フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
党中央委員会初代書記長・偉大なる指導者ヒンメルの死から二十年後。
中央管区プラウダ特別区(旧聖都)郊外。
支線の終点で汽車を降りると、そこから先は徒歩だった。
バスは週に三便あることになっている。だが掲示された時刻表の下には手書きの紙が貼られ、当面の間運休、とだけ書かれていた。当面がいつからいつまでを指すのかは書かれていない。
フリーレンは網袋を折りたたんで外套の内側に押し込み、ぬかるんだ道を歩き出した。
道の脇に、苔むした女神像が転がっていた。顔の部分は削り取られ、代わりに「歴史の必然」という文字が雑に彫り込まれている。
彫った人間はよほど急いでいたらしく、最後の一画が下の草むらまではみ出していた。
フリーレンはそれを一瞬だけ眺め、何も言わずに通り過ぎた。
かつて中央委員会イデオロギー担当書記であったハイターは、公務を退いて久しい。
人民の心を腐らせる女神教を科学の力で浄化し、そこから真の価値のみを抽出したという偉業によって、彼の名は大十月社会主義革命の中心人物のひとりとして党史に刻まれている。
その男が今どこにいるかといえば、支線の終点からさらに歩いた森の奥の、園芸組合から割り当てられた区画の中である。
道が二股に分かれたところで、フリーレンは足を止めた。どちらの道にも轍があり、どちらの轍も新しい。
「何かお探しでしょうか」
背後からの声だった。
振り返ると、濃紺のコムソモール(共産主義青年同盟)の制服を着た少女が立っている。髪には赤いリボン。手には空の水汲みバケツを二つ提げていた。
「いや……、ハイターっていう人の家を探しているんだけど」
「そうでございましたか。ではお客様でございますね」
少女はそれだけ言うと、バケツを持ち直して背を向け、右の道を歩き出した。
フリーレンはその背を追った。名をフェルンというらしい。歩幅が小さいのに歩くのが速く、バケツの水面は一度も揺れなかった。
やがて木造の家が見えてきた。
組合の割り当て区画は規定の広さで、それ以上でもそれ以下でもない。ボリシェヴィキ党史略解とヒンメル語録をまとめ上げた男の家とは思えないほど、質素だった。玄関に打ち付けられた赤い星のマークだけが、そこに党員が住んでいることを静かに伝えている。
ただ、庭に立っている果樹の本数は、規定より明らかに多かった。果物を売って利益を得る者が出ないよう、本数は厳しく制限されているはずだが。
その家の前に、一人の老人が立っていた。茶の長袖シャツの袖をまくり、ゆったりしたズボンの裾を土で汚している。さっきまで畑に出ていたのだろう。
「まだ生きてたんだ。生臭坊主」
「格好よく死ぬのは弁証法的にも難しいものですな。お久しぶりです、同志フリーレン。いや──、終身党中央特命全権代表と呼ぶべきですかな」
乾いた肺を震わせるような笑い声だった。
灰色の枢機卿と呼ばれ、党のナンバー2として君臨した男も、今は森の中で年金を受け取る老人である。
◇
二人は傾いた陽光の差し込む部屋で、きしむ椅子に腰を下ろした。
テーブルの上に報告書の束はなく、代わりに小皿に盛られた苺のジャムがある。ハイターはそれをスプーンで丁寧に掬って口に含み、熱いストレートの紅茶で流し込んだ。
「酒はやめたんだ」
「ええ。止められておりますので」
誰に、とは言わなかった。台所のほうから、医師でございます、という声が届く。ハイターは聞こえなかったふりをしてジャムを掬った。
フリーレンは荷物に忍ばせていたウォッカと黒パンの包みに指先で触れた。本来なら墓前に供えるつもりだったそれは、どうやら当面は無用の長物であるらしい。
部屋の隅に、鉄のストーブがあった。煙突は壁を抜けて外へ伸びている。
ダーチャは所有地ではなく貸与された区画であり、冬季にそこへ居住することを防ぐため、暖房設備の設置は認められていない。フリーレンがそちらへ視線を向けたのを、ハイターは見逃さなかった。
「あれは野菜貯蔵庫の通気設備です」
「煙が出てるよ」
「通気しているのです」
ハイターは紅茶を一口飲み、それから付け加えた。凍死した党員は生産に一切寄与しない、と。
理屈としては筋が通っている。筋が通っていることと規則に適合していることは別だが、この男は四十年にわたって前者を後者に見せかける仕事で給料を受け取ってきた。
台所から、フェルンが茶碗を運んできた。
「点検は来月の第二週でございます」
「では第一週に外しましょう」
「毎年そうおっしゃって、前回は前日でございました」
フェルンは湯気の立つ茶碗をテーブルに置き、それ以上は何も言わずに戻っていった。
フリーレンはその背中を目で追った。少女の口調には非難の色がなく、ただ日程の確認だけがあった。何度も繰り返された手続きの、たぶん何回目かなのだろう。
諸悪の根源たる帝政の象徴、ツァーリを打ち倒した十年におよぶ苦難の行軍と大十月社会主義革命から、およそ七十年。偉大なる指導者にして党中央委員会初代書記長ヒンメルの死から二十年。
革命の熱狂は歴史の彼方へ過ぎ去り、かつて党の中心にいた二人の間には、ただ穏やかな風が流れていた。
「同志フリーレン、何故わたしのところへ。終身党中央特命全権代表として、党の方針が貫徹されているか巡察していたのではないのですか」
「特別区で配給をもらうついでだよ。巡察先で会う人にはなるべく寄ることにしているからね。それにしても行列が長くて嫌になってしまう」
ハイターの手が止まった。
「……並ばれたのですか」
「三回並んだよ。値段を見るのに一回、払うのに一回、受け取るのに一回」
「あなたには専用の配給所があるはずですが」
「そんなものあったっけ」
ハイターはしばらく黙り、それから深く息を吐いて、笑うのをやめた。
フリーレンは窓の外、灰色の空を見つめながら言葉を継いだ。ハイターには借りがたくさんある。死なれる前に返しに来た、と。
ハイターは静かに紅茶を置いた。
「ではひとつ頼みごとを。見習いを取りませんか。同志フェルンには魔導科学使いとしての素質があります。あなたの巡察に随行員として連れていってはくれませんか」
「──ごめん、同志ハイター。それはできない」
フリーレンの返答は冷徹だった。
実践における見習い魔導技師の損耗率は、党の統計資料にも明記されている。同志から預かった貴重な人的資源を、無意味に死地へ送るつもりはない。
「そうですか。では別の頼みを」
落胆する様子もなく、ハイターは本棚から一冊の本を取り出した。
旧体制下の科学者エーヴィヒの墓所より回収された遺物であり、生物学的基盤によるプロレタリアートの永続的稼働および損耗回避に関する極秘研究が詳述されていると推定されている、と彼は説明した。
党がこの魔導科学を完全に掌握し、蘇生と不死を達成した暁には、死と疲労という生物学的限界を克服した完璧なる社会主義的超人の量産が可能となる。世界革命の完遂に向けた、歴史的必然としての最終兵器である。
フリーレンは本を受け取り、背表紙の分類記号を眺めた。
「これ、区の第一部に保管されるべき等級の文書だよね」
「保管しております」
「本棚に」
「棚も保管場所です」
フリーレンはつまらなそうにページをめくった。
不死や不老などというものは、旧体制のブルジョワジーどもが遺した腐敗した幻想に過ぎない。奴らは労働者から最後の一滴まで資本を搾り取ることしか考えていない。大衆の階級的自覚をそらすために捏造された偽科学だ、というのが彼女の見立てだった。
それも含めて解読してほしいのだとハイターは言った。
「まあ、五、六年もあれば」
ハイターは満足げに頷き、それから、あくまでついでであるかのような口調で付け加えた。
「解読の片手間で構わないので、同志フェルンに魔導を教えてやってはくれませんか?」
どうやら、ハイターはイデオロギー担当書記であって、イデオロギーの指導はできても具体的な魔導科学については勝手がわからないらしい。
「まあ、そのくらいなら」
フリーレンがそう答えると、ハイターは静かにほほ笑んだ。
◇
フェルンを探すのに、随分と時間がかかった。
少女は峡谷の淵から空へ突き出した巨大な岩の先端に、彫像のように佇んでいた。襟に留めたヒンメルの横顔のバッジが、日に照らされて鈍く光っている。
「探すのが大変だったよ。いつも人民の目の届かない森で修業しているの」
フェルンは音もなく振り返った。その表情には少女特有のあどけなさがありながら、無表情で規律に満ちている。
存在感が薄いとハイター様からもよく言われます、と彼女は答えた。
そうだね、とフリーレンは相槌を打ちながら、内心で驚いていた。魔力資本探知にほとんど引っかからない。この年でいったいどれだけの研鑽を積んだのか。天才ではあるのだろうが、それ以上に鍛錬の匂いがした。
フェルンは視線を、峡谷の対岸に立つ古びた女神像へと戻した。旧体制下で崇められていた偶像は、今や風化し、時代の遺物として打ち捨てられている。
「ハイター様からは、あの旧時代の迷信の象徴を打ち抜けば一人前だと教導されております」
「へぇ。ハイターもわかってんじゃん。あれはね──」
言い終わらないうちに、フェルンが魔導回路を励起した。
迷いのない、極めて効率的な出力。しかし放たれた青白い光弾は、対岸に届く前に大気の中へ離散し、虚しく霧散した。
「このように魔力資本が離散して届かないのです。どのような修行をすればよろしいのでしょうか」
フリーレンは肩をすくめて歩み寄った。
「ねぇ。先に一つ聞いていい? 同志フェルン。魔導科学は好き?」
「ほどほどでございます」
「じゃあ共産主義は?」
「愛しております」
搾取に腐りきった旧世界の鎖を焼き切り、全人類に真の労働の光をもたらす唯一の夜明け。この身を社会主義を築くための生きた礎石として捧げることに一片の後悔もない。
少女はそう言い切った。
「私と同じだ」
フリーレンは静かに微笑んだ。
◇
一年目の夏の終わり、砂糖が街から消えた。
保存食の季節である。どの家も苺と砂糖を買い込むため、店の棚からは真っ先に砂糖が失われる。
フリーレンが配給の行列に三時間並んで戻ってくると、台所にはすでに紙袋が積まれていた。
「手に入れました」
買った、とは言わなかった。
この国において、買えるものと手に入れるものは別の範疇に属している。前者は誰にでも買えるものであり、後者はそうでないものだ。この国では金があっても物が手に入らないなんてことはざらである。ないものはないのだ。
その夏、フェルンは五十六個の瓶を煮て詰めた。
棚は上から下まで埋まり、蓋を留めるゴムの匂いが家中に満ちた。一年分ともなると量はかなりのものになる。フェルンは最後の瓶を置いたのち、満足気に口角を上げた。
二年目、フリーレンは納屋の奥で銅の管を見つけた。
構造を確かめるまでもなかった。蒸留器である。
「酒はやめたんじゃなかったの」
「やめました」
「これは何」
「あれは、私が飲むためのものではありません」
嘘ではなかった。ハイターは一滴も飲んでいない。
ただ、季節ごとに納屋から出ていく瓶と、季節ごとに家に入ってくる砂糖や釘や板ガラスや、点検日程の事前通知との間には、明白な相関があった。
「賄賂ではありません」とハイターは言った。「あれは金銭の授受です。これは同志的な相互扶助です」
「そう」
フリーレンは特に反論しなかった。
三年目の点検は、前日の夜に煙突が外された。
フェルンは脚立を押さえながら、この作業がもう何度目かも数えていないという顔をしていた。
翌朝、組合の点検員は野菜貯蔵庫の通気口を確認し、記録簿に異常なしと記入して帰っていった。果樹は前の晩のうちに枝を落とされ、規定の本数に見えるよう間隔が調整されていた。
三年目の秋、フェルンはコムソールの動員で芋の収穫に出て、二週間帰らなかった。
その間、家は静かだった。フリーレンは書斎で解読を進め、ハイターは壁のスピーカーから流れる有線放送を聞いていた。
あの装置には音量のつまみしかなく、切ることはできない。朝の六時、国歌が家中に響き渡ると、老人はいつも同じ顔で目を覚ました。
その年の瓶は、四十二個だった。
四年目、ハイターは苺を煮られなくなった。
竈の前に立っていられる時間が、目に見えて短くなっていた。フェルンが黙って鍋を引き受け、老人は椅子に座って手元を眺めていた。
瓶は二十九個で止まった。
◇
四年目のある日の午後。フリーレンは書斎で、もはや日課となった文書の解読にいそしんでいた。
「……同志フェルンの修業は順調ですか」
ハイターの声は、初めて会った日よりもさらに細く、掠れている。
「順調すぎるよ。常人なら十年を要する道を、あの子は四年で踏破した。……自分を追い込みすぎだ。適正な休息を無視した超過勤務は、長期的には精神の摩耗を招く。あまりいいことじゃない」
「彼女は根っからのストハノフ(模範的労働者)ですからね。最近は食事の時間以外、ずっと森にこもりきりです」
「それでも、あの子が社会主義者として一人前になるのは、まだ先のことだよ。……この調子なら、私の解読のほうが先に終わる」
「そうですか。我が国の科学的進歩に、また一つ足跡が残りますな」
フリーレンは手元の古びた本に視線を落とした。生物学的限界の克服に関する記述だが、徹底的に検証した結果、おそらくこれは──と言いかけて、彼女は口を止めた。
返答がなかった。
振り返ると、床に倒れ込んだ同志ハイターの姿があった。
◇
窓の外は、鉛色の雲から冷たい雨が降り注いでいた。灰色の景色を濡らす雨音だけが、室内の沈黙を辛うじて埋めている。
ベッドに横たわったハイターに、党の重役であった頃の威厳はない。ただ痩せ衰えた老人の姿だけがあった。
そんな顔をしないでください、と老人は言った。
「今まで動けていたほうが奇跡、いや、歴史的必然だったのですよ。……死は、労働者にとっての最後の休息です」
フリーレンは雨に濡れる窓の外を見つめた。森の中では今もフェルンが一人、黙々と魔導を放ち続けているだろう。
「魔導書の解読を急ぐよ」
「……お願いします」
フリーレンはドアノブに手をかけた。
一人の老書記の死と、一人の若き魔導技師の旅立ち。その境界線までに残された時間は、あとわずかだった。
◇
「フェルン。修業は中止だ」
フリーレンの声は、いつも以上に淡々としていた。それがかえって事態の深刻さを物語っている。
「同志ハイターが倒れた。側にいてやってくれ」
フェルンは魔導杖を抱えたまま動かなかった。視線の先には、霧に霞む旧時代の女神像が変わらず佇んでいる。
「……まだ、あの偶像を打ち抜けておりません」
「それはいずれ必ずできることだ。今は、彼を看取ることが優先だ」
「『いずれ』では、だめなのです!」
フェルンが声を荒らげた。思えば、彼女がここまで感情をあらわにするのは初めてだった。杖を握る手が震えている。
「『いずれ』では、ハイター様が死んでしまう……。私は、あの方に命を救われました。あの方に救ってよかったと思っていただかなければ、私の革命は始まらないのです」
目を閉じれば、あの日が鮮明に蘇る。
灰色の空の下、すべてを諦めていた自分の姿。手の中には色あせた家族の写真があった。
両親は南側諸国にはびこる強欲なブルジョワジーの搾取の中で、文字通り摩耗して死んだ。彼らにとって労働者は交換可能な部品に過ぎない。十六時間を超える労働、日曜だけの休み。粉塵の充満する工場。コレラのひしめく住環境。金がなければ人としてすら扱われない。
両親の遺体は集団墓地に埋葬され、数か月後にその粗末な墓を見に行ったとき、遺体は解剖のために持ち去られ、そこにはかつて両親がいた穴だけが残っていた。
未来のない絶望の中で、私もまた、その写真とともにすべてを終わらせようとしていた。
その時だった。背後から、酒臭くも温かみのある声が届いたのは。
「──今死ぬのは、もったいないと思いますよ」
振り返ると、党の制服を崩して着た一人の老人が立っていた。手にはウォッカの瓶を持ち、大きな石に腰かけている。
「もったいない……?」
そう私が口にすると、その老人は静かに語り始めた。
ずいぶん前に、私は古くからの同志を亡くしたこと。その同志は自分とは違って、ひたすらまっすぐで、困っている労働者を見捨てることができない人間だったこと。
老人は遠く地平線の先を見るような目をしていた。そして、名残惜しそうに言葉を続けた。もし私ではなく彼が生き残り、党を率い続けていれば、より多くの人民が救われ、人類の理想郷へもっと早く近づけたはずだと。
「私は彼とは違うので大人しく余生を過ごそうと思っていたのですが、ある時ふと気づいてしまいまして」
老人は瓶をあおって唇を濡らした。
「私が死ねば、彼から学んだ勇気や意志、友情、そして彼と共に歩んだ思い出や思想までもが、この世から消滅してしまう。それは党にとっても、人類にとっても、あまりに大きな損失ではないかと」
その瞳には、激動の時代を戦い抜いた男の、静かな覚悟が宿っていた。
あなたの中にも、両親から受け継いだ大切な思い出や、理不尽への憤りがあるはずだ。ならば、ここで命を投げ出すのは、貴重な精神的財産をドブに捨てるようなもの。実にもったいない。
そう老人は締めくくった。
※
対岸の女神像は、相変わらず冷ややかにフェルンを見下ろしていた。
「ハイター様はずっと、私を遺して死ぬことを危惧しておりました。……あの方は正しいことをしたのです。私を救ったことを、後悔してほしくない」
フェルンは杖を握り直し、魔力資本を練り上げた。それは単なる破壊のエネルギーではない。ハイターから、そして彼が愛した初代書記長から受け継がれた、不滅の意志の奔流だった。
「魔導使いでも、党の尖兵でも、何でもいい。一人で生きていく術を身につけることこそが、私の最大の恩返しなのです! あの方に救ってよかった、もう大丈夫だと、そう確信して安らかに最期を迎えてほしいのです」
フリーレンはしばらく、フェルンの横顔を黙って見つめていた。やがて小さく溜息をつき、わずかに口角を上げた。
「……私の教えた技術体系、そのすべてを、プロレタリアートの規律をもって記憶しているね」
「はい。一言一句、忘れてはおりません」
「なら、好きにすればいい。……計画の完遂を、同志として見届けよう」
「ありがとうございます!」
空は依然として重く垂れ込めていたが、フェルンの視界はかつてないほど澄み渡っていた。
◇
数か月後。峡谷に立ち込める霧を切り裂き、フェルンの放った魔導が一直線に空間を奔った。
それはもはや、ただのエネルギーの放出ではない。過去の搾取を拒絶し、ハイターから受け継いだ生の意志を物理的な破壊力へと昇華させた、研ぎ澄まされた階級的鉄槌であった。
直撃。
迷信と欺瞞の象徴であった女神像は、その傲慢な首から砕け散り、無残な石塊となって谷底へ消えた。
静寂が戻る。フェルンの荒い呼吸だけが、革命の成就を告げる祝砲のように響いていた。
その後、ハイターはフリーレンから、巡察にフェルンを同行させるという約束を取り付けた。そしてフェルンとともに、穏やかな最期を過ごした。
棚には、去年の瓶がまだ十いくつか残っていた。
◇
ハイターの葬儀は国葬として執り行われた。
遺体はヒンメルグラード(旧王都)へ移送され、かつて貴族の舞踏会場であった労働組合の家の柱の間に安置された。
葬送行進曲が重く響く中、遺体を載せた砲車は六名の儀仗兵と数百人の兵士に守られ、赤の広場を経てヒンメル廟へとゆっくり進んだ。
沿道には動員された数万の労働者が赤い小旗を振り、沈黙のうちに行進を見守っている。
同志ハイターの死は、女神という旧時代の幻影を粉砕し、人民の魂に党の科学的教義という揺るぎない背骨を叩き込んだ国家的英雄として、厳かに総括された。
総括の文面のどこにも、通気設備のことも、納屋の銅管のことも、規定を超えた果樹のことも書かれてはいなかった。
◇
葬儀が終わり、人々が去った後の墓地。冷たい風が吹き抜ける中、フリーレンとフェルンはハイターの墓石の前に立っていた。
フリーレンは鞄から、ウォッカの瓶を取り出した。蓋を開けると、鋭いアルコールの香りが冬の空気に混ざる。
「……格好よく死ぬのは難しいって言ったけど、結局、君の計画通りじゃないか。生臭坊主」
トクトクと、無色透明の液体が墓石に注がれていく。
それはかつて彼が愛した労働の後の潤いであり、今は亡き同志への、党中央特命全権代表なりの献杯であった。
「フリーレン様」
背後からフェルンが話しかける。
「……ありがとうございました。おかげで、ハイター様に恩を返すことができました。あの方は、最期まで微笑んでおられました。計画は順調だ、と」
「私はただ、してやられただけだよ。あの食えないイデオロギー担当書記にね。……まんまと、生きがいのありすぎる助手を押し付けられた」
フリーレンは空になった瓶を片付け、フェルンのほうを向いた。荷物の中で、瓶と瓶がぶつかって鳴った。持ち出せるだけ持ってきた、去年のジャムだった。
「じゃあ、行こうか。同志フェルン」
「はい、同志フリーレン。歴史的必然の赴くままに」
二人の影が墓地を離れ、地平線の先へと伸びていった。
私「ソ連ネタ出せおら」
AI「はい……」
ソ連小ネタ注釈
■ダーチャまわり
**ダーチャ**
郊外の菜園つき小屋。都市住民が職場や地区の「園芸組合」を通じて割り当てを受けた。所有ではなく貸与なので、面積も建て方も規則で決まっている。標準は六ソートカ(約六百平方メートル)。週末になると郊外行きの汽車が芋の苗と人間で満員になった。
**暖房設備の禁止**
「ダーチャはあくまで夏の菜園小屋であって住居ではない」という建前を守らせるため、暖房設備の設置や二階建て、規定を超える床面積などが禁じられた時期がある。ストーブを「野菜貯蔵庫の通気設備」と言い張るのは、実際にダーチャ族が使った定番の言い訳。点検の前日に煙突を外して翌日また付ける、という作業も含めて実在の風物詩である。
**果樹の本数制限**
私的な果物の販売=資本主義的な余得とみなされ、果樹や家畜には課税・本数制限がかけられた。課税を嫌って農民が自分の果樹を切り倒す、という本末転倒が実際に各地で起きている。ハイターの庭の「規定より明らかに多い果樹」は、それを逆向きにやっている状態。
**点検員と記録簿**
組合の点検は形式化しており、点検員も相手も「その日だけ規則に適合していればよい」ことを了解していた。記録簿の「異常なし」は事実ではなく手続きである。
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■ 買い物と行列
**網袋**
ロシア語でアヴォーシカ(「авось=ひょっとしたら」から来た名前で、直訳すると「もしかしたら袋」)。何かいい物が売っていたら困らないように、いつも畳んでポケットに入れておく。フリーレンが外套の内側に押し込んでいるのはこれ。
**三回並ぶ**
国営食料品店の標準的な購入手順。①売り場で品物と値段を確認して並ぶ →②レジに並んで金を払い、レシートをもらう →③レシートを持ってもう一度売り場に並び、品物を受け取る。品目ごとにこれをやるので、買い物は半日仕事になる。
**専用の配給所**
高級幹部(ノーメンクラトゥーラ)には一般の店とは別の特別配給所があり、行列も品不足も無縁だった。「そんなものあったっけ」で済ませているフリーレンは、特権を持っていることすら把握していない。ハイターが黙り込むのはそのため。
**「買う」と「手に入れる」**
ソ連ではこの二つが別の動詞で使い分けられた。金があっても物がない社会では、重要なのは購買力ではなくブラート(コネ)である。「あなたが私に、私があなたに」の相互融通で、砂糖も釘も板ガラスも点検日程の事前通知も動いた。ハイターの言う「同志的な相互扶助」がまさにこれ。
**砂糖が街から消える**
夏の終わりはザゴトーフキ(保存食の仕込み)の季節。苺のジャム、きゅうりの塩漬け、トマトの瓶詰めを一年分作るので、砂糖と瓶と蓋のゴムが真っ先に店から消える。棚に並ぶ瓶の数は、その家の一年の見通しそのものだった。
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■ 酒と茶
**納屋の蒸留器**
自家製の密造酒をサマゴンという。製造は違法だが極めて一般的で、現金より確実な支払い手段として機能した。修理も融通も許認可も、瓶一本で動く。砂糖が消える理由の一部もこれである。
**ジャムを口に含んで紅茶で流し込む**
砂糖やジャムを茶に溶かさず、口に含んだまま熱い茶を飲むヴプリクースクという飲み方。砂糖が貴重だった時代の習慣が、そのまま作法として残った。
**墓にウォッカを注ぐ**
故人を偲んで墓石に酒を注ぎ、黒パンを供える。杯を伏せて置き、乾杯の音は立てない。追悼日には家族が墓地に集まって飲み食いする習慣もある。冒頭でフリーレンが荷物に忍ばせているウォッカと黒パンは、最初から墓前用である。
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■ 党と組織
**コムソモール(共産主義青年同盟)**
十四歳から二十八歳までの青年組織で、進学や就職の前提になる出世コースでもあった。その下の年少組織がピオネール(赤いネッカチーフ)。女子生徒が髪に結ぶリボンは制服の一部で、祝日は白、平日は黒や色つきが定番だった。
**バッジ**
初代書記長の横顔のバッジは、レーニンの横顔を象った各種バッジが元ネタ。年齢と所属によってデザインが変わり、胸元を見ればその人物の位置が分かる。
**灰色の枢機卿**
イデオロギー担当書記ハイターのモデルは、長らく党のイデオロギーを一手に握り「灰色の枢機卿」と呼ばれた実在の書記。表に出ず、教義の解釈権だけを握る役職である。
**第一部**
役所や研究所ごとに置かれた機密文書管理部門。秘密警察と直結しており、等級付き文書は施錠された保管庫でしか扱えない。それを自宅の本棚に置いている時点で、本来は相当まずい。
**総括**
死亡時に公表される公式評価文。故人の功績を党の言葉で確定させる文書であり、そこに書かれなかったことは存在しなかったことになる。最終場面はこの性質を利用している。
**動員で芋の収穫**
秋になると学生や勤め人が集団農場へ送り出され、数週間泊まり込みで芋を掘った。ロシア語では単に「芋へ行く」と言う。断ることは事実上できない。
**ストハノフ(模範的労働者)**
ノルマを桁違いに超過達成したとされる炭鉱夫の名に由来する運動で、以後「模範的な働きすぎの人」の代名詞になった。ハイターがフェルンを評した言葉としては、褒め言葉であると同時に心配でもある。
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■ 街と風景
**顔を削られた女神像**
革命後の反宗教運動では、聖堂が倉庫やプールに転用され、聖像は破壊されるか放置された。像に彫り込まれた「歴史の必然」は、史的唯物論の常套句。何を壊しても「必然」と彫っておけば説明になるという非常に便利な言葉。
**切れない有線放送**
各戸に引かれた有線ラジオ(ラジオトーチカ)。チャンネルは実質選べず、音量つまみはあっても電源は切れない。朝六時に国歌が流れ、そこから一日が始まる。
**当面の間運休**
掲示板の貼り紙の定型句。期間が書かれないのは不親切ではなく、書けないからである。
**国葬の情景**
遺体を旧貴族会館(革命後は労働組合の家)の柱の間に安置し、砲車に載せて赤の広場を通り、廟へ向かう──というのは、史実の党最高幹部の葬儀そのままの手順。沿道の労働者は自発的に集まったことになっているが、実際は職場単位の動員である。
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■ フェルンの回想(南側諸国)
十六時間労働、日曜だけの休み、粉塵の工場、コレラの流行する住環境、そして共同墓穴に投げ込まれた末に解剖用に運び去られる遺体──これは十九世紀の資本主義批判の文献に描かれた労働者の生活を、そのまま並べたもの。ソ連の教科書が「あちら側」を語るときの定型でもある。