フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
党中央委員会初代書記長・偉大なる指導者ヒンメルの死から二十八年後。
北方管区グラナーツカヤ州。
フリーレンとフェルン、そしてシュタルクは、州都セヴェルノグラナーツクに入った。
魔族の支配する未開放地区に直接接する、北方防衛線上の要衝都市である。地図帳には載っていない。旅券に加えて入市許可証が要る。
駅から中央通りへ出た三人を最初に出迎えたのは、匂いだった。
石炭。消毒薬。煮すぎたキャベツ。三つが層になって、冷えた空気の底に沈んでいる。
通りの両側には、赤煉瓦の五階建て──第一次五カ年計画期に建てられた「ヒンメリンカ」が並び、その奥に、規格パネルを積み上げただけのマッチ箱のような「ハイタノフカ」が続く。
どの窓にも同じ形の換気枠が入り、どのバルコニーにも同じように洗濯物と漬物樽が置かれていた。
建物のあいだを、保温材の剥げた暖房配管が地上二メートルの高さで縦横に這い、その下を子供が屈まずに通り抜けていく。
店には看板がない。正確には、名前がない。
「パン」。「牛乳」。「食堂第三号」。「靴修理」。扱う品目だけが白抜きの文字で書かれている。
そして、どの店にも行列らしい行列がなかった。
北方防衛線上の軍需都市は、中央供給リストの第一類に区分される。この街の労働者が凍えたり飢えたりすれば、防護結界の交代勤務が止まり、防衛線に穴が開く。
だから物が来る。ソーセージが吊られ、練乳の缶が積まれ、冬でも玉葱がある。窓の内側には、州境の向こうでは半年見かけない板チョコまで並んでいた。
週に二度、周辺の州から買い出しの列車が入る。彼らは早朝に着き、袋を担いで夕方の便で帰っていく。改札の脇には「市外居住者の購入は一人当たり二キログラムまで」という掲示が、角の剥がれかけたまま貼り出されていた。
建物の壁には横断幕。
──五カ年計画を四年で。
──北方防衛線は人民の胸壁である。
街頭拡声器が正時を告げ、続いて州内の鋳鉄生産が計画比一〇三パーセントに達した旨を、抑揚のない女の声で読み上げた。誰も聞いていない。街の人々にとってはありふれた背景音である。
勝利広場の中央には、巨大なヒンメル像が立っていた。右手を上げ、「進むべき正しい道」──すなわち北を指し示している。
台座の脇では無名戦士の火が風に煽られ、その前を、赤い腕章の少年少女が二人一組で、五分交代の衛兵直に立っていた。
工場の煙突からは黒煙が絶えず立ち上っている。夜も昼も止まらない。この街の工場が止まるのは、防護結界が破られたときだけだ。
典型的な、模範的な、教科書通りの北方工業都市。だがその空気は、重く、冷え切っていた。
「国内軍が多いですね。何かあったのでしょうか」
フェルンが小声で言った。
彼女の言う通り、街角のいたるところに、肩章を赤く縁取った制服が立っている。彼らは通行人の証明書をあらためるでもなく、ただ立って、見ていた。
監視の目的が防諜ではなく、住民に「見られている」と自覚させることにある場合、兵は動かない方が効率がいい。
「とりあえず行列当番決めようぜ」
「この街は、並ばなくていいみたいですよ」
「……え」
シュタルクが間の抜けた顔をした、その時だった。
歩いていたフリーレンが、唐突に杖を構えた。杖の先端には、党の象徴である鎌と槌を模した、鈍い銀色の魔道具が取り付けられている。
「フリーレン様、街中ですよ! 逸脱行為は党紀に触れます!」
慌ててたしなめるフェルンを無視し、フリーレンは一点を鋭く睨みつけた。
「魔族だ」
その言葉に、空気が一段冷えた。
視線の先に立つ三人は、周囲の灰色の群衆から明確に浮き上がっていた。労働者の街に似つかわしくない、過剰な装い。泥に汚れ、汗にまみれた行列の中で、彼らの存在は暴力的なまでに異質だった。
中央に佇む金髪の男は、この煤けた街の空気を、汚物でも見るかのように拒絶している。
金の縁取りが施された深い紺色のロングコートに、胸元でこれ見よがしに波打つ白いフリルのジャボ。その中央に鎮座する緑の宝石は、石炭の粉塵にまみれた周囲の光景を嘲笑うかのように、冷徹な輝きを放っていた。
その傍らには、戦いも労働も知らないはずの桃色の髪の少女がいた。
幾重にも重なった白いフリルのスカートは、一歩歩くたびに不自然なほど清潔な音を立てる。ベルスリーブの広がる袖口から覗く指先には、ペンを握るタコも、機械油のシミ一つない。その人形じみた装いは、ここでは美しさよりも、剥き出しの選民意識として映る。
そして、短髪の少年が纏う、糊のきいた白シャツとサスペンダー。整えられたその姿は一見どこかの給仕のようだが、靴に付着した一筋の汚れすら許さないような潔癖さが、かえって見る者の神経を逆撫でした。
何より、彼らの頭部から突き出した忌まわしき角が、彼らが人の理から外れた異物であることを、残酷に物語っていた。
魔族。人間と同じ言葉を操りながら、その本質は市場原理と利己心のみで駆動する、決して相容れぬブルジョワ的怪物。
共産主義思想の開祖フランメは、その著書『資本論』の注釈において、魔族の始祖をこう定義している。「『自由』や『私有権の保障』という甘美な虚偽を弄し、人民を搾取の鎖に繋ぐ魔物である」と。
フリーレンが魔導を行使しようとした瞬間、鋭い怒声が響いた。
「貴様、何をやっている!!」
殺到した国内軍の兵士によって、フリーレンは組み伏せられた。抵抗はせず、そのまま地面に押さえつけられる。
「グラナト書記。あなたの差し金ですか」
フリーレンが殺そうとしていた魔族が言った。
「リュグナー殿。確かに儂は魔族を殺したいほど憎んでいる。だが街中で和睦の使者を手にかけるほど馬鹿ではないわ」
金髪の魔族はリュグナーというらしい。
「和睦の使者?」
フェルンが訝しげに呟く。
「大方、事情も知らぬ党の若造か調査員といったところであろう」
「そういうことにしておきましょう」
リュグナーが膝をつき、いまだ地面に組み伏せられているフリーレンを見下ろす。
「……冷静で、殺意のこもった冷たい目だ。私たちを憎んでいるこの街の住民でさえ、私を見るときは怯えながらも人を見る目をしている。だが君の眼は、まるで猛獣を見ているかのようだ」
「実際にそうでしょ」
フリーレンは淡々と言い放った。
「お前たち魔族は、人の声真似をするだけの、言葉の通じない猛獣だ」
「グラナト書記」
フリーレンは視線を第一書記に移した。
「私は終身党中央特命全権代表だ。書類もある。この拘束は重大な党規違反に当たる可能性があるよ」
グラナトの顔に困惑が走った。
「本当か。調べろ」
兵士がフリーレンの鞄を漁ると、中から一枚の書類が出てきた。
黄ばみ、折り目に沿って繊維が毛羽立ったその紙には、彼女を特命全権代表に任命する旨の文言と、今は亡き偉大なる指導者ヒンメルの直筆署名が、力強く刻まれていた。
グラナトの困惑がますます深まる。
「……その書類の真偽を中央に照会するまで、この者たちを最上級の客室へ案内しろ」
◇
「暇だな……」
州党委員会付属宿泊所の、この街には不釣り合いなほど柔らかいソファに身を沈め、フリーレンは天井を見上げていた。天井の隅には、湿気で剥がれかけた漆喰がある。最上級の客室でもこれだ。
「確認取れるまでフリーレンは外に出ちゃダメだってさ」
シュタルクが言う。
「後で魔導書の差し入れ持ってきて」
「フリーレン様は本当に、時間を無駄にするのがお好きですね」
フェルンが呆れたようにため息をついた。フリーレンはこともなげに返す。
「私だって、いたくてここにいるわけじゃないよ。で、魔族が和睦の使者ってどういうことなの」
「行列に並ぶついでに調べてきました」
行列は情報の集積所である。三時間並べば、その街で公表されていないことのおおよそが分かる。
「剰余価値論のアウラは、ご存じですよね」
「魔王直下の大魔族。七崩賢のひとりでしょ。私たち一行との戦いで配下のほとんどを失って、消息不明のはずだけど」
七崩賢。剰余価値論のアウラ、物神のマハト、虚偽意識のグラオザーム、永久債のベーゼ。魔王軍における七体の怪物である。
「アウラは二十八年前に、力を取り戻しています」
フェルンは窓辺に立ち、カーテンの隙間から通りを見下ろしていた。日はまだ高いのに、街灯が点いている。この街では電力も余っているらしい。
「情報統制が敷かれていて、あくまで噂に過ぎないのですが……無益な殺し合いに疲弊したアウラが和睦を申し出たとか、戦争負担によって予算に支障が出たため交渉することになった、などと囁かれています」
「それで使者を受け入れたのか」
フリーレンは読んでいた本の頁を一枚めくった。目は動いていない。
「悪手だね。魔族との対話なんて無駄な行為だ」
「無駄ってことはねぇだろ」
シュタルクが口を挟んだ。窓際の椅子に後ろ向きに跨がり、背もたれに顎を乗せている。
「言葉があるんだ。話し合いで解決するなら、それにこしたことはねぇじゃねぇか」
その瞬間、部屋の温度が下がった。
フリーレンが本を閉じる。乾いた音が、思ったより大きく響いた。その瞳に、感情のない、だが絶対的な拒絶の色が宿っている。
「……次、そんな修正主義的なことを言ったら粛清するよ、シュタルク。解決しないから無駄なんだ。魔族はブルジョワの化物だ」
◇
何十年前のことだろうか。勇者ヒンメルがまだ存命であった頃。十年に及ぶ苦難の行軍──プロレタリア革命の荒波における、ほんの一節。
フリーレン一行が足を踏み入れたのは、魔族である地主階級の圧政から解放されたばかりの、北方の寒村だった。
雪に閉ざされたその村の広場に、一人の魔族の子供が立っていた。
かつて村を支配し、農民から収穫の八割をむしり取っていた人民の敵──その幼子である。周囲を、ヒンメル一行がベドニャク(貧農)とともに囲んでいた。
「ヒンメル。それは反革命分子の残党だ。教育や慈悲で変えられるものではない」
フリーレンの警告は、冬の風よりも冷たく響いた。
彼女にとって、魔族は個体ではない。奪うことでしか続かない仕組みそのものであり、仕組みは説得されない。千年見てきて、例外は一度もなかった。
しかし革命の若き指導者は、その子の瞳に宿る偽りの涙を拭い、穏やかに首を振った。
「フリーレン。僕たちは『人間が人間を信じられる世界』を作るために戦っているんだ。階級の壁を超え、再教育によって彼女を善良な労働者として迎えることができれば、それこそが真の社会主義的勝利じゃないか」
ヒンメルは、魔族の言葉を「対話」だと信じていた。
だがフリーレンには見えていた。その子が発する「お父様」という言葉も、「寂しい」という嘆きも、すべてはプロレタリアートの警戒心を解き、再び支配の椅子に座るための擬態に過ぎないことを。
村ソヴィエト議長を務める老人は、ヒンメルの理想に感銘を受け、その子に自らの家を提供した。自分が耕した畑のパンを分け与え、労働の尊さを説こうとした。最初は順調に思えた。
だが、惨劇は夜に、音もなく訪れた。
深夜、議長の家から漏れた短い断末魔を聞き、フリーレンが真っ先に踏み込んだ。
血に濡れた床に、老議長が倒れていた。その傍らで、魔族の子供は老人の血で汚れた村の生産資産台帳を、恍惚とした表情で眺めていた。手には、議長の命を奪った鋭利な鎌が握られている。
「どうして……。君は、もう自由だったはずだ。誰も君を支配せず、君も誰も支配しなくていい、そんな世界にいたはずなのに」
遅れて到着したヒンメルが、震える声で問いかけた。
魔族の子供は、理解できないという風に首を傾げた。その振る舞いは、どこまでも優雅で、鼻持ちならない貴族的な傲慢さに満ちていた。
「自由? 私をあんな汚らしい労働者たちと同列に扱うことが、あなたの言う自由なの? 私は管理し、奪う側。彼は管理され、差し出す側。この『契約』こそが世界の真理よ。彼は私を対等な『同志』などと呼んで侮辱した。だから管理権を剥奪したの。当然の処置でしょう?」
彼女が老人を殺したのは、生存のためではない。「他者と対等な地平に立つ」というプロレタリア的友愛が、彼女の階級的本能において、生理的な嫌悪をもたらしたからだ。
ヒンメルの瞳から、理想の光が消えた。彼は静かに剣を引き抜き、その切っ先を旧時代の亡霊へと向けた。
「もう、止めないよね」
「……ああ」
ヒンメルが下したのは、一人の子供への処罰ではなく、社会を腐敗させる「資本の毒」への断罪だった。
ドッ、という音が響く。フリーレンは躊躇なく、魔族の頭を消し飛ばした。
◇
「奴らにとって、言葉は労働者を騙すための嘘だ」
部屋に沈黙が下りる。
「差し入れ持ってきてね」
面会終了時刻になり、フェルンとシュタルクは客室を離れた。
◇
「……事務手続きって、いつの時代も時間がかかるものだね」
フリーレンは紅茶を啜りながら本を読んでいた。
その時、廊下に響いていた衛兵の軍靴の音が、不自然に途絶えた。代わりに部屋へ滑り込んできたのは、冷ややかな、そして傲慢な気配。
「誰? 面会時間ではないはずだけど」
フリーレンは本から目を上げずに言った。
入ってきたのは、労働者とは思えぬ仕立ての良い服を纏った若き魔族、ドラートである。
「剰余価値論のアウラが配下、首切り役人の一人。ドラートだ。お前を殺しに来た」
「そう」
短く、関心なさそうにフリーレンが答える。
「外ではリュグナーたちが書記と話し合っているはずだけど。外交ごっこはもう終わり?」
「これからさ」
ドラートが指を弾く。その瞬間、部屋中に張り巡らされていた糸が、フリーレンの首を正確に捉えた。
ドラートの魔導──不可視の債務。
糸が肌に触れた時点で契約は成立し、担保として差し出されるのは相手の魔力資本そのものである。糸は一秒ごとに利息を取り立てる。振りほどこうとすれば、そこに使った力がそっくり新規の借り入れとして計上され、元本が膨らむ。もがくほど返済額が増え、返済額が増えるほど糸は太くなる。
返せる額を貸すのではない。返せない額を貸し、返せないという事実で縛る。それが略奪的融資という手口だった。
一見すれば、フリーレンはすでに担保に過ぎない。
「言っておくけど、私、強いよ」
「……俺よりもか?」
「『剰余価値論のアウラ』よりも」
ドラートの口角が嘲るように上がった。この女は、自分がどのような不平等な契約に署名させられたのか理解していない。
「そうは思えんな」
「どうして?」
「もう決着はついたからだ」
ドラートが指を引く。不可視の糸が、フリーレンの喉を断ち切るべく収束した。
だが、鋭い金属音が響き、糸は肌を裂くことができなかった。
「ふーん。魔力資本の糸か。面白い魔導だ」
糸が一段、深く食い込む。
「首に魔力資本を集中させて切断を防いだか。冷静だな。並の魔導使いなら、訳も分からないまま首が落ちている。……だが、この糸の強度は魔族の魔導の中でも随一。人類の魔導ではどうにもなるまい。お前の魔力資本ごと、その首をまとめて断ち切ってやろう」
ドラートの声には、自らの資本に対する絶対的な信仰があった。
フリーレンが防御のために魔力資本を使うほど、それは利息付きで徴収され、むしろ糸を強化する。彼にとってこの糸は、逃れられぬ構造的隷属そのものなのだ。
「確かに、この糸を何とかするのは無理そうだね。この複雑な契約を解き明かすには、時間がかかりすぎる」
フリーレンが静かに呟く。
「だから、読まない」
「……何だと?」
ドラートが動揺を見せるより早く、フリーレンの手が動いた。
放たれたのは、高度に規格化された、装飾のない魔導の一撃。鮮血が舞い、ドラートの左腕が、次いで右腕が、肘から先を失って床に落ちた。
「あ、が……っ!?」
「知ってる? 債務っていうのはね、債権者が死ぬと消滅するんだよ。契約書を読むより、書いた奴を消すほうが早い」
糸の張力が抜けていく。
「今の魔族はダメだね。『実践』が少なすぎる」
絶叫する暇もなく、フリーレンはドラートの胸元に乗り上げ、その首を無機質な手つきで掴んだ。
「待て!! 話を……!」
追い詰められた搾取者が、破産の間際に最後に縋る空虚な和解の要求。だがフリーレンの瞳に慈悲はない。
「…………」
掌から零距離で放たれた閃光が、ドラートの顔面と、彼の信奉した剰余価値の幻影を、一分の余地もなく焼き尽くした。
「まずは一匹」
フリーレンは平然と立ち上がり、乱れたコートの襟を正した。
ソ連小ネタ注釈
■ 地図に載らない街
**地図帳に載っていない都市**
軍需産業や機密施設を抱える街は「閉鎖都市」に指定され、地図から消され、名前すら公表されないことがあった。近隣都市の名に番号を付けた符牒(「○○=十六」など)で呼ばれ、出入りには通行証が要る。その代わり供給は手厚いというのが実態で、住民にとっては檻であり同時に特権でもあった。
**中央供給リストの第一類**
都市ごとに供給の優先順位が決められており、首都圏・軍需都市・国境の要衝は最上位に置かれた。同じ国の同じ通貨でも、住んでいる街によって手に入る物がまるで違う。「行列がない」ことこそが、この街の異常さを示す最初のサインである。
**買い出しの列車**
供給の薄い地方から、物のある街へ日帰りで買い出しに行く人々が実在した。帰りの車内が肉と腸詰の匂いで満ちるので「ソーセージ電車」と呼ばれる。「市外居住者の購入は一人二キロまで」という掲示も、実際に各地で出された。
**板チョコ**
供給格差を可視化するのに最適な品目。日常的に買える街と、半年見かけない街がある。第一話でシュタルクが道中の融通用に確保しているのも、要するにこれが通貨に近い価値を持つからである。
---
## ■ 街並み
**ヒンメリンカ/ハイタノフカ**
史実のスターリンカ(重厚な煉瓦造り、天井が高く間取りも広い、幹部や優良労働者向け)とフルシチョフカ(規格パネルを組み立てるだけの五階建て、狭い、しかし数が作れる)の言い換え。指導者の名前がそのまま建築様式の名前になるという命名法まで含めて実在の習慣である。エレベーター設置義務を避けるために五階建てが多い、というのも史実。
**地上を這う暖房配管**
集中暖房方式のため、街全体に太い温水配管が張り巡らされる。地面を掘る費用と手間を惜しんで地上に敷かれ、保温材が剥げたまま何年も放置される。冬にはその上が唯一暖かい場所になるので、猫と犬と、ときには人が集まった。
**バルコニーの漬物樽**
バルコニーは物干し場であり、冬季の天然冷蔵庫であり、物置である。どの家も同じ間取りなので、同じ位置に同じような物が置かれることになる。
**看板のない店**
店に固有名はなく、「パン」「牛乳」「食堂第三号」のように扱う品目と番号だけを掲げる。競争がないので屋号が要らない、というのが建前上の理屈である。
**横断幕と街頭拡声器**
「五カ年計画を四年で」は実在のスローガン。街頭スピーカーは正時の時報と、生産達成率や党の決定を読み上げ続けた。誰も聞いていないが、止まると不安になる音である。
**指導者像と無名戦士の火**
広場中央に立ち、右手を挙げて「進むべき道」を指す像は定番の構図。赤い腕章の少年少女が二人一組で無名戦士の火の前に立つ衛兵直も実在で、名誉ある任務として選抜され、交代は数分ごと。緊張で足が震えるのも含めて、当時の写真がたくさん残っている。
**国内軍**
軍とは別系統の、治安維持を担う内務省の部隊。国境や重要施設の警備、暴動鎮圧、収容所の警備などを担当した。「見張っていると相手に自覚させる」ことが仕事なので、動かない方が効率がいいという本編の説明は、そのまま監視社会の原理である。