キキョウシティのマダツボミの塔で調査を終えたナツキとヒノアラシは、その翌朝には再び西へ向かって歩き始めていた。
次の目的地はヒワダタウン。
深い森と山に囲まれた小さな町で、昔からヤドンと強い関わりを持っている土地として知られている。町の近くには「ヤドンの井戸」と呼ばれる場所があり、野生のヤドンたちが昔からそこを生活の場として利用しているという。
ナツキが興味を持ったのは、当然その井戸だった。
ヤドン自体は初めて見るポケモンではない。セキチクシティのサファリパークでも、水辺に座って長時間尻尾を水へ垂らしている姿を観察していた。
だが、あのとき見たのは1匹だけだった。
ヒワダタウンのヤドンの井戸には、複数のヤドンが暮らしている。
同じ種類のポケモンが集まったとき、単独でいる場合とは違う行動が見られるのか。井戸という特殊な環境をどのように利用しているのか。それを確かめることが、今回の調査の目的だった。
「ヤドンかあ」
ナツキが地図を見ながら呟くと、隣を歩いていたヒノアラシが顔を上げた。
「ヒノ?」
「サファリパークで見ただろ。池の端でずっと動かなかったやつ」
「ヒノ……」
ヒノアラシは少し考えたあと、思い出したらしくゆっくり頷いた。
「そうそう。尻尾を水に入れたまま全然動かなかったやつ」
「ヒノ」
「今回はいっぱいいるらしいぞ」
「ヒノ?」
「何匹いても、たぶんそんなに動かないと思うけど」
その言葉に、ヒノアラシが何とも言えない顔をした。
これまでの旅ではスピアーに警戒されたり、ゴースに驚かされたり、フリーザーの冷気に晒されたりと、ヒノアラシにとって緊張する調査も少なくなかった。その点だけなら、ヤドンの観察は随分平和なものになるかもしれない。
やがて道の先にヒワダタウンが見えてきた。
キキョウシティよりさらに自然との距離が近い町で、周囲には木々が多く、家々の間にも緑が残されている。町へ入ると、ナツキはすぐに少し変わった光景へ気づいた。
道の端。
民家の前。
木陰。
「……普通にいるな」
「ヤァン」
1匹のヤドンが道のど真ん中で座っていた。
その少し向こうには、家の壁へ寄りかかるようにして寝ている別のヤドンがいる。
さらに町の中央へ進めば、水場の近くにも1匹。
「想像してた以上に町の中にいる」
人間が近くを歩いても、逃げようとしない。
子供が横を通っても、少し顔を上げる程度。
人間側もそれを特別なものとして扱っている様子はなく、ヤドンを避けて歩くことが当たり前になっている。
マダツボミの塔で考えたばかりのことが、早くも別の形で現れていた。
人間とポケモンが同じ場所で暮らす。
ただしマダツボミの塔では、人間がマダツボミから学びながら共に生活していた。
ヒワダタウンでは、ヤドンそのものが町の風景へ溶け込んでいる。
「ここじゃ、ヤドンがいるのが普通なんだな」
「ヒノ」
ナツキはフィールドノートを取り出しかけたが、一度やめた。
今日の本命は井戸だ。
町中のヤドンについては、帰ってきてから改めて観察すればいい。
それでも、一行だけ事前記録として残す。
『ヒワダタウン内に複数のヤドンを確認』
『人間との距離が非常に近い。通行人への強い警戒行動は現時点では確認できず』
「よし。先に井戸へ行こう」
「ヒノ!」
町の人へ場所を聞き、ナツキたちはヒワダタウンの外れへ向かった。
ほどなくして見えてきたのは、地面へ大きく口を開けた洞窟のような入口だった。
「これがヤドンの井戸……」
一般的な井戸のように、地上から水を汲み上げるだけの小さな穴ではない。内部へ人間が入れるほど広く、岩肌に囲まれた地下空間へ道が続いている。
入口から覗くと、奥から湿った空気が流れてきた。
水の匂い。
冷たい岩の匂い。
そして、一定間隔で響く水滴の音。
ナツキは入口の脇へ移動すると、フィールドノートの新しいページを開いた。
『ジョウト地方・ヒワダタウン』
『ヤドンの井戸』
『午前10時18分』
『天候・晴れ』
『地下水の存在する洞窟環境』
『複数のヤドンが利用する生活空間における行動、個体間の関係を観察する』
さらに一文。
『サファリパークで確認した単独個体との行動差についても比較する』
「今日はこれ」
「ヒノ」
「あと、濡れてる場所多そうだから滑るなよ」
「ヒノ……」
ヒノアラシが入口の奥を見る。
「水に入るわけじゃないって」
「ヒノ」
「その顔は信用してないな」
ナツキは苦笑しながら井戸へ入った。
内部は想像していたより広かった。
入口付近には人工的に整えられた足場があるものの、少し奥へ進めば自然の岩肌がそのまま残っている。天井から落ちた水が地面を濡らし、場所によっては浅い水たまりもできていた。
奥の方から、水の流れる音が聞こえる。
そして。
「ヤァン」
入って5分もしないうちに、最初のヤドンを見つけた。
「いた」
大きな岩の横。
1匹のヤドンが、床へ腹をつけるようにして寝そべっている。
目は半分閉じていた。
ナツキたちが近くを歩いても、ほとんど反応しない。
「ヒノ?」
ヒノアラシが不思議そうに見る。
「近づきすぎない」
「ヒノ」
ナツキは少し離れた場所へしゃがんだ。
まず観察する。
1分。
2分。
ヤドンは動かない。
3分。
目を閉じた。
5分。
「……寝た?」
少なくとも、外見上はほとんど変化がない。
「サファリパークの時もそうだったけど、本当に長いな」
ナツキは記録を始めた。
『ヤドン1匹』
『岩場付近で伏せた姿勢』
『5分以上、大きな位置変化なし』
『人間およびヒノアラシの接近に対して顕著な逃避反応なし』
書いている間にも、ヤドンは動かない。
ナツキが観察していると、ヒノアラシが横で同じように地面へ伏せた。
「何してるの?」
「ヒノ」
ヤドンを見る。
自分も伏せる。
どうやら真似しているらしい。
「調査対象になる側じゃないからな、お前」
「ヒノ」
「……まあ静かだからいいけど」
さらに数分。
ヒノアラシの方が先に飽きた。
立ち上がり、ナツキの隣へ戻ってくる。
一方、ヤドンはまだ動かない。
「負けたな」
「ヒノ?」
「じっとしてる勝負」
「ヒノ!」
「やる気出さなくていい」
その場を離れ、井戸の奥へ進む。
水の音が次第に大きくなる。
そして次の空間へ入ったところで、ナツキの足が止まった。
「……多い」
広い地下空間。
その中央を、浅い川のように水が流れている。
岸辺。
岩の上。
水の中。
あちらこちらにヤドンがいた。
1匹。
2匹。
3匹。
数えていく。
「……8匹。向こうにもいるから、少なくとも10匹以上」
「ヒノ……」
ヒノアラシも驚いたように周囲を見回している。
ただし、10匹以上いるのに騒がしさは全くない。
鳴き声もほとんど聞こえない。
ただ。
それぞれが好きな場所で。
ゆっくり過ごしている。
ある個体は水辺。
別の個体は岩の上。
2匹が並ぶように寝ている場所もある。
水の中へ半分だけ体を沈めている個体もいた。
「集団でいるけど、まとまって何かしてる感じじゃないな」
ナツキはすぐに結論を出さず、少し離れた岩陰へ移動した。
そこから30分ほど観察する。
最初に気づいたのは、距離だった。
ヤドン同士は近い。
体が触れそうな距離で休んでいる個体もいる。
にもかかわらず、相手を追い払う様子がない。
「縄張り意識はあまり強くない?」
少なくとも、この場所ではそう見える。
1匹がゆっくり歩く。
別のヤドンのすぐ横を通過する。
相手は顔すら上げない。
『ヤドン10匹以上』
『同一空間内に多数個体が滞在』
『個体間距離が非常に近い場合でも威嚇、追跡などの排他的行動なし』
『生活場所の重複を許容する傾向がある可能性』
そこまで書いたとき。
1匹のヤドンが川辺へ移動した。
「来た」
ナツキが注目する。
ヤドンは岸へ座る。
そして。
ぽちゃん。
尻尾を水へ入れた。
「やっぱりやるんだ」
サファリパークでも見た。
尻尾を水へ垂らす行動。
今度は目的をもう少し詳しく見たい。
ヤドンは水面を見ているわけではない。
むしろ途中から目を閉じている。
「自分で釣ってる意識、本当にあるのかな……」
数分後。
水中で何かが動いた。
ヤドンの尻尾の周囲へ、小さな魚影が近づいてくる。
「何かいる」
ナツキは双眼鏡を使う。
小さい。
しかし水の揺らぎで種類までは判別できない。
魚影がヤドンの尻尾へ近づく。
少し触れたように見えた。
それでもヤドンは無反応。
さらに待つ。
10分。
15分。
突然。
ヤドンの尻尾が小さく引かれた。
「かかった?」
ヤドンが。
動かない。
「……気づいてない?」
もう一度。
尻尾が引かれる。
今度は少し強い。
数秒。
ようやくヤドンが顔を上げた。
「ヤァン?」
今初めて気づいたような反応だった。
「遅いな!」
思わず声が出そうになり、ナツキは慌てて口を閉じた。
ヤドンがゆっくり尻尾を引く。
水中の影は離れた。
何も捕まっていない。
「失敗?」
しかしヤドンは気にした様子もなく、再び尻尾を水へ入れた。
ナツキはしばらく言葉が出なかった。
「……本当にのんびりしてるんだな」
『1匹が尾を水中へ垂らす行動を確認』
『約15分後、尾への接触または引っ張りと思われる反応あり』
『刺激発生後、個体が反応するまで数秒の遅延』
『その後、再び同一行動を継続』
サファリパークのヤドンも同じだった。
ならばこれは個体だけの癖ではなく、ヤドンという種に比較的よく見られる採食行動である可能性が高い。
「2か所で同じ行動を確認できた」
ナツキは少し嬉しくなる。
1回目はただの観察。
2回目があると、比較できる。
さらに別の場所でも見られれば、行動の確度は増していく。
こういう積み重ねが、生態調査なのだ。
「ヒノアラシ」
「ヒノ?」
「こういうのが面白いんだよ」
「ヒノ」
「分かる?」
「ヒノ!」
「本当かな」
そのまま観察を続ける。
やがて別のヤドンが、水辺へ座っていた個体のすぐ横へやってきた。
同じように尻尾を水へ垂らす。
「2匹になった」
少し離れた場所。
もう1匹。
「3匹」
3匹のヤドンが、ほとんど等間隔で並びながら尻尾を水へ入れている。
不思議な光景だった。
競争している様子はない。
良い場所を奪い合うこともない。
相手が近くても気にしない。
「餌場を共有してる」
ただし。
餌が十分だから争わないのか。
元々競争性が低いのか。
まだ分からない。
『採食と思われる行動を複数個体が同一地点で同時に実施』
『個体間で場所の奪い合いは確認できず』
『餌資源量、個体間関係などとの関連は不明』
ナツキが書いている間。
ヒノアラシは3匹のヤドンを交互に見ていた。
「ヒノ」
「何?」
「ヒノ?」
「どれが最初に何か釣るか?」
「ヒノ!」
「俺も気になる」
2人で待つ。
10分。
誰も釣れない。
20分。
変化なし。
「……長期戦だな」
「ヒノォ」
ヒノアラシが座り込む。
さらに10分。
1匹が寝た。
尻尾は水に入れたまま。
「寝ながらやるの?」
「ヒノ……」
さらにもう1匹も目を閉じる。
3匹目だけは目を開けている。
ナツキは少し笑った。
「なんか、見張り役みたいに見えるけど……たぶん違うな」
オタチやジュゴンのように、役割分担をしているわけではなさそうだった。
ただ。
それぞれが好きなようにしている。
それでも。
同じ場所にいる。
その距離感が、ヤドンというポケモンらしさなのかもしれない。
昼を過ぎたところで、一度休憩を取ることにした。
ヤドンたちから十分離れた乾いた岩場へ移動し、ナツキはバッグから携帯食を取り出す。
「お昼」
「ヒノ!」
それまで退屈そうだったヒノアラシが一瞬で立ち上がる。
「やっぱりこれだけは反応早いな」
「ヒノヒノ!」
ポケモンフーズを渡す。
ヒノアラシが夢中で食べ始める。
ナツキもパンを口にしながら、周囲のヤドンたちを見る。
「ずっと見てたら、動かないこと自体にも意味がある気がしてくるな」
エネルギーをあまり使わない。
無駄に争わない。
必要になるまで動かない。
それは人間から見れば「鈍い」「のんびりしている」と表現されるかもしれない。
けれど。
もし餌がそれほど多くない環境なら。
不要な移動を減らすことは、生きる上で利点になる可能性もある。
「動かないから駄目ってわけじゃないんだよな」
ヒノアラシが食べながら顔を上げる。
「ヒノ?」
「ヤドンの話」
「ヒノ」
「お前は結構動く方だけど」
「ヒノ!」
「特にご飯の時」
「ヒノ?」
知らないふりをした。
昼食を終え、ナツキたちは井戸のさらに奥へ向かった。
人が歩ける道は続いている。
その途中にもヤドンが何匹かいた。
ただし奥へ行くほど数は少なくなる。
「入口側の水辺の方が多かったな」
温度。
水深。
餌。
人間の出入り。
理由はいくつも考えられる。
ナツキは簡易温度計を使って数か所の気温と水温を測り、位置と一緒に記録した。
奥へ進んだところで。
「ヒノ」
ヒノアラシが足を止めた。
「何かいた?」
岩の陰。
1匹のヤドンが横になっている。
他の個体と少し違った。
体が小さい。
「若い個体かな」
その近くには、大きなヤドンが1匹。
2匹は体を触れ合わせるほど近い距離にいる。
小さい個体は完全に眠っていた。
大きい個体は目を開けている。
「親子?」
断定できない。
ヤドンは体格差があるだけかもしれない。
ただ。
しばらく見ていると。
小さい個体がゆっくり動いた。
大きい個体の体へさらに寄る。
そのままもう一度眠る。
大きいヤドンは特に嫌がらない。
むしろ。
ほんの少し体勢を変え、小さい個体が寄りかかりやすいようになったようにも見えた。
「……」
ナツキはすぐノートへ書かなかった。
数分。
まず見る。
小さい個体は寝続ける。
大きい個体も、やがて目を閉じた。
『体格の異なるヤドン2匹を確認』
『小型個体が大型個体へ密着して休息』
『大型個体に排他的反応なし』
『親子関係の可能性を含むが、関係性は不明』
「もし親子だったら、子育ての行動も見てみたいな」
「ヒノ」
「でも今日だけじゃ分からない」
そう書き残す。
分からないものは分からない。
それでいい。
むしろ。
次に何を見るべきかが分かる。
そこからさらに奥へ進んだものの、目立った新しい行動は確認できなかった。
代わりに、ナツキはヤドンが多くいた場所と少なかった場所の違いを記録していく。
水の流れが緩い場所。
平らな岩が多い場所。
岸辺へ座りやすい場所。
そうした区域に個体が集中しているようだった。
「流れの速い場所にはほとんどいない」
ヤドンは泳げないわけではない。
しかし。
のんびり過ごすには、穏やかな流れの場所の方が都合がいいのかもしれない。
『ヤドンは水流の緩やかな区域に多く確認』
『平坦な岸辺、休息可能な岩場の存在と個体数に関連がある可能性』
午後3時を回った頃。
そろそろ戻ろうとしたときだった。
ぽた。
天井から落ちてきた水滴が、ナツキの頬へ当たる。
「ん?」
もう1滴。
しかし。
天井から水が落ちること自体は珍しくない。
ナツキは気にせず歩こうとする。
そのとき。
「ヤァン」
それまでほとんど鳴かなかったヤドンが、1匹。
顔を上げた。
次に。
別の個体。
さらに別の個体。
「……?」
複数のヤドンが同じように上を向いている。
「ヒノ?」
ヒノアラシも不思議そうに見る。
ナツキは足を止めた。
「何かある?」
数秒後。
ぽた。
ぽたぽた。
先ほどまでより、水滴の数が増えた。
入口の方向から、かすかな音も聞こえる。
ナツキは耳を澄ませる。
「……雨?」
外で雨が降り始めたらしい。
地下へ染み込んできた水が増えている。
その直後だった。
ヤドンたちの様子が変化した。
急ぐわけではない。
それでも。
何匹かがゆっくり立ち上がり始める。
「動いた」
水辺から離れる個体。
逆に、水へ入っていく個体。
それぞれの行動が少しずつ変化していく。
「雨に反応してる?」
ナツキはすぐ観察を再開する。
外の天候。
井戸内部の水量。
ヤドンの行動。
関係があるかもしれない。
水滴が増える。
川の水面にも、小さな変化が出る。
流れがほんの少し強まった。
すると。
尻尾を水へ垂らしていたヤドンが、次々にその場から離れた。
「釣りやめた」
岸辺へ寝ていた個体も。
少し高い岩場へ移動する。
「水位が上がるのを分かってる?」
まだ大きくは変化していない。
人間なら見落とす程度。
それでもヤドンたちは。
先に動き始めている。
『外部で降雨開始と思われる』
『井戸内部への水滴量増加』
『水流増加前後から複数のヤドンが位置移動を開始』
『低い岸辺にいた個体が高所へ移動』
『尾を水中へ垂らしていた個体も採食行動を中断』
ナツキは少し驚いた。
「動くの遅いくせに……環境の変化にはちゃんと反応してる」
普段の反応速度は遅い。
刺激に気づくまで時間がかかることもある。
けれど。
雨。
水量。
気圧。
湿度。
人間には分からない何かを感じ取っているのかもしれない。
もしかすると。
ヤドンが雨を呼ぶ。
そんな昔話が生まれた背景にも、こうした天候変化への敏感な反応が関係しているのかもしれない。
ただし。
それはあくまで想像。
ノートへは書かない。
今確認できたのは。
雨が始まる頃に、ヤドンの行動が変化した。
それだけ。
「面白い」
ナツキの顔に笑みが浮かぶ。
「ヒノ?」
「最初、今日はほとんど動かないヤドンを見る日だと思ってた」
「ヒノ」
「でも、ずっと見てなきゃ分からなかった」
数分だけ見ていれば。
ヤドンは動かない。
のんびりしている。
それで終わる。
しかし。
数時間同じ場所で見続けたから。
天候が変わったときの行動を見ることができた。
「待つのも調査なんだな」
マダツボミの塔でも思ったこと。
同じ場所へ長くいる。
同じ個体を見る。
すると。
最初には見えなかったものが出てくる。
雨はそれほど強くならなかった。
水量も危険なほど増えてはいない。
それでもナツキは無理をせず、調査を終えることにした。
来た道を戻る。
その途中。
最初に見たヤドンの横を通る。
「まだいる」
「ヤァン」
朝とほとんど同じ場所。
ただ。
体の向きだけが変わっている。
ナツキたちを見る。
数秒。
「ヤド?」
首を傾げるような動き。
「覚えてる?」
「ヤァン」
分からない。
ナツキは笑った。
「またな」
「ヒノ!」
ヤドンはそれ以上反応せず、再び目を閉じた。
井戸を出ると。
やはり雨が降っていた。
小雨。
空には灰色の雲。
町の道も少し濡れている。
そして。
「ヤドン、外にもいるな」
町中にいたヤドンたちは。
雨が降っても。
それほど気にしていない。
1匹はそのまま道端で座り。
別の1匹は屋根の下。
さらに1匹は、水たまりの中に尻尾を入れていた。
「こっちも見たい……」
「ヒノォ……」
ヒノアラシが嫌そうに鳴く。
「雨嫌?」
「ヒノ」
「俺も濡れたくはない」
調査欲を抑え、ポケモンセンターへ戻ることにする。
その途中。
1匹のヤドンが道の真ん中を塞いでいた。
通れないわけではない。
人々は普通に避けている。
「本当に町の一員なんだな」
ナツキも横を通る。
ヤドンはこちらを見ない。
それが。
この町では普通だった。
夕方。
雨が止んだ頃。
ナツキはポケモンセンターの休憩スペースで今日の記録をまとめていた。
ヒノアラシは隣の椅子で丸くなっている。
『ヤドンの井戸』
『10匹以上のヤドンを確認』
『複数個体が近距離で生活しているが、強い縄張り行動は確認できず』
『水辺を共有して尾を水中へ垂らす行動を複数個体で確認』
『サファリパークで確認した個体と同様の行動』
『低流速で平坦な岸辺を持つ区域に個体が多い傾向』
『体格差のある個体間で密着休息を確認。ただし親子関係等は不明』
そして。
今日もっとも印象に残ったこと。
『降雨開始に伴い、複数個体が低い岸から高い場所へ移動』
『水流の増加より早い段階で行動変化が見られた可能性』
『天候、水量変化を何らかの方法で察知している可能性。再調査が必要』
ナツキはペンを止めた。
ページの最初から読む。
のんびりしている。
動かない。
反応が遅い。
それらは確かにヤドンの特徴だった。
しかし。
今日一日を見れば。
それだけではない。
仲間のすぐそばで平然と休む。
餌場を奪い合わない。
環境が変われば、ゆっくりながらも安全な場所へ移動する。
「のんびりしてるのと、何も考えてないのは違うんだな」
「ヒノ?」
隣で寝かけていたヒノアラシが顔を上げる。
「ヤドン」
「ヒノ」
「あいつら、ぼーっとしてるように見えるけど、ちゃんと周り見てるのかもしれない」
ヒノアラシはしばらくナツキを見て。
「ヒノォ」
大きな欠伸をした。
「お前も今は何も考えてなさそうだけどな」
「ヒノ?」
「冗談」
頭を撫でる。
ナツキは最後に、今日のまとめとして一文を書いた。
『ゆっくり生きることは、周囲を感じていないという意味ではない。』
その下へ。
『ヤドンには、ヤドンの速度で環境を見ている時間がある。』
「よし」
ノートを閉じる。
その瞬間。
ヒノアラシが椅子から降りた。
「ヒノ!」
「何?」
「ヒノ!」
バッグを見る。
「……ご飯?」
「ヒノ!」
「そこはヤドンより反応速いな」
「ヒノヒノ!」
ナツキは笑いながらバッグを開いた。
ヤドンの井戸。
最初は。
ただ、のんびりしたポケモンたちが集まる場所だと思っていた。
けれど。
長く見れば。
同じ場所で暮らす個体同士の距離。
餌場の共有。
休息場所の選び方。
そして。
天候の変化への反応。
いくつもの行動が見えてくる。
ポケモンの生態は。
目立つ瞬間だけに現れるわけではない。
何も起きない時間。
ほとんど動かない時間。
そんな静かな時間の中にも。
ちゃんと、そのポケモンらしい暮らしがある。
ナツキのフィールドノートに。
また新しいページが加わった。
そこに残されたのは。
井戸の水辺で、のんびりと尻尾を垂らしながら暮らす。
ヤドンたちの、静かな一日だった。