マサラタウン
カントー地方、マサラタウン。
穏やかな風が草原を撫で、その向こうからポッポの鳴き声が聞こえてくる。大きな建物が立ち並ぶような町ではないが、周囲には草原や森、水辺といった自然が多く残されており、野生のポケモンを観察するには申し分のない場所だった。
そのマサラタウンへ続く道を、1人の青年が歩いていた。
「ヒノ、ヒノッ」
「分かってるって。もうすぐ着くから」
青年――ナツキの足元を、小さなヒノアラシがちょこちょこと歩いている。
ナツキの肩には大きめのフィールドバッグが掛けられていた。中には着替えや食料だけではなく、双眼鏡、方位磁石、採寸用のメジャー、簡易ルーペ、筆記具、そして何冊ものフィールドノートが入っている。
ナツキはポケモントレーナーではある。
だが、彼が旅をする目的はジムバッジを集めることでも、ポケモンリーグへ挑戦することでもない。
ポケモン調査官。
野生のポケモンがどのような環境で生活し、何を食べ、どんな時間帯に活動し、同種や他種のポケモンとどのような関係を築いているのか。
そうしたポケモンの生態を現地で観察し、記録することを仕事としている。
「見えてきた」
ナツキが顔を上げる。
町の少し高い場所に、目的の建物があった。
オーキド研究所。
カントー地方でポケモンの研究をするならば、まず名前が挙がるほど有名な研究所だ。
今回、ナツキがカントー地方で本格的な生態調査を始めるにあたり、最初の挨拶先として紹介された場所でもあった。
「ヒノアラシ、研究所ではあんまり走り回るなよ」
「ヒノ?」
「その顔は絶対分かってないだろ」
「ヒノヒノ」
「はいはい」
ナツキは苦笑しながら研究所へ向かった。
扉の前まで来ると、一度バッグの位置を直す。
少しだけ緊張していた。
ポケモンの前ではそれほど緊張しないのに、人間、それも著名な研究者を前にすると妙に肩へ力が入る。
「……よし」
呼び鈴を押す。
しばらくして扉が開いた。
「はいはい。おお、君がナツキ君じゃな?」
白衣を着た老人が姿を見せる。
特徴的な白髪と、柔らかそうでありながら好奇心の強さを感じさせる目。
写真で何度も見た人物だった。
「初めまして。ナツキです。本日からカントー地方で調査をさせていただくことになりました」
「うむ。話は聞いておるよ。まあ、そんなに固くならんでよい。入りなさい」
「ありがとうございます」
「ヒノ!」
ナツキより先にヒノアラシが元気よく挨拶をする。
オーキド博士は目を細めた。
「ほう。そのヒノアラシが君の相棒か」
「はい。長く一緒にいます」
「ヒノアラシといえばジョウト地方で最初のパートナーとして選ばれることも多いポケモンじゃな。それを連れてカントーを調査するというのも面白い」
「俺も、知らない土地でどういう反応をするのか少し楽しみにしています」
「ヒノ?」
ヒノアラシが自分の話をされていることに気づいたのか、首を傾げる。
「お前のことだよ」
「ヒノ!」
なぜか得意げに胸を張った。
オーキド博士が笑う。
「元気な子じゃ」
研究所の中へ案内される。
内部には様々な研究機材や資料が並び、大きなモニターにはポケモンの分布図らしいものが映し出されていた。
棚には図鑑や論文がぎっしりと並んでいる。
ナツキは思わず足を止めた。
「……すごい」
「研究資料が気になるかね?」
「はい。すみません」
「謝る必要はない。研究者が資料に興味を持たなくなったら終わりじゃよ」
そう言いながら、オーキド博士は机へ向かう。
「さて。君のことは事前に聞いておるが、改めて確認しておこう。君は主にポケモンの生態を調べて回る予定だったな」
「はい」
ナツキは頷いた。
「できれば図鑑に載っている情報を見るだけじゃなくて、自分で観察したものを残していきたいと思っています」
「ほう」
「例えば同じポケモンでも、暮らす場所や季節によって行動が違うかもしれません。それに、図鑑には載せきれないような小さな行動もあると思うので」
「なるほどのう」
オーキド博士は嬉しそうに顎へ手を当てた。
「ポケモンの研究というと、新種や進化、能力といった目立つ部分に目が向きがちじゃ。だが、毎日の暮らしを見ることも非常に大切な研究じゃよ」
「はい」
「どこで眠るのか。どんな餌を選ぶのか。天敵が近くにいるとどう反応するのか。同じ種類でも群れによって習慣が変わることもある」
ナツキの目が少し輝いた。
「そういうのを調べたいです」
「うむ。ならば今日はちょうどいい」
オーキド博士が立ち上がる。
「ヒノ?」
「今日は研究所の周辺で定期的に行っているフィールドワークの日なんじゃ」
「フィールドワーク?」
「そうじゃ。せっかく来たんじゃから、君も一緒に来るといい」
「いいんですか?」
「もちろんじゃ。むしろ、君がどんな観察をするのかこちらも興味がある」
「ありがとうございます!」
ナツキは思わず大きな声を出した。
「ヒノヒノ!」
ヒノアラシもつられるように声を上げる。
少しして、必要な道具を持った2人と1匹は研究所の裏手から草原へ出た。
研究所の周囲には広い自然が残されている。
人間の生活圏と野生ポケモンの生息域が比較的近く、それでいて大きく環境を壊していない。
継続的な観察には非常に適した場所だった。
「今日見るのはこの辺りに生息しているポッポとコラッタじゃ」
「よく見かけるポケモンですね」
「だからこそじゃよ」
オーキド博士は足を止める。
「珍しいポケモンだけを調べるのが研究ではない。数が多いポケモンは、その土地の環境を知る重要な手がかりにもなる」
「……なるほど」
ナツキはすぐにノートを出した。
「今の書いてもいいですか?」
「もちろんじゃ」
ペンを走らせるナツキを見て、オーキド博士が微笑む。
ヒノアラシはその間、足元に生えている草を鼻先でつついていた。
「ヒノ」
「ヒノアラシ、勝手に食べるなよ」
「ヒノ!?」
「まだ食べてないって顔しても駄目だからな」
ヒノアラシはぷいっと顔を背ける。
そのときだった。
「ポォ」
少し先の地面へ、1匹のポッポが降り立った。
ナツキの表情が一瞬で変わる。
「博士」
「うむ。まずは見てみよう」
2人は距離を取ったまま、その場にしゃがんだ。
ヒノアラシもナツキの横へ座る。
ナツキは双眼鏡を取り出した。
ポッポは地面を歩きながら、何度も嘴で土をつついている。
「採食中……?」
「どう思う?」
オーキド博士は答えを言わない。
ナツキ自身に考えさせようとしているのが分かった。
「少し待ちます」
「うむ」
観察を続ける。
ポッポが嘴を土へ差し込む。
一度。
二度。
三度。
やがて小さな何かをつまみ上げ、そのまま飲み込んだ。
「虫を食べました」
ナツキはノートへ記録する。
時刻。
天候。
場所。
ポッポのおおよその大きさ。
行動。
さらに周辺の植生まで簡単に書き込んでいく。
「細かく書くのう」
「後になって関係ないと思った情報が重要になるかもしれないので」
「よい考えじゃ」
ポッポはその後もしばらく地面をつついていた。
ところが突然、その動きを止めた。
顔を上げる。
ナツキも止まる。
「……何かに反応した?」
ポッポが少し身を低くした。
数秒後。
草むらが揺れる。
そこからコラッタが姿を現した。
「ラッタ」
コラッタはポッポを気にする様子もなく、同じ場所へ近づいてくる。
ポッポが数歩横へ移動した。
「場所を譲った?」
ナツキが小さく呟く。
コラッタが地面の匂いを嗅ぐ。
そして前足で土を掻き始めた。
「同じ餌を探してるんでしょうか」
「さて、どうじゃろうな」
ナツキはさらに観察する。
ポッポは少し離れた場所で再び地面をつつき始めた。
コラッタも地面を掘っている。
争う様子はない。
「餌場が重なってる可能性はありますね。ただ、今のところ競争している感じではない」
「そうじゃな」
「餌が十分にあるから?」
「可能性の1つじゃ」
ナツキは頷きながら書き込む。
断定しない。
見たことと、そこから考えたことを分けて記録する。
それは調査を始める前に何度も教えられた基本だった。
やがてコラッタが移動し始めた。
ポッポも別方向へ歩いていく。
「追います?」
「今日はコラッタを見てみるかの」
「分かりました」
一定の距離を保って後を追う。
野生ポケモンに余計な影響を与えないよう、できるだけ静かに歩く。
「ヒノアラシも静かにな」
「ヒノ……」
ヒノアラシは口を閉じ、妙に忍び足になった。
その姿にナツキは少し笑いそうになったが、声を抑える。
コラッタは草原の端まで移動した。
そこには小さな盛り土がある。
「穴?」
ナツキは双眼鏡を構える。
コラッタは盛り土の横にある穴へ入っていった。
「巣穴じゃな」
「ここに住んでるんですか?」
「少なくとも出入りには使っているようじゃ」
ナツキは周辺を見る。
よく見れば同じような穴がいくつかある。
さらに土の上には細かい足跡も残されていた。
「1匹だけじゃない?」
「どうしてそう思った?」
「穴が複数あります。それと……」
ナツキは少し近づく。ただし巣穴へ寄りすぎない位置でしゃがんだ。
「足跡の大きさが違います」
オーキド博士も覗き込む。
「ほう」
「こっちはさっきのコラッタと同じくらい。でも、こっちのは小さい」
「よく気づいたのう」
「もしかしたら子供がいるのかも」
「可能性はある」
ナツキはノートへ簡単な巣穴の配置図まで描き始めた。
穴同士の位置。
周囲の植物。
近くにある岩。
傾斜。
「ここ、少し高くなってますね」
「うむ」
「雨が降ったときに水が入りにくい場所を選んでるのかな」
「そこまで考えたか」
オーキド博士は楽しそうだった。
「答えを知りたいなら、雨の日にも観察する必要があるな」
「……来ます」
ナツキが即答する。
「ヒノ?」
「雨の日も来るぞ」
「ヒノォ……」
露骨に嫌そうな声が返ってきた。
「お前、水苦手だもんな」
「ヒノ」
「ちゃんと濡れないようにするから」
そんな会話をしていると、巣穴から小さな顔が出てきた。
「ラ……」
ナツキはすぐ口を閉じる。
小柄なコラッタだった。
先ほどの個体より明らかに小さい。
周囲を警戒している。
しばらくして、最初に見たコラッタも顔を出した。
2匹が鼻先を近づける。
「……親子かな」
ナツキは声を限界まで小さくした。
大きいコラッタが歩き出す。
小さいコラッタもその後を追う。
途中で小さい個体が草へ引っかかり、ころんと横へ転がった。
「……っ」
ナツキが笑いを堪える。
「ヒノ」
ヒノアラシも目を細めている。
小さなコラッタはすぐ起き上がり、何事もなかったように親と思われる個体を追いかけた。
「かわいいな」
思わず漏れた。
オーキド博士が小さく笑う。
「そういう感想も大切じゃよ」
「研究記録に書いていいんですか?」
「正式なデータとは分けておけばな。研究というのは数字だけではない。実際に見た者が何を感じたかが、新しい疑問につながることもある」
「なるほど……」
ナツキは少し考えた後、ノートの端へ小さく書いた。
『幼体と思われる個体。草に躓いて転倒。その後すぐ行動再開』
その横へ。
『かわいい』
「書いたのかね?」
「……一応」
「はっはっは!」
「博士、笑わないでくださいよ」
「いやいや。よいノートになりそうじゃと思ってな」
フィールドワークはその後も続いた。
同じポッポでも、地面で餌を探す個体。
木の枝で羽繕いをする個体。
複数で集まって行動するもの。
1匹だけ離れて過ごすもの。
何気なく見れば全部「ポッポ」で終わる。
しかし足を止めて観察すると、それぞれが違う行動をしている。
ナツキは何度もノートへペンを走らせた。
「面白い……」
気づけば自然とその言葉が漏れていた。
「何がじゃ?」
「同じ種類なのに、全然同じじゃないなって」
ナツキは遠くのポッポを見る。
「図鑑を見ると、種類ごとに説明が載っています。でも実際に見てると、その説明の中にも個体差がある」
「そうじゃ」
オーキド博士は頷いた。
「ポケモン図鑑は非常に便利じゃ。しかし、図鑑に書かれた情報がそのポケモンの全てではない」
「はい」
「だから調べ続ける必要がある」
風が吹く。
草が一斉に揺れ、数羽のポッポが空へ飛び立った。
ナツキはその姿を目で追った。
「俺、カントー中を回ってみたいです」
「そのために来たのじゃろう?」
「そうなんですけど……今日改めて思いました」
ノートを握る。
「できるだけたくさんのポケモンを見たいです。珍しいポケモンだけじゃなくて、ポッポやコラッタみたいな普通にいるポケモンも」
「うむ」
「どんな場所で、どんなふうに暮らしてるのか。それを自分で見て残したい」
「よい目標じゃ」
「ヒノ!」
ヒノアラシが元気よく鳴く。
「お前も付き合ってくれる?」
「ヒノヒノ!」
「そっか」
ナツキは笑って、その頭を撫でた。
夕方。
研究所へ戻ったナツキは、机を借りて今日の記録を整理していた。
観察中に急いで書いた文字を清書し、分からなかった部分には疑問符を付ける。
そして最後に、新しいページを開いた。
一番上へ日付を書く。
その下に大きく場所を記した。
『カントー地方 マサラタウン』
今日確認したポケモン。
ポッポ。
コラッタ。
たった2種類。
旅全体から考えれば、本当に小さな始まりだ。
それでもナツキにとっては十分だった。
「ヒノアラシ」
「ヒノ?」
床で丸くなっていたヒノアラシが顔を上げる。
「明日も調査行くぞ」
「……ヒノ」
「嫌そうな顔するなよ」
「ヒノォ」
「今日は歩きすぎたか」
ナツキは苦笑する。
その様子を見ていたオーキド博士が声をかけた。
「ナツキ君」
「はい?」
「旅を急ぎすぎんことじゃ」
「急ぎすぎない?」
「ポケモンの生態というものは、少し見ただけでは分からん。一度見た行動がいつでも同じとは限らんし、季節や天気で変わることもある」
「……はい」
「たくさんの場所を回るのもよい。しかし、ときには立ち止まることも忘れんようにな」
ナツキは自分のフィールドノートを見る。
今日だけでも、最初は気づかなかったものがいくつもあった。
小さな足跡。
巣穴の位置。
ポッポとコラッタが同じ場所で餌を探していたこと。
子供と思われるコラッタ。
数時間の観察だけでもこれだけある。
ならば1日。
1週間。
季節を跨げば。
もっと違う姿が見えてくるのだろう。
「覚えておきます」
「うむ」
ナツキはノートの最後へ1行付け加えた。
『調査で大切なのは、見つけることだけではない。見続けること。』
ペンを置く。
窓の外では、夕日に染まった空をポッポの群れが飛んでいた。
明日はどんな行動を見ることができるだろう。
どんな疑問が生まれるだろう。
そして、その先にはどんなポケモンとの出会いが待っているのだろう。
ナツキはまだ知らない。
マサラタウンから始まったこの旅で、自分のフィールドノートが何冊にも増えていくことを。
ヒノアラシと共に、カントー各地の森を歩き、山を越え、川を辿り、海を眺めながら、数え切れないほどのポケモンたちの暮らしを記録していくことを。
最初のページに記されたのは、ごくありふれたポッポとコラッタ。
だが、ナツキにとってそれは何より大切な最初の記録だった。
ポケモン調査官ナツキ。
相棒、ヒノアラシ。
カントー地方での生態調査、その1日目が終わった。