早朝、連峰の向こうから昇り始めた太陽を目指して、少女は一心不乱に走っている。
天川市を代表する河川に設けられた堤防道路は不用意な傾斜をなるべく排除しており、彼女にとってはお気に入りのランニングコースとなっていた。
毎日同じコースを走っているのであれば、自ずとランニングのペースも決まってくる。
そのペースを少しずつ更新して、常に自分を追い込み続けるのが月村手毬のルーティンだ。
しかし、今日はその調子が芳しくない。
まだ普段の半分も走っていないというのに呼吸が大きく乱れ始めている。
体調管理を疎かにした覚えはない。
となれば、問題があったのはペース配分ということになるが、幸い、こちらについては心当たりがあった。
彼女のペースを著しく乱す要因と言えば、先日プロデューサーの口から告げられたあの馬鹿馬鹿しいプロデュース方針に他ならない。
『一番星を決める夏の祭典────Hatsuboshi IDOL FESTIVAL! あなた方には今夏の大会に出場し、3人で優勝を争ってもらいます!』
3人でのH.I.Fへの出場。
彼はソロアイドル3名を優勝争いさせると宣言したが、それがあまりに非合理な計略だと手毬は憂いている。
一番星を狙うのであれば、他のアイドルはみんな敵。それは言うまでもないことだ。
だが、それならわざわざ徒党を組む意味がない。
同時プロデュースはプロデューサーの負担が増えるだけであって、本来各アイドルに還元されたであろう『プロデューサーがつく』というメリットはむしろ減るはず。
結局のところ、あのプロデュース方針は彼が3人のアイドルを体よく育成するための詭弁でしかないのだ。
さらに疑うのであれば、そもそもプロデューサーの狙いがユニット結成、ということもあるかもしれない。
同時プロデュースにすら反対する面々だ。最初からユニットとしてのプロデュースを提案したところで拒絶されるのがオチだろう。
だからこそ、ひとまず同時プロデュースという段階を踏むことにした。
どちらにせよ手毬からしてみれば、彼のプロデュース方針はわがままに他ならない。
そうやって、たったひとりのわがままに振り回されたアイドルたちの末路を、彼女はよく知っている。
『みんな! どうしてわかってくれないの!?』
昔、不器用な少女がいた。
少女は太陽に憧れて、ただ太陽を目指して闇雲に走り続けた。
憧れた太陽が沈んでしまった後も、なお無我夢中に走り続けた。
走って、走って、走って、走って────────。
その凡庸さを嫌というほど自覚したとしても。
どんなに頑張っても自分は変えられないと、不条理な現実を悟ったとしても。
走る以外の選択肢を知らない彼女はそれでもただ一生懸命に走り続けた。
『いい加減にしてくれない? うんざりなんだけど』
────────その羨望が目障りだと、仲間は言った。
『このままじゃ、きっと、潰れてしまう。走るのをやめて……一緒に……歩きましょう?』
────────その生き様が理解できないと、仲間は言った。
血反吐を吐くような全力疾走は、他の者にとっては狂気でしかない。
そんな自罰的な努力を肯定してくれるような都合のいい仲間は彼女の周りには存在しなかったのだ。
「……そんなの……できるわけない。私は……絶対に……止まってやらない……!」
けれど、それでも少女は走るのをやめない。
怠惰で貪欲で甘えん坊で。
傲慢に走り続けなければ振り払えない過去の自分の面影。
絶望的なまでにソレを嫌悪している彼女は、走り続けない月村手毬に価値を見出すことができなかったのである。
だから、すべては自業自得。
己がわがままで独りになってしまったのなら、振り返ったところで虚しさが残るだけ。
過ぎたことを悔やんでしまっては、きっと嫌いな自分に逆戻りしてしまう、と。
それを恐れて、気づかないふりと傷つかないふり。
寂しがり屋の一匹狼は過去を省みないまま、幼い赤ずきんの影から逃げ回って────────
「おはよ!」
「ひゃ!?」
思わず奇声を上げる。
手毬の感傷などつゆ知らず、無遠慮に声をかけてきた咲季はいつの間にか彼女の隣を並走していた。
「あ、あなたは────────なんの用?」
動揺を不機嫌さで塗りつぶしながら、手毬は足を止める。
ただでさえペースを乱していたというのに、さらに隣を誰かに走らせようものならランニングも糸瓜もあったものではない。
「ん~? わたしもここを走ろっかなって」
そんな手毬の無愛想さを受けてか「悪い?」という面持ちで問いかける咲季。
「邪魔。別のところに行って」
「イヤよ。ここが一番走りやすいコースだもの。そっちが移ればいいじゃない」
「このコースを走ると決めたの。そっちが移って」
しかしながら、少女らは互いに譲ろうとしない。
理不尽な主張の応酬は、論争の帰結を見失っているようにも思えたが。
咲季が「べー」と舌を出して抗議したのを見ると、手毬はすぐに観念して。
「…………っ、なら勝手にすれば」
「言われるまでもなく、そーするわ」
気を取り直してランニングを再開する咲季。
手毬もその後を追うように走り出す。
“こんなやつ……引き離してやる”
やがて、表向きは極めて冷血に努めながら、その背中を追い抜く。
息の乱れがさらに激しくなるのも構わない。
絆されたが最後、自分は止まってしまうかもしれない────と。
一種の強迫観念のようなものに突き動かされながら、手毬は前へ前へと足を運んでいく。
「ねえねえ、なんでユニット解散したの?」
「な────────っ」
その速度に、咲季は平然と到達した。
手毬が驚くのも無理はない。
少なくとも中等部の間は、月村手毬の全力に並び立てる同級生など数えるほどしかいなかったのだ。
それでいて息を切らさず、むしろ手毬が追いすがっているようにすら錯覚する相手など、件の仲間以外には存在しなかったはず。
「あ、あなたには関係ない」
「大ありよ。プロデューサーもことね先輩も、あなたを仲間にしたいって言うんだもん」
「え」
再び短く、困惑の声が漏れる。
クラスメイトの自己紹介におおよそ無関心だった手毬にとっても、咲季とことねは例外的だった。
同じプロデューサーにスカウトされた事実がある以上、顔と名前、さらに同じ1年1組であるという情報は当然のことながら無視できない。
それを踏まえると、咲季がことねを『先輩』と慕うのは少々────いや、かなり不可解である。
初星学園高等部でそれが一般的かはともかくとして、手毬が“留年”という発想に至ったことは責められないだろう。
ただ、それは全くの誤解というやつであり、ともすれば誹謗中傷、名誉毀損の類である。
この未曾有の勘違いを『それはそれとして』と流してしまったのは、あるいは手毬の落ち度だったのかもしれない。
「あなた、プロデューサーの方針には反対だったんじゃないの?」
「ええ、そうね。わたしがトップアイドルになるためには、ひとりに集中してプロデュースしてもらうのが最適だと思っていたもの。
でも、ことね先輩と勝負をして思い知ったわ。あなたたち先輩アイドルから学ぶものは多い────一緒に切磋琢磨するのには大きな意味があるってね」
「…………あっそ。でもあたしは、あなたたちと一緒にプロデュースしてもらうつもりはないから」
「それって、ユニットを解散した理由と関係があるの?」
「……………………だったら、なに?」
「あなたを仲間にしたいなら知っておくべきでしょ? 同じ轍を踏んでも意味ないし」
「プロデューサーに聞いたら?」
「教えてくれないのよ。プライベートだから、って」
「じゃあ、あの
「もう聞いた、悪い噂ばっかり。あることないこと、た〜っぷり聞かされたわ。
でもさ、噂は噂じゃない? 尾ひれとか付いてるだろーし。だから、直接本人に聞いてるの」
「────────────」
殊勝な心がけに素直に感心しながらも、やはりどこか不機嫌そうに顔を歪ませる手毬。
その悪い噂というのが、きっとロクでもないものだと悟ってのことである。
SyngUp!は初星学園では良くも悪くも目立っていた。その解散を招いた自分に悪評が集まるのは自然なことだ。
タチが悪いのは、その尾ひれとやらを軽く取り除いたにしても、彼女のありのままの悪行が露呈するだけという点で。
自身の非を自覚している以上、それについて言及する資格がないのはわかっているが、それでもやはり、後ろ指を指されながら好き勝手に言われるというのは気分のいいものではない。
「そう、なら教えてあげる。ずっとまとわりつかれたら鬱陶しいし。
私以外のメンバーが役立たずだから抜けたの。それだけ」
淡々と、絡みつく関心を切り捨てるように答える。
紆余曲折を省略したとはいえ、端的に説明するならそういうことになるだろう、と手毬は思う。
実際、解散のきっかけとなった口論において、彼女の主張はやる気のない他2名を叱責するような内容だった。
もっともそれは、月村手毬に内在する自己矛盾の一側面の心情を出力した結果であって、事実はそんな単純な話ではないのだが。
それはそれとして説明の義務は果たした、と、手毬は聞き手の反応を待っている。
しかし、対する咲季はその機微をどう読み取ったのか、発したのは「ふーん?」という意味ありげな相槌で。
「なに?」
「────────それ、ウソでしょ?」
「なっ!?」
「ひひ〜、やっぱり。だいたいわかったわ」
合点がいった、と無邪気な笑みを浮かべる咲季。
まったくの嘘ではないものの、自分ですら目を逸らしたくなる核心を見透かされた気がして、手毬は平静を保つことができない。
そんな彼女を横目に、咲季は平気な様子でぐんぐんと加速していく。
「じゃ、お先〜!」
「…………ッ!! 待ちなさい!!」
「うわ、無理して付いてこない方がいいわよ?」
「うるさいっ! なんなのあなた!」
「花海咲季! 未来のトップアイドルよ!!」
「なっ────────」
前を走らせてしまっている以上、少女の顔色は窺えない。
けれど、軽々としたその足取りと上擦ったような声色は、きっと彼女が笑っているのだろうと直感させる。
手毬には意気揚々と太陽に向かっていくその背中が、その在り方が────────
『────いつか、私も。あんなふうに、歌うんだぁ』
一瞬、どこかの誰かに重なって見えた気がした。
「あなたは?」
問いを投げ返した咲季の声に、我に返ってブンブンと頭を振る。
こんな調子では後悔しているのと大差ないじゃないか、と自分を りつけながら。
「……月村手毬。トップアイドルになるのはあなたじゃない。私だから!」
「そう! じゃあ、手毬! もっともっともぉ〜っと頑張って、追いついてきなさぁ〜い!」
そのまま、咲季は脱兎のごとく駆け離れていく。
それを逃がすまいと、手毬は必死に両脚を駆動させる。
が、ふたりの差が縮まる余地はまるでない。
目前に人参を吊るされた仔馬の方がもう少しマシな疾走をするだろう、とこのとき手毬は自戒した。
「────────はぁ────────はぁ…………この…………! 偉そうに…………!」
程なくして酸素を失った身体がもつれ出す。
既に両腿はまともに上がらず、肩も大きく揺らいでいた。
こうなってはもう手遅れ。
ランニングにおいて体幹のブレは致命的である。
しばらくして無理を悟った手毬は、渋々ながらその足を止めた。
「は…………あ…………」
脈動は未だ激しい。
『酸素が足りていないのだから当然だ』とわざわざ弁明したくなったのは、きっとその動悸が興奮によるものだと認めたくなかったからに違いない。
だが、咲季の言葉は手毬にとってあまりに鮮烈で────────
“『もっと頑張れ』なんて声を掛けられたのは、いつぶりだろう…………”
耳障りなほどに、そのフレーズだけが彼女の頭の中で繰り返されていた。
────────────────────────────────
はあ、と控えめにため息を溢しながら、手毬は板書ノートに視線を落とす。
授業内容を記録するために広げられた帳面はその唯一の役割を見事に放棄していた。
教師の解説は著しく淡々としているが、それ自体は決して彼女の集中を削ぐ大きな要因ではない。
レッスン時間を少しでも削りたくない手毬にとっては、日々の授業も真剣勝負。
ここで一通りの内容を頭に叩き込んでおかなければ、後々余分に復習の手間がかかることを彼女はよく知っている。
だというのに、今日は徹頭徹尾、気が散る一方。
いつもであれば決まって空腹が原因なのだが、今回は断じて違う。
先日のプロデューサーらとの一件に加えて今朝の咲季との問答もあって、手毬の頭は授業どころではなくなっていたのだ。
やがて授業の終わりを告げるチャイムを合図に、教室を吞み込んでいた堅苦しい空気感がスッと軽くなる。
教本を片付けた先生が教壇から降りるや否や、クラスメイトたちは各々の休み時間を謳歌し始めた。
既に交友関係を結んでいる人も珍しくはなく、席を立って友達に話しかけにいく生徒もちらほら。
「月村っちー、ちょっといい?」
「よくない」
彼女らに倣うようにして、授業後速やかに手毬の席周辺へ集う生徒が二名。
手毬の前の座席を乗っ取り気さくに話しかけて来たのは、同世代の中でも抜きん出て綺麗に化粧を仕上げた艶やかな女生徒。
彼女────紫雲清夏は咲季と同じ外部入学組のひとりであり、当1年1組の懇親会を首謀する人物でもある。
その思惑はおおむね順調で、昨日は難関のひとつである手毬の説得にも成功したところだ。
「そう言わずにさ。今から花海ちゃんの説得に向かうから、手を貸してくんない?」
「面倒くさいな。花海の相手なら藤田に頼みなよ」
「おや、なんでそこでことねっちが出てくるの?」
「別に。花海と仲いいみたいだから適任かなって」
興味なさげに弁明してみるものの、手毬は相変わらず不機嫌である。
今朝の時点ではあまり気にしていなかったことだが、ふたりの仲を取り持ったのはきっとプロデューサーだろう。
少なくとも和解のきっかけとなった勝負とやらに関しては彼が企てたに違いない。
自ら咲季やことねと群れるのを拒んだとはいえ、こうも見事に仲間外れにされているというのは非常に腹立たしいことだ。
「へぇ……でもあたしとしては月村っちと花海ちゃんに仲良くなってほしいんだよねぇ。ふたりがピリピリしてるとクラスの雰囲気が最悪なんだから」
「余計なお世話。花海と仲良くなんて死んでも御免だから」
「…………ふーん、そんなこと言ってていいのかな〜? またリーリヤに怒られちゃうよ?」
「ぇ」
そうして恐る恐る、促されるように清夏の隣へと視線を向ける。
謙虚な態度も相まって華奢に見える体つき。
陽の光をまるで知らない白い肌と雪のように煌びやかな銀髪。
葛城リーリヤは突如として自身に降りかかった言いがかりに大きく戸惑っていた。
「す、 清夏ちゃん!」
「ま、また脅す気? 『足を引っ張るなよ雑魚が』って」
「そっ、そんなこと言ってませんっ!」
釈明も弁解もけんもほろろ。
事の発端は彼女が手毬の説得を試みた際に、清夏がトドメの一撃を刺してしまったことにあるのだが。
そのときの声があまりにリーリヤにそっくりだったせいか、以来手毬は彼女を恐れ続けているのだ。
そんな理不尽な受難を課された少女に、唯一の親友が投げかける言葉は、しかし。
「そうそう。リーリヤって気弱そうに見えて────本当に気弱なんだけど…………たまぁ〜に怖いトコあるんだから、怒らせない方がいいよ?」
「す、清夏ちゃん、怒るよ!」
「ほら〜」
「…………もう」
このように愛情に満ち溢れた追撃であった。
もっとも、それは単にからかう意図だけではなく。
前段通りに気弱な彼女を、気まぐれな悪意から護るための常套句であるということをリーリヤはよく知っている。
「冗談はさておき、クラスがまとまってた方がいいのは、月村っちも納得してくれたっしょ? 協力してくれるって話だったし」
「それは、そうだけど…………」
とはいえ、決して恐喝で説得されたわけではなく。
最後の一言があろうとなかろうと、手毬がリーリヤの主張に一理あると思ったのは事実である。
それはそれとして、今こうして歯切れが悪くなっているのは、プロデュースの件がある手前、咲季とあまり関わる気になれなかったというだけのことで。
「…………はあ、わかった。でも、説得とか交渉とか、私そういうの無理だから」
「知ってる。月村っちはあたしとリーリヤが困ったら手を貸してくれるだけでいいから!」
言質は得た、と上機嫌に立ち上がる清夏。
改めて活気に満ちた教室を見渡すと、目当ての生徒は誰と群れるでもなく、自席でさきほどの授業の復習をしている。
その印象通りのストイックさに感心しながら、清夏たちは彼女の元へと向かった。
「花海っちー、ちょっといいかなー?」
「あら、どうしたの?」
愛想よく呼びかけに応えて、教材から目を上げる咲季。
同じく合理主義の手毬とは違って、彼女はクラスメイトとの交流が完全に無駄なものとは考えていないらしい。
「あたしたちって、クラスで行事に参加することもあるわけじゃん?」
「そうらしいわね」
「ってことはだよ? クラス同士で競い合うこともあるかもじゃん?」
「あり得るわね」
「クラスの結束を強めるために、懇親会的なのをやりたいんだよ! 花海ちゃんも参加してくれないかなー?」
「放課後は忙しいから無理よ」
「じゃあ、お昼休みに教室パーティー────とかなら?」
「ぜひ参加したいわ」
「おっ、意外にもちゃんと話し合えばわかってくれるタイプ?」
「意外にもってなによ、失礼ね。合理的な案に反対なんてしないわ」
だから、こちらの譲歩すら無条件に認めないなんてことはなく。
呆気ないほど簡単に咲季との交渉は終結したように思えた。
手毬の時と比べると存外に拍子抜けだ、と清夏たちが安堵できたのもその時ばかり。
続く咲季の言葉は十分に彼女たちを震撼させたのだ。
「ただ、そういうことなら────わたしからも提案させて」
「提案って?」
「このわたし、花海咲季が1年1組のリーダーになってあげるわ!」
「────────────」
唖然とする一同。
我ながらいい考えね、と咲季は自ら首肯を重ねている。
冗談にしか思えない提案は、少なくとも彼女の中では本気らしい。
リーダーシップがあるのはいいことだが、ここまで押し付けがましいと印象が良いはずもなく。
「咲季、ちょっと」
そんな彼女の独壇場を打ち破るように、気怠げな声がひとつ。
「なあに?」
「なあに? じゃねぇよ! トンデモないこと言い出しやがって」
「な、なによ、 ことねはわたしがリーダーになることに不満があるの?」
「別にあたしから不満はねーけどさ。唐突にリーダーになるって言われてみんながみんな納得するわけないっしょ? 誰も咲季のこと知らないんだし」
「むむむ……! それは確かに……!」
やがて当然のように、藤田ことねは会話に参入する。
清夏と同じくクラス内の雰囲気を乱さないための図らいだろうが、それでも以前は体力の回復に努めていたであろう状況である。
浅い付き合いとはいえ、入学式の日から親しくさせてもらっている清夏としては、今回のことねの行動は少し意外に思えた。
“へぇ、月村っちの言ってた通り────本当に仲がいいんだ、このふたり”
咲季の言動を諫めることねの様子はまるで別人だ。
クラスメイトと話す時の彼女はいつも飄々としていて、ここまで砕けた調子で親近感のある態度は見たことがない。
当然、それは清夏とことねが互いに表面的な交流しかしてこなかったからなのだが。
「ちなみに花海ちゃんは、な~んで自分でリーダーをやりたいの?」
「もちろん勝つためよ。今まで色んなスポーツをやってきたけど、チーム戦はリーダーの統率力が鍵なの。だから人生経験の一番多いわたしが一番偉いポジションを務めるべきよ!」
「あれ? 花海っちって年上なの?」
「4月2日生まれなの」
「へぇ、それは知らなかった。おめでと!」
「えへへ……ありがと」
祝福の言葉に体をくねくねさせる咲季。
この年頃において、ここまで素直に喜びを表現するのは彼女の魅力だが、それはそれとして。
「でもことねっちも言った通り、あたしたちは花海ちゃんのことな~んにも知らないからさぁ」
「確かにそれは由々しき問題ね」
「でしょでしょ? まあ、だからこその親睦会でもあるんだけど。でもその前に────月村せんせー! 出番ですぜ〜い!」
ことねの加勢もあり咲季が揺らいだのを好機と見てか、「やっちまってくださいよー♪」と声高々とさらなる援軍を呼びつける清夏。
要請を請けた手毬は律儀に前に出たものの、なんだか聞いていた話と違う、と納得いかなげに彼女を睨んでいる。
「…………なに、そのノリ」
「アハハ、いやー、なんていうか。今話してた通り、親睦会を抜きにしても、あたしたちってガンガン交流した方がいーと思うんだよね。ほら、月村っちも花海っちも自分が一番だって思ってるでしょ?」
「そんなのアイドルなら当たり前でしょ」
「んー、それはそうかもしれないけど…………クラスでまとまりたいなら、ふたりともお互いの実力くらいはわかっておくべきじゃない?」
「………………」
「だから、ふたりで勝負してみるっていうのはどう?」
「勝負?」
首を傾げる手毬に、清夏はうんうんと頷きを返す。
どちらが格上かをはっきりさせておけば、このふたりの諍いももう少し落ち着きを見せるだろうと思ってのことである。
当然ながら、咲季はこの提案に乗り気であり。
「面白いじゃない! 乗ったわ、その話。月村手毬! わたしと勝負しなさい!」
威風堂々と宣戦布告。
そういえば数日前にも似たやり取りを見たな、と、ことねは後方で呆れたように肩を落としている。
対する手毬は、挑戦者の威勢の良さに少なからず困惑しつつも。
「馴れ馴れしいな…………はぁ、まぁいいか。今朝の借りを返すいい機会だし。身の程知らずの素人に教えてあげるよ、本物のアイドルを」
表向きはいつも通りの挑発的な口調で、その申し出を受諾した。
────────────────────────────────
勝負は昼休み、ちょうど午後の授業で使用するボーカルレッスン室を借りる形で執り行われた。
種目は歌唱勝負。
わざわざ手毬の得意分野を選んだのは、教室の特性も理由のひとつではあるが、なにより、咲季が事前にことねから噂を聞いていたところが大きい。
月村手毬が同世代の中でも随一の歌唱力を有すると聞き及んだ以上、咲季としては手合わせしないわけにはいかなかった。
だが、その勝負の一部始終は語るまでもない。
公平性を期すための審査員は名ばかりのもので、彼女らの対決を見届けた3名は漏れなく一方の歌声に魅了されていた。
片や、初星学園に来て間もない清夏とリーリヤはその歌姫の圧倒的な腕前に恐れ慄き。
片や、彼女の過去の栄光をよく知ることねはその力量を改めて噛み締めている。
審査などもはや必要ない。
実力差は歴然。否、そもそもとして未来のトップアイドル候補とまで呼ばれた歌姫が、その得意分野で駆け出しアイドルに負けるはずがなかったのだ。
「ぬぐぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜! こ、このわたしが歌唱勝負で負けるなんてぇ……っ」
完膚なきまでの敗北に苦虫を噛む咲季。
彼女の演技も決して悪いものではなかった────少なくとも自身よりは遥かに安定した歌唱力であるとことねは評価している────が、今回は相手が悪かったと言わざるを得ない。
手毬の力強い歌声は魔法の類でも秘めているのか、パラメータによる実力差をさらに突き放しているようにすら思えた。
「あなた、やるじゃない! プロデューサーがスカウトしただけのことはあるわ!」
しかしながら文句なしの完敗を経てなお咲季は挫けていない。
悔しいは悔しいが、格上のアイドルが大勢存在するというのは入学前から覚悟していたことである。
何より実際、ことねとの勝負でそれを痛感したばかりなのだ。
「わたし、井の中の蛙だったみたい。内部進学組の人たちって────アイドルって、すごいのね。あなたが正しかった。この間はごめんなさい!」
「えっ……」
そんな咲季の私情など露知らぬ手毬としては、こうしていの一番に謝罪が飛び出してくるとは思いもしなかった。
彼女の第一印象といえば勝気で生意気で、負けず嫌い。素直な謝罪は愚か、散々な負け惜しみの数々を想定していたほどである。
初対面の悪印象が尾を引いていたのだろうが、しかし、目の前にいる少女はそんな想像上の花海咲季とは別人のようだ。
“い、意外といい人……なのかも”
今朝のような図々しさは依然癪に障るものの、勝負に対する真摯さは正直に評価したいと手毬は思う。
自らの非を即座に認めて頭を下げられる誠実っぷりはむしろ見習うべき点だ。
加えてこうした咲季の性質を踏まえれば、今朝からの彼女の変わり身にも合点がいく。
ことねとの勝負で考えを改めた、と咲季が言っていたのはきっと過不足のない表現で。
咲季がことねに敗北し、手毬にしているのと同じように頭を下げている姿は、今となっては想像に難くない。
「まあ……そっちも、アイドルはじめたばかりにしては、いいセンいってるんじゃない?」
そんな駆け出しアイドルの健気さに影響されてか。珍しく嫌味のない賞賛を口にする手毬。
相変わらず上から目線な言葉遣いではあるが、それは虚勢を崩しきれない彼女なりの最大限の賛辞である。
だが────────
「あら、それじゃあわたしたちと一緒にプロデュースしてもらう気になったかしら?」
「それとこれとは話が別。
紫雲と葛城の考えには賛同するし、あなたの実力も認めてあげるけど、私はあなたたちのペースに合わせるつもりはない」
安易な邪推を切り捨てるように手毬は首を横に振った。
対して、今の言い分は聞き捨てならないと、咲季は眉を顰めて。
「ふん、えらそーに。まるでわたしがあなたに付いていけないみたいな言い草ね」
「そう言ったんだよ。それとも、自分なら私に付いてこられるとでも?」
「はぁ? バッカね〜、勘違いしないでくれる?
わたしがあなたに付いていくんじゃないわ────あなたが、わたしに付いてくるの!!」
「────────え?」
強気の宣告に手毬は目を見開く。
自身との間にある果てしない実力差を思い知ったはずだというのに、咲季の言葉には一切の疑念が含まれていなかった。
月村手毬は天才ではない。
ありふれた努力を死に物狂いで積み重ねた秀才だからこそ、彼女は中等部No.1に君臨していた。
それはことねを含めた内部進学組にとっては周知の事実であり、つまるところ、手毬との実力差を『才能の差だ』と切り捨てる人はほとんどいない。
だが一方で、面と向かって彼女の全力疾走を追い抜いて見せると宣言したのは、咲季が初めてだった。
否、妄言の類であれば幾度か耳にしたこともあるだろう。
しかし、実際に今朝のランニングで手毬の全力を追い越してしまった彼女の言葉を、手毬は疑うことができなかったのだ。
「言ってたわよね。『仲間が役立たずだから抜けた』って。な〜んかやたらとツラそうに。
それのなにが悪いの? そぉ〜んな当たり前のことで、いつまで悩んで暗くなってるつもり?
わたしはね────わたしに追いついてこないやつらを、いちいち待ってなんかやらないわ! 足手まといはいらない。わたしを追い抜いて、どんどん置き去りにしてしまうような、そんな心強い仲間が欲しい!」
自分のスタンスを表明しながら、ぐいっと一歩前へ出る咲季。
依然として戸惑っている手毬に追い打ちをかけるように彼女は続けて告げる。
「だから、あなたがいいの!」
「────────────」
「わたしと来なさい、月村手毬!」
強引に手を引くような言葉。
手毬はつい、本日何度目かもわからない息を呑む。
先ほどまんまと負かされた身分でそんな宣告をする咲季も咲季だが、それに見事心を動かされている自分も大概だ、と手毬は思わず自嘲した。
冷え切った心に燃える火を投げ込まれるようなこの感覚は長く久しい。
最初にこの火をくれたのは、それこそかつて彼女が憧れた太陽だったはずである。
自己嫌悪に呑まれていた冴えない少女も、あの眩い陽に照らされたから、その憂いを振り払って走り出すことができたのだ。
故に、手毬が懐かしく思うのは道理。
無意識的であれ有意識的であれ、咲季もまた、少女に芽生えた自己嫌悪を振り払わんと言葉を投げかけているのだから。
温かな陽だまりに絆され、無意識に頬を緩ませた手毬は、それでも────────
『まりちゃん……ずっと一緒に、夢を目指しましょうね』
旧友との約束すら違えてしまった自分に今更そんな資格はないだろう、と。
少女は差し伸べられた手から必死に目を逸らした。
目の前の相手をここにいない誰かに重ねるのは勝手だが、その手を取ってしまえば本当にかつての惨劇の二の舞になってしまう。
月村手毬はそれを許さない。許してはいけない、と。
一匹狼は背後から忍び寄る赤ずきんの面影に慌てて喰らいつき、喉奥へと押し込んだ。
「悪いけど、私はあなたが思ってるようなやつじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。期待されても困る。それに、私の噂────色々言われているの、知っているでしょう?
あれは、全部、ほんとうのこと。だから………私には関わらない方がいい」
腕を組み、あえて高圧的に手毬は諭す。
だが咲季たちとの関わりを拒絶した声はその実、いつものそれに比べて弱弱しいものだった。
「月村さん……」
「葛城と紫雲にも改めて忠告しておくよ。1組のクラスを団結させるのはいい考えだと思うし、勝手にすればいいけど…………特別私と関わったところで色眼鏡で見られるだけだし、私も馴れ合う気はないから。あなたたちに得なんてないよ」
「────────────」
だから、それが彼女の痩せ我慢であろうことはその場にいる誰もが理解した。
鉄仮面のように思えた毒舌エリートアイドルの振る舞いは、純真無垢な花海咲季の言葉で呆気なく瓦解し始めている。
しかしながら、だからこそ、手毬のその中途半端な態度が咲季にはもどかしく思えたのか。
「ん~、んんん~~~~~~~~~~っ! ああもーーッ、メンドくさい!」
遂には、爆発した。
「噂がほんとうかどうかなんて、どうでもいいわ! あなたの気持ちも関係ないっ! あなたを仲間にする! そうわたしが決めたのよ! 大人しく言うとおりにぃ────────」
地団駄を踏みながら所感を存分に吐露する咲季。
その内容からして、彼女の辞書にはおそらく「オブラートに包む」という言葉は存在しない。
実際、前段の噂の是非を気にしないという部分は結構なことだが、その後ろに続いた傍若無人っぷりにはかなり問題がある。
そんな咲季の暴走を傍から見守っていた
「────────あいひゃたたた!? あ、あにすんのよことね!!」
「こっちの台詞だバカ! 黙って聞いてたら、ムチャクチャ言いやがって~!」
ぎゅむう、と頬っぺたをつねってことねは咲季に制裁を加える。
こういうとき、つい衝動的に りつけてしまうのは藤田家の長女としての性質が影響しているのだろう。
無論、どんな脈絡であれ咲季が手毬を勧誘している以上、その迷走を黙って見過ごすわけにはいかなかったのだが。
「ゴメンね? うちのバカが。あ、でも月村ちゃん、な~んか勘違いしてるみたいだから、あたしからも本音で一言いい?」
「…………なに?」
「あたし、あんたのことキラーイ♪」
「なっ────────!?」
ただし、それは咲季の横暴な主張を咎めるものであり、その気持ちまでをも否定するものではない。
むしろその憤りについては激しく同意したいところである。
手毬の事情などことねにとっては知ったことではないし、それを聞かされたところで、彼女への印象が変わる余地など存在しなかった。
「意識高ぁ~いみたいなおすまし顔で上から見下してくるトコとかさぁ、イライラするんだよねぇ。
成功しかけてたくせに、ちょっと喧嘩したくらいで恵まれた立場を捨てちゃうところとかぁ。後々響きそーな悪い噂を否定もしないで悲劇のヒロインぶってスカしてるところとかぁ。
ぜぇ~んぶキライ。ほんとにトップアイドルになる気あんの~?」
「あ……あなたにっ、私のなにが……!」
「そりゃわかんないよ、他人だもん。
だけど────もしも悪い噂が全部本当で、あんたがマジで性格終わってる最低のやつでも────あたしは、あんたを仲間にしたい」
「…………なんで、そんな、こと。私のこと、嫌いなんでしょうっ!?」
「関係ないよ、そんなの」
「え…………?」
最初にプロデューサーの方針を承認した時点で、ことねは既に選択を終えている。
それは希望的観測を徹底的に排除し、事実のみを判断材料とした損得勘定。
故に、結論は揺らがない。揺らぐはずがなかった。
「今年の内部進学組なら、みーんな知ってるよ。月村手毬は、顔が良くて歌がめちゃ上手くて、練習の鬼で向上心のカタマリで────中等部ではトップだった、ってさ。あたしにとっては、雲の上の人。そんなやつと一緒にプロデュースしてもらえるとか、大チャンスじゃん? 好きとか嫌いとか、これまでの経緯とか、全部どーでもいいよ。
あたしたちは仲良しするために友達になるんじゃない────
だからきっと前の仲間みたいにはならないと、ことねは断言する。
先程の手毬の自分語りから、SyngUp!が解散に至った本当の経緯を推察してのことだ。
彼女が執拗に馴れ合いを拒絶しているのは、それがユニットの解散理由だったからに違いない、と。
「それでよけりゃ、一緒にやろーぜっ?」
トドメと言わんばかりに優しく微笑みかけることね。
いつもの彼女らしいビジネスライクな笑顔だが、作り笑いもここまで来れば本物だ、と手毬は感心した。
「…………はぁ、まったく。あくまでも目的のために互いを利用する、ギブアンドテイクの関係ってことだね。あなたたちに言いくるめられたみたいになるのは癪だけど────────」
やれやれと大きく溜息をつきながら、手毬は張り詰めた緊張の糸が切れるみたいに、全身から力が抜けていくのを感じた。
その反動か、ぶっきらぼうに努めていた彼女の口角は少し上がり。
「────────すごく私好みだよ、それ」
気がつけば、ことねに負けず劣らずの不敵な笑みを浮かべながら、そんな返答を返していた。
「気が変わった。あなたたちの仲間になってあげるよ。よく考えたら、大嫌いなあなたたちに迷惑をかけたって、心は痛まないもの。せいぜいあとで後悔すれば?」
結局のところ、プロデューサーがつく利点を3人で分け合うことになるのに変わりはないが、スカウトを断ってひとりでやっていくよりは幾分かマシである。
そのうえで競り合ってくれる好敵手がそばにいるのは、手毬としても喜ばしいことだった。
「一時はどうなるかと思いましたけど…………よかったです」
「ほんとにね〜。ことねっちまで乱入していったときは流石に焦ったよ」
事態の収束を見て取ったリーリヤと清夏は、次第に思い思いの安堵を零す。
プロデューサーからのスカウトを受けていないふたりからすれば、歌唱勝負の審判はともかくとして、その後の騒動はとばっちりもいいところである。
「でも、無事に3人が仲良くなれたみたいでよかった。これで教室の雰囲気はしばらく安泰だね」
「い、一緒にプロデュースを受けるって言っただけで、仲良くはなってないから」
「リーダー、月村っちはこう言ってるけど?」
手毬の反論を受けて、咲季に視線を向ける清夏。
咲季は『リーダー』と呼ばれたことに嬉しく思いながらも、手毬の態度には難色を示して。
「さっき友達になったじゃない」
「な、なってない。馴れ合う気はないって言ったよね」
「勝負したらもう親友でしょ。これからはわたしのこと────咲季って名前で呼びなさい」
「どうしてわざわざそんなこと」
「これから一緒にやっていく仲でしょう? その方がきっと上手くいくわ」
「…………はぁ、咲季。これでいい?」
「ええ────────改めてよろしく、手毬」
和やかに微笑みかける咲季に、手毬は照れくさそうに顔を背ける。
常に他人を突き放すような態度をとっている手前、このように親しげにされる感覚は久しい。
彼女らのそんな雰囲気に絆されてか、手毬の内側に沸々と湧いたのはいつも通りの嫌悪感ではなく、張り詰めた心が解きほぐれたような安心感だった。
ともあれ、頑ななエリートアイドルの懐柔はこれにておしまい。
月村手毬は月村手毬のまま、ことねや咲季とともに走る道を承諾したのだ。
04 歌姫は止まらない