フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
■ 物神
もとは宗教の言葉であり、石や木像そのものに力が宿っていると信じられている、その対象を指す語だった。崇める側の事情とは無関係に、物のほうが力を持っているように見える状態のことである。それを借りて、人と人との関係が物と物との関係として現れることを指す語にしたのが『資本論』の第一章末尾。物神のマハトは、そこから取られている。
一万円札で考えると早い あれはただの紙で、燃えるし破れる。それでも私たちは「この紙には一万円の価値がある」と言う。重さや色と同じように、価値がその紙に備わっているかのような言い方である。
だが実際にあるのは紙の性質ではない。みんながこれを受け取る、という人間同士の合意だけである。合意が消えれば紙は紙に戻る。値は紙の側にはなく、人の側にある。
もう一段さかのぼると 机が米二十キロと交換されるとき、表面上は物と物が釣り合って見える。机の価値と米の価値が等しい、という関係に。
けれど実際に釣り合っているのは、机を作った人の手間と、米を作った人の手間である。人と人の関係なのに、物と物の関係の顔をして現れる。これが「人の関係が物の表面に映る」という言い方の中身。
なぜ「物神」と呼ぶのか 厄介なのは、そう見えているうちに物のほうが主人になることである。「相場が上がった」「市場が求めている」と言うとき、私たちは物や仕組みが意志を持っているかのように喋っている。本当は人間が作った関係なのに、外から降ってくる自然現象のように扱う。石像に力が宿っていると信じるのと、構造が同じ。だからこの名前がついた。
補足 価値が労働から来るという部分は、経済学の中で決着した話ではない。近代の主流は、価値は買い手が感じる有用性と希少性から生まれると考える。ただし「物に見えているものが、実は人間の関係だ」という着眼のほうは、立場を問わず使えるものとして残った。この作品が借りているのも、そちらである。
帝都の金融街から一本入った通りの、三階建ての建物だった。
看板はない。扉には真鍮の板が一枚だけ打たれていて、番号のほかには何も書かれていない。それでも帝都で金を借りる必要のある人間は、全員がこの部屋の場所を知っていた。
主が何であるかも、おおむね知られていた。五十年前から一日も歳を取っていないこと。雇い人を一人も置いていないこと。査定が一度も外れたことがないこと。
誰もそれ以上は詮索しなかった。値が当たるのなら、当てているのが何であろうと構わない。金融街というのはそういう場所である。
グリュックが通されたとき、前の客がちょうど出てくるところだった。
立派な身なりの中年の男だった。書付の束を胸に抱えて、階段の途中で一度立ち止まり、手すりに手をついた。それから、何事もなかったように降りていった。
部屋には暖炉がなかった。調度もほとんどない。窓を背にして卓があり、その上に書付が高さを揃えて積まれていた。
「城塞都市ヴァイゼのグリュックだ」
「伺っております。二十分、お取りしてあります」
男は立ち上がりもしなかった。
グリュックは向かいに腰を下ろし、懐から折り畳んだ紙を出して、卓の上を滑らせた。
「ヴァイゼで売れるものの一覧だ。全部書いた」
マハトはそれを開いた。目が動いた。それだけだった。
「小作地。第一坑から第五坑。街道の通行料の徴収権。市場の使用料。領主館。──以上で、年に四千」
「金貨で四千か。……早いな」
「書いてありますので」
マハトは紙を置いた。
「ただし、この一覧のうち、あなたのものは領主館だけです」
「知っている」
「小作地はアレクセイ伯爵家の所有、坑も同様。通行料の徴収権は八年前に伯爵家へ移っています。市場の使用料は、今年から徴収されていません。徴収する役人の給金を、伯爵家が止めたためです」
「そこまで知っているのか」
「調べるのが仕事です」
「では、領主館は」
「築百六十年、東の翼は使用に耐えません。買い手がつくとすれば取り壊しの資材としてですが、ヴァイゼには石を買う者がおりません」
マハトは指を一度だけ動かした。
「差し引きで、あなたの資産は帳簿上ゼロです。正確には、館の維持費の分だけ負債です」
グリュックは黙っていた。
「ご融資はできません」
「他に貸す者はいるか」
「おりません。同じ計算になりますので」
マハトは書付の山から一枚を抜き、卓の端に置いた。
「先月、同じ結論をお持ち帰りになった方が一人、首を吊られました。あれは私の見込みに入っておりました」
男は、天気の話をするようにそう言った。
グリュックは、初めてまじまじとその顔を見た。
「……なるほどな」
「一つだけ、業務上お伺いすることになっております」
マハトはペンを取った。
「この資金で、何をお買いになるおつもりでしたか」
「使途か」
「はい。返済の見込みに影響しますので」
グリュックは、少しのあいだ窓のほうを見た。それから話しはじめた。
城塞都市ヴァイゼ。帝都での政争に敗れた貴族が最後に行きつく場所である。負けた者と、負けた者から搾り取る者しかいない。
実権を握るアレクセイ伯爵家は都市の運営をないがしろにし、冬になれば貧民街から人が減る。減った分は春に数え直されるだけで、誰も理由を書き残さない。汚職は役所の作法として定着し、法はとうに文章としてしか存在していない。
自分はそれを憂いていた。憂いてはいた。だが人というものは不思議なもので、実際に己の足元へ火が付くまで動こうとしない。自分は書斎で嘆き、書斎から出なかった。
息子は違った。
正義感の強い子どもだった。有力貴族たちに直訴した。お飾りとはいえ領主の息子の言葉である。さぞ煩わしかっただろう。
息子はバルコニーから飛び降りた。ヴァイゼでは、そういうことになっている。
石畳の上の身体を、自分は呆然と見下ろしていた。声も出なかった。ただ、その日が年の離れた妹の誕生日の前日であったことだけを、なぜか鮮明に覚えている。贈り物は息子の部屋の机に、包まれたまま置かれていた。
七年前の話である。
グリュックはそれだけを、他人の経歴でも読み上げるような速さで並べた。
「金で買いたいのは、息子が目指した街だ」
ペンが止まっていた。
「その項目には、値がつきません」
「知っている。だから誰も貸さん」
沈黙があった。窓の下を荷車が通り、遠ざかっていった。
「……一つ、伺ってもよろしいですか」
マハトはペンを置いた。それまでと、声の調子が違っていた。
「悪意とは何ですか。罪悪感とは何ですか」
グリュックは、ゆっくりと息を吐いた。
「ようやく本題だ」
「本題」
「知っていて来た。あんたが人でないことも、査定が外れんことも、数十年歳を取っていないことも、金融街では有名だからな」
老人は懐から煙草を出し、火を点けてよいかとも訊かずに点けた。
「私に払える手数料はない。それはさっきあんたが証明した。だから別のもので払う」
「何をです」
「私ほど悪意に触れた男はそういない。自らの手は汚さずとも、多くの政敵を葬ってきた。もっとも、そいつらは全員、自分以上に救いのない悪党だったがね」
紫煙が細く立ちのぼった。
「罪悪感にさいなまれない日はなかった。──あんたの知らない感情を、私は教えられる」
「対価としては、値がつきません」
「ああ。だからあんたに買えるんだろう」
マハトは、しばらく答えなかった。
「条件は」
「アレクセイ伯爵家を片付けるのを手伝ってもらう。それだけだ」
「ずいぶん高い買い物です」
「安いさ。あんたにとっては金がかからん」
グリュックはもう一枚、封をした紙束を卓に置いた。厚みがあった。
「担保だ。私がこれまでにやったことを、全部、日付入りで書いてある。署名もした」
マハトはそれに手を伸ばさなかった。
「これは」
「あんたが持っていれば、私はいつでも吊るせる。命乞いに来たのではないという証明だよ。報いを受ける覚悟なら、七年前に終わらせている」
「──実に面白い」
マハトの声が、わずかに変わった。
彼は卓の上の書付の山を、端に寄せた。
「二十分では足りませんね。今日の残りの予約を、断ってまいります」
◆ ◆ ◆
領主館は、東の翼だけが冷えていた。
暖炉には灰が積もり、窓枠には煤が指の厚みで溜まっている。まともな調度はない。窓の外には、羊毛の集散地としての盛りをとうに過ぎた街が、灰色の空の下に広がっていた。
「それで。あの一族をどう片付ける。……殺すのでは駄目なのか」
「殺しても土地は相続されます。次の当主が同じことをするだけです」
「そうか。それもそうだな」
「まず、伯爵の値を出しました」
マハトは書付を一枚、卓に置いた。
「屋敷、馬車、社交、賄賂の相場。彼が一年に必要とする現金は、およそ四万です」
「四万」グリュックは眉を上げた。「この街の歳入の三倍だな」
「ええ。ですから彼は帝都へ戻りたい。議席を一つ持てば、判決も、税も、官職の斡旋も動く。四万は取り返せます。──あの一族は愚かではありません。計算は正しい」
「知っている。だから七年潰せなかった」
「問題は、彼の富がすべてこの街の土地に縛られていることです。小作料、炭鉱、通行料。毎年確実に入るが、動かない。議席を買うには、まとまった現金が要る。彼にはそれがない」
グリュックは煙草に火を点けた。
「それで」
「売らせます」
「何を」
「未来をです」
沈黙が落ちた。
「向こう二十年分の小作料を、いま一括で買い取ります。二十年待てば入るはずの金が、今日、手に入る。彼は議席を買える」
「……それは、詐欺か」
「いいえ。彼にとって得な話です。だから応じます」
グリュックは、煙草を口から離したまま、しばらく動かなかった。
やがて、自分で組み立てはじめた。
未来の金は、待たされる分だけ安い。だから二十年分と言っても、二十年分の金額がそのまま出るわけではない。伯爵はそれを承知で売る。承知のうえで、それでも得だと判断する。ここまでは何も不正がない。
そして翌年。彼の手元には議席があり、街からの収入はない。
「……次の年、また売るしかないのか」
「そうなります」
「二度目は」
「条件が悪くなります」
「なぜだ」
「理由は四つあります」マハトは指を折った。「都度、正直に申し上げるつもりです」
グリュックは椅子の背に体を預けた。天井を見上げ、それからゆっくりと息を吐いた。
「一つ聞く。誰の金でやるんだ。私には四万などない」
「帝都の金融業者を連れてきます。私の査定は外れません。外れない査定には、金が集まります」
「お前の取り分は」
「金では受け取りません」
「……では、何で受け取る」
「この街のあらゆるものに、私が値をつけます。それが取り分です」
グリュックは、この魔族を長いあいだ見ていた。
「趣味が悪いな」
「恐れながら、それは値のつかない評価です」
◆ ◆ ◆
アレクセイ伯爵の執務室の壁には、ヴァイゼの地図が掛かっていない。
掛かっているのは帝都の地図だった。彼はこの街に十一年住み、一度も自分の街とは呼ばなかった。
「──二十年分と言ったな」
伯爵は書面を三度読み、そのたびに違う箇所を指で押さえた。愚かな男ではない。むしろこの街で最も帳簿の読める男だった。
「割り引きが深すぎる。二十年分の額面に対して、出る金貨が半分もない」
「遠い年の金だからです」マハトは言った。「十九年後の小作料は、今日の小作料と同じ額ではありません」
「三年目までは今日と同じ扱いにしろ。あそこは私が直接管理している。取りっぱぐれはない」
「妥当です。認めます」
「炭鉱の分は外す。あれは値が動く」
「では、その分を差し引いて計算し直します」
伯爵は、自分が有利な交渉をしたことに満足した。実際、有利だった。彼はこの日、条件を三箇所改善させている。
最後に、彼は書面を置いて言った。
「一つだけ、こちらから確認しておく。議席は、買った日から金を生むわけではない」
「ええ」
「委員会に入り、貸しを作り、順番を待つ。実入りが出るまでに三年はかかる。その三年、私はこの街から一枚も受け取らない。──そういうことだな」
「そういうことです」
伯爵は笑った。
「よかろう。三年なら持たせられる」
彼は正しかった。三年なら、持たせられたのだ。
署名の前に、伯爵はふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば貴様、金を作れるという噂があるな」
マハトは卓の上の文鎮に触れた。石が、指の触れた形のまま黄金に変わった。
伯爵は身を乗り出し、それを掴み、重さを確かめ、爪を立て、そして眉を寄せた。
「……傷がつかんな」
「溶けず、削れず、刻印も打てません。量目も合いません。両替商の台に載せれば、一度で露見します」
「ならば最初から金貨の形に作ればよかろう。刻印ごとな」
「作れます」
「……なぜやらん」
「増えるのは金貨であって、値ではありませんので」
マハトは文鎮を卓の隅へ戻した。
「私が作れるのは物だけです。値をつけるのは人です」
伯爵はしばらく黙り、それから声を上げて笑った。
「無価値なものを無限に作れる男が、他人の帳簿を数えて回っているとはな。傑作だ」
「恐れ入ります」
マハトは丁寧に頭を下げた。
その文鎮は、三十年あまりのちまで、その卓の隅に置かれたままになる。
◆ ◆ ◆
翌年の秋、伯爵はマハトを呼んだ。
「もう一年分売る。同じ条件でな」
「同じにはなりません」
「なぜだ」
「四つあります」
マハトは書付を開いた。
「第一に、質です。昨年お売りいただいたのは、近い年の、良い土地の収入でした。今年差し出せるのは、その後ろに並ぶ年になります。遠く、不確かで、痩せた土地の分です。同じ一年分でも中身が違います」
「第二に、事実です。あなたは昨年、これを買い戻すとおっしゃった。買い戻せなかった。その差を、今年の値に織り込みます」
伯爵の顎の筋が動いた。
「第三に、買い手です。他の商会にお持ちになっても値はつきません。調べれば、その収入が既に売られていることが分かるからです。売り手は一人、買い手も一人。値は買い手が決めます」
「……脅しか」
「事実の説明です。脅す必要がありません」
「第四は」
「あなたご自身です」
マハトは顔を上げた。
「目減りした分を補うために、あなたは小作料を上げ、炭鉱を急がせるでしょう。すると小作人が逃げ、坑が傷み、翌年の収入が本当に減ります。──売り物の値を、売り手が下げています」
伯爵は長いあいだ黙っていた。それから、乾いた声で言った。
「貴様、なぜそれを私に教える」
「聞かれたからです」
「……ふん」
伯爵は署名した。
この年、彼が売ったのは三年分だった。同じ現金を作るのに、去年の三倍の年数が要った。
翌年は五年分。その次は八年分。
必要な現金は毎年ほとんど変わらないのに、それを賄うために差し出す年数だけが増えていった。
◇
三年目の春、東の翼の窓から、グリュックは一台の荷車を見た。
小作人の一家だった。鍋と寝具と、括った麦の袋。子供が二人、荷の上に乗っている。門のところで一度止まり、それから北へ折れた。
「どこへ行く」
「北の紡績場かと思われます。募集が出ておりますので」
「暮らしていけるのか」
「分かりません」マハトは書付から目を上げなかった。「あの荷の中身に値をつけますと、七です」
「訊いていない」
「失礼しました」
その年、伯爵領を出た小作人は二百四十戸だった。数字は翌年の査定に反映され、値は正しく下がった。
◆ ◆ ◆
五年目の冬、伯爵は帳簿を三日かけて自分で検算した。
そして、マハトを呼んだ。
「出口がない」
彼は開口一番そう言った。声は落ち着いていた。
「買い戻す金は、この街の収入からしか出ない。その収入を売っている。蛇が自分の尾を追っている。──最初からそうだったな」
「ええ」
「なぜ言わなかった」
「申し上げました」マハトは言った。「一度目の契約の際に。あなたはご自分で、三年は持たせられるとおっしゃった」
伯爵は口を開き、それから閉じた。
覚えていた。あの日、自分がその一文を口にしたことを、正確に覚えていた。
「……三年で足りると思ったのだ」
「ええ」
「足りなかった」
「ええ」
暖炉が薪を落とす音がした。
「今からやめれば、どうなる」
「これまでにお売りになった三十六年分は戻りません。議席をお売りになれば、あなたは帝都から永久に締め出され、収入のないヴァイゼの貴族としてお過ごしになります」
「続ければ」
「実入りが出るまで持たせられれば、取り返せる可能性はあります」
伯爵は窓のほうを見た。窓の外ではなく、壁に掛かった帝都の地図のほうを。
「……あと一年だ」
彼は言った。
それは弱さではなかった。この時点で、彼の判断は数字の上で正しかった。降りるほうが確実に損だった。彼はその後の三年間、毎年、正しく同じ判断を下し続けた。
八年目の秋、伯爵の議席がついに実を結んだ。運河の敷設許可が下り、彼が名を連ねた会社の株が跳ね上がった。帝都の新聞は、辺境から返り咲いた男の名を好意的に書いた。
彼は勝ったのである。議席も株も売っていない。ただ、勝った先に持ち帰るヴァイゼが、もう彼のものではなくなっていただけだった。
年が明けて、帝都の金融業者たちがマハトを訪ねてきた。
彼らはアレクセイの将来収入を、都合五十年分抱えている。買った時の査定は、この魔族が出したものだった。彼らはもう一度、同じ男に査定を求めた。
「回収見込みをお答えします」
マハトは書付を開いた。
「小作人が三割減っています。残った者も来春には出るでしょう。第二坑は排水が追いつかず、閉じられました。第四坑も同じ経路を辿ります。通行料は、街を通る商人が減ったぶん落ちています」
「……つまり」
「五十年分の紙は、五十年分の金にはなりません。私の見立てでは、四分の一です」
部屋が静かになった。
「あなたは八年前、これを買えと言った」
「買えとは申しておりません。値を申し上げただけです。あの時の値も正しく、今の値も正しい」
マハトは書付を閉じた。
「変わったのは土地のほうです」
「……では、なぜ止めなかった」
「止める権利を、あなた方はお持ちではありません。お買いになったのは収入であって、土地ではありませんので」
彼らは投げ売りした。四分の一よりさらに安く、早く手放したがった。利回りの死んだ紙を抱えたまま帳簿を締めたくなかったからである。
買い手は一つしかなかった。
ヴァイゼ共同信託組合。八年前に設立された、この街で唯一の金融組織である。
出資者は千二百人いた。羊毛商が三人、パン屋が一人、あとはほとんどが小口だった。退役兵の年金、寡婦の蓄え、職人が息子の年季のために貯めていた金。集めて回ったのは領主家の名で、規約には理事としてグリュックの署名がある。
設立から八年、組合は一度も何も買わなかった。
出資金はただ金庫に積まれ、帳簿の上で少しずつ増える利息だけが配られた。年に二度、出資者たちは領主館で説明を受け、そのたびに「まだです」と言われて帰った。四年目には、あれは飾りの領主の道楽だという噂が立った。
「いつまで待つんだ」と、一度グリュックが訊いたことがある。
「待つことにも値がつきます」とマハトは答えた。「今は、待っているだけで毎年利が乗っています。この街で最も割の良い商売です」
九年目の春、組合は三日で買い物を済ませた。
将来収入の紙を、額面の五分の一以下で。次いで、それらの請求権が付いたままの土地そのものを、抵当流れの値で。小作地、第一坑から第五坑まで、街道の通行料の徴収権、そして伯爵の屋敷。
出資者には、その年、これまでの八年分を上回る配当が出た。
出資者名簿の千二百人の中に、マハトの名はない。八年のあいだ、彼は一度も自分の金を入れなかった。
千二百人の市民は、生まれて初めて自分の街の一部を所有した。組合の説明会には入りきらないほどの人が来た。グリュックは壇上で、この街の土地はもう帝都の誰のものでもないと言った。拍手は長く続いた。
この千二百人は、その後も出資者であり続ける。のちに工場で糸を継ぐことになるのは、この街へ後から流れ込んできた人々である。
伯爵は帝都へ移った。議席は残り、株の値上がり分も彼のものだった。彼がこの街に戻ることは二度となかった。
一族が街を去る日、グリュックは見送りに出なかった。ただ、その晩の煙草を一本余分に吸った。
元ネタ注釈
※この編だけは舞台が革命前の帝国領なので、ソ連ではなく金融の元ネタの解説になります。
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■ 査定
**将来の金は、待たされる分だけ安い**
今日の百と十年後の百は同じ額ではない、という考え方(割引現在価値)が、この編の全部の土台。二十年分の小作料を売っても、二十年分の金額は出てこない。伯爵はそれを承知で売る。承知しているからこそ、詐欺にならない。
**未来を売る**
将来入ってくる収入を、今まとめて現金に換える取引は実在する。歴史的には徴税請負——国が将来の税収を業者に一括で売り、業者が現地で取り立てる——が同じ構造で、取り立てが年々苛烈になっていく副作用がある。現代でも、将来の売上債権を担保にした資金調達として広く行われている。
**議席を買う**
選挙制度が整う以前、議席は事実上売買の対象だった。議席を得ることで判決や税や官職が動くという伯爵の計算は、当時としてはまっとうな投資判断である。
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■ 増えていく年数
**四つの理由**
1. 質の劣化 — 良い年・良い土地から先に売るので、残るのは遠くて痩せた分になる
2. 信用の毀損 — 「買い戻す」と言って買い戻せなかった実績が、次の値に織り込まれる
3. 買い手が一人しかいない — 他へ持ち込んでも、既に売却済みだと分かるので値がつかない(買い手独占)
4. 売り手が自分で売り物を傷める — 目減りを補うために取り立てを強めると、翌年の収入が本当に減る
四つが同時に効くので、同じ現金を作るのに必要な年数が、一年、三年、五年、八年と伸びていく。借り換えを重ねるほど条件が悪くなる、という債務の罠そのものである。
**投げ売り**
回収見込みが落ちた紙を、業者たちは四分の一よりさらに安く手放した。帳簿を締める都合で、損してでも早く処分したいという力が働くと、投げ売りが起きる。そこを狙って買い叩く手法は現代でも一つの業態になっている。
**千二百人の出資者**
重要なのは、この千二百人と、のちに工場で糸を継ぐ人々が別の集団であること。街の資産を市民が取り戻した、という美談は嘘ではない。ただし「市民」の中身が三十年で入れ替わる。──ここは後編の話。