さて、これからどうするべきであろうかと、子供はふとそう考えた。
巨人から逃げ出してどれほど経ったか…少なくとも出歩く人間が極端に少ないような時間帯にはなった…頭上に輝く黄金の満月が街並みを照らす、一つまた一つと建物の中から光が消えていく中で子供はペタペタと街灯が照らす道を歩いていた。
子供は困っていた…逃げ出したは良いもののそこからどうするかなんて全く考えていなかったのだ…いや、そもそもあの路地の暗がりから飛び出した時点で計画も予定も何も無かったのだが。
故に考えるのだ、どうするべきなのかと、これから自分はどうするべきなのかと……しかし、一般的な知識や常識に著しく欠ける子供はその身一つで何をどうするべきなのだという価値観を持っていなかった。
故に何も考えつかない、働けば金が手に入るという考えすら出てこない…そもそも常に路地で過ごしてきたが故に金という概念そのものを知らない可能性すら存在するのだ、最早子供の立っている場所はスタートラインどころかマイナスラインとも言える位置であった。
ぐ〜っと腹の虫が鳴る、初めての全力運動の直後であったからだろうか、減ったエネルギーの補填を求めるように肉体は腹部から音を鳴らして空腹を訴える…反射的にお腹を抑えた子供はその音に遅れる形でやってきた空腹感に眉を細めた。
───お腹すいた
当たり前の思考、当たり前の本能…身体がエネルギーを欲している、身体が栄養を欲している…生物として至極真っ当なまでの生存のための行動を子供の肉体は欲していた。
では、改めて子供は考える、どうするべきなのだろうか…と。
またゴミを漁って残飯を手に入れて今日を凌ぐか、それとも方法が思いつくまで我慢でもするのか…知識が無いが故の選択肢の少なさがそこにはあった、実質的にゴミ箱を漁る以外の選択肢が殆ど出てこない辺りにその重傷具合が分かる。
悩みは殆ど一瞬だった、そもそもそれしか知らないのだからそれ以外の選択肢なんて端から取れないのである…子供は、ゴミ箱を漁ることにした。
では目的も決まったということでその肝心のゴミ箱は何処にあるのかと探すことになる…前にいた場所は突然殴られた経験から行きたいとは思えなかったというのもあるが、それとは別にあの暗がりに戻りたくないという意識が子供にはあった。
ならばあの暗がり以外を探してみようかと子供は思った…幸いなことに走っている最中にゴミ箱らしきものがあることは疾うに確認済みだった、歩いていればその内見つかるだろうと子供は考えていたのである…事実、ゴミ箱は直ぐに見つかった、酷く目立つ場所で。
光輝く建物、白い光が暗い夜闇の中で一際強く視界の中に映り込んだ…子供には知る由もないが、そこはコンビニだった、何時でも何処でも閉まっていることの方が少ない皆の味方とでも言うべきコンビニだった。
新鮮であったのだろう…ゴミ箱目指して寄ってみれば眩しくて仕方のない光の塊のような場所、電灯のようなほんの少しの淡さを含んだ光ではなく真っ白で目を閉じたくなるほどの眩い明るさ…暗がりに慣れていたその瞳にはその輝きはあまりに眩しくて…あまりに、未知に溢れていた。
近づいて、その中身を見て、子供はその目を見開いた…外からでも良く見える、色んなものがこれでもかと置いてあった…中にはゴミ箱を漁っている時に見つけたものと同じ袋のようなものさえあった…しかも、中身を伴った状態で。
ゴミ箱漁りなんてその時点で頭の中から吹っ飛んでいた…奇妙な音を立てながら開く扉、そこから出てくる人…その誰かも分からない人間がとても上機嫌そうに袋から何かを取り出して封を開ける。
そこから出てきたのは熱気を噴き出す肉々しい何かだった…空腹に揺れた子供の嗅覚は容易くその匂いを嗅ぎ取り、それが自分の食べたことのない美味しそうな何かであることを認識する…そしてそれとは別に聴覚は、それに美味しそうに齧りついた際の音すらも拾ってみせた。
ザクッ、バリッ…そんな音が聞こえた、そんな食欲を刺激しそうな音が子供の耳へと届いた…垂れたヨダレが地面に落ちる、もう他のことなんて何も考えられなくなっていた。
中身が無くなる、満足そうにペロリとそれを平らげた誰かは残った白紙をゴミ箱へと投げ捨ててそのまま車へと乗り込み発車していく…それを見ていた子供は、それを聞いていた子供は思った。
───あそこには、あれと同じものがある?
疑問形だった、夢中になり過ぎて奪うという考えにすら至らぬ程にその匂いと音に熱中してしまっていた子供は、何時の間にやら無くなっていたあの肉々しい何かが欲しくて堪らなくなっていた、食べたくて仕方がなくなっていた。
食欲に任せてその持ち主を襲わなかったのは奇跡に等しかった、その本能に任せてその匂いと音の根源を奪い取ろうとしなかったことは正しく奇跡というべきものだった…それほどまでに危険な状況であったことを、きっと両者は知り得ない。
そして子供は存外頭が良かった…単純明快に、あの扉から出てきたのだからあの美味そうな匂いのモノはあの扉の向こう側にあるのだという簡潔な結論に達するのに時間は掛からず、そこへと踏み込むのにはもっと時間を掛けなかった。
何処から入るのかは分かっていた、出てきた場所と同じ場所から入れば良いのだとなんとなくそう認識していたから…実際、子供は先程の誰かがそうしたように容易くコンビニの中に踏み入ることに成功していた。
いらっしゃいませー…そんな呑気な声が耳に届く、それがどのような意味を持つのかを知らない子供はその声に困惑しながらもペタぺたとその未知の場所へと足を進めた。
そんな子供の姿に、それを見ていた店員は目を剥いていた。
ボロボロだった、ボロボロの子供だった。
白く長い髪を地面に引きずりながら入ってきたその子供は、ボロボロの服にその服の上からでも分かるようなボロボロの身体の状態で店の中に入ってきていたのだ、驚かない人間の方が少ないだろう。
溝に落としたように汚れた白い髪と肌、暗く淀んでいるように感じさせる黄金の瞳は見るものに一つの恐怖を与えてくる、そう錯覚させるだけの闇を感じさせた。
ヒーローを呼ぼう…その結論に至るまで、そこまでの時間は要しなかった。
怖かったわけじゃない、ただどう見ても訳ありそうな風体だったからヒーローに保護してもらおうと思っただけだった、ヒーローになんとかしてもらおうと思っただけだった…当然、自分でどうこうなんてひと欠片も考えてはいない、考えようともしていない。
ただヒーローにどうにかしてもらおう…そう考えた、そう考えただけだったのだ…ただ、それが後に惨劇を生み出すことになることをこの店員は知らないでいた。
子供の足が止まった…レジの真ん前だった。
オレンジ色に光る箱、その中にある先程に見た美味そうな音と匂いの発生源…若干の熱を伴っているそれが子供の目と鼻の先にあった。
店員はその場にはいなかった、ヒーローに通報する為にタイミング悪くその場を離れていた…つまり、誰も見ていなかったのだ。
警戒するべき視線が何処にもない、この場には自分を傷付ける誰かも手に入れたものを奪おうとする何かもいない…その事実が子供にその行動を起こさせた。
───バガンッ!!
叩き割った…ガラスの向こう側にある匂いの元に手を伸ばす為に、子供はホットショーケースのガラスを無造作に叩き砕いた。
飛び散る破片、派手な音を立てて割れたガラスが地面に転がっていく、音に気が付いた店員が驚いたように飛び出してくるのも気にしないで子供は何ということもなくショーケースの中身へと手を伸ばした。
温かい…普通の人間ならば熱いと感じるだろうそれを温かいの一言で済ませて、子供は目の前で熱気を放つそれの匂いを思い切り吸い込んだ…嗅いだことのない匂い、離れた場所から感じたそれとは比べ物にならないほどの感覚にまたしても涎が溢れてくる。
もう無理だ…そう言わんばかりに本能的にその肉へと齧り付く、ザクッと言う音と共にジュワッと広がる肉の旨味、生まれて始めて食べただろう温かい食事に子供は夢中になってそれを食べ進めた。
気がつけば手の中から消えている肉、油まみれになってヌメヌメとした手の感覚にキョトンと首を傾げながらも、無くなったのだから次だと言わんばかりに子供はケースの中へと更に手を伸ばした。
それを呆然と見つめるのは店員だ…ほんの少し目を離してみれば大きな音を立ててガラスが割られていた、挙句にその割った本人であろうクソガキはもぐもぐと何処か美味そうにその中身を食べているのである…中々に情報量の多い状況であった。
「───何やってんだこのクソガキィッ!!」
しかし、そこからの復帰も早かった…別に『敵』が襲ってきた訳でもないのだ、子供が一人盗み食いをしているだけなのだから怯える要素なぞ何処にもないのである。
先程までのヒーローに任せるという思考にしても、何処からどう見ても訳ありの子供であったからという認識があったからで、それを覆すようなことがあればそれは簡単に裏返る。
最早店員にとって、目の前の子供は器物破損に加えて現在進行形で盗み食いまでしているただの悪ガキであった。
怒鳴り散らして近づいた、如何にも私は怒っていますと言いたげな表情も雰囲気を放ちながらズカズカと子供へと歩を進めた店員はその手で子供の身体を掴もうとした。
対して、子供はその光景をジッと見ていた。
突然の大声にビクッと肩を震わせた後に店員がズカズカも音を立てて此方へと近づいてくるのを、その顔に憤怒の感情を乗せているのを、ジッと見ていたのだ。
子供の表情は動いてはいなかったが、もしも動いていたとすればきっと怯えた表情をしていたに違いない、きっと驚いた表情をしていたに違いない…悪いことであると認識はしていなくとも、相手が怒っているというのはそれだけで怯えるに足る理由であるのだから。
結果、子供であれば誰しもがその反応をするに至る…即ち防衛反応、怯えと恐怖から来る本能的な行動…殴られると思った子供が咄嗟に頭を守ろうとするのと同じように、叱られると思った子供が咄嗟に逃げようとするのと同じように。
名も無き幼子の『個性』が、躍動を開始する。
「───…はっ…?」
乾いたような困惑の声が、そこに響いた。
発したのは店員だった…胸の内から血を溢れさせた店員の言葉だった。
ドスッという生々しい音が響く、困惑の声を発する前に響いた音だ、子供の肩を掴もうとした店員の胸に言いしれない違和感が訪れる。
何かが胸に入ってきたような感覚、音と一緒にするりと鋭い何かが自分の大事な部分に入ってきたような感覚…それが心臓を貫かれた感覚であることを自覚するのに店員は時間を要した。
口から吐き出される血液、タイルの上に落ちていくはずのそれが別の白色を緋へと染め上げる…吐き出すのと同時に下を向いた店員はその正体に遅ればせながら気が付いた。
それは…恐らく尾だった。
鱗のようなものが付いた純白の尾…肩を掴もうとした子供の腰を辺りから突きだしてきたそれが自分の心臓を一突きしたのだと、店員はやってきた倦怠感と寒気と共に気が付いた。
尾が抜かれる、心臓を塞いでいた穴が無くなったことで大量に吹き出る血が子供に頭から掛かる…突然の赤に呆然とする子供の姿にふざけんなよ…と、店員は内心で悪態を吐いた。
恐らく自分が何をしたのかにも気がついていないのだろう、反射的に個性を使用して身を守った…そんな風だった。
だからこそ悪態が出てくる…悪いことをしたのはお前なのにどうして俺がこんな怖い思いをしなくちゃいけないんだと…そう言いたげに涙を流しながら店員は子供を恨めしげに睨みつけた。
死にたくない、怖い、母ちゃん……そんな単語を、頭の中に思い浮かべながら。
血を吹き出し、地面に倒れて動かなくなった店員、地面に血溜まりを作りながら涙を流して子供を睨みつけた様子で息絶えた彼の姿を子供は何処か呆然としたように見つめていたが…しかし、次第に興味が失せたのか、再びモグモグと手に取った肉を口に含み始めた。
ゆらりと白亜の尾が子供の側を揺れる、まるで上機嫌な様子の子犬のように。
こうして、種は蒔かれた。
主人公の個性は限りなく異形型。