光の奥に踏み出すのは、初めてのことだった。
ぺたりぺたりと地面を踏みしめながら歩く一人の子供、薄汚れ汚泥に濡れたその身体は酷く周囲の注目を集めていた…が、その当の本人はそんなこと気にも止めず、ただ悠々と歩を進めた。
あの後のことを話そう…女を何気なく殺したこの子供は、特に何をするでも剥ぎ取るでもなく、その場を立ち去ろうとしていた…なんてことない、何時も通りの日常に帰ろうとしていたのである。
…しかし、その足が暗闇の元へと向かうことはなかった…寧ろその逆にその暗い瞳が捉えていたのは光の向こう側、自分に縁遠い一般的な普通の人間の領域だった。
…いやいや、何を考えている、そんなことしたってどうにもならないだろうと暗闇の中に引き返そうとする子供…しかし、そんな自身の意識に反してその足はその場に踏み止まっていた。
───出たい、行きたい、見てみたい。
まるでそう言うように、まるで好奇心に駆られた猫のように、子供自身の意思に反してその足は真っ直ぐ爛々とした様子で光の奥へと向かっていった……結果、現在子供は光の向こう側を歩いている……踏み出してみれば簡単なものだったと、今にしてみればそう思う。
「君、一人かい? お母さんとお父さんは?」
やっぱり出なきゃ良かったかもしれない…目の前で自分の顔を覗き込んでくる大人を見て、子供はそう思った。
最初はただ歩いていただけだった…見慣れない景色に見惚れながら、見慣れないモノに興味津々に張り付きながら、表情に出ていないだけで何処かキラキラとした様子で道を歩いていただけだった。
そうしたらこれである…唐突に呼び止められ、なんだなんだと振り返ってみればこれまた同じような服を着た大人二人がしゃがみながら今のような言葉を放ってくるのだ…別に先程の男と同じとは思わないが、如何せんつい先程まで大の大人に殴られ続けていたのである、大人に対して良い感情なぞ抱けるわけもなかった。
しかしそんなことを大人二人…警察官である彼等が分かるはずもない…寧ろ彼等からしてみれば当然の責務を果たしているに過ぎないのだから子供の内心は的外れとも言えるし、そもそも世間的に正しいのは彼らの方である。
しかし、同じく当然のことながら世間体に触れて来なかった(というより触れる余裕が無かった)子供にとってはなんで一々構ってくるのだろうという疑問にしかならず、しかも警察官二人の質問にもそもそも親がいないし親というものも知らないが為に答えようがない…つまり、どうなるか───
「───ッ!」
「あっ!? 待ちなさいっ!!」
逃げの一択だった、迷いのない振り向きからのスタートダッシュだった、クラウチングスタートなぞ知る由もないないが故にその走り出しは小学生のそれであったが、しかしその速度は素晴らしいの一言である。
何故だか知らないが身体が異様に軽かった…男と女を殺した辺りからだった、普段あまり動くことのないこの身体でもどんな風に動かせるのかが手に取るように分かった…不思議なこともあるものだねとなんとなしに子供はそう思う。
タンっと踏み出した足が地面を思い切り踏みしめる、踏みしめた地面に罅が入り、そこから更に爆発的に加速していく自身の身体に高揚感を覚えた…はて、身体を動かすことはこんなにも楽しいことであったろうかと、そう思うのは至極当然のことであったのかもしれない。
踏みしめた足が地面を砕く、思い切り踏んで思い切り前へと進む…ただそれだけ、それだけのことで一気にやった本人の意思すらも飛び越してその身体は加速する。
ズガンッ! ズガンッ! ズガンッ! ズガンッ! と、大きな音を響かせながら加速するその姿に周囲の人間の視線が向く…が、並大抵では最早それを捉えることもままならない…それほどまでの加速、それほどまでの速度。
───あぁ…楽しい。
それは、紛れもない子供の本心だった。
「───あっ…」
「───…?」
そんな時だった…道の角から
逆立った金髪に筋肉隆々の身体、自分よりも遥かに大きな身体をしたソレは子供からみれば正しく巨人である。
それに加えてどこからどう見ても画風の違うその顔、子供にはその言葉の意味なぞまるで分かりようがないのだが、同じ世界の人間かどうかを疑う程度の知識はあった。
そんな巨人が道の角から唐突に出てきた、走るのが楽しぃぃっ!! していた子供からしてみればそれは正しく壁を乗り越えてきた超大型巨人を見た時の小人に近しい。
反射的にブレーキを踏んだ、勢いを止めようと足を踏みしめ踏みとどまろうとした…しかし、人間もそんな急に出てきたものに対して踏み止まれるようには出来ておらず、ましてそれが互いに意図せずのものであれば尚更な話である。
つまり、結果として───
「───ほうおぉぉっ!!?」
「───ッ!?」
激突した…見事なまでの追突、ここまで綺麗にぶつかるものかと感嘆の声でも上げるべきであろうか、子供の頭部ごと男の腹部より僅かに下の部分へとガチコンッという人間同士がぶつかったにしてはあまりに硬質な音を鳴らしながら子供と男は驚愕と痛みの悲鳴を上げた。
咄嗟に頭を押さえる子供、人間にぶつかったとは思えぬほどの硬質な感触に痛みを抑えきれなかったのだ、下手をすれば先程殴られた時以上の痛みに涙を浮かべて蹲る。
対して男の方はどうか…硬質な音の出どころは此方である、当然のダメージなぞまこと少ない───
「───ぅ……ごごごっ…」
なんてことはなかった、何やら股間部を押さえて何かに必死に耐えている様子だった。
それも同然であろう、何せ子供がぶつかったのは腹部よりも下…つまり先も言った男が押さえている股間部そのものである、当然のことではあるがそこにあるのは幾ら鍛えようが一向に変わることのない男性という種別にとっての最大の急所である…幾ら筋肉隆々と言えどそこに猛スピードで激突されればダメージは免れない。
「…だ…大丈夫かい少年…… いや、少女…?」
プルプルと震えながらも気丈に笑顔を浮かべ、子供の無事を確かめる男…その容姿故に少年か少女かの判断が付かなかったのか、若干困惑しながらの言葉ではあったが、しかしその言葉には明確な善が見受けられた。
普通ならここで言葉を返すべきなのだろう、ありがとうなりなんなりと言葉を発して笑顔で別れる…それが世の普通なのであろうが…だがしかし───
「──────」
この子供は違った、何も言わないし表情一つ変えない、圧倒的無がそこにはある。
勘違いしないでほしいが、別に話したくないというわけではない、礼を言えるのならばとっくに礼を言っているだろう…しかし、出来ない…しないでもやらないでもなく、出来ない。
それも仕方のない話なのだろう…何せこの子供、喋れないのだから。
正確に言うのならば極端に喉を使ってこなかった弊害か、喉の機能が非常に弱っており発音するのがそれこそ非常に難しいのだ…誰に話しかけるでもうめき声を上げるでもなくゴミ箱漁りの生活を繰り返してが故に声を出すということが必要無かったが故の欠陥だった。
身振り手振りも厳しいかもしれない…そういう生活を送ってこなかった、そういうものが必要な生活を送ってこなかった…あまりに一人孤独に生き過ぎた結果がこれである。
そもそもが人と関わり合いになることそのものに慣れていないというのもあるのかもしれないが…まぁ兎に角、本人なり考えた末に弾き出した結論は───
「──────」
「───ちょっ…!?」
特に何をするでもない全力ダッシュだった…曲がり角の向こう側へと煙を立てながら消えていく人影に男は何も言えなかった。
そんな男の姿を後ろ目で見て、所々が欠けた知識を持った歪な子供は思った…今度はキチンと声を出せるようにしておこう…と。
…と、まぁ…こうして『平和の象徴』と呼ばれた男と後に『敵』となった子供は出会ったわけである。
…適当と言われるかもしれないが、実際こうなのだから許してほしい。
ここまで主人公のセリフが実質ゼロな作品って他にあったのだろうか。