうだ、オレ、ちゃんと嬉しそうな顔できてるか?」
「は、はあ、大変喜ばれているようには見受けられますが、何故……?」
「この街は嫌いだが、得られる出会い自体は悪いものじゃないなと思っただけだ。ようは気分がいいってだけだよ」
予定外で予想外の出会いに、ライカンは気を引き締めながら暖簾を潜る。
店主については、顔も名前も知っている。
得難い出会いをした二人組の身辺調査をする最中、家族として浮かび上がった人物だからだ。
主人からは、徹底的に調べ上げてくれ、と命があった。
伝え聞いている二人組の境遇を思えば、主人が何か利用されているのではないか、と心配と警戒を抱くのは不思議ではない。
結果、旧都陥落以後の記録に何の変哲も違和感もなく。
一時、ホロウレイダーの真似事をしていたとのことだが、何処に属することもなく単独でホロウに侵入し、金目の物を換金するだけ。
その程度ならば、旧都陥落直後は民間人でも行っていた。
命の危険を顧みる以上に、その日を生き抜くことさえ苦慮する日々を思えば、決して責められない。
まして、血縁もなければ関係もない、ただ出会っただけの二人を養うためとあれば、なおのこと。
ライカン個人にしてみれば、好感すら持てる人物と言えた。
気になるのは、旧都陥落以前の記録が一切ない点か。
郊外出身であれば記録がないことは珍しくないが、ホロウに単独で侵入、脱出するような実力者が、同じ出身の自分にまで届いていないなどありえない。
様々な思惑を抱いたライカンであったが、はしたない腹の虫が鳴りそうになり、首を振る。
丁度良い機会として割り切り、意を決して暖簾をくぐった。
「ンナンナッ?(いらっしゃいませ! 初めて顔を見る人だね! ベストは脱ぐかい?)」
「いえ、このままで構いません。お心遣い、感謝致します」
「ンナァ~、ンナナ(はぇ~、すっごい紳士。服の仕立てもいいし、エプロンもあるけど、どうする?)」
「ふふ、そちらも結構です。これは仕事着でして、多少汚れても問題ありませんので」
「ンナッ!(ナラカッ! 久し振りの上客で太客だよ! これを逃しちゃいけない!)」
「ガウタマァ、それ本人の目の前で言うのはどうなんだ……?」
屋台のQOSは隅々まで行き届いていた。
カウンターも、座る椅子も、多くの調味料の容器さえも、飛散した油の不快なべたつきは皆無。
むしろ、屋台の内装全体が輝いて見えるほど。家事代行サービスに携わる者として、身が引き締まる思いであった。
グローブを外すとガウタマと呼ばれたボンプが、すかさずに小物入れを差し出し、そのままお冷とおしぼり、メニューが続く。
他に客がいないのも関係しているのだろうが、細やかな心遣いは持て成しの基本。
広義で見れば、同じ接客業に身を置く者同士。一方的ではあるが共感を覚え、ライカンは既に「一期一会」を気に入り始めていた。
しかし、少々居心地が悪い。
メニューに視線を落としているのを良い事に、店主がじっと見つめてくるのだから。
探りを入れるつもりなのがバレたのか、とも思ったが、その視線は疑いというよりも、懐かしさを含んでいるように感じた。
これは逆に好機か、とライカンは慎重に言葉を選んで口を開く。
「…………申し訳ありません、何か失礼でも?」
「ん? ああいや、悪い悪い。不躾だったか。昔見た一匹狼を思い出してね、アンタと同じ白い毛並みだった」
「狼? 郊外にも野生の狼はいないはずですが……」
「オレは郊外の出身じゃない。いや、広義で言えば郊外なんだろうが。もっと遠く、人類の生存圏ギリギリのところにある森と山、になるのか。地名もなかったな」
「そのような場所が……?」
「あるだろ、そりゃ。TOPSも市政も、新エリー都にリソースを集中させてる。商業価値もなければ、いつ
「…………」
「もっとも、そんな場所に住もうなんて連中、物好き以外のなにものでもないと我ながら思うがね」
彼の言は事実のみを語っており、初めて聞く情報も不思議には思わなかった。
この100年、人類の生存圏に変動は皆無。
東西南北いずれにも広がってもいなければ、縮んでもいない。
主人曰く、
エリー都、引いては新エリー都の発展は、ホロウの調査・対策技術、エーテルの資源利用を確立したが故だが、割を食った者はいる。
その筆頭が郊外で暮らす者達。
如何にエリー都に人類最高の技術があろうと、リソースは常に有限。際限なく人を救えるほど街の
その結果、手を差し伸べるべき弱者を切り捨て、リソースを集中させることで一部の利権と街の発展を優先する選択をしてきた。
昔は、新エリー都の選択に憤ったものだが、今は違う。
切り捨てられた者は決して弱者ではない。事実、彼等は独自の文化を築き、余裕こそないが、彼らなりの誇りと共に生を謳歌している。
ならば店主の言うように、新エリー都とは関係を持たず、誰にも知られず原始的な生活を送る集団がいても、不思議ではない。
「しかし、野生の狼とは。本や映像記録で見た記憶はありますが、実際の生きた個体は流石に……正直、直接この目にしたく思いますね」
「ははは、好奇心旺盛なことだ。だが、正直、アンタとは似ても似つかんよ。アンタは無駄が多い」
「無駄、ですか……」
「ああ、気を悪くしないでくれよ。野生にとっての無駄という意味だ」
普通に考えれば、無駄という単語を他者に投げかけるのは、適切とは言い難い。
しかし、店主の目に悪意は絶無であり、語り口調は穏やかさすら感じられる。
我ながら彼の人柄に飲まれているな、と自覚しつつ、初志の貫徹も忘れずに言葉を促す。
「人が文明を発展させていく中で獲得した尊厳や誇り、文化や振る舞いは野生にとって無駄に過ぎないからな」
「成程、そのような意味でしたか」
「ああ。今でも、あれほど美しい野生は他にないと断言できる。しかし、似ても似つかないとは言ったが、不思議と面影がある。何でかなぁ?」
「……ぅ。それは、過分なお言葉を頂き恐縮です」
お客様を主人と仰ぎ、全霊を以て奉仕するのが、ライカンの定めた己の職務。
結果、賞賛と感謝の言葉を受け取るのは何事にも代え難い歓びである。
だからか、店主のひたすらに直截な言葉は、無性に気恥ずかしくなる。
何しろ、自身は何もしていない。行動の結果に対する賞賛ならば誇りと共に受け取れるが、姿形を持ち上げられるのは慣れていない。
そんな経験が皆無なわけではないが、店主はもっと深い部分──本質や在り方を指しているかのようで。
「ん、んんっ……ああ、大変な失礼を」
「あ? 何かしたか?」
「店主殿の個人的なお話を聞かせて頂きながら、名乗るのが遅れました。私は「ヴィクトリア家政」のフォン・ライカンと申します」
「ヴィクトリア家政? 家政、ってことは、金持ち向けの家事代行か何か?」
「はい。市井の皆様とはあまり関わりがありませんので、聞き慣れぬのは当然かと」
「へえ。オレはナラカ。ただのナラカだ」
「ではナラカ様、と」
「うわぁ、ぞわぞわするわぁ。オレは呼び捨てにしてもらった方がいいんだが」
「どうか、お許しを。私どもに外聞がありますので」
「ハッ、こんな場末の屋台に来てる方がどうかと思うがなぁ」
話題と気分を切り替えるため、咳払いを一つして、自ら名乗り上げる。
ナラカの反応に何一つ不審な点はなく、反応を予期できた範囲内。どうやら、警戒はされていないようだ。
この分であれば、もう少し踏み込めるか。
予期せぬ邂逅であったが、職務としても身辺調査を進められ、個人としてもナラカには興味を惹かれる。
焦りは禁物。
狩りさながらの慎重さで、相手に思惑を気取られぬように、更に言葉を重ねた。
「注文をしてもよろしいですか?」
「ああ。悪かったな、懐かしくて下らん自分語りが長引いた」
「そのようなことは。では、醤油ラーメンを。麺は大盛でお願いします」
「シャアッ! 良客確定! チャーハン作らなくてよくなった!」
「ンナナっ!(ライカンさん、ナラカのチャーハンは極上だよ。次に来たら、半チャーハンを頼むといい!)」
「そうでしたか。機会があれば、是非」
「やめろガウタマァ! 余計なこと言うなぁ!」
既に自身を常連に引き込もうとしている商魂逞しいガウタマと、メニューにあるのにチャーハンを作りたくないらしいナラカに、思わず笑みが零れる。
容赦もなければ遠慮もない関係は己には最早遠く、羨望と不思議な心地良さがあった。
「しかし、ナラカ様はどのような経緯で新エリー都に? お話を伺う限り、こちらへいらっしゃる理由がないように思われますが」
「色々あってね。友人に誘われてもいたし、ちょうどいい機会だったんだよ。まあ、来たらその日に旧都陥落で、とんでもない目にあったが」
「それは、何と申し上げればよいか……その、御友人は」
「さあ? 生きてるのか死んでるのかも分からん。生きてるならそれでいいし、死んでいるのが分かれば墓参りぐらいはしてやるかね」
ナラカは過去を隠すつもりはないのだろう。
聞けば、聞いた分だけ返答がある。ライカンとしては肩透かしを喰らったが、それはそれで都合が良い。
そして、名前こそ告げなかったが、友人との関係性も少々羨ましかった。
覚えている友情と思い出に陰りなど欠片もなく。相手が友情を忘れていようと、生死さえも関係がない。
ある意味で身勝手極まるが、極まり過ぎていて爽やかさすら覚えるほど。
相棒とまで呼んだ親友を、怒りと諦観から手放した己とは余りにも異なり、余りにも眩しくある。
「その後も色々あって、何だか訳の分からんままガキ二人を養う羽目になって、屋台なんぞやってる感じだ」
「養う、ですか。大変だったでしょう。生活の基盤もないまま、子供を二人も引き取るのは」
「んー、まあ大変は大変ではあったが、オレとしてはこの街で生きていく方が苦痛だ。新エリー都の全てがオレにとっては余りに遠い。十年経っても慣れんよ、この街は」
僅かな自嘲と疲れを滲ませた言葉は、すべて本心だったのだろう。
使命感から身辺を探ろうとしてライカンが、これ以上踏み込んでいくのを躊躇するほどに。
ナラカの生まれを思えば、確かに新エリー都の全てが異質で異物。
まるで街へと迷い込んだ獣のようだ。
何一つ親しみを覚えるものなどなく。
何一つ理解することも、理解されることもない。
その苦痛がどれほどであるか。
ライカンには測る術がなく、また測るべきものでもないように思えた。
「では、何故……?」
「────────」
ライカンの純粋な疑問に、小気味いい音を立てて食材を刻んでいたナラカの手が止まる。
一瞬、警戒されたかと感じたが、本人は包丁を置いて、両腕を組むのみ。
警戒しているのではなく、自身の内面を探る仕草で、相変わらず何一つ疑う様子はない。
「あんまりにも辛いものを見た」
「………………」
「一人は大声でわんわん泣いて、もう一人は歯を食いしばって堪えていた。後生大事に形見か何かを抱えて、傷だらけのまま前に進もうとしてたっけな」
「………………」
「コイツラに必要なのは無条件に信用できる誰かだろうなと思った時に、そいつらに頼られてね。じゃあオレがやってやるか、と思っただけだ。大した理由じゃない」
「そう、でしたか……」
「まあ、オレは単なる余分だがね。この街はオレがいなくても回る。アキラもリンも、オレがいなくても何とかしただろうが、三食腹一杯食わせてやるくらいの余分はあってもいいだろう?」
主人の命で探りを入れていたライカンが思わず恥じ入るほどに、ナラカの声は温かみに満ちたものであり。
彼の行為を疑うこと自体が、人の大義や正義を否定し、また人が獲得した尊厳を踏み躙り、見失う羽目だろうとさえ思えた。
主命と矜持の狭間で、ライカンの心は天秤の如く揺れる。
しかし、天秤は揺れども、支点は折れず。あくまでも、彼の心にある支点は自らの矜持だ。
主人には聞いたものを聞いたままを。
主命には感じたものを感じたままに。
そのように報告すると心に決め、これ以上は不要だと断じ、以降は世間話に興じると決意した。
「アキラ様とリン様ですか。もしや、六分街の……?」
「何だ、知ってるのか。アイツらも妙に顔が広いな」
「接客業ですから。ビデオ屋としても、種類も豊富でマニアックなものもある。私も利用させて頂いていますよ」
「そうだったのか。末永く利用してやってくれ、小さい自営業は常連がいなきゃ成り立たないからな」
再び、自らの仕事に取り掛かったナラカと、白々しいと自嘲しながらも談笑に耽った。
心から敬意を払える人物との出会いは稀であり、また幸運でもある。
少なくともライカンにとって、ナラカは今後の付き合いを真剣に願う程度には敬意を払える人物と認めていた。
「ほらよ、醤油ラーメン大盛、お待ち!」
「おぉ………………あの、チャーシューが多いような」
「ふっ、駄弁りすぎて出すのが遅くなったお詫び。それに気分がいいからおまけだ」
「ンナァァァァァァッ!!!(また勝手におまけしてぇ! 朝までだ! 今日は朝まで絶対に働いて貰おう!!!)」
「えー」
(この方、思いのほか自由人だな……)
デン! とカウンターに置かれた醤油ラーメンには、大量のチャーシューが並んでおり、麺が見えないほど。
経営を握っているであろうガウタマは怒りで頭から湯気を立ち上らせたが、ナラカは何処吹く風。
人を見る目が曇ったか、と思いつつも、空腹の状態ではこの量はありがたい。
狼のシリオンだから、気を遣ってくれたのだと納得し、まずはスープを口に含む。
「ほぉ、これは……」
思わず、笑みが零れた。
特に意外性や驚きはなく、「普通に美味しいラーメン」でしかないが、ひとつひとつが丁寧に作られていた。
食材の質はよろしくないかもしれないが、その分だけ惜しみなくたっぷりと使い、時間をかけて煮込み、旨味を限界まで引き出している。
何処か懐かしさを覚えるのは昔ながらの醤油ラーメンであり、同時に味に不満を覚えないのは現代風に洗練されているからか。
確信は持てなかったが、かえしと出汁のバランスにも気を遣っているように思えた。恐らく、客によって、バランスを変えているだろう。
不断の努力と研鑽により、可能な範囲で美味さを突き詰めたラーメン。
それがライカンの感じた第一印象である。
「……ふむ。んんっ!」
次に、大量のチャーシューを。
一枚が大きく、箸で掴むのも難しいほどに柔らかい。
はしたないとは思いながらも、口を大きく開いて一枚を丸ごと放り込む。
脂身は溶けたと感じるほどに柔らかく、それ以外の部分は絶妙な歯応えが。
脂の甘味、溢れる肉汁、沁み込んだタレ。それらが混然一体となった味わいは、得も言えぬ喜びを覚えた。
「ず、ずずっ……!」
麺には啜る幸福が。
シリオンの伸びた鼻面では、麺類は少々食べにくいが、柔らかな口当たりのお陰で気にならない。
鶏ガラベースのスープが絡まり、肉食の本能を抑えて、小麦を楽しめる気がした。
小難しく賢しい語彙を並べ立てるよりも先に、ただ一言に全てが集約される。
「美味い……!」
「やったぜ」
「……ですが、もっと食材を選べば、とも思います」
「へえ、良い舌してるよ。ま、そっちは安定性重視でね。限定品は、そういうの度外視してるが」
「そうした事情でしたか。差し出がましい真似を。しかし、そう聞くと限定品も気が惹かれますね」
「おっ、リピート確定?」
「是非」
「常連ゲットだな。QRコードでウチのアカウントを登録すれば、その日にやってる場所と時間が分かる。限定品の宣伝もしてるよ」
ライカンにとって、ナラカの人柄もラーメンの味も好みのもので。
食べる喜びと出会いの歓びを同時に味わう、魅力的な夜となった────
フォン・ライカン
新たな常連客。脳みそをちょっと焙られた。
ナラカの認識は常連というよりかは、友人感覚。ライカンが自分を探っているとか気づいておらず、知っても別に気にしない。
ライカンは後ろめたさを感じているが、気安く接する同性に合うのは久しぶりなので、いつかは素を見せるかもしれない。むしろ、何処かのツッコミで素を見せるだろう。
アキラとリンとヴィクトリア家政の皆からよくない目で見られている。
二人の評は「ヴィクトリア家政のセックスシンボル」。ヴィクトリア家政の皆は全力で同意した。