グレン島での調査を終えた翌朝。
ナツキとヒノアラシは、港から出る小型船に乗っていた。
向かう先は新しい調査地ではない。
海の向こうにある、小さな町。
カントー地方での旅を始めた場所――マサラタウンだった。
「ヒノ!」
船の先端近くから、ヒノアラシが海の向こうを眺めている。
ふたごじまへ向かったときには海を見るだけでも嫌そうにしていたが、何度か船に乗ったことで少しだけ慣れてきたらしい。
もっとも、波が大きく船体が揺れるたびにナツキの足元へ戻ってくるところを見ると、完全に平気になったわけではなさそうだった。
「もう少しで着くぞ」
「ヒノ?」
「マサラタウン。覚えてるだろ?」
「ヒノ!」
元気よく返事をする。
ナツキは笑いながら、膝の上に置いていたバッグへ視線を落とした。
カントー地方へやってきた頃より、少し膨らんでいる。
原因は分かっていた。
フィールドノートだ。
マサラタウンを出発したとき、ほとんど何も書かれていなかったノートには、今では数多くの記録が残されている。
トキワの森。
おつきみやま。
ディグダトンネル。
むじんはつでんしょ。
サファリパーク。
ふたごじま。
グレン島。
そこで出会ったポケモンたち。
キャタピー。
ビードル。
スピアー。
ピッピ。
ディグダ。
ダグトリオ。
コイル。
ビリリダマ。
エレブー。
ミニリュウ。
パウワウ。
ジュゴン。
フリーザー。
ブビィ。
ポニータ。
ガーディ。
ドガース。
もちろん、それだけではない。
旅の途中で見かけただけのポッポやコラッタ。
川辺で泳いでいたポケモン。
遠くの空を飛んでいたポケモン。
種類を判別できなかった影。
ナツキのノートには、それらも可能な限り残されていた。
「結構増えたな」
ページを開く。
最初の方には、マサラタウンでオーキド博士と一緒に行ったフィールドワークの記録が残っている。
ポッポ。
コラッタ。
あのときは、目の前の行動をどう記録すればいいのか考えるだけで精一杯だった。
今なら、もっと見る場所がある。
天候。
時間。
周辺の植物。
他のポケモン。
距離。
個体数。
調査者である自分たちに気づく前と、気づいた後の行動。
「最初よりは、ちゃんと見られるようになったかな」
「ヒノ?」
「俺の話」
「ヒノ」
ヒノアラシは少し考えるような顔をした後、大きく頷いた。
「本当に分かってる?」
「ヒノ!」
「じゃあ信じとくか」
ノートを閉じる。
しばらくすると、海の向こうに緑が見えてきた。
見覚えのある海岸線。
その奥に広がる草原。
そして小さな町。
「見えた」
ナツキは自然と笑っていた。
長い間離れていたわけではない。
それでも、不思議と懐かしい。
マサラタウン。
カントー地方で始めた生態調査の、最初の場所だった。
船を降りる。
地面へ足をつけた瞬間、ヒノアラシが大きく伸びをした。
「ヒノォ!」
「やっぱり陸の方がいい?」
「ヒノ!」
「即答だな」
港からマサラタウンまでは、それほど遠くない。
ナツキとヒノアラシは並んで道を歩き始めた。
周囲には草原が広がっている。
「ポッ」
上空をポッポが飛んでいく。
ナツキは反射的にその動きを目で追った。
「……あ」
以前なら、ただポッポが飛んでいるとしか思わなかったかもしれない。
今は違う。
1匹。
低空。
草原の端から木々のある方向へ。
嘴に何かを咥えている。
「巣材?」
思わずバッグへ手を伸ばす。
ノートを取り出しかけて。
止まった。
「いや、今日は研究所まで行こう」
「ヒノ」
「……でも帰りにまだいたら見る」
「ヒノォ」
ヒノアラシが呆れたような声を出した。
「何だよ」
「ヒノ」
「調査は調査だから」
そんな話をしながら町へ入る。
景色はほとんど変わっていない。
静かな家々。
草原。
遠くから聞こえるポケモンの鳴き声。
そして。
少し高い場所に建っている大きな研究所。
「戻ってきたな」
「ヒノ!」
オーキド研究所へ向かう。
入口の前まで来て、ナツキは一度深呼吸した。
最初に来たときも、ここで少し緊張したことを思い出す。
「今度は報告だな」
呼び鈴を押す。
少し待つ。
やがて扉が開いた。
「はいはい……おお!」
姿を現したオーキド博士が、すぐに笑顔になる。
「ナツキ君ではないか!」
「お久しぶりです、博士」
「ヒノ!」
「ヒノアラシも元気そうじゃな」
「元気すぎるくらいです」
「ヒノ!?」
「はっはっは! まあ入りなさい。どうじゃった? カントーを歩いてみて」
「話したいこと、かなりあります」
「それは楽しみじゃ」
研究所へ入る。
中の景色も以前とほとんど変わっていなかった。
研究機材。
棚いっぱいの資料。
大きなモニター。
ただし。
ナツキ自身の見え方が変わっていた。
以前は研究所そのものに圧倒されていた。
今は、壁に貼られた分布図やホワイトボードに書かれた記録が気になる。
「ほう」
オーキド博士がその様子に気づく。
「何か気になるかね?」
「この分布図です」
ナツキが壁を見る。
「前に来たときは、ただすごいなって見てただけだったんですけど……今見ると、どの時期の調査なんだろうとか、どういう方法で数えたんだろうとか気になって」
「ふむ」
オーキド博士が嬉しそうに笑う。
「よい変化じゃ」
「そうですか?」
「疑問が増えるということは、それだけ見る場所が増えたということでもある」
「……確かに」
以前なら疑問にすら思わなかった。
分布図に印があれば、その場所にそのポケモンがいるのだと思うだけ。
だが今は。
季節は。
時間帯は。
個体数は。
その場所にいる理由は。
次々と考えてしまう。
「まあ、まず座りなさい」
「はい」
机へ向かう。
ヒノアラシはナツキの椅子の隣へ座った。
オーキド博士の視線が、ナツキのバッグへ向く。
「それがフィールドノートかね?」
「はい」
「見せてもらっても?」
「もちろんです」
ナツキはバッグからノートを取り出した。
机へ置く。
オーキド博士が最初の1冊を手に取った。
「ずいぶん書いたのう」
「途中から記録したいことが増えちゃって」
ページをめくる。
最初は文章中心。
途中から、簡単な地図やスケッチが増えている。
キャタピーが葉の裏へ隠れる様子。
ビードルとコクーンの集まった木。
ディグダトンネルの通路。
発電所内部でコイルを確認した位置。
ミニリュウが出てきた池。
ふたごじまの地下湖。
グレン島の地熱地帯。
「なるほど」
オーキド博士がゆっくりページをめくる。
ナツキは少し緊張しながら待った。
しばらくして。
「よく書けておる」
「本当ですか?」
「うむ。特にこれがよい」
博士が指差した。
『可能性』
『不明』
『要追加調査』
そう書かれた部分だった。
「そこですか?」
「そこじゃ」
オーキド博士は頷く。
「自分が見たことと、自分が考えたことを分けておる」
「最初に博士にも言われましたから」
「それを実際の調査で守り続けるのは簡単ではない。珍しい行動を見れば、どうしても理由をつけたくなるものじゃ」
ナツキは少しだけ思い当たる。
ミニリュウが泥へ体を擦りつけたこと。
フリーザーの冷気。
コイルと設備。
どれも、その場ですぐ答えを出したくなった。
けれど。
1度見ただけで、それがいつもの行動だとは限らない。
「分からないことは、分からないまま残す」
ナツキが言う。
「うむ」
オーキド博士は笑った。
「それが次の調査につながる」
ページをめくる。
そして。
手が止まった。
「……ナツキ君」
「はい」
「これは」
ページの中央。
青い長い体を持つポケモンのスケッチ。
「ミニリュウです」
「やはりそうか!」
オーキド博士の表情が一気に研究者のものになる。
「どこで確認した?」
「セキチクのサファリパークです」
「どの区域じゃ?」
ナツキは別ページを開く。
「この池です。水草が多くて、岸の一部が湿地っぽくなってました」
「ふむふむ」
「最初は水中の影だけでした。それから岸に這ったような痕跡を見つけて、少し離れて待っていたら出てきました」
「陸へ上がったのか?」
「はい」
オーキド博士の目がさらに輝く。
ナツキは続ける。
「湿った土に体を擦りつけて、その後水へ戻りました。それから岩に体を擦って、薄い皮みたいなものを剥がしてたんです」
「脱皮か」
「俺もそう思いました。ただ、泥を使ったことと脱皮が関係してるかは分かりません」
「うむ。非常に興味深い」
博士は何度も記録を読み返す。
「次に同じ個体、あるいは別個体でも同じ行動が確認できれば面白いのう」
「また見に行きたいと思ってます」
「よいじゃろう」
さらにページをめくる。
「おつきみやまではピッピの群れか」
「はい」
「ディグダとダグトリオ……むじんはつでんしょではエレブーまで確認しておる」
オーキド博士が楽しそうに読み進める。
「……む?」
また手が止まる。
今度は長い。
ナツキは何のページかすぐ分かった。
ふたごじま。
地下湖。
そして。
大きな青い翼を持つポケモン。
「ナツキ君」
「はい」
「まさかとは思うが」
「フリーザーです」
沈黙。
「……本当に?」
「俺も最初そう思いました」
「ヒノ!」
ヒノアラシが横から強く鳴いた。
「ヒノアラシも見たって言ってます」
「ヒノヒノ!」
「いや、これは……」
オーキド博士はスケッチへ顔を近づける。
「どの程度の距離じゃった?」
「地下湖の向こう側です。最初はかなり離れてました」
ナツキは状況を説明する。
急激に下がった気温。
壁へ付着していた霜。
地下湖。
空洞へ飛来したフリーザー。
水を飲む様子。
羽繕い。
休息。
そして。
こちらに気づいたため観察を終了したこと。
オーキド博士は途中で口を挟まずに聞いていた。
最後まで聞き終えると、ゆっくり息を吐いた。
「捕まえようとは思わなかったのか?」
「え?」
ナツキは一瞬質問の意味が分からなかった。
「フリーザーじゃ。伝説のポケモンと呼ばれるほど珍しい個体じゃぞ」
「ああ」
少し考える。
けれど答えはすぐに出た。
「全然」
「ほう」
「俺が見たかったのは、フリーザーがそこで何をしてるのかだったので」
湖で水を飲んでいた。
羽を整えていた。
静かに休んでいた。
「捕まえたら、その続きを見られなくなるじゃないですか」
オーキド博士の目が少し大きくなる。
そして。
穏やかに笑った。
「そうじゃな」
「それに俺、ポケモンを集めるために旅してるわけじゃないので」
「うむ」
博士はページを見る。
「よい調査官になりそうじゃ」
ナツキは少し照れたように頭を掻いた。
「まだ全然です」
「まだ、と自分で言えるなら大丈夫じゃよ」
フィールドノートを読み終える頃には、かなり時間が経っていた。
オーキド博士はノートをナツキへ返す。
「面白かった」
「ありがとうございます」
「これだけでも、いくつか再調査する価値のあるものがある」
「俺もそう思ってます」
ナツキはページを開く。
ノートの各所。
『再調査』
そう書いた印がある。
トキワの森。
ピッピ。
むじんはつでんしょ最奥部。
ミニリュウ。
フリーザーを見つけた地下湖。
「特にむじんはつでんしょは途中で引き返したんじゃな」
「はい。奥からかなり強い放電があって、対策もしてなかったので」
「よい判断じゃ」
「何かいるのは間違いないと思います」
「なるほどのう」
オーキド博士は少し考えたが、答えを教えるようなことはしなかった。
「次に行くなら十分に準備することじゃ」
「はい」
それだけだった。
ナツキも、今すぐ正体を知りたいとは思わない。
実際に見たい。
自分で確かめたい。
それがこの旅を続けている理由だからだ。
「ところで」
オーキド博士が窓の外を見る。
「せっかくマサラタウンまで戻ってきたんじゃ」
「はい」
「最初の場所をもう一度調査してみたらどうじゃ?」
ナツキも窓を見る。
研究所の向こう。
草原。
初めてオーキド博士とフィールドワークをした場所だ。
「同じところを?」
「うむ」
「でも、まだ新しい場所もいっぱいあって……」
「だからこそじゃ」
博士が笑う。
「旅へ出る前の君と、今の君」
「……」
「同じ場所を見て、同じものが見えると思うかね?」
ナツキは答えなかった。
窓の外を見る。
ポッポがいる。
草の中にはコラッタがいるかもしれない。
最初に調査したときと同じ。
ありふれたポケモンたち。
けれど。
船から町へ戻ってくる途中。
嘴に何かを咥えたポッポを見ただけで、巣材なのかと考えた。
確かに。
あの頃とは違うかもしれない。
「……やってみます」
「うむ」
「ヒノアラシも行くぞ」
「ヒノ!」
ところが立ち上がろうとすると。
ぐぅぅぅ。
小さな音。
ナツキが止まる。
ヒノアラシも止まる。
「今の」
「ヒノ?」
「お前だろ」
「ヒノ!」
「俺じゃないって」
ぐぅぅ。
もう一度。
ヒノアラシのお腹からだった。
オーキド博士が笑い出す。
「はっはっは! 調査の前に昼食じゃな」
「……そうですね」
「ヒノ!」
「急に元気になるな」
研究所で昼食を取る。
ナツキがカントー各地での話を続ける間も、ヒノアラシは夢中でポケモンフーズを食べていた。
食事を終えた午後。
ナツキとヒノアラシは、久しぶりにマサラタウンの草原へ出た。
オーキド博士は同行しなかった。
「今日は君だけで見てみなさい」
そう言って、研究所に残った。
草原を歩く。
風が吹く。
草が揺れる。
「ポッ」
1匹のポッポが地面へ降りた。
ナツキが足を止める。
「……ヒノアラシ」
「ヒノ」
言われる前に、ヒノアラシも静かになる。
2人でしゃがむ。
ポッポを見る。
地面をつつく。
最初の調査でも見た行動。
だが。
今回はすぐノートへ書かなかった。
少し広く見る。
周囲。
同じ場所にもう2匹ポッポがいる。
さらに離れた場所にはコラッタ。
ポッポが地面をつついた。
何かを食べる。
次に、近くのポッポが同じ場所へ移動した。
「……同じ場所を使ってる」
1匹が食べ終わった場所。
そこへ別の個体が来る。
餌が多い場所なのか。
それとも先の個体が地面を掘ったことで、餌を見つけやすくなったのか。
まだ分からない。
少し離れたコラッタも近づいてくる。
ポッポは逃げない。
それぞれ一定の距離を保ちながら、同じ区域で餌を探している。
ナツキはゆっくりノートを開いた。
最初のフィールドワークで書いたページ。
その次。
新しいページへ。
『マサラタウン・再調査』
と書く。
「最初と全然違うな」
「ヒノ?」
「見てる場所が増えた」
ポッポを見るだけではない。
ポッポがいる場所を見る。
その周りを見る。
他のポケモンを見る。
それぞれの距離を見る。
ナツキはペンを動かした。
しばらくすると。
1匹のポッポが飛び立った。
嘴には細い枯れ草を咥えている。
「あ」
朝に見た個体と同じかは分からない。
ポッポは草原の端にある木へ飛んでいく。
「巣材だ」
木の中へ姿を消す。
少しして、何も咥えずに出てきた。
また地面へ。
別の枯れ草を拾う。
木へ。
「巣作りしてる」
ナツキは笑った。
ごく普通のポッポ。
カントーのあちこちで見かけた。
珍しくない。
伝説でもない。
それでも。
立ち止まって見れば、そこにはちゃんと知らなかった生活がある。
フリーザーを見たときと。
ミニリュウを見たときと。
何も変わらない。
「ヒノアラシ」
「ヒノ?」
「俺、やっぱりこれ好きだわ」
「ヒノ?」
「ポケモン見るの」
「ヒノ!」
「知ってた?」
「ヒノヒノ!」
ヒノアラシは当然だと言うように何度も頷く。
「そっか」
ナツキはフィールドノートへ視線を落とした。
この旅で埋まったページ。
そして。
その先に残された白紙。
まだカントー地方だけでも、見ていない場所はたくさんある。
同じ場所へ戻っても、新しく見えるものがある。
なら。
このノートが全部埋まる日は、思っているよりずっと先なのだろう。
夕方。
研究所へ戻ったナツキは、今日最後の記録を書いた。
『マサラタウン・再調査』
『以前と同様にポッポ、コラッタを確認』
『複数のポッポが同一の採食場所を順番に利用』
『ポッポ1匹による巣材運搬を確認』
そして。
その下へ。
『場所は変わっていない』
少し間を空ける。
『見えるものが変わった』
ペンを止めた。
オーキド博士が後ろから覗く。
「どうじゃった?」
ナツキはノートを閉じる。
「戻ってきてよかったです」
「そうか」
「はい」
ヒノアラシがナツキの足元へ座る。
「ヒノ」
ナツキは窓の外を見た。
夕日に染まるマサラタウン。
ここから始まった。
そして。
戻ってきた今。
この場所は旅の終点には感じられなかった。
むしろ。
ここからもう一度始められる。
そんな気がした。
「博士」
「なんじゃ?」
「明日、次の調査先を考えます」
「もう出るのか?」
「まだ行きたい場所がいっぱいあるので」
「はっはっは! そうでなくてはな」
「ヒノ!」
ヒノアラシも元気に声を上げた。
ナツキは自分のフィールドノートを手に取る。
何度も開いた表紙。
増えていった記録。
そしてまだ残っている、たくさんの白紙。
カントー地方での生態調査は、終わっていない。
マサラタウンへ帰ってきたことで。
ナツキは改めて、そのことを実感していた。
ポケモンを見て。
暮らしを知って。
疑問を残して。
また次の場所へ向かう。
ナツキとヒノアラシの旅は。
ここから、さらに続いていく。