セキチクシティ。
カントー地方南部に位置するこの街へやってきたナツキが、真っ先に向かった場所はジムでも街の中心でもなかった。
目的地は、広大な自然区域を利用して作られたサファリパーク。
園内には様々なポケモンが暮らしており、草原、林、水辺、岩場といった複数の環境が存在する。これまでナツキが歩いてきたトキワの森やおつきみやまと異なり、人間によって一定の管理を受けながらも、ポケモンたちが比較的自由に生活している場所だった。
「思ってたより広いな」
入口でもらった地図を広げながら、ナツキは感心したように呟いた。
「ヒノ?」
足元にいるヒノアラシも地図を覗き込む。
「ここが入口だろ。それで草原があって、その奥に池。こっちは岩場で、さらに向こうにも水辺があるのか」
「ヒノ」
「全部見ようと思ったら1日じゃ足りなそうだな」
サファリパークには多くのポケモンが生息している。
それだけに、最初から特定のポケモンだけを探すつもりはなかった。
どこに、どんなポケモンがいて。
どのような環境を利用し。
どんな行動をしているのか。
今日も普段通り、目についたものを観察していく。
ナツキは入口から少し離れたところでフィールドノートを取り出した。
『カントー地方・セキチクシティ』
『サファリパーク』
『午前8時56分』
『天候・晴れ』
『複数の環境が隣接する区域におけるポケモンの分布、生態を観察する』
最後にもう一文。
『管理区域内で生活する野生ポケモンが、人間の存在にどの程度慣れているかについても確認する』
「よし」
「ヒノ!」
「今日はかなり歩くと思うからな」
「ヒノ……」
「その顔やめろって」
ナツキは笑いながら園内へ入った。
最初に広がっていたのは草原だった。
背丈の低い草が広く続き、その中にところどころ低木や大きな木が生えている。
人が歩く道は整備されているものの、少し離れればすぐにポケモンたちの生活圏だ。
入ってすぐ。
「ヒノ!」
ヒノアラシが声を上げる。
「見つけた?」
指し示す先。
草むらから茶色い頭が出ていた。
長い耳。
大きな前歯。
「ニドランだ」
紫ではなく、淡い青色の体。
ニドラン♀。
ナツキはその場でしゃがむ。
ニドラン♀は低い草の中を歩きながら、時々鼻を地面へ近づけていた。
「何か探してる」
しばらく観察する。
ニドラン♀が草を掻き分けた。
その下から小さな木の実が出てくる。
「落ちた木の実か」
一口。
二口。
小さく齧りながら食べ始めた。
『ニドラン♀1匹』
『草地を移動しながら地面の匂いを確認』
『草の下に落下していた木の実を発見し摂食』
そこへ。
「ニド」
別の鳴き声。
少し離れた草むらから、今度は紫色のニドラン♂が現れた。
「ヒノ?」
「別の個体だ」
ニドラン♂は♀へ近づく。
ナツキは少し身構えた。
餌の取り合いになるのかと思った。
しかし。
ニドラン♀が食べかけの木の実から少し離れる。
ニドラン♂が近づき、残った部分を食べ始めた。
♀はすぐ近くの草を探している。
「争わないんだな」
単に十分な餌があるからかもしれない。
個体同士に関係がある可能性もある。
『ニドラン♂1匹が接近』
『♀の食べ残した木の実を摂食』
『威嚇、争いなし』
そこまで記録して、ナツキは立ち上がった。
「行こう」
「ヒノ」
さらに進む。
草原を歩いていると、遠くに大きな影が見えた。
「……サイホーン」
灰色の硬そうな体。
太い脚。
鼻先の角。
2匹のサイホーンが木陰で横になっている。
「あれは近づかない方がいいな」
「ヒノ?」
「起こしたら怖いだろ」
ヒノアラシはサイホーンを見る。
しばらく考えて。
「ヒノ」
素直に頷いた。
「今のは分かるんだな」
ナツキは双眼鏡を使う。
サイホーンはほとんど動かない。
時折尻尾を振り、耳を動かす。
「休んでるみたいだな」
片方のサイホーンが体勢を変えた。
その際、体を木の幹へ擦りつける。
ゴリッ。
硬い体と樹皮が擦れる音が、離れた場所まで聞こえてきた。
「体を掻いてる?」
もう一度。
首元を木へ擦りつける。
『サイホーン2匹』
『木陰で休息』
『1匹が木の幹へ首から肩付近を擦りつける行動』
『体表の手入れ、痒みを取る行動などの可能性』
ナツキは簡単な姿勢のスケッチも残す。
「こういうの、図鑑じゃなかなか分からないんだよな」
「ヒノ」
バトルで見れば、サイホーンは硬い体と突進が印象に残る。
けれど野生で生活する時間の大半は、戦っているわけではない。
眠る。
食べる。
体を整える。
仲間と過ごす。
ナツキが知りたいのは、そういう時間だった。
昼前。
草原を抜けると、周囲の植物が増えてきた。
その先には大きな池が広がっている。
「水辺か」
「ヒノ……」
「入らないって」
ヒノアラシが露骨にナツキから一歩離れた。
「俺まで信用されてないのか」
池の周囲には背の高い草が生えている。
水面にはところどころ水草も見えた。
ナツキは池へ直接近づかず、少し離れた木陰へ座る。
「ここで昼飯にするか」
「ヒノ!」
今日一番元気な返事だった。
「お前、調査よりこれが目的になってない?」
「ヒノヒノ!」
ヒノアラシ用のポケモンフーズを用意する。
ナツキも携帯食を取り出した。
目の前の水面は静かだった。
時折小さな波紋が広がる程度。
「何かいるんだろうけど」
パンを食べながら池を見る。
バシャッ。
小さな音。
「ん?」
水面から赤いものが一瞬だけ見えた。
「コイキングか」
もう一度跳ねる。
やはりコイキングだった。
さらに別の場所でも水面が揺れる。
水辺には多くのポケモンがいるようだ。
「午後はここを見ていくかな」
「ヒノ」
食事を終えたヒノアラシは、木陰で横になってしまった。
「少し休む?」
「ヒノォ」
目を閉じる。
「じゃあ俺もここから観察するか」
ナツキは池を眺めながらノートを開いた。
無理に歩き回らなくても、生態調査はできる。
むしろ同じ場所に長く留まった方が見えるものもある。
10分。
20分。
コイキングが何度か跳ねる。
水面近くを小さな影が横切る。
遠くの岸では、ヤドンが水辺に座っていた。
「ヤドン……」
双眼鏡を構える。
ヤドンは尻尾を水へ垂らしている。
一切動かない。
5分経っても。
10分経っても。
ほぼ同じ姿勢。
「本当に動かないな」
『ヤドン1匹』
『岸辺から尾を水中へ垂らしている』
『15分以上、大きな位置移動なし』
そのままさらに観察する。
20分ほど経ったところで。
ヤドンの尻尾が少し揺れた。
「何か来た?」
ヤドンは無反応。
数秒後。
尻尾がもう一度動く。
だが特に何も起こらない。
「……釣りみたいなものなのかな」
ナツキは疑問として書き込んだ。
その横では、ヒノアラシが完全に眠っている。
「お前もヤドンと大して変わらないな」
「ヒノ……」
寝言のような声が返ってくる。
ナツキは笑いながら池へ視線を戻した。
そして。
水草の間で何かが動いた。
「……?」
最初は魚ポケモンだと思った。
細長い影。
水面すれすれをゆっくり移動している。
コイキングとは形が違う。
「何だ?」
双眼鏡を向ける。
しかし水の反射でよく見えない。
影はそのまま水草の奥へ消えた。
ナツキはノートへ一応記録する。
『細長い形状の未確認個体』
『水草付近を移動』
『種別確認できず』
「今の、何だったんだろう」
別の場所から出てくるかもしれない。
そう思って待つ。
5分。
10分。
現れない。
「見間違いじゃないと思うんだけどな」
そのとき。
池の反対側から人の声がした。
サファリパークを訪れている別の客たちだ。
水辺を歩きながら話している。
声が近づくにつれ、岸辺にいたヤドンがようやく動いた。
ゆっくり。
本当にゆっくりと立ち上がる。
そして水へ入っていった。
「人には慣れてるように見えても、一定距離より近いと離れるのか」
ナツキもその行動を記録する。
他の客たちはそのまま別方向へ歩いていった。
再び静かになる。
「ヒノアラシ」
「……ヒノ」
「そろそろ行くぞ」
「ヒノォ」
「そんな嫌そうに起きるなよ」
ヒノアラシが大きく伸びをして起き上がる。
ナツキもバッグを背負った。
池沿いを歩く。
水中にポケモンの影は多い。
しかし、すぐに種類が分かるものばかりではない。
それも水辺の調査の難しいところだった。
森なら木の上。
洞窟なら暗闇。
水辺なら水中。
ポケモンは人間から見えない場所をいくらでも利用している。
しばらく進んだところで。
「ヒノ?」
ヒノアラシが何かを見つけた。
「どうした?」
水辺。
草の間に小さな跡が残っている。
ナツキはしゃがんだ。
地面が濡れている。
そこを何かが這ったような細い跡。
「水から上がった?」
岸から草むらへ。
そして再び水へ戻る。
「細長いポケモン……」
先ほど見た影が頭に浮かぶ。
「同じ個体か?」
周囲には誰もいない。
ナツキは少し離れた場所へ移動し、静かに待つことにした。
ヒノアラシにも座るよう合図する。
「しばらくここ」
「ヒノ」
「今度は寝るなよ」
「ヒノ!」
時間が過ぎる。
何も起きない。
ナツキは焦らなかった。
ポケモンは人間の都合に合わせて出てくるわけではない。
10分。
20分。
風が吹き、水草が揺れる。
30分ほど経過した頃。
ヒノアラシの耳が動いた。
「ヒノ」
ナツキも池を見る。
水面に細い波紋。
何かがこちらへ近づいている。
「来た」
ナツキは動かない。
水草の間から青い頭が現れた。
白い丸い鼻。
左右には白いひれのようなもの。
ナツキの呼吸が止まる。
「……ミニリュウ」
声にならないほど小さく呟いた。
ミニリュウ。
非常に珍しいポケモンとして知られ、目撃例そのものが多くない。
ナツキも実物を見るのは初めてだった。
ヒノアラシが目を丸くする。
「ヒノ……」
「静かに」
ミニリュウは水面から頭だけを出している。
周囲を確認しているようだった。
ナツキたちにはまだ気づいていない。
しばらくすると。
水の中から体が少しずつ現れる。
細長い青い体。
思っていたより長い。
ミニリュウはゆっくり岸へ近づいた。
「水から出る?」
岸辺の浅い場所。
そこで一度止まる。
鼻を水面へ近づける。
次の瞬間。
体をくねらせながら、草の生えた岸へ上がった。
「……本当に上がった」
ナツキはペンを握る。
『ミニリュウ1匹』
『池の水草区域より出現』
『水面から周囲を確認した後、岸へ接近』
『自力で陸上へ上がる』
ミニリュウは草の中へ顔を入れた。
「何してる?」
草を食べているようには見えない。
少し移動する。
また地面へ鼻を近づける。
その先。
小さな水たまり。
ミニリュウが体を擦りつけるように転がった。
「泥?」
湿った土へ体をつけている。
一度。
二度。
体の側面を地面へ擦る。
「体を冷やしてる?」
あるいは体表についた何かを落としているのか。
ナツキは観察する。
ミニリュウが再び姿勢を戻す。
体には少し泥が付いていた。
そのまま水中へ戻る。
「……何だったんだ?」
水に入った瞬間。
ミニリュウは体を大きくくねらせた。
泥が水の中へ流れていく。
すると。
青い体の表面に何か白いものが浮いた。
「皮?」
ナツキが双眼鏡を構える。
薄い膜のようなもの。
ミニリュウが体を岩へ擦りつける。
白い膜が剥がれる。
「脱皮してる……?」
ナツキの目が大きくなる。
ミニリュウは何度も岩へ体を擦った。
少しずつ古い皮のようなものが取れていく。
『水中へ戻った後、体表に薄い膜状のものを確認』
『岩へ体を擦りつけ、膜状物を剥離』
『脱皮行動の可能性』
ナツキは夢中で書く。
図鑑で知っていた情報と、今目の前で見ている行動が繋がっていく。
ミニリュウは成長するたびに脱皮を繰り返すと言われている。
しかし。
「泥を使うのは……」
ナツキは先ほどの行動を思い返す。
陸へ上がり。
湿った地面へ体を擦りつけ。
その後、水中で脱皮を始めた。
「古い皮を剥がしやすくしてる?」
もちろん推測にすぎない。
『脱皮前に湿った岸へ上がり、泥へ体を擦る行動を確認』
『脱皮を補助する行動である可能性。ただし関連性は不明』
断定はしない。
それでも、とても興味深い行動だった。
そのとき。
「ヒノ……」
ヒノアラシが小さく動いた。
ミニリュウの頭が上がる。
「まずい」
視線がこちらへ向いた。
「ミニ?」
見つかった。
ヒノアラシとミニリュウが見つめ合う。
「ヒノ」
「ミニ……」
ミニリュウは逃げない。
しかし体を少し低くしている。
明らかに警戒していた。
ナツキはペンを止める。
「ここまで」
ノートを閉じる。
「ヒノアラシ、下がろう」
「ヒノ?」
「警戒させてる」
ゆっくり後退する。
5m。
10m。
ミニリュウは動かない。
さらに距離を取る。
するとミニリュウの姿勢が少し緩んだ。
「やっぱり俺たちが原因だ」
その場から離れようとしたとき。
背後から。
バシャッ。
水音がした。
ナツキは反射的に振り返る。
水面からミニリュウが顔を出していた。
こちらを見ている。
「……ミニリュウ?」
「ミニ」
小さく鳴く。
ヒノアラシも立ち止まる。
「ヒノ?」
2匹が少しの間見つめ合う。
ミニリュウは逃げるわけでもなく、近づくわけでもない。
ただこちらを見ていた。
ナツキも動かない。
数秒後。
ミニリュウが水へ潜った。
青い体がゆっくり水草の奥へ消えていく。
今度こそ姿が見えなくなった。
「……行ったな」
「ヒノ」
ヒノアラシが少し寂しそうに水面を見る。
「気になった?」
「ヒノ」
「俺も」
ナツキは笑う。
珍しいポケモンだからではない。
たった今までそこで生活していた1匹のポケモンとして。
もっと見ていたかった。
どうやって泳ぐのか。
何を食べるのか。
どこで眠るのか。
今日見た脱皮らしき行動は普段から行うのか。
疑問はいくらでも増えていく。
けれど。
「見たいからって追いかけたら駄目だからな」
「ヒノ」
ナツキは水辺から離れた。
夕方。
サファリパークを出る前。
ナツキは休憩所のベンチへ腰を下ろし、今日の記録を整理していた。
ニドラン。
サイホーン。
ヤドン。
そして。
ミニリュウ。
今日確認した中では、間違いなく最も珍しいポケモンだった。
しかしナツキのノートでミニリュウだけが特別大きく扱われているわけではない。
ニドランが何を食べていたのか。
サイホーンがどのように休んでいたのか。
ヤドンが長時間どんな姿勢を取っていたのか。
すべてが同じように大切な生態記録だった。
その中に。
今日偶然、ミニリュウの生活の一部分も加わった。
『サファリパーク』
『複数の異なる環境が隣接するため、比較的狭い範囲でも多様なポケモンを確認できた』
『人間の存在に慣れているように見える個体も存在するが、接近距離によって警戒行動を示す』
『ミニリュウ1匹を確認』
その下。
『水草の多い池を生活域として利用』
『一時的に陸上へ上がる行動』
『湿った土へ体を擦った後、水中で脱皮と思われる行動を確認』
最後に。
『脱皮と泥を利用する行動との関係は不明。再調査が必要』
ナツキはペンを止めた。
「再調査か」
「ヒノ?」
「またいつか会えるかな」
ヒノアラシが少し考える。
「ヒノ!」
「会える?」
「ヒノヒノ!」
「そっか」
根拠は何もない。
それでも相棒がそう言うなら、そんな気がしてくる。
ナツキはノートを閉じようとして。
少し考えた。
そしてページの余白へ、今日見たミニリュウを小さく描き始めた。
水面から顔を出し。
こちらを見ていた姿。
細長い体のすべては描かず、水と水草に囲まれた頭だけ。
最後に目を描く。
「こんな感じだったな」
「ヒノ」
ヒノアラシが横から覗き込む。
「似てる?」
「ヒノ」
「微妙?」
「ヒノ!」
「どっちだよ」
笑いながら鉛筆をしまう。
ナツキは最後にスケッチの横へ一文だけ添えた。
『珍しいから価値があるのではない。どんなポケモンにも、そこで生きている時間がある。』
今日出会ったミニリュウも。
草原にいたニドランも。
眠っていたサイホーンも。
池で動かなかったヤドンも。
すべて同じだ。
名前や強さだけでは知ることのできない、生活がある。
それを見るために、ナツキは旅をしている。
「今日の調査、終了」
「ヒノォ!」
ヒノアラシが嬉しそうに伸びをする。
「結局かなり歩いたな」
「ヒノ!」
「ごめんって」
ナツキはバッグを背負って立ち上がる。
サファリパークの向こうでは、夕日に照らされた水面が赤く輝いていた。
もうミニリュウの姿は見えない。
きっとあの池のどこか。
水草の下。
人間から見えない場所で、静かに暮らしている。
捕まえる必要はない。
触れる必要もない。
ただ、その生活のほんの一部を見ることができた。
それだけで十分だった。
「またな、ミニリュウ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「ヒノ」
ナツキとヒノアラシはサファリパークを後にした。
その日のフィールドノートには。
水辺から静かにこちらを見つめる、小さなミニリュウの姿が残された。