フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
その年の秋、ヴァイゼの有力者たちは、神話の時代の魔道具を一つ、どこからか掘り出してきた。
北の城塞都市が一夜で全滅したのは、その前の年である。魔族一人の仕業だったと伝わっていた。
彼らはその話を持ち出し、根回しに走り、市民の署名を集めた。もっとも、彼らが本当に見ていたのは北の話ではない。この街で最も力のあった一族が、九年で消えたことのほうである。
魔族の心を縛る、支配の石環。
命令は二つだった。ヴァイゼの民とその子々孫々に仕えること。ヴァイゼの民に悪意を持った行いをしてはならないこと。破れば即座に死ぬ。
「最高に笑えるだろう」書面を渡しながら、グリュックは言った。「奴らは魔族のことを微塵も分かっていない」
「地獄の底まで付き合ってくださるのでしょう」
「ああ」
「では、これもまた一興です」
マハトは石環をはめた。何も起こらなかった。抱けない感情を禁じられても、何一つ起こりようがない。
その日から市民は少しだけ安心して眠るようになり、有力者たちは自分たちが街を守ったのだと信じ、グリュックは東の翼で一人、腹を抱えて笑った。
石環の一件は市の記録に残された。この街には魔族に悪意ある行いをさせない魔道具がある。以後ヴァイゼで生まれた者は、それを当たり前の事実として教えられて育つことになる。
◆ ◆ ◆
翌年、グリュックは東の翼を出た。
医者の勧めである。冬のあいだ咳が止まらず、あの部屋は湿気が抜けないと言われた。丘の上に古い狩猟館があり、修繕すれば住めた。
「風上ですね」
荷を運びながら、マハトが言った。
「なに」
「この土地は、風がおおむね東へ抜けます。街の煙は東へ流れる。ここには来ません」
「それは結構なことだ」
グリュックはそう言って、それきり忘れた。
◇
最初の十年は、良い十年だった。
これは後から見て良く思えたという話ではない。数字が実際に良かった。
組合の土地では小作料が三年据え置かれ、逃げていた小作人が戻ってきた。閉じた坑には排水機が入り、雇用が生まれた。羊毛を積み出すだけだった街に紡績場が建ち、次の年にはもう一つ建った。人が流れ込んできた。人口は七年で二倍近くなった。
餓死者の届出がその年ゼロになったと聞いた朝、グリュックは書付を三度読み返した。
「三十年、この街に住んでいるがな」老人は言った。「ゼロという数字は初めて見た」
「ええ」
「マハト。酒を出せ。昼だが構わん」
◇
税収は五年で三倍になった。街道は舗装され、夜の目抜き通りには灯りがついた。
その頃、グリュックはよく街へ下りていた。紡績場を見て回り、機械の音の大きさに驚き、耳が遠くなるのではないかと訊いた。
マハトは正直に、なりますと答えた。だから交代の刻限を定めた。定めれば守られていた。当時は本当に守られていたのである。
「賃金はどうだ」
「上がっています」
「そうか」
「ええ」
数字は正しかった。
工場が賃金を自前の札で払いはじめたのは、その三年後である。札は工場の売店でしか使えず、売店の値は街の相場より三割高い。帳簿の上では、賃金は上がり続けた。
グリュックは訊かなかった。マハトは、訊かれていないことを言わなかった。
◇
丘に移って十二年目の秋、教会の若い神父が面会を求めてきた。救貧院の隣の教区の、ヨナスという男である。
彼は三十分ほど話し、要点は二つだった。子供の働く時間が長すぎること。工場の札のこと。
グリュックは最後まで聞き、礼を言い、経済顧問に調べさせると約束した。実際に調べさせた。
「まず、子供の労働時間です」マハトは書付を読み上げた。「街の平均は一日十一時間。帝国北部の同種の工場では十三時間ですので、この街は短いほうです。次に札ですが、発行しているのは十四の工場のうち五つ。ヴァイゼ全体の賃金支払額に占める割合は一割強です」
「一割か」
「はい」
「多いのか、少ないのか」
「他の街と比べれば少ないほうです」
「……そうか」
一つとして嘘はなかった。平均は本当に十一時間で、他所より短く、札は本当に一割強だった。
ただ、その一割は同じ五つの工場に固まっていて、そこで働く二千人にとっては十割だった。平均は、街のどこにも存在しない一日を描いていた。
グリュックはそれを訊かなかった。訊けば答えたはずである。
彼は神父に手紙を書いた。調べたところ、憂慮されるほどではないようだ。だが気づいたことがあればいつでも知らせてほしい、と。神父は丁寧な返事をよこした。
それきりになった。
◇
娘が死んだのは、その翌年である。
グリュックは丘を下りなくなった。
墓地は館から歩いて十五分で、その道は街を通らない。朝そこへ行き、昼に戻り、午後は書付を読んだ。組合の帳簿の写しが毎月届いた。数字は良かった。
彼は毎月それを最後まで読んだ。読むことは、彼にとって街を見ることだった。
◇
同業組合が解体されたのは、その二年後である。書類は丘の上まで運ばれてきた。
「なぜ必要だ」
「親方の資格が、紡績場に人が入るのを妨げています。仕事を欲しがっている者が、資格を持たないという理由だけで職に就けない。撤廃すれば、就ける者が増えます」
「賃金は下がるのではないか」
「一人あたりは下がります。街全体の支払総額は増えます。働ける人数が増えるからです」
グリュックは、しばらく窓の外を見た。丘の上は、いつも通り澄んでいた。東の空に、街の煙が細く流れているのが見えた。
「……総額が増えるなら、その分は誰かの家に入るわけだ」
「そうなります」
彼は署名した。
その日の判断が間違っていたとは、彼は死ぬまで思わなかった。実際、総額は増えた。
◆ ◆ ◆
あの日の契約から三十年が過ぎ、ヴァイゼの空から青が消えた。
煉瓦の煙突が林立し、吐き出される煤煙が低い雲を作って、街を一日じゅうの薄明の中に閉じ込めている。羊の放牧地は影も形もない。囲い込みで土地を失った小作人の孫たちが、いま、糸を継いでいる。
丘の上には、煙は来なかった。
改革は順序よく進んだ。
徒弟の年季も、親方の資格も、職人が集まって賃金を語ることも、順に廃された。誰もが自由に働き、自由に解雇される。一日十六時間の契約も、五歳の子供が動いている機械の下へ潜り込んで綿くずを拾う仕事も、双方が合意している以上は正当な取引である。
街のあらゆるものに所有者がついた。井戸も、街灯も、道路も。所有者はヴァイゼ共同信託組合であり、組合の理事長は設立以来変わっていない。
給水は朝の二時間だけ開かれ、栓の前には番人が立った。街灯の費用は面した家々に課され、払えない通りから順に灯が消えた。賃金は工場の札で支払われ、その札は工場の売店でしか使えない。売店の値は街の相場より三割高い。
最後に、施しが廃止された。
教会の炊き出しも療養所への補助も、怠惰を助長するものとして打ち切られた。代わりに丘の下に石造りの巨大な建物が建った。救貧院である。
失業者と病人はそこへ収容され、家族は男女子供で棟を分けられ、外の最低の暮らしよりもさらに劣悪な環境で、死ぬまで麻屑をほぐす。
あそこへ入るくらいなら機械に巻き込まれて死んだほうがましだ。そう思わせることが、賃金を底まで押し下げる装置だった。それは事故ではなく、設計だった。
「街が金色に見える」
老いたグリュックが窓を示した。
煤を透かした夕日が工場の窓硝子に乱反射して、街全体が鈍く、重たく光っている。魔法を使うまでもなかった。人の一日を磨り潰して絞り出された脂の色だった。
「美しい景色です、グリュック様」
マハトは、路地で飢えている群衆がいることを知っていた。しかし、領主のいる場所からは貧民街の様子などうかがい知ることはできない。
グリュックはもう何年も工場地域に行っていなかった。煙によって体調を崩す可能性があるためである。
老人は、窓の下でどれほどの地獄が回っているかを知らなかった。
◆ ◆ ◆
その日、ヴァイゼの目抜き通りを埋め尽くしたのは、怒号ではなく賛美歌だった。
数万の労働者が、武器を持たず、領主の肖像画を掲げて歩いていた。先頭の男の手には、一枚の請願書が固く握られている。
彼らは、自分たちを苦しめているのが領主の悪意ではないと信じていた。街を豊かにしようとした結果、どこかで歯車が噛み合わなくなっただけなのだと。訴えれば、聞き入れてもらえる。
──この街には、魔族に悪意ある行いをさせない神話の魔道具がある。彼らは全員、それを当たり前の事実として教えられて育った世代だった。
執務室の窓から、グリュックはそれを見下ろしていた。
「……止めさせろ。いや、話を聞く。誰か、先頭の男を上げてこい」
「ヨナス神父です」マハトが言った。「十二年目の秋に、一度こちらへ来ております。子供の労働時間と、工場の札の件で」
グリュックの手が止まった。
「……私は、手紙を書いたな」
「はい。気づいたことがあればいつでも知らせてほしい、と」
老人は何も言わなかった。
賛美歌が近づいてくる。窓硝子がかすかに震えていた。
「グリュック様」
マハトは窓の外を示した。
「三十三年、私はこの街のあらゆるものに値をつけてまいりました。井戸の水にも、夜道の灯りにも、五歳の子供の一日にも、正しい値がつきました。つけられなかったものが、二つだけあります」
グリュックは答えなかった。
「一つは、三十三年前にあなたが買おうとなさったものです。もう一つが、あれです」
歌声は、もう窓を震わせるほどに近い。
「彼らはあなたの善意を信じ、非合理な希望を抱いて歩いている。私の計算書には、決して計上できない領域です」
マハトは、左手首の石環に指で触れた。
「もし、あれを壊したなら。その時こそ、私は悪意というものが、罪悪感というものが、わかるような気がするのです」
黄金がマハトの足元から広がった。
グリュックは、自分の指先が変わっていくのを見た。それから、窓の外を見た。
「……そうか。いつかこんな時が来ると思っていた」
老人の声は、三十三年前に帝都の事務所で担保を差し出したときと同じ調子だった。
「マハト。君は私の大切な悪友で、救いようのない悪党だ。いつか必ず報いを受ける。今の私のようにな」
世界が、黄金にのまれてゆく。
「楽しかったよ。マハト」
「ええ。私もです。グリュック様」
行進していた労働者たちが、掲げられた肖像画が、握られた請願書が、歌声の震えまでもが、黄金へ書き換えられていった。
賛美歌が途中で途切れ、そのまま止んだ。
ヴァイゼは静寂に包まれた。
マハトは自分の左手を見た。
石環には、何も起こらなかった。
彼はしばらくそこに立って、自分が今しがた何を手に入れたのかを確かめようとした。何も変わっていなかった。
値のつかないものは、壊しても値がつかなかった。
やがて、かつて繁栄した街は黄金郷と呼ばれるようになる。
元ネタ注釈
■ 良かった十年と、その後
**風上**
産業革命期の都市では、卓越風の風上側に富裕層が住み、風下側に工場と労働者街ができた。ロンドンの西側が高級住宅地で東側が労働者街になったのは、この理由が大きいとされる。
**現物給与と工場の売店**
賃金を現金ではなく工場発行の札で払い、その札は工場の売店でしか使えず、売店の値は割高——という仕組みは実在し、トラック制度と呼ばれた。帳簿の上では賃金が上がっているのに、労働者の暮らしは悪くなる。あまりに横行したため、各国で禁止法が作られた。
**同業組合の解体**
親方資格や徒弟制度は参入を制限する一方で、賃金と技能の水準を守る装置でもあった。撤廃すれば働ける人数は増え、一人あたりの賃金は下がり、支払総額は増える。どちらも本当に起きる。グリュックが「総額が増えるなら誰かの家に入る」と考えたのは自然だが、増えた総額がどう分かれるかは、別の話である。
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■ 三十年後
**囲い込み**
共同利用地や小作地を囲って私有地とし、農民を土地から切り離す動き。土地を失った農民が都市の工場労働力になるという流れが、産業革命の労働力供給を支えた。前編で街の土地を取り戻した千二百人と、いま糸を継いでいる人々は、別の集団である。
**五歳の子供と、機械の下の綿くず**
実在の仕事である。稼働中の紡績機の下に潜って落ちた綿を拾う作業は、体の小さい子供にしかできないため、幼い子が充てられた。事故も多かった。
**井戸・街灯・道路の私有**
水道も街灯も、当初は民間事業だった。給水が一日数時間に限られ、料金を払えない地区の灯が消えるというのは、記録に残る実態である。
**救貧院と「劣等処遇」**
救貧院に収容された者の暮らしは、外で最も貧しく働いている者よりも、必ず劣悪でなければならないと定められていた。そうでなければ人が救貧を選んでしまうから、という理屈である。家族は男女子供で別棟に分けられ、麻屑をほぐす(古い綱をほどいて繊維に戻す)ような無意味に近い作業を課された。
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■ 行進
**賛美歌と肖像画と請願書**
非武装の労働者が数万人、聖歌を歌い、統治者の肖像を掲げ、請願書を持って行進する──この光景のモデルは一九〇五年、司祭に率いられた労働者の請願行進である。血の日曜日事件として知られている。彼らは統治者を敵とは考えていなかった。悪いのは間に立つ者たちで、直接訴えれば聞き入れてもらえると信じていた。
**ヨナス神父**
モデルはゲオルギー・ガポン神父。血の日曜日事件の際、ニコライ2世に渡す請願書を作成した。