天界の上空に点在する不規則な地形には、それぞれ広くて浅い泉がある。
澄んだ水が湧き出る泉は、羽を持つ天使たちの水浴び場としてよく利用されていた。
ある晴天の昼下がり、ラジエルが上空を飛んでいると、泉で水浴びをする天使の姿が目に入った。
大きな体で派手な水飛沫を上げているせいか、そばにはうっすらと小さな虹がかかっている。
知らない者が見たら、天使というより、フクロウが水浴びをしていると思うだろう。
その姿を見知っているラジエルは、泉のそばに降り立ち、彼に向かって元気よく声をかけた。
「おーい、ラグちゃん!」
「やあ、ラジエル」
ラグエルは、バサバサと羽を振るいながら岸へと上がった。滴る水を弾く銀白の羽が、抜けるような青空に眩しく映える。
「キミも水浴びに来たのか?」
「ううん。お散歩の途中に寄っただけ」
ラジエルは首を横に振った。この泉は他より深くて大きいからか、ラグエル以外に水浴びをする天使はいない。
自然な動作で距離を詰めるラジエルに、ラグエルは不安げな様子でたずねる。
「散歩をするのは結構だが、仕事のほうは……」
「今日の分はもう終わったよ!」
ラグエルの言葉を遮って、ラジエルは胸を張って答えた。
「もう終わったのか。仕事が早いな」
「そうかな? えへへ……」
ただ単に、仕事の量が少なかっただけだが、素直に感心するラグエルにそれを言うのは憚られた。
ラジエルは気恥ずかしくなって、もじもじと体を動かす。
視線を彷徨わせた先には、ラグエルがいつも身につけているストラとハーネスが置かれていた。
ラグエルには、鳥類のような両翼とは別に、背中から生えている羽もある。
ハーネスは、その背中の羽を束ねるためのものだ。
なぜ束ねているのかをラジエルが過去に聞いたことがあったが、ラグエルは『使わないから』としか答えなかった。
(きっと、他にも理由があるんだ。だって、使わないだけならハーネスなんて付けないもん)
ラジエルは、羽繕いをするラグエルの背後に回って、背中の羽を確認した。
目を凝らして見てみると、他の部分とは羽毛の質感が違う気がする。
普段から使っている両翼よりも硬そうに見える背中の羽は、まるで鋭利なブレードのように水を弾いていた。
「ラジエル……危ないから少し離れてくれないか」
ラグエルは、くるりと首を回して振り返った。
半眼気味の大きな単眼からは、どこか当惑している様子が見て取れる。
マイペースなラジエルは、知ってか知らずか、いつもの調子で聞き返した。
「なにが危ないの?」
「……足元に居られると、間違えて踏んでしまうかもしれないだろう?」
「んー……わかった」
どこか納得のいかない顔で、渋々移動する。
ラジエルが離れると、濡れた羽根を乾かすために、ラグエルは翼を広げた。
その翼で作られた空間を見るやいなや、好奇心の塊であるラジエルは瞳を輝かせる。
姿勢を低くしてそこを覗き込むと、猫のように素早く、ラグエルの翼の下に潜り込んだ。
中は思ったよりも広かった。真上に広がる翼からは、微かに日の光が差し込んでいる。
湿った空気と、さっきまで陽に当たっていた暖かい芝生が心地よい。隙間から流れてくる風が、ラジエルの頬を優しく撫でていった。
懐かしい匂いがする。雨の日の図書館や、雨宿りで木の下にいるみたいな――ラジエルにとって、そこは落ち着く空間だった。
このまま眠るのもいいなと、寝転んで目を閉じる。
「危ないと言っただろう? 早く出てきなさい」
ラグエルの声が重く響いた。普段よりも低い声に、さすがのラジエルも大人しく従うしかない。
「あーあ、隠れ家みたいで良かったのに」
「……残念だが、他をあたってくれ」
「他って、たとえば?」
たとえば……とラグエルは言い淀んだ。二、三度瞬きをして、ゆっくりとした口調で呟く。
「天界は、広いからな……どこかにキミの特別な場所があるはず」
「じゃあ、ラグちゃんは? 特別な場所ってある?」
ラジエルの問いに、ラグエルは少し思案するように目を伏せた。
期待の眼差しで見つめるラジエルに気づいて、無言で頷く。
「あるんだね。特別な場所! 教えて教えてー!」
「言っておくが、キミが期待しているような場所ではないぞ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら催促するラジエルに、ラグエルは言葉を続けた。
「それに……そういう場所は、自分だけの秘密にしておきたいんだ。ワタシは」
「……ふーん。そっか」
ラジエルは不満げに口を尖らせ、寂しそうに顔を背けた。
泉のそばに寄り、静かな水面をじっと眺める。
「ラグちゃんは秘密が多いね」
「……」
長い尻尾の先端が小さく揺れているのを見て、ラグエルは彼女が考え事をしているのだと察した。
その様子は、以前岬で見たラジエルの後ろ姿を連想させた。
彼女の行動は先が読めない。いきなり泉の水を飲んだり、服を着たまま飛び込む可能性もある。
もしかしたら——これがきっかけで、今度こそ下界に降りてしまうかもしれない。
ラジエルのことが心配になったラグエルは、思わず声をかけた。
「ラジエル、キミはどんな場所が好きなんだ?」
「私の好きな場所……? 狭くて暗くて暖かくて涼しい所!」
再びラジエルに翼の下を覗き込まれて、ラグエルは慌てて広げていた翼をたたむ。
湿った羽根の感触に顔をしかめたラグエルに、小首をかしげながらラジエルは問いかけた。
「そういう場所が好きって、変かな?」
「変だとは思わない。ワタシも狭くて暗い所は好きだ」
他の天使からしてみれば、変わっているかもしれないが……とラグエルは付け足した。
「落ち着くよね! 狭くて暗い所。天界にそんな場所があればいいんだけど」
「あるとも。先ほども言ったように、天界は広いのだから。まだキミが行ったことのない場所を探してみるといい」
ラグエルの視線の先には、高くそびえる塔がある。
オリエント公園の近くに建てられた展望塔だ。あそこの展望台は、見晴らしはいいが利用者はほとんどいない。
普段から飛び回っている天使にとっては、上空からの景色なんて見慣れているからだ。
「うーん、確かに……行ったことない場所いっぱいある。あの塔も、外から見ただけで中に入ったことはなかったなー」
「ならば、今からでも行ってきたらどうだ?」
「うん! そうする! ラグちゃんも一緒に行かない?」
「気持ちは嬉しいが、遠慮しておくよ。展望塔には、以前入ろうとしたが無理だったんだ。入り口が狭くてね」
展望塔の入り口が狭いわけではなく、ラグエルが大きいだけなのだが、本人もラジエルもあえてそれを口にはしなかった。
自嘲気味に笑うラグエルを励まそうと、ラジエルは明るい声を出す。
「ねえ、ラグちゃん。私の好きな場所が見つかったらさ、特別に教えてあげる!」
ひらひらと長い袖を揺らして話すラジエルに、ラグエルは意外そうに聞き返す。
「特別に?」
「特別に! ……他の子にも教えるかもだけど」
真っ直ぐで気まぐれなラジエルらしい。そう思いながら、ラグエルは折りたたんでいた両翼を静かに広げた。
「分かった。ならば、約束をしよう」
「約束?」
「ああ。キミがその『特別な場所』を見つけて、ワタシに教えてくれたら……その時は、ワタシの秘密の場所も、キミにだけ特別に教える」
ラグエルの約束に、ラジエルは一瞬だけ笑顔になったが、ふと気遣わしげな表情を浮かべる。
「でも……自分だけの秘密の場所なんでしょ?」
「……キミに教えてもらうのに、ワタシだけ秘密にしたままでは不公平だからな」
照れ隠しのように、ラグエルは乾ききっていない翼を軽く震わせた。
羽ばたきの風を受けて、泉の水面が揺らぐ。
「じゃあ、約束! 絶対に素敵な場所を見つけてくるからね!」
ラジエルは満面の笑みで両手を振ると、ラグエルの返事も待たずに展望塔の方向へ飛んで行った。