フリーレン「そうだ。社会主義革命を起こそう」 作:あっさーだ
柵は、金の縁から三百歩ほど手前に立っている。
五十年前に立てたときは、千歩の余裕を取ってあった。膨張の速さを見誤ったわけではない。見誤らないために測ったのだが、測ったところで足りなかったのである。
境界が動くたびに、内側の柵は飲まれる。飲まれたぶんだけ外に打ち直し、標識に新しい番号を振る。抜いた古い柵をどうするかは決まっていない。決まっていないものは、たいてい放置される。
金の中には、五十年ぶんの柵が、番号の順に並んだまま立っていた。
ソリテールは、いちばん新しい一本に手を置いて、その奥を眺めた。
結界は、よくできていた。
北方の遊牧民の守護方陣と、南の隔絶大結界と、廃れて久しい古い民族の閉鎖式が、継ぎ目を潰して編み合わせてある。理屈の出どころが三つとも違う。違うものを繋いだところが、どこも壊れていない。
人類がこれを五十年前に作れたというのが信じられない、と彼女は思った。
もっとも、作った人間はもう残っていない。作らせた国も残っていない。国境が二度動いて、この土地は別の名前の国のものになった。残っているのは物だけである。
物は、作った者の事情を知らないまま働き続ける。彼女はそういうものが好きだった。
解くのに、二か月かかった。
壊すのは一刻もかからなかった。
音は小さかった。五十年ぶんの魔力資本が、風の抜けるような音を立てて散っていく。柵の内側の空気が、わずかに甘くなった。金は匂わない。匂ったのは、五十年ぶりに外の空気が入ったからである。
街は、昼だった。
目抜き通りに行進がそのまま立っている。掲げられた紙が一枚の板になり、歌の途中で開かれた口が数万、閉じないまま並んでいた。屋根の上で洗濯物が板になっていた。角の店の前に、金の犬がいた。
噴水の縁に、男が腰かけていた。五十年、そうしている。
「どういうつもりだ。ソリテール」
「ねえマハト。探していた感情は見つかった?」
「……」
「そう」
ソリテールは通りへ入っていった。
歩きながら、彼女はずっと喋っていた。
「ねえ、これ、何の日だったの?」
「もしかして祭りかしら? いえ、それだとおかしいわ。みんな前を向いているでしょう。祭で歌うときはたいてい輪になるのよ。それに、みな楽しそうな顔をしていない」
彼女は隊列の脇を歩いて、先頭のほうを見に行った。神父がいた。裾が固まって、風の形のまま止まっている。
「もしかして請願?」
「……」
「へえ。請願なのね。でも、ここまで大規模なものは初めて見たわ。いったい何人いるのかしら。みんな、口を開いている。歌っているのね。ねえ、マハト。歌いながら要求するの。おかしいと思わない? 要求というのは、相手に何かを渡して、代わりに何かをもらう行いでしょう。この人たちは何も持ってきていないわ。ただ、歌っている」
マハトは答えなかった。
その通りだったからである。八十三年、彼が理解できずにいることである。
「ねえ。これ、戻せるの」
マハトは答えなかった。
答えなかったので、彼女は自分で解読を始めた。魔族の魔法は人類よりはるか高みにある。七崩賢の魔法となればなおさらだが、魔族であるソリテールにとってはその限りではなかった。
結界より簡単だった。あれは三つの国の理屈を編んであったが、これは一人の頭から出ている。癖がある。癖のあるものは、癖さえ掴めば速い。
「止めないの」
「止める理由がありません」
彼が言ったのはそれだけである。
五十年前、この街を止めたときに得られるはずだったものは、何一つ得られなかった。同じ物を同じ状態で置いておく意味はない。棚に載せたまま値の下がらない物というのは、それはそれで、彼には扱いに困るものだった。
ソリテールは指を一度だけ動かした。
金が、上から順に色を失っていった。
屋根。庇。看板。窓枠。硝子。硝子の内側の値札。値札の下のパン。
洗濯物が風で鳴った。犬が身震いをして、駆け出した。
目抜き通りの数万人が、途中で切れた歌の続きを歌った。二歩か三歩進んだところで、空の色が違うことに気づいて、足を止めた。
誰も、何が起きたか分からなかった。五十年は、彼らにとって一瞬もなかった。
列の前のほうで、子供が籠を落とした。中の鶏が飛び出して、隊列の脇を走っていった。
最初に声を上げたのは、その子の母親である。走っていく鶏を指さして、笑った。
二番目に声を上げたのは、隣にいた男だった。笑い声ではなかった。彼は自分の掌を見ていた。指が動いていた。動いていることが、どうしてこんなに奇妙なのか、彼には説明できなかった。
ソリテールは、その男の横に立った。
「あなた、さっきまで何を考えていたの」
「……は」
「歌いながら、何を考えていたか。教えてくれると嬉しいわ」
男は彼女を見た。角に気づくのに、少し時間がかかった。
「……子供の、就労の刻限のことです」
「何時から何時にしたかったの」
「十二時間に。今は十六時間で」
「ふうん」
彼女は少し考えた。
「十二時間なら子供が働くのは構わないのね」
男は答えられなかった。
彼はその日、そのことについて生まれて初めて考えた。彼が黙っている三十秒を、ソリテールはたいへん満足そうに眺めていた。
グリュックは、執務室の窓辺に立っていた。
行進を見ていたのである。硝子越しに、隊列の先頭が広場へ入るところまでは覚えていた。そのあと、空の色が変わった。
彼は懐から煙草を出して、火を点けた。五十年ぶりの一本である。彼にとっては、昼に消したものの続きだった。
机の上の書類は、置いた順番のままだった。上から三枚目に、朝のうちに目を通しておくつもりだった手形の期日一覧がある。彼はそれを引き抜いて、日付を見た。
その日の夕方、行進が丘を上がってきた。
五十年前から、そうする予定だったのである。広場を回って、丘を上がって、領主館の門前で請願書を渡す。そこまでが行程だった。途中で五十年が挟まったが、隊列にとっては同じ日の続きである。
先頭は痩せた神父だった。グリュックは門の外へ出て、それを受け取った。
紙は二枚だった。一枚目に要求が三つ書いてある。十六時間を十二時間に。十歳未満の坑内作業の禁止。日曜の作業に対する割増。二枚目は署名で、細かい字が両面に詰まっていた。
「読んだ」
彼は言った。
「委員会にかける。一か月ほどかかる」
神父は頭を下げた。
一か月というのは、この街の人間にとって、悪くない返事である。隊列は解散した。人々は歌わずに丘を降りていった。歌は行きに歌うものである。
グリュックは、その紙を執務室の机に置いた。
置く場所は決まっていた。上から三枚目、手形の期日一覧の下である。
扉が開いて、マハトが入ってきた。
彼はいつもどおり戸口で一度立ち止まり、頭を下げた。角度が同じだった。
「どうだ。悪意は分かったか」
昼に途切れた話の続きである。グリュックにとっては、そうだった。
「いえ。結局、分かりませんでした」
グリュックは煙草をくわえたまま、しばらく黙っていた。それから灰を落とした。
「そうか」
「はい」
「季節が違うな」
「はい」
「何年だ」
「ざっと五十年後になります」
「五十年か」
「はい」
「……ずいぶん待たせたな」
マハトは、それに何も返さなかった。
返しようがなかったのである。待たせた、という言い方には、待たせた側と待った側と、その間に生じた何かの代金が含まれている。五十年ぶんの待機には値がつく。金利でもいいし、他に回せたはずの時間でもいい。計算はできる。
できるのだが、この老人が今言ったのは、そういう意味ではなかった。
彼はそれを知っていた。知っていて、なお、それが何の意味なのかは分からなかった。
しばらく、沈黙が続く。
「お咎めにならないのですか」
「いったろう。地獄の底まで付き合うと」
「……」
「まだ、見つかってないのだろう。また、探せばいい」
グリュックがその日に出した指示は、三つである。
記録室を閉めること。各区の人員を数えること。誰も柵の外へ出さないこと。
三つ目は、その日のうちに守られなくなった。守れると思って出したわけでもなかった。
最初に出ていったのは、北の村に子供を預けていた女である。
彼女は柵を越え、街道を三時間歩いて、里程標の並びが変わっていることに気づき、それから兵に見つかった。
彼女は幌のついた車に乗せられ、それきり街には戻らなかった。
だが、彼女が歩いた三時間ぶんの道は、報告書になった。北方管区の国境警備隊が、その日の夜のうちに管区本部へ上げた一枚である。区分外物件に変化が認められる。区域内より民間人一名が移動してきた。
二日後、調査隊が街に入った。管区の五名である。そして、あっさりとグリュックと面会することとなった。
交渉は、市庁舎の二階で行われた。
街の側は二人である。老人と、その隣に立っている角の生えた男。管区の五名は、部屋に入ってから四分ほど、後者から目を離せなかった。
最初の一時間は、何も進まなかった。五名には権限がなく、グリュックのほうは、相手が名乗った国の名に心当たりがなかった。二度聞き返し、綴りまで書いてもらった。それでも心当たりはなかった。
彼が知っている国の一覧は五十年前のもので、そこには載っていない名前だった。
「食料の話をいたしましょう」
口を開いたのはマハトである。
「二十六万人おります。当座の在庫は十八日ぶん。粉と油と塩が要ります。数量は書き出してあります」
彼は紙を一枚、卓の上に置いた。品目と数量が縦に並び、右端に週あたりの必要量が書いてある。字は細く、揃っていた。
「対価は」
「街から誰も出しません」
五名のうち、いちばん若い書記官が顔を上げた。彼は、それがどれほど都合のいい話であるかを、その場で理解した数少ない人間のひとりである。二十六万人が管区内へ散る事態を防ぐ費用は、粉と油と塩では済まない。
「儂が署名する」
グリュックが言った。
「相手の名前が魔族では、そちらの書類が通らんだろう。人間の名前が要る」
管区の五名は、答えなかった。答えなかったが、そのうちの三人は、明らかに安堵していた。
回答は一日後に来た。
普段、書類が遅いことに定評のあるこの国であるが、緊急時は速かった。文面に、交渉、協定、魔族という語は一つも使われていない。使われていたのは、北方境界整備事業に伴う暫定給養、という語である。支出の費目が存在しないので、費目が新しく作られた。番号は七四五の三である。
同じ週、管区全域に戒厳令が布かれた。周辺四十一の集落が疎開させられ、住民には理由が説明されなかった。二個師団が北へ動いた。公示された名目は、秋季演習である。
封鎖線は柵の外側、七百歩の位置に敷かれた。
最初の搬入は、その三日後だった。
荷は柵の手前で下ろされ、兵は下がり、街の人間が取りに出た。受領書は二枚複写である。一枚は管区へ戻り、一枚は市庁舎に残った。
署名の欄に、グリュックは自分の名前を書いた。
◆ ◆ ◆
書類は、駅の待合室で渡された。
封は蝋ではなく、糊で留めてあった。第一部の便箋である。運んできたのは若い連絡員で、受領の署名をもらうと、それ以上は何も言わずに次の列車に乗って帰っていった。
フリーレンは長椅子に座って、それを開いた。
中央魔導評議会 特別指令第一一四号
一 北方境界第七区(旧ヴァイゼ)に生じた区分外物件の状態変化について、原状を把握すること
二 当該変化を生じさせた魔導につき、その成立機序を掌握すること
三 当該魔導の保持者は、これを毀損しないこと
四 区域内人員の取扱いは別命による
五 実行 終身党中央特命全権代表
現地責任 結界管理官
六 本件は第一部管理とし、区域外への一切の言及を禁ずる
彼女は三条を二度読んだ。
「フリーレン様。汽車が来ます」
「うん」
「何と書いてありましたか」
「仕事」
フェルンはそれ以上聞かなかった。
北へ向かう線は、三つ目の駅で止まった。
その先は演習区域につき運行を見合わせております、と掲示に書いてあった。紙は新しかったが、糊がはみ出して乾いていた。急いで貼ったものである。
そこから先は、幌のついた軍の車に乗せられた。
道の両側の集落は、どれも空だった。窓に板が打ってあり、井戸に蓋がしてある。畑には掘り返した跡があり、収穫は途中で止まっていた。芋の畝が半分だけ掘られて、残り半分に葉がついたままだった。
「疎開ですね」
「みたいだね」
「収穫前に、ですか」
シュタルクが荷台の縁から身を乗り出して、その畝を見ていた。
封鎖線は、柵の外側七百歩の位置にあった。
有刺鉄線と土嚢、その後ろに幕舎が並び、さらに後ろに砲が据えてある。砲は街のほうを向いていた。
幕舎の裏手の、踏み固められた地面で、徴集兵が並んで魔法の練習をしていた。
国家標準規格第一号。この国の魔導技師なら誰でも撃てる、装飾のない一般攻撃魔法である。手引きは第七版まで出ていて、全管区の訓練所に無償で配られている。
並んだ十二人のうち、三人が的まで届かなかった。教官が一人ずつ手首の角度を直していた。泥がはねて、全員の脛から下が同じ色になっている。
シュタルクはそれを見て、少し目を細めた。彼と同じくらいの歳の顔が並んでいる。
その先に、老人がいた。
外套の襟を立て、帳面を小脇に抱えて、有刺鉄線の内側に立っている。姿勢だけがよかった。
「同志デンケン」
「久しいな」
彼は振り返らなかった。街のほうを見ていた。
結界は五十日ほど前に消えている。彼が結界を管理し始めてから数年目のことであった。。消えた日の日誌には、三分考えたすえに「結界、消失」とだけ書いた。五十年で初めて、報告書に内容のある一行が入った。
「儂は、まだ入っておらん」
「入れないの」
「柵は無くなったが、こちらの線がある」
デンケンは有刺鉄線を指した。
彼は結界管理官として、区域内への通行証を持っている。毎年申請して、毎年下りた紙である。ところが封鎖線を敷いたのは軍で、軍の帳面に魔導評議会の通行証という項目がない。
「墓が、あの中にある」
老人はそれだけ言った。
三年前に金に飲まれた村が、五十日前に戻っている。庭も、井戸も、五十五年前と同じ形をした樹も。妻の墓もである。
歩いて二日の距離に、四十年ぶりの用事があった。彼はそこに立って、五十日待っていた。
その晩、二人は幕舎の裏で話した。
「同志フリーレン。指令書は読んだか」
「うん」
「三条を、どう見た」
「毀損するな、でしょ」
「そうだ。当局は現状を維持したがっている」
フリーレンは黙っていた。
「原状というのは、金だ」
デンケンは続けた。
「五十年、あれは片付いた案件だった。誰の担当でもなく、費用もかからず、境界の警備は結界がただでやっていた。書きようがないほど都合がよかったのだ。生き返った瞬間に、それが二十六万人になった。旧体制の市民だ。教会があり、私有財産があり、こちらの登録簿には一行も載っておらん」
「戻したいんだ」
「そう書いてある者はおらん。だが、命令はそれを前提にしておる」
彼は火のない煙草を口にくわえて、また外した。四十年前にやめている。癖だけが残っていた。
「だから三条がある。あれを殺せば、戻す手立てがなくなるからだ。上には、あの魔族を生かしておきたい者が何人もおる」
「同志デンケン」
「なんだ」
「あなたは、どうしたいの」
老人はしばらく答えなかった。
北の空に、街の灯が反射していた。あの中に、三年前に飲まれた村がある。庭も、井戸も、妻の墓もである。四十年望んだものが、五十日前に、魔族の気まぐれで、無料で戻っていた。
「儂は────」
入市の手筈は、翌日の夕方についた。
中央から、追加の指令が下りたのである。
文面は短い。区域内の当該保持者と接触し、状態変化の経緯につき聴取すること。実行者として四名の名が並んでいた。終身党中央特命全権代表フリーレン。随行フェルン。随行シュタルク。
四人目に、結界管理官デンケンとある。
街の側からの受け入れの返答も、同じ日の夕方に、搬入の荷とすれ違いに戻ってきた。四つの名前を書き写して、その下に署名が一つある。デンケンにとっては見慣れた老人の字だった。
デンケンはその紙を長いこと見ていた。
彼はこの区域への通行証を四十回申請し、四十回下ろしている。四十枚とも、一度も使っていない。使う機会がなかったのではない。ただの一度も、許可が下りなかった。
彼が中へ入るのは、これが初めてだった。
「同志デンケン」
「行こう」
老人は帳面を小脇に挟み直した。
柵の手前に、荷を下ろす場所があった。
箱の脇の杭に板が打ちつけてあり、油紙をかけた紙が挟んである。搬入の予定表だった。品目、数量、時刻、担当。
字は、街の側の人間が書いたものである。
そこから先は、匂いがした。
煙である。石炭と、脂と、パンの焼ける匂い。
この五十年、腐るものが一つも残っていない土地だった。今は、匂いがある。
丘を越えると、街が見えた。
煙突が煙を吐いていた。給水塔の栓が開いていた。屋根の上に洗濯物があり、風で動いていた。
評議会の想定では、この区域内に大魔族が一体いることになっている。指令書にもそう書いてある。人員も火力も退避の見積もりも、全部それを前提に組んであった。
彼女は丘の上で足を止めて、しばらく街を見ていた。そして、フェルンと目を合わせる。
魔力資本の反応が、二つあった。
◆ ◆ ◆
その日の卓には、十三人が着いていた。名簿に載っているのは、十二人である。
定例会は、市庁舎の二階で開かれる。週に一度である。卓は長い。片側に管区執行委員会から来た五名、もう片側に街の側が二名。端に書記官が一人座って、議事を取る。書記官は毎回同じ男だった。字が速いのと、余計なことを覚えない体質であるという二つの理由で選ばれている。ここまでが七週間、毎週変わらない顔ぶれだった。
街の側の二名は、領主の老人と、その隣の男である。
男は紺の外套に袖口の白、頭の左右から角が出ている。彼は毎週この席に座っていた。管区の五名は七週間で慣れた。慣れるというのは恐怖が消えることではない。恐怖の扱い方が決まることである。
この日は、そこに椅子が四つ足されていた。丘を越えてきた四人である。終身党中央特命全権代表と、随行が二名、結界管理官が一名。
そして、卓のいちばん端に、もうひとり。
青い髪の女で、こちらにも角がある。彼女は椅子を斜めにして、頬杖をついて、五名の顔を順番に眺めていた。名簿には載っていない。七週間、一度も載っていない。
管区の五名は、彼女のほうを見ないことにしていた。
見ないことにするというのは、見たという事実を作らないための、彼らなりのやり方である。
議題は二つだった。
塩の不足分と、燃料である。
塩は二十二袋足りていなかった。街の側が数え、管区の側が数え、どちらの数字も合っていた。積んだ側と降ろした側の記録が食い違っているので、途中で減っている。途中というのは、封鎖線と柵の間の七百歩のことである。
「調査いたします」
「結構だ」
グリュックが答えた。
「二十二袋の調査に、そちらは何人使う」
「……四名ほどかと」
「四名の四日は、塩二十二袋より高い。やめておけ」
書記官は、調査の要否につき街側より辞退、と書いた。
燃料は、一度も届いていない。
「二十六万人おります。薪も石炭も、街には一片もありません」
マハトが言った。
「取り決めの品目に入っておりません」
「入れてください」
「取り決めは、そちらが出された一覧に基づいております」
「あの一覧は、秋に書きました」
マハトは言った。
「今は冬です」
五名は黙った。
誰も反論しなかった。反論する材料がないからである。ただ、この場で品目を増やす権限を持つ者も、卓にはいなかった。
「上に諮ります」
「どうぞ」
彼は椅子に座り直し、それきり喋らなかった。
「あなたが、南から来た魔法使いね」
最初に口を開いたのは、端の女である。
「聞いているわ。三日前に丘を越えてきて、二日で市場を三周した。パンを二つ買って、片方を子供にあげたでしょう。あの子、あなたのこと魔女だと思っているわよ」
「見てたんだ」
「聞いたのよ。私、聞くのが仕事なの」
彼女は嬉しそうだった。
「ねえ、あなたの国は、なぜパンの値段を全部同じにしているの。粉の質が違うのに。三日考えたのだけれど分からなくて。教えてくれる?」
「議事の途中です」
フェルンが言った。
「そうね。ごめんなさい。話しすぎるのは私の悪い癖なの」
女は頬杖に戻った。戻ったが、目は動いていた。
議題が片付いたところで、マハトが立って、頭を下げた。角度が正確だった。
「お初にお目に掛かります。グリュック家魔法指南役の、マハトです」
「初めましてじゃないよ」
フリーレンは言った。
「六百年前に一度、私はお前と戦ってる」
マハトは少し目を開いた。それから、また同じ角度で頭を下げた。
「……とんだご無礼を」
「やっぱり、覚えてないんだ」
シュタルクが立ち上がっていた。斧に手をかけている。フェルンの杖の先が下を向いていた。二人とも、部屋の温度が変わったことに反応している。管区の五名には何も分からない。
「同志フリーレン」
デンケンが低く言った。
「儂らは、燃料の話をしに来た」
フリーレンは肩の力を抜いた。フェルンが杖を下ろし、シュタルクが座った。
書記官が顔を上げて、卓の端を見た。
「あの、ただいまの件は」
「記載なし」
デンケンが答えた。
書記官は頷いて、次の行に移った。彼は本当に、余計なことを覚えない。
茶が出た。
器は、この部屋で唯一、古びていた。
縁が欠けて、そこだけ金継ぎがしてある。絵付けが褪せ、把手の付け根に細かい罅が入っていた。
街の他のものは、どれも新しい。硝子も、卓も、床板も、五十年前に磨かれた日のままである。止まっていたものは古びない。
「これだけ、金にしませんでした」
マハトが言った。
「ですから、この街で歳を取ったのは、この器だけです」
グリュックは茶を一口飲んで、何も言わなかった。
「聞くけど」
フリーレンが言った。
「お前は二十六万人を担保に、粉と油と塩を引き出してる」
「はい」
「あれは取引じゃない」
「では、何でしょう」
彼は本当に分からないという顔をしていた。
「代価は示しております。数量も期日も書いてあります。どちらの側も、守らなかった場合に何が起きるか承知しております。これを取引と呼ばないのであれば、私は取引という語を教わっていないことになります」
「人を置いてるでしょ」
「置いておりません。出さないだけです」
フリーレンは黙った。
その差を説明する言葉を持っていなかったからではない。説明したところで、この男の中にそれを受け取る場所がないと知っていたからである。
「──逆に疑問なのですが」
マハトは茶を置いた。
「なぜ、それが問題なのですか」
「私も同じことを聞きたいわ」
端の女が言った。
「あなたの国は七週間、こちらと約束を守っているでしょう。粉と油と塩。一度も途切れていない。品目も数量も日付も、双方が確認して、双方が署名しているの」
彼女は指を三本立てた。
「守られている約束が七週間続いているとき、それを何と呼ぶかを決めたのは、あなたたち人間よ。私が決めたのではないわ」
「担保が人だ」
「担保のある約束は、ない約束より上等よ」
女は楽しそうだった。
「担保を取るのは、相手を信用していないからじゃないの。信用の足りない分を、担保で埋められると思っているからよ。埋められると思っているというのは、相手が約束を守る生き物だと認めているということでしょう。守らない相手から担保を取っても意味がないもの。──あなたたちは七週間、私たちを、約束を守る側の生き物として扱ってきたのよ。書類の上でね」
フリーレンは答えなかった。
答えなかったのは、反論がなかったからである。あの紙に署名しているのは、彼女の国だった。
マハトは口を挟まなかった。彼にとっては、とうに片付いた話である。
「ところで」
女はフリーレンのほうへ身を乗り出した。
「あなた、私の名前を聞かないのね」
卓の空気が変わった。
管区の五名のうち三人が、同時に書記官のほうを見た。書記官の手は動いていなかった。彼はこの七週間、余計なことを覚えないという理由で選ばれ続けてきた。今、目の前で、余計ではないものが起きていた。
「ソリテールよ」
女は言った。
「七週間、誰にも聞かれなかったの」
書記官の手は動いていなかった。彼はこの七週間、余計なことを覚えないという理由で選ばれ続けてきた。今、目の前で、余計ではないものが起きていた。
彼は、いちばん年長の男のほうを見た。
「……議事録は」
「塩の不足分、燃料の上申。以上」
「二体目については」
「何のことだ」
書記官は口を開き、それから閉じた。
「記載なし、でよろしいですか」
「そうしてくれ」
卓の端で、ソリテールが笑った。
「人間って面白いわね。名前を聞かなければ、いないことにできると思っているんだもの」
誰も答えなかった。書記官は、次の行に移った。
会が終わったのは、その二十分後である。
階段のほうへ歩きながら、デンケンが言った。
「同志フリーレン。あれは怯えたのではない」
「うん」
「二体だと、承認した全員の判が問題になる。管区執行委員会と、北方軍管区と、評議会だ。いったい何人分になるか」
フリーレンは数えなかった。数えなくても、多いことは分かった。
「一体なら、作戦はもう通っておる。二体になった瞬間に、通した者が全員、通した理由を書き直さねばならん」
老人は帳面を小脇に挟み直した。
「儂は、ああいう卓で出世した」
背後で、扉が開いた。
杖をついた老人が、廊下に出てきていた。デンケンの義父である。
両者とも足を止めた。三秒か、四秒である。二人が同じ卓に着いたのは、この日が四十年ぶりだった。
「……日曜の午後なら、丘におる」
「伺います」
それだけだった。どちらもそれ以上は言わずに、それぞれの方向へ歩いていった。
■ 前編の日程
結界が消えた日を起点にします。
9月の頭頃
当日・昼 ソリテールが結界を解除。街が動きはじめる
当日・夕 行進が丘へ。グリュックが請願書を受け取り、一か月と答える
当日・夜 記録室の閉鎖など三つの指示。同日のうちに一名が柵の外へ
二日後 管区の調査隊五名が入る。市庁舎で交渉
三日後 回答。費目七四五の三「暫定給養」が新設される
同じ週 戒厳令、四十一集落の疎開、二個師団の移動
六日後ごろ 最初の搬入。以後、定例会が週に一度
五十日後 フリーレン一行が封鎖線に到着。デンケンはここで五十日待っていた
五十一日後 入市
五十四日後ごろ 定例会。取り決めから数えて七週間目にあたる。冬が近づき、燃料を要請。
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