フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
党中央委員会初代書記長・偉大なる指導者ヒンメルの死から二十八年後。
中央管区リーゲル峡谷。
峡谷の底を細い川が流れ、その両岸に段々畑が積み上がっている。麦は痩せ、ジャガイモだけがよく育つ土地だった。
コルホーズ「峡谷の夜明け」──中央管区のいたって普通の農業共同体である。
集会所の板壁には色褪せた壁新聞と、五カ年計画の達成率を書き込んだ図表が貼ってあり、その隣に名誉板が掛かっていた。
板の中央だけ、額縁が一回り大きい。
赤毛の青年の写真だった。撮影者の指示に従いきれなかったらしく、視線がわずかに正面から外れている。額の傷は前髪でほとんど隠れているが、それでも左目のあたりに白く筋が走っているのが見てとれた。
写真の下に、村ソヴィエトの決議文が貼り出してある。三年前の日付。文面は簡潔だった。
当該人物は単身で紅鏡竜と対峙し、これを撃退し、以後三年にわたり当コルホーズに竜害の記録はない。よって「勇敢」メダルの授与を上級機関に申請する。
フェルンは名誉板ではなく、その手前の掲示に目をやっていた。今月の乳量報告と、道具庫の鍵の管理当番と、燃料の配給日。どこの村でも同じ紙が同じ順番で貼ってある。
◇
青年は集落の外れの岩場にいた。
身長ほどもある斧を後ろに立てかけ、コルホーズの子供と会話している。
「君がシュタルク?」
赤い髪の下から、三白眼気味の目がこちらを向いた。青年は子供たちを彼らの祖母のもとへそれとなく送り、答える。
「何者だ」
「魔法使いフリーレン」
名乗りは短い方がいい、というのがフリーレンの経験則だった。肩書きを名乗ると、たいてい相手は喋らなくなる。
「ばーちゃん、外してくれ。大丈夫。俺の師匠の知り合いだ」
彼はどうやらフリーレンのことを知っているようだった。会ったことはないはずだが。
「前衛として私たちの仲間になってほしい。手始めに、紅鏡竜の討伐を手伝ってもらいたいかな」
「何故?」
即答だった。理由を聞く時点で、この青年は竜というものの重さを正確に理解している。フリーレンはそう判断した。
紅鏡竜は甲種危険生物に分類される。本来なら管区軍が中隊規模で当たり、事前に住民を避難させ、事後に被害査定の委員会が入る。そういう相手だ。
今は村を襲っていないというだけの理由で、上級機関の討伐計画からは何年も先送りにされ続けている。
半端に挑めば死ぬ。それも、書類上は「私的行動による事故」として処理される死に方をする。
「そうだね」
フリーレンは少し考えて答えた。
「昔、私の集めた魔法をほめてくれた馬鹿がいた。それが理由になるかな」
洗濯物を素早く乾かす魔法。花畑を出す魔法。酸っぱいブドウをもっと酸っぱくする魔法。
書記長就任演説の草稿を書いていた男は、それを見るたびに本気で面白がった。彼にとっては、たぶん、そういうことの方が本題だったのだ。
シュタルクはおもむろに額の傷に手を当てて、しばらく黙った。
「くだらねぇな」
「でしょ」
わずかに口の端が上がった。名誉板の写真より、こちらの方がよほど人間の顔をしている。
「仲間になるのは、別に構わないぜ。ただし紅鏡竜だけは倒してもらう。フリーレン、お前なら倒せるんだな」
「三十秒足止めしてもらえれば」
紅鏡竜の鱗は鏡だ。並の攻撃魔法は正面から弾き返される。鱗の継ぎ目を一点に絞って撃ち抜くには、魔導の出力に三十秒かかる。
その三十秒のあいだ、竜の注意を引き受ける者が要る。
シュタルクは神妙な顔でうなずいた。
「それ、俺がやらないと駄目かな?」
「……何を言っているのですかこの人は」
それまで一言も発していなかったフェルンが口を開いた。戦士を見る目が、ごみを見る目に格下げされている。
「シュタルク。魔物との戦闘経験は?」
「……ゼロだよッ!!」
青年は岩の上でわっと涙をこぼした。英雄の名誉が音を立てて崩れる音がした。
三年前、竜がこの村に降りてきた日。彼は確かに斧を持って前に出た。そこまでは本当だ。
だが、一歩も動けなかった。竜の一薙ぎが家を輪切りにし、断面から寝台の脚が生えているのが見えた。人間が戦っていい相手ではないと思った。
そのまま立ち尽くしているうちに、竜は気まぐれに首を巡らせて、飛び去っていった。
そして二度と村に降りてこなくなった。
「気まぐれだよ。運が良かっただけだ。それを村の連中が、勝手に」
「でも決議は下りたし、メダルも受け取ったんだよね」
「……返しに行ったんだよ、一度」
村ソヴィエトの議長は、書類の不備を指摘されたと思ったらしい。受章者本人の異議申し立てには様式がなく、様式のない申請は受理できない。そう説明された。
その説明をしている議長の背後で、婦人部の主任が新しい額縁を注文していた。
「それでよ、この村の連中にとっては、俺は英雄なんだよ」
逃げ出せば竜が戻るかもしれない。逃げなくても自分は竜と戦えない。この三年、彼はその二つの壁のあいだで立ち往生していた。
「フリーレン様。こいつは駄目です。他を当たりましょう」
フェルンの目は、ごみを見る目から、ごみ以下の何かを軽蔑する目へと格下げされている。見捨てないでくれよ、と情けない声が背中を追ってきた。
「シュタルク、一晩だけ時間をやる。よく考えろ」
フリーレンは振り返らずに言った。
「このままじゃいけないことくらい、君はもうわかっているはずだ」
◇
その晩、二人は村ソヴィエトの二階に泊めてもらった。窓の下では若い連中がアコーディオンを鳴らしている。
フェルンは寝台に腰かけたまま、しばらく黙ってから口を開いた。
「アイゼン様は、あの人を弟子にしたのですよね」
「うん」
ヒンメル勲章受章者。革命前から斧を振っていたドワーフ。今は年金生活で、酸っぱいブドウばかり食べている。
フリーレンがこの村を訪ねたのも、あの老人が「そういえば」という顔で弟子の名前を出したからだった。
「アイゼンは臆病者だよ。自分でそう言ってる。生き残ったのは臆病だったからだって」
「あれで臆病なのですか」
「戦士に必要な資質は臆病さだって、あいつはずっと言ってた」
三年前、アイゼンは弟子を殴って追い出している。理由は本人の口から聞いた。伸びかけた弟子の気配に、恐ろしくなって手が出た。
そう言ったときの老人の顔は、申し訳なさそうというより、単に不本意そうだった。
「殴った側が怖がっていたのですか」
「そういう戦士なんだよ、うちのは」
フェルンは何か言いかけてやめ、明かりを落とした。
◇
翌朝、昨日の岩場にシュタルクはいなかった。
フリーレンは無表情のまま、誰も座っていない岩を見ている。フェルンはわずかに眉を寄せた。荷はまとめてある。次の村までは徒歩で二日。
「フリーレン」
背後から声がかかった。斧を背負い、支度を済ませた赤毛の青年が立っていた。
「遅かったじゃん」
「足止めは三十秒でいいんだな」
フリーレンはうなずいた。
三人は谷を上流へ向かって歩き出した。
◇
竜の巣は、峡谷のせり出した部分にあった。
紅鏡竜。全長は集会所の屋根より高く、赤銅色の鱗の一枚一枚が磨いた鏡のように朝の光を跳ね返す。首を持ち上げただけで、岩棚の砂利が音を立てて谷底へ落ちていった。
シュタルクは岩棚に降り立ち、斧を構えた。手が震えている。師匠と同じ震え方だった。
(そうか。師匠も怖かったんだな)
必要なのは覚悟だけだ。
竜は動かなかった。首をわずかに下げ、青年を見下ろしたまま、間合いを測っている。
竜は賢い生き物だ。格上と見た相手に自分から仕掛けるような真似はしない。三年間この村に降りてこなかったこと。今この瞬間、即座に噛み殺しにこないこと。その二つが、本人以外の全員に同じことを教えていた。
木陰から、フリーレンとフェルンがのぞく。
先に動いたのは、シュタルクだった。
跳ぶ。竜の前腕が横薙ぎに走り、岩壁が削れて礫が飛ぶ。斧の腹でそれを受け、そして、斧を横に薙ぎ払った。
十秒。
竜の爪が折れて飛び散る。竜が咆哮を上げる。シュタルクは飛び散った爪の破片をよけると、そのまま爪を足場にして竜の頭上へと飛んだ。
二十秒。
垂直に振り下ろされた斧が、鏡の鱗の継ぎ目に食い込んだ。竜の頭が地面に打ちつけられ、峡谷全体が鳴った。
三十秒。
「今だ!! 撃ちまくれ!!」
返事はない。
シュタルクは肩越しに木陰を振り返った。魔法使いは、微動だにしていない。
話が違う。三十秒稼いだら魔法を撃つ手はずだったはずだ。まさか、この二人は。
「ふざけんなよクソババァ!! やっぱりお前も師匠と同じ──」
「もう死んでるよ」
竜が動かない。頭を地面に預けたまま、鏡の鱗が光を返さなくなっている。
フリーレンは、フェルンを制していた手をおろした。
「……クソババァか」
「あ」
(後が怖いなぁ)
フェルンは静かに、この戦士を見捨てる覚悟を固めた。
「シュタルク」
フリーレンは岩棚に上がって、青年の肩を叩いた。
「よくやった。期待以上だ。偉いぞ」
それから彼女は「うひょー」と声を上げて竜の巣を漁りに行った。略奪品と骨とがらくたが積み上がった巣である。彼女にとっては宝の山らしかった。
シュタルクはその場に座り込んだまま、しばらく自分の両手を見ていた。
(俺がやったのか……。俺が一人で竜を倒した……)
◇
村へ戻ると、鐘が鳴った。
誰が知らせたのか、道の両側にコルホーズ員が並んでいた。婦人部の主任が黒パンと塩を載せた盆を差し出し、老人たちが順番に肩を叩き、子供が斧に触ろうとして母親に引き戻された。
臨時に招集された村ソヴィエト総会が、その日の午後、全会一致で決議を一本可決した。「峡谷の夜明け」の竜害はこれをもって完全に終息したと認め、上級機関に対し当該人物の社会主義労働英雄推薦を再度上申する、という内容である。
シュタルク本人は総会のあいだ、壇上の椅子で背中を丸めて縮こまっていた。
名誉板の写真は、その週のうちに新しいものに差し替えられた。撮影のとき、彼はやはり視線を正面から外していた。
夜は集会所で宴になった。ジャガイモとキノコと、どこからか出てきた燻製の肉。アコーディオン。歌。議長は三度乾杯の音頭を取り、三度とも初代書記長の名前を最初に出した。
シュタルクの前にだけウォッカではなくクワスの瓶が置かれたのは、彼がまだこの村の全員にとって「子供」だからである。本人は気づかずに三杯おかわりした。
フリーレンは隅の席で、竜の巣から持ち帰った錆びた金具を灯りにかざしていた。フェルンは皿を三度おかわりした。
◇
厄介だったのは、その後の手続きの方だった。
シュタルクはコルホーズ員として登録されている。コルホーズ員には国内旅券が交付されない。
旅券がなければ、隣の管区へ移動することも、都市部で職に就くことも、宿の帳簿に名前を書くこともできない。
竜を単騎で倒した男は、制度上、この谷から出られない男でもあった。
「議長、除籍の申請書を」
「様式はありますが、これには労働手帳と、コルホーズ総会の同意決議と、管区執行委員会の受理印が要りまして……印は月に一度、査察官が回ってくるときにしか」
フリーレンは鞄から折り畳んだ紙を一枚出し、卓に置いた。
終身党中央特命全権代表。署名。判は一つきり。
議長は紙を見て、フリーレンを見て、もう一度紙を見た。それから、たいへん丁重に、両手で受け取った。
「……失礼いたしました。写しを三部、取らせていただいてよろしいでしょうか」
「五部でも六部でも」
竜の巣の回収物件についても、目録の作成が必要になった。私有は禁じられているため、巣にあったものはすべて共同体の財産として扱われることになる。
フェルンが黙って目録を書き、フリーレンが署名し、金具と割れた宝石と魔導書は、書類上「学術調査用標本」として中央へ送られることになった。実際には全部フリーレンの鞄に入っていた。
出立の朝、シュタルクの荷は倍に膨れていた。中身はほとんどジャガイモだった。断りきれなかったのである。
◇
村を離れて森の街道を歩いているとき、フリーレンが思い出したように言った。
「そういえば、いい魔法を覚えたんだ」
「どのような魔法ですか」
「書類の判子が一個増える魔法」
フェルンは三歩ぶん黙ってから、完全な無表情で答えた。
「犯罪じゃないですか」
「便利だよ」
「便利かどうかの話はしていません」
後ろでシュタルクが荷を背負い直した。荷物の中のジャガイモが鳴る音がする。
「……なあ。減る魔法はないのか」
「あるよ」
「あるのかよ」
ソ連小ネタ注釈
■ コルホーズの風景
**コルホーズ**
集団農場。土地も家畜も農具も共同体のもので、農民は「組合員」として働き、労働日数に応じて現物と現金を受け取る。名前に「夜明け」「勝利」「共産主義への道」といった威勢のいい単語が入るのは定番で、実態との落差も含めて定番だった。
**壁新聞**
職場や学校の壁に手書きで貼り出される掲示物。達成率、表彰、批判記事、ときには標語入りのイラストまで載る。担当者は持ち回りで、絵の上手い者が毎回引き当てられる。
**五カ年計画の達成率図表**
計画経済の象徴。棒グラフが伸びていくことになっているが、伸ばすのは実績よりも先に図のほうである。
**名誉板**
ドスカー・ポチョーター(「名誉の板」)。優秀な労働者の顔写真を並べて掲げる掲示板で、工場、農場、学校、駅、床屋にまで存在した。写真は指定の場所で撮らされ、たいてい硬い顔になる。一度載ると降ろすのが難しいという点が、この話の全部である。
**婦人部**
職場や村ごとに置かれた女性組織。福利厚生、風紀、祝賀行事、贈答品の手配などを担当した。額縁を発注したのが婦人部の主任なのは、そういう分掌だからである。
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■ 表彰と勲章
**村ソヴィエトの決議**
最末端の行政単位である村ソヴィエト(村会)の議決。表彰の推薦、住民の登録、証明書の発行などを扱う。上級機関に「申請する」ところまでが権限で、実際に授与するかは上が決める。
**「勇敢」メダル**
実在の勲章「勇敢メダル」がモデル。主に軍功に与えられるもので、民間人にも授与例がある。
**社会主義労働英雄**
労働分野の最高位の称号。金星章と勲章がセットで授与され、受章者は地元の誇りになる。竜を退治した青年に対してこの称号を推薦するのは、村の側の熱意が振り切れている証拠でもある。
**「様式のない申請は受理できない」**
返上や訂正の手続きが存在しない、というのは実際に起きうる状況だった。制度は表彰する方向にだけ作られており、逆向きに動かす様式がない。書式がなければ、その意思は存在しないものとして扱われる。
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■ 出られない村
**国内旅券**
国内移動と居住には身分証明書(国内パスポート)が必要で、住む場所は登録制だった。そしてコルホーズ員には、長らくこの旅券が交付されなかった。書類上は農奴制に近い状態で、村を出るには除籍手続きか、進学・徴兵・組織的な募集といった限られた出口を通るしかない。シュタルクが「制度上この谷から出られない男」なのは、この話の中で唯一まったく誇張のない設定である。
**労働手帳**
就労履歴を記録する冊子。就職のたびに雇用側が保管し、転職には引き渡しが要る。これを握られていると勝手に辞められない。
**印は月に一度**
上級機関の受理印を押せる人間が巡回してくるまで、書類は動かない。急ぎの用事が一か月単位で止まるのは日常だった。
**判が一つきり**
何枚もの添付と複数の受理印が必要な手続きが、最高幹部の署名一つで飛ぶ。議長が写しを三部取ろうとするのは、後日「なぜ手続きを飛ばしたのか」と問われたときの防御のためである。
**私有の禁止と「学術調査用標本」**
発見された財物は共同体または国家の帰属になる。目録を作り、名目をつけて中央へ送る──という手続きさえ踏めば、書類は完璧になる。中身が全部フリーレンの鞄に入っているかどうかは、書類の関知するところではない。
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■ 歓迎と宴
**黒パンと塩**
客や英雄を迎えるときの伝統的な儀礼。盆に載せた丸いパンと塩を差し出し、迎えられた側はパンをちぎって塩をつけて食べる。革命後も、公式の歓迎行事としてしっかり残った。
**アコーディオン**
村の宴の必需品。ガルモニやバヤンと呼ばれる蛇腹楽器で、一台あれば夜が明ける。
**乾杯の音頭**
宴席では順番に立って長い口上を述べてから飲む。公式の場では最初の乾杯を指導者や党に捧げるのが作法で、議長が三度とも初代書記長の名前から始めるのはそのため。
**クワス**
黒パンを発酵させた微炭酸の飲み物。ごく微量のアルコールしか含まず、子供が飲む。夏には街頭のタンク車から量り売りされた。大人の席で自分だけクワスを出されるのは、要するに子供扱い。
**ジャガイモを持たされる**
感謝の気持ちは現物で表される。断ると角が立つので、荷は膨れる。
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■ その他
**甲種危険生物/管区軍/被害査定の委員会**
本来なら軍が計画的に対処すべき案件が、優先順位の低さゆえに何年も先送りされる。その空白を個人が埋めてしまったとき、制度は「英雄」という形でしか処理できない。
**「私的行動による事故」**
命令や計画に基づかない行動での死は、公務災害として扱われない。手柄になるか事故になるかは、生き延びたかどうかで事後的に決まる。
**ヒンメル勲章受章者の年金生活**
高位の受章者には特別年金や各種の優遇が与えられた。