ヒーローを守りたかっただけなのに、魔法少女になった   作:冷凍マカロン

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初投稿です。よくわかってないです。


英雄を守る者
走れ、ハヤト!


 

 街が、巨狼の足元で沈んだ。

 

 フェンリルが前脚を踏み下ろす。たった、それだけだった。

 

 六車線の道路が波打ち、アスファルトが裂ける。地中の水道管が破裂し、噴き上がった水が夕日を浴びて白く輝いた。放置された乗用車が横転し、信号機が火花を散らしながら傾いていく。

 

 悲鳴が上がった。

 

「止まらないでください! そのまま避難を!」

 

 破壊された交差点の中心に、一人の少女が立っていた。

 

 ホワイトリリィ。

 

 純白だったはずのドレスは粉塵で灰色に汚れ、右肩から胸元にかけて赤い筋が伸びている。額には汗が浮かび、呼吸も浅い。剣を握り直すたび、負傷した肩に痛みが走った。

 

 それでも彼女は、逃げていく人々へ笑顔を向けた。

 

「大丈夫です。ここから先には、行かせません!」

 

 声は震えていない。だが、光の剣を握る指には、血の気が失われるほど力が込められていた。

 

 そのときだった。

 

「ママぁ……!」

 

 人波の向こうから、幼い男の子の泣き声が聞こえた。

 

 ホワイトリリィが振り返る。

 

 歩道の脇に、小さな男の子が一人へたり込んでいた。母親とはぐれたのか、何度も周囲を見回している。転んだ膝から血が滲み、恐怖で立ち上がることもできないようだった。

 

「……っ!」

 

 少女が動こうとした瞬間、フェンリルの赤い眼が少年を捉えた。

 

 巨大な顎が開く。

 

 ホワイトリリィが地面を蹴った。

 

 白い光が道路を一直線に駆け抜ける。フェンリルが首を伸ばしたときには、彼女はすでに少年のもとへ滑り込んでいた。

 

「大丈夫! しっかり掴まって!」

 

「お、お姉ちゃ……!」

 

 少年を抱き上げた、その直後。

 

 空気が引き裂かれるような音がした。

 

 視界の端に、黒いものが映る。

 

 フェンリルの尾だった。

 

 長大な尾が、建物の壁を削りながら迫ってくる。

 

 今から跳んでも間に合わない。少年を抱えたままでは、なおさらだった。

 

 ホワイトリリィは少年を胸へ抱き込み、敵へ背を向ける。

 

「光よ!」

 

 足元から白い魔法陣が広がり、半球状の障壁が二人を包み込んだ。

 

 直後、轟音。

 

 巨大な尾が障壁を打ち据えた。

 

「く……っ!」

 

 靴底が舗装を削り、一メートル、二メートルと押し戻される。障壁へ蜘蛛の巣状の亀裂が走り、光の破片が頬を掠めた。

 

 右肩に激痛が走る。

 

 膝が折れかけたところで、どうにか踏みとどまった。

 

 やがて尾が離れ、障壁が砕け散る。

 

 ホワイトリリィは浅く息を吐いた。喉の奥から血の味がせり上がり、慌てて唇を結ぶ。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 腕の中で、少年が顔を上げた。

 

「血……」

 

「え?」

 

 視線を落とすと、ドレスの右肩が赤く濡れていた。

 

 少年が今にも泣きそうな顔で、その染みを見つめている。

 

「ああ、これですか」

 

 ホワイトリリィは笑った。

 

「大丈夫ですよ。ちょっと転んだだけです」

 

「……ほんと?」

 

「本当です。だから、もう少しだけ頑張れますか?」

 

 少年が小さく頷く。

 

 その頭を軽く撫でると、ホワイトリリィは避難誘導員のもとへ駆けた。

 

「この子をお願いします。お母さんとはぐれてしまったみたいで」

 

「分かりました! ですが、ホワイトリリィさんも一度下がってください! 応援が到着するまで、せめて……!」

 

 誘導員の言葉が途中で止まった。

 

 少女の視線が、すでにその背後へ向けられていたからだ。

 

 まだ逃げ遅れている人たちがいる。

 

 老人の手を引いて走る女性。転倒した会社員を助け起こそうとしている男性。地下避難所へ続く階段には、人が詰まっていた。

 

 ここで自分が退けば、どうなるか。

 

 答えを考える必要はなかった。

 

「皆さんの避難を、お願いします」

 

「ですが!」

 

「大丈夫です」

 

 そう言って、もう一度笑う。

 

 返事を待たずに背を向けると、光の剣を握り直した。

 

 フェンリルが低く唸る。

 

 それだけで周囲の窓ガラスが震え、ひび割れたビルの壁面から破片が落ちた。

 

 四肢を覆う漆黒の毛皮。建物の二階へ届きそうな巨体。人間など一噛みで消えてしまいそうな顎。その赤い双眸が、再び白い少女へ向けられる。

 

 地震に牙を生やし、台風に意思を与えたような怪物。

 

 その前に立つホワイトリリィは、あまりにも小さかった。

 

 少女は一度だけ右肩を押さえる。

 

 指先に生温かいものが触れた。

 

 それを見なかったことにして、剣を構え直す。

 

「……あなたの相手は、私です」

 

 巨狼が牙を剥いた。

 

     ◇

 

 少し前。

 

「高っ」

 

 天城ハヤトは、牛乳の値札を二度見した。

 

 見間違いではなかった。

 

 十二円。

 

 先週より十二円高い。

 

「十二円……」

 

 値札を見る。財布を見る。もう一度値札を見る。

 

 数字は変わらない。

 

「地味に上がってんなぁ……」

 

 隣で商品を選んでいた主婦が、ちらりとこちらを見た。

 

 ハヤトは何事もなかったように牛乳を手に取り、隣の商品と見比べる。

 

 こっちの方が三円安い。

 

 ただし、いつも買っている牛乳の方が好みの味だ。

 

「…………」

 

 三秒ほど悩んだ。

 

「まあ、十二円だしな」

 

 結局、いつもの牛乳を買い物籠へ入れる。

 

 そもそも、十二円の値上げで生活が苦しくなるほど困窮しているわけではない。

 

 父親は海外で働いており、今月も生活費はきちんと振り込まれている。家賃や学費も心配する必要はなく、食費だって十分に確保されていた。

 

 だから、今すぐ欲しいものを買ったとしても、別に困りはしない。

 

 ただし。

 

「……あと三千円か」

 

 ハヤトはスマートフォンを取り出した。

 

 画面に映っているのは、友人から送られてきた新作アクションゲームの紹介動画だった。

 

 巨大な剣を振り回す主人公が、空中で何度も武器を切り替えながら敵を叩きのめしている。

 

 しかも、予約特典には限定武器のスキンまで付いてくる。

 

 正直、めちゃくちゃ格好いい。

 

「これ絶対欲しいんだけどなぁ……」

 

 自分の小遣いと、これまでのアルバイト代から使える金額を頭の中で計算する。

 

 通常版なら余裕だ。

 

 だが、どうせ買うなら限定版が欲しい。

 

 あの巨大な剣の模型が付属するやつだ。

 

 ゲーム本編と関係ないと言われれば、その通りである。

 

 しかし、欲しいものは欲しい。

 

「……よし」

 

 ハヤトはスマートフォンをしまい、精肉コーナーへ向かった。

 

 豚肉を手に取る。

 

 値段を見る。

 

 そのまま買い物籠へ入れかけたところで、動きが止まった。

 

「…………」

 

 さっきの限定版が、頭をよぎる。

 

 別に肉を買ったところで、ゲームが買えなくなるわけではない。

 

 そもそも食費から出す金だ。

 

 趣味の金とは関係ない。

 

 それは分かっている。

 

「……いや、でもな」

 

 何となく、節約できるところは節約したくなった。

 

 豚肉を戻す。

 

 代わりに豆腐を二丁取った。

 

「今日はお前らが肉だ」

 

 豆腐は何も答えない。

 

 当然である。

 

 答えられても困る。

 

 その後、卵、食パン、もやし、安売りの納豆を確保する。ついでに総菜コーナーへ向かい、半額シールが貼られた焼き魚弁当も手に入れた。

 

「おっ、ラッキー」

 

 賞味期限を確認する。

 

 今日中に食べれば問題ない。

 

 しかも、いつもより少し豪華なやつだ。

 

 なかなか悪くない戦果である。

 

 一人暮らしを始めてから、ハヤトは安売りを見つけるのが妙に上手くなっていた。

 

 生活に困っているわけではない。

 

 単純に、同じものが安く買えるなら、その方が得だと思っているだけだ。

 

 浮いた金で何をするか。

 

 そんなもの、決まっている。

 

「限定版……待ってろよ……!」

 

 決意を新たに、レジへ向かった。

 

 会計を済ませ、スーパーの外へ出る。

 

 ハヤトは店先で買い物袋を覗き込み、弁当、豆腐、牛乳、卵を順番に確認した。

 

 ついでに、弁当に割り箸が付いていることも確かめる。

 

「箸ある。よし」

 

 以前、一度だけ弁当に箸が付いていなかったことがある。

 

 家にも割り箸がなく、仕方なく焼き魚をスプーンで攻略した。

 

 あれは食事というより、発掘作業に近かった。

 

「やっぱ人間、道具がないとダメだな」

 

 誰に言うでもなく呟き、歩き出す。

 

 夕方の神宿市。

 

 駅前から続く商店街は、仕事帰りの会社員や制服姿の学生で賑わっていた。

 

 パン屋からは焼きたての甘い匂いが漂い、総菜屋の店先では揚げ物が油から引き上げられている。

 

「……唐揚げか」

 

 ハヤトの足が止まった。

 

 店先の看板には、本日限定の特売価格。

 

 しかも、揚げたて。

 

「…………」

 

 買い物袋を見る。

 

 焼き魚弁当が入っている。

 

 もちろん、それを食べれば夕飯としては十分だ。

 

 十分なのだが。

 

「……いや、魚あるし」

 

 少しだけ未練を残して、その場を離れる。

 

 今日は無駄遣いをしない日なのだ。

 

 そう決めた。

 

 五分前に。

 

 商店街には自転車のベルや店員の呼び込みが響き、少し離れた高架を電車が走っていた。

 

 いつもと変わらない帰り道。

 

 頭上の大型モニターに映るニュースも、普段なら特に気に留めなかっただろう。

 

『続いて、神宿市の魔獣災害についてお伝えします』

 

 聞き慣れた単語に、ハヤトが顔を上げた。

 

『本日午後、神宿市北部に出現した魔獣は、魔法少女ホワイトリリィによって討伐されました』

 

 画面には、ひび割れた道路と消防車、救急隊の姿が映っていた。

 

 そして、その中心に立つ一人の少女。

 

 純白のドレス。

 

 手にした光の剣。

 

 テレビや動画配信で何度も目にしてきた、神宿市の魔法少女。

 

 ホワイトリリィだ。

 

「お、リリィじゃん」

 

 ハヤトが何となく足を止める。

 

 近くにいた通行人たちも、何人か画面を見上げていた。

 

『ホワイトリリィさん。本日も多数の市民を救助されたとのことですが、ご自身のお怪我は?』

 

『問題ありません』

 

 返事は早かった。

 

 ホワイトリリィは記者へ笑顔を向け、何事もなかったかのように答える。

 

『負傷された方も、全員救助できました。それが一番です』

 

 周囲から拍手が起こった。

 

「やっぱリリィ強いな」

 

「今日も一人で倒したんだって?」

 

「この前もニュースになってたよな」

 

 近くの学生たちが、そんな話をしている。

 

 ハヤトも画面を眺めながら、素直に感心していた。

 

 魔法少女。

 

 この世界では、魔獣から人々を守る存在だ。

 

 街で魔獣が出現すれば協会が警報を発令し、魔法少女たちが現場へ向かう。人々は避難し、彼女たちが危険を引き受ける。

 

 ハヤトにとっても、それは昔から当たり前の光景だった。

 

 だが、画面を見ているうちに、少しだけ違和感を覚えた。

 

「……ん?」

 

 ホワイトリリィの右肩が、妙に下がっている。

 

 記者から隠すように右腕を身体の後ろへ回し、質問に答えるときも左手ばかり動かしていた。

 

 画面が切り替わる直前、白い手袋の手首に薄く赤いものが見えた。

 

「……問題あるだろ、それ」

 

 思わず呟く。

 

 もちろん、画面の向こうから返事はない。

 

 ニュースでは、すでに次の質問が始まっていた。

 

 すぐ近くで、小さな女の子が母親の袖を引いた。

 

「ねえ、ママ」

 

「なあに?」

 

「魔法少女って、痛くないの?」

 

 母親は少し考えた。

 

「痛いと思うよ」

 

「じゃあ、なんで笑ってるの?」

 

「うーん……みんなが怖がらないようにしてくれてるんじゃないかな」

 

「ふーん」

 

 女の子は再びモニターを見上げた。

 

 そして、小さな手を振る。

 

「ありがとう!」

 

 テレビの向こうへ届くはずもない。

 

 それでも、その一言が妙に耳へ残った。

 

 ハヤトは画面の中の少女を見上げる。

 

 また、笑っていた。

 

「……頑張りすぎだろ」

 

 独り言をこぼし、買い物袋を持ち直す。

 

 魔法少女が負傷することは珍しくない。魔獣との戦いが危険なものであることくらい、ハヤトだって理解している。

 

 それでも、傷ついている人間が平然と笑っている姿を見ると、どうにも落ち着かなかった。

 

 商店街を数歩進んだところで、ふと足が鈍る。

 

 鼻の奥に、消毒液の匂いが蘇った。

 

「…………」

 

 もちろん、周囲にそんな匂いはしない。

 

 記憶だ。

 

 白い壁。

 

 硬い長椅子。

 

 夜なのに、妙に明るかった病院の廊下。

 

 まだ幼かったハヤトには椅子が高く、座っても足が床へ届かなかった。

 

 隣には父親が座っていた。

 

 普段は大きく、頼もしく見えた背中が、その日だけはひどく小さかったことを覚えている。

 

『あの子は助かった』

 

 父はそう言った。

 

 母親が助けに戻った子供のことだった。

 

 その後、何を説明されたのかは、もうよく覚えていない。

 

 立派だった。

 

 勇敢だった。

 

 人を救った。

 

 きっと、そんな言葉だったと思う。

 

 覚えているのは、父の膝の上で握られていた両手が、小さく震えていたこと。

 

 何度も見つめていた病室の扉が、いつまで経っても開かなかったこと。

 

 そして。

 

 母親が、二度と家へ帰ってこなかったこと。

 

 ハヤトは母親が誰かを助けたことを、後悔しているわけではなかった。

 

 助けられた子供を恨んだこともない。

 

 ただ、人を救ったから立派だった、英雄だったと、そこで話を終わらせられるたびに、胸の奥へ何かが引っかかった。

 

 助けに行った人間は。

 

 一番危険な場所へ走った人間は。

 

 誰にも、助けてもらえなくていいのか。

 

「……腹減ったな」

 

 ハヤトは呟いた。

 

 考えても答えが出ないことを、いつまでも考えていたって仕方がない。

 

 今日は焼き魚弁当だ。

 

 帰ったら味噌汁を作って、ゲームの発売日までに積みゲーでも片づけよう。

 

 そう決めて歩き出した、そのときだった。

 

 頭上の大型モニターが乱れた。

 

「……ん?」

 

 画面にノイズが走り、ニュース番組の音声が途切れる。

 

 一瞬の沈黙。

 

 続いて、モニター全面が赤く染まった。

 

『緊急警報。緊急警報』

 

 商店街の空気が変わった。

 

『神宿市中央区において、大規模魔獣反応を確認。周辺住民は直ちに指定避難施設へ移動してください。繰り返します……』

 

「中央区?」

 

 ハヤトが眉を寄せる。

 

 ここだ。

 

 正確には、ここから数区画先。

 

「近っ!」

 

 周囲が一斉に騒がしくなった。

 

 商店街の店員たちが避難誘導を始め、あちこちで防災シャッターが降りる。地下避難所への案内表示が点灯し、人々の流れが駅前とは反対方向へ変わっていく。

 

「地下避難所はこちらです!」

 

「押さないでください! 落ち着いて!」

 

「小さなお子さんを先に!」

 

 ハヤトも買い物袋を抱え、人の流れへ加わった。

 

 魔獣警報自体は初めてではない。

 

 魔獣が現れる。

 

 協会が警報を発令する。

 

 魔法少女が出動する。

 

 そして、市民は避難する。

 

 この街では、それが正しい。

 

 自分も逃げればいい。

 

 高校生が魔獣相手にできることなんて、何もないのだから。

 

 ドンッ!

 

「うわっ!?」

 

 遠くから、腹の底へ響くような音が届いた。

 

 何人もの人間が振り返る。

 

「爆発?」

 

「近くないか……?」

 

 少し遅れて地面が揺れた。頭上の吊り看板が軋み、買い物袋の中で牛乳パックが倒れる。

 

 ハヤトは反射的に袋を抱え直した。

 

「……おいおい」

 

 歩調が速くなる。

 

 もう一度。

 

 ドォンッ!!

 

 今度は、さっきとは比べものにならないほど大きかった。

 

 地面から突き上げるような振動。ビルの向こうで黒煙が膨れ上がり、その煙を切り裂くように白い光が走った。

 

 見覚えのある光だった。

 

「……え?」

 

 ハヤトは足を止めた。

 

 もう一度、白い閃光。

 

 その直後に響く、獣の咆哮。

 

「ホワイトリリィ……?」

 

 つい先ほどまで、ニュースに映っていた少女。

 

 右肩を怪我していた。

 

 血を隠して、問題ありませんと笑っていた。

 

「今日二回目だろ……」

 

 思わず乾いた声が漏れた。

 

「いやいや、休ませろよ……」

 

 誰への文句なのかは、自分でもよく分からない。

 

 協会か。

 

 魔獣か。

 

 こんなことが当たり前になっている世界そのものか。

 

 考えたところで、どうしようもなかった。

 

「君! 立ち止まらないで!」

 

 避難誘導員に肩を押され、ハヤトは我に返る。

 

「あ、はい! すみません!」

 

 慌てて地下避難所の方へ向き直った。

 

 その直後。

 

 ビルの向こうから、巨大な黒いものがせり上がった。

 

 最初は、崩れた建物かと思った。

 

 違う。

 

 頭だ。

 

「……は?」

 

 耳が動いた。

 

 長い鼻先が持ち上がり、夕暮れの街へ赤い眼が向けられる。

 

 その全貌を認識した瞬間、ハヤトは言葉を失った。

 

 狼。

 

 とてつもなく巨大な、黒い狼だった。

 

 建物の隙間から現れた巨体が交差点へ踏み込む。道路が陥没し、放置された車が大きく跳ねた。

 

「フェンリルだ!」

 

「A級! A級魔獣だ!」

 

「逃げろぉぉっ!」

 

 悲鳴が爆発した。

 

 人々が我先にと避難所へ殺到する。

 

 ハヤトも反射的に後ずさった。

 

 遠目でも分かる。

 

 あれは、人間がどうにかできる大きさじゃない。

 

 建物が歩いているようなものだ。

 

 しかも、ただ大きいだけではなかった。

 

 交差点の向こう側で、白い光が跳ねた。

 

 ホワイトリリィ。

 

 巨狼の足元にいる彼女は、まるで玩具の人形のように小さかった。

 

 そのとき、フェンリルが前脚を沈めた。

 

 次の瞬間。

 

 黒い巨体が、消えた。

 

「……え?」

 

 ハヤトが瞬きをするよりも早く、白い光と巨大な爪が激突した。

 

 耳をつんざく金属音。

 

 ホワイトリリィの身体が宙へ投げ出される。

 

「っ!」

 

 白い少女は道路へ叩きつけられ、一度、二度と跳ねた。そのまま車道を滑り、横倒しになっていたバスの側面へ背中から激突する。

 

 鈍い音が、ここまで届いた。

 

「…………」

 

 ハヤトの喉が鳴った。

 

 遠くからでも、バスの車体が大きく凹んだのが見えた。

 

 あんなもの。

 

 普通なら、死んでいる。

 

「……立つな」

 

 自分でも驚くほど小さな声が出た。

 

 ホワイトリリィの指が動く。

 

「おい……」

 

 光の剣へ手を伸ばし、少女が身体を起こそうとしていた。

 

「もういいだろ……!」

 

 何度か地面へ手をつきながら、どうにか立ち上がる。

 

 ふらついた右脚を引きずり、それでも彼女は巨狼へ向き直った。

 

 ハヤトは思わず奥歯を噛み締めた。

 

「何やってんだよ……!」

 

 分かっている。

 

 あれがヒーローなのだ。

 

 人を守るから。

 

 逃げないから。

 

 誰かが助けを求めたら、何度でも立ち上がるから。

 

 だから、みんな彼女を頼る。

 

 あんな状態でも、誰かが言う。

 

 助けて、と。

 

 フェンリルが口を開いた。

 

 喉の奥に赤黒い光が集まる。ホワイトリリィは光の剣を地面へ突き立て、負傷した右肩を庇いながら左手を前へ伸ばした。白い障壁が広がり、交差点から歩道へ向かう巨狼の視線を遮る。

 

「……まだ人がいる」

 

 ハヤトは足を止めた。

 

 障壁の後ろ、道路脇の店舗の前に二人取り残されていた。女の子と、その母親らしい女性だ。女性は片脚を押さえたまま座り込み、立とうとしては顔を歪めている。女の子は泣きながら、その腕を引っ張っていた。

 

 避難所へ続く道は、彼女たちのすぐ後ろにある。だが、折れた街灯と散乱した瓦礫が歩道を塞いでいた。子供だけなら抜けられそうな隙間も、脚を痛めた女性には厳しい。

 

 ハヤトは二人の位置と、障壁を挟んで向かい合う巨狼を見比べた。

 

 フェンリルを倒す?

 

 無理だ。何をどう考えたって無理だ。

 

 でも、あそこへ回り込むことなら。

 

 女性に肩を貸せば、瓦礫を越えられるかもしれない。

 

「……いや、待て待て」

 

 自分が何を考えているのか理解して、背筋が冷えた。

 

 魔獣のいる交差点に突っ込むつもりか。制服姿の、ただの高校生が。

 

 逃げるのが正しい。下手に飛び込めば、ホワイトリリィが守らなければならない人数を増やすだけだ。

 

 そのとき、フェンリルの口から赤黒い光が噴き出した。

 

 障壁へ激突する。

 

 腹の底を殴られたような轟音が響き、道路に転がっていた車の警報装置が一斉に鳴り始めた。ホワイトリリィの靴底が舗装を削る。白い光の壁に亀裂が走った。

 

 赤黒い光は数秒で収まった。だが、フェンリルはすぐに間合いを詰め、今度は牙を障壁へ押しつけた。ホワイトリリィは後ろを振り返り、取り残された二人を確かめると、歯を食いしばって剣へ力を込める。

 

「……っ!」

 

 ハヤトの手が、買い物袋を握り締めた。

 

 あの人は、二人が逃げない限り退けない。

 

 さっきまでテレビで笑っていた少女が、今は身体を震わせながら怪物の攻撃を受け止めている。

 

 頭の隅に、あの病院の廊下がよぎった。

 

『あの子は助かった』

 

 父の声。

 

 膝の上で震えていた手。

 

 ハヤトは息を吐いた。

 

「……分かったよ」

 

 別に、フェンリルと戦わなくていい。

 

 できることだけ、やればいい。

 

「君! 立ち止まらないで!」

 

 避難誘導員に呼びかけられ、ハヤトはそちらを振り返った。

 

「あそこ! まだ二人います!」

 

「分かってる! 救助班が向かっているから、君は先に……!」

 

 誘導員の声を、再び響いた衝撃音が掻き消した。交差点に近いビルからガラスが降り注ぐ。人の流れが乱れ、誘導員は転びかけた避難者を支えるために振り向いた。

 

 救助班はまだ見えない。

 

 ハヤトは一度だけ、白い障壁を見た。

 

「……くそっ!」

 

 人の流れから外れ、道路脇へ駆け出した。

 

「君! 戻れ!」

 

「すみませんっ!」

 

 返事になっていないことは、自分でも分かっている。

 

 狭い歩道を走り、瓦礫を飛び越える。途中で買い物袋が脚にぶつかり、危うく転びそうになった。

 

「ああもう、邪魔!」

 

 袋を歩道の脇へ置こうとして、時間が惜しくなった。

 

 手を放す。

 

 焼き魚弁当と豆腐が袋から飛び出し、牛乳が縁石に当たって鈍い音を立てた。

 

「……牛乳!」

 

 一瞬だけ足が鈍る。

 

 よりによって、十二円の値上げを気にして買ったやつが。

 

「今じゃねぇ!」

 

 前を向いた。

 

 交差点へ近づくにつれ、フェンリルの大きさが嫌でも分かってくる。爪一本で自分の身体など簡単に引き裂かれそうだった。熱風に混じった焦げ臭さが鼻を刺し、砂埃が口の中に入り込む。

 

 真正面は駄目だ。

 

 ハヤトは西側の店舗に沿って走った。巨狼とホワイトリリィを結ぶ線から外れ、看板の落ちた店先を通って障壁の後ろへ回り込む。

 

「おい! 大丈夫ですか!」

 

 しゃがみ込む女性へ声をかけると、女の子が弾かれたように顔を上げた。

 

「ママが……!」

 

「見れば分かる! いや、ごめん! どこ痛いですか!?」

 

「足、を……挟んで……」

 

 女性の足首の脇に、割れた看板の枠が倒れていた。完全に下敷きになっているわけではないが、動くたび痛むらしい。

 

 ハヤトは両手で枠を持ち上げ、脇へずらした。見た目より重く、指の間にざらついた塗料が付く。

 

「立てます?」

 

 女性が試すように足をつく。すぐに表情が歪んだ。

 

「……すみません」

 

「謝るの後! 肩、使ってください!」

 

 女性の腕を自分の肩へ回す。思っていたよりずっと重い。腰が引けそうになったが、女の子が必死にこちらを見上げているのを見て、何とか踏ん張った。

 

「君は俺の服、掴んで。転ばないようにな」

 

「……うん!」

 

 歩き出そうとしたところで、背後から凄まじい衝撃が伝わった。

 

 振り返ると、障壁の表面に大きな亀裂が走っていた。ホワイトリリィの片膝が路面へ落ちる。

 

「……っ!」

 

 声をかけかけて、ハヤトは口を閉じた。

 

 ここで自分が動きを止めれば、彼女が頑張っている意味がなくなる。

 

「行きます! ゆっくりでいいんで、足だけ動かしてください!」

 

 瓦礫を避け、店舗の軒下を進む。女の子がハヤトの制服を引っ張り、女性は何度も息を詰めた。三人で歩けば、どうしても速度は落ちる。

 

 頭上で何かが割れた。

 

「しゃがんで!」

 

 ハヤトは女性を庇うように身体を寄せた。ガラス片がすぐ横の歩道へ散らばり、女の子が悲鳴を上げる。

 

「大丈夫、大丈夫! あとちょっと!」

 

 自分の声が情けないほど裏返っていた。

 

 ようやく交差点から一本外れた路地へ辿り着く。角を曲がった途端、巨狼の姿が建物に隠れた。こちらからも見えなくなったが、咆哮と地面の振動だけは途切れない。

 

 路地の向こうに、避難誘導員が二人いた。

 

「すみません! こっち!」

 

「負傷者だ! 担架を!」

 

 駆け寄ってきた誘導員へ女性を引き渡すと、膝から力が抜けそうになった。女の子は母親へしがみつき、何度も名前を呼んでいる。

 

「君も来て! ここは危険だ!」

 

「……はい」

 

 ハヤトは頷いた。

 

 これでいい。

 

 二人は助かった。あとは自分も逃げればいい。

 

 そう思ったのに、脚が動かなかった。

 

 交差点の方から、白い光が一瞬だけ空を照らした。

 

 ハヤトは路地の角を見つめた。

 

 あの人は。

 

 ホワイトリリィは、どうなった。

 

「君、早く!」

 

 誘導員が振り返る。

 

「すぐ行きます!」

 

 嘘だった。

 

 ハヤトは角の内側に身を寄せ、建物越しに交差点を覗き込んだ。

 

 ちょうどそのとき、フェンリルの巨大な前脚が障壁を横から打ち据えた。白い光の表面へ、二本目の大きな亀裂が走る。

 

 光が明滅する。

 

「……おい」

 

 ホワイトリリィは、まだ立っていた。剣を支えに何とか身体を起こし、フェンリルの爪を押し返そうとしている。

 

 けれど、足元が滑った。

 

 片膝が落ちる。

 

 次の瞬間、乾いた破裂音とともに障壁が砕け散った。

 

「リリィ!」

 

 迫る爪を光の剣で受け流そうとした少女の身体が、衝撃に耐えきれず横へ弾かれる。道路を転がり、停車していた車へ背中から激突した。

 

 車体が大きく凹む。

 

 剣が路面を滑り、彼女の伸ばした手の先で止まった。

 

 少女は一度、身体を起こそうとした。

 

 だが、腕に力が入らず、そのままうつ伏せに崩れ落ちる。咳き込んで息を整えようとしているのは見えるのに、立ち上がれない。

 

 ハヤトは角から一歩飛び出しかけた。

 

「……っ!」

 

 足が止まる。

 

 あんな怪物の前へ、生身で戻って何ができる。

 

 もう、救助する人はいない。さっきの二人は逃がした。

 

 それなら、ホワイトリリィも退けるはずだった。

 

 だが、彼女は退けなかった。

 

 フェンリルが赤い光の消えた口を閉じる。

 

 巨狼はすぐに追撃しなかった。倒れた少女を見下ろし、鼻先を低くして、ゆっくりと歩み寄っていく。

 

 濡れたアスファルトへ爪が食い込む。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 逃げられない獲物を確かめるように、巨大な鼻先が地面へ近づいていった。

 

 ハヤトは喉を鳴らした。

 

「……やめろよ」

 

 ホワイトリリィが顔を上げる。

 

 光の剣に指が触れた。どうにか掴もうとしているが、上体を起こせない。

 

 彼女の視線が、フェンリルの顎へ向いた。

 

 巨大な口が開く。

 

 鋭い牙の間から、唾液が糸を引いて垂れた。

 

「おい……やめろって!」

 

 ハヤトは路地の角を飛び出しかけ、壁に手をついた。

 

 もう一度、あの病院の廊下が脳裏をよぎった。

 

 母親が帰ってこなかった夜。

 

 何もできずに、誰かが助けてくれることを願っていた自分。

 

 さっきは二人を救えた。

 

 でも。

 

 あの少女は?

 

 みんなを守ろうとしていた人間は、誰が助ける。

 

「……嫌だ」

 

 ハヤトは拳を握った。

 

 震えが止まらない。

 

 今すぐ逃げろと、身体のどこかが叫んでいる。それでも、壁から手を離せなかった。

 

「俺が助けに来たんだろ……!」

 

 歯を食いしばり、もう一度交差点を見た。

 

 フェンリルは鼻先を少女のすぐ近くまで下ろしていた。後ろ脚に体重をかけ、前脚をゆっくりと動かす。

 

 獲物を押さえつけるつもりなのかもしれない。

 

 助けに行きたい。

 

 でも、どうやって。

 

 そのときだった。

 

『適合者を確認』

 

「……は?」

 

 耳元で、女の声がした。

 

 悲鳴も爆音も聞こえるというのに、その声だけは妙にはっきりしていた。

 

「誰だ!?」

 

『個体識別を開始』

 

「どこにいんだよ!」

 

 視界の端で銀色の光が揺れた。

 

 路地の奥、崩れた外壁の陰から小さな銀色の球体が浮かび上がる。滑らかな表面の中央で、赤いレンズだけがハヤトを向いていた。

 

「……何だ、それ」

 

『照合完了。天城ハヤト』

 

 背筋が冷えた。

 

「なんで俺の名前知ってんだよ!」

 

『BRAVE SYSTEMへの適合を確認。緊急契約手続へ移行します』

 

「契約!?」

 

 球体から光が広がり、目の前で人の輪郭を結んだ。

 

 銀髪と赤い瞳を持つ少女の光像。顔立ちは整っているのに、表情がほとんど動かない。

 

 その姿を認識した直後、大量の文字列が目の前へ現れた。

 

「うわっ! ちょ、何!?」

 

 第一条。第二条。第三条。

 

 生命維持、身体構造、疑似魔力、損傷、後遺症。目で追うよりも早く、文章が次々と並んでいく。

 

『契約規約は全四百八十六項目です』

 

「多いわ!!」

 

 ハヤトは思わず叫んだ。人が食われようとしているときに、何を読ませようとしているのか。

 

「おい、お前! これ使えば俺は戦えるのか!?」

 

『肯定』

 

「あいつを助けられる!?」

 

 光像の返答が、一瞬だけ遅れた。

 

『可能性は存在します』

 

 それで十分だった。

 

「じゃあ貸せ!」

 

『規約への同意が必要です』

 

「分かった、同意する!」

 

『内容を確認してください』

 

「四百八十六項目読んでたら間に合わねぇだろ!」

 

 ハヤトは建物の角から交差点を覗いた。

 

 フェンリルはまだ少女を仕留めていなかった。巨大な顔が左右へ傾き、倒れた身体の周りを嗅ぎ回っている。ホワイトリリィは剣に手を伸ばしたが、すぐに力尽きたように腕を下ろした。

 

 捕食が始まるのは時間の問題だ。

 

「重要なとこだけ言え!」

 

『身体構造の変更。重大な負傷、および後遺症の可能性』

 

「他には!?」

 

『最悪の場合、死亡する危険性があります』

 

「…………」

 

 死亡。

 

 そこだけは、嫌になるほど鮮明に聞こえた。

 

 自分が、死ぬかもしれない。

 

 怖くないわけがない。得体の知れない装置に命を預けて、あんな怪物と戦う。まともに考えれば、避難所へ走った方がずっといい。

 

 路地の奥から、人々を誘導する声が聞こえてきた。ついさっき助けた親子は、もう見えない。

 

 ハヤトはもう一度だけ、交差点を覗いた。

 

 少女が剣の柄を掴んでいる。

 

 動けないくせに、まだ諦めていない。

 

「……くそっ!」

 

 何を迷っている。

 

 助けに来たんだろうが。

 

 ヒーローが人を守るなら。

 

 そのヒーローを守るのは、誰だ。

 

 今、あそこへ走っていけるのは、自分しかいない。

 

「……やる」

 

『確認できません』

 

「やるって言ってんだよ!」

 

『最終確認。身体構造の変更、重大な負傷、後遺症、および死亡の可能性を含む全項目へ同意しますか』

 

「ああ!」

 

『契約後の安全は保証されません』

 

「分かってる!」

 

 ハヤトは路地の奥を一度だけ見た。

 

 誰もいない。建物が交差点からの視線を遮っている。ここから走り出せば、もう後戻りできない。

 

 それでも、さっきまで女性と子供を支えていた自分の両手を見た。

 

 あの二人は助けられた。

 

 なら、今度は。

 

「今ここにいる俺が、あの人を守ればいいだろ!!」

 

 ハヤトは光像へ向き直った。

 

「全部承認する! やれ!!」

 

『承認を確認。契約成立』

 

 銀色の球体から、無数の赤い粒子が噴き出した。

 

「うおっ!?」

 

 粒子はハヤトの周囲を巡り、腰へ集まっていく。光は路地の壁を赤く染めたが、通りへ漏れることはない。

 

 金属同士が噛み合う音がした。

 

 銀と黒の装置が組み上がり、中央に真紅の人工コアが収まる。ベルトが腰へ固定されると同時に、身体の奥を鋭い感覚が駆け抜けた。

 

 ドクン。

 

 自分の鼓動。

 

 ドクン。

 

 装置の鼓動。

 

 二つが重なる。

 

『BRAVE SYSTEM』

 

 ハヤトが路地の角へ視線を向けた。

 

 交差点では、フェンリルがとうとう鼻先を持ち上げていた。倒れたホワイトリリィを見下ろし、巨大な前脚をゆっくりと掲げる。

 

 その爪が、少女の頭上に影を落とした。

 

 もう、迷っている暇はない。

 

 ハヤトは腰の装置へ手を掛ける。

 

「間に合え……!」

 

 銀色の少女の声が耳元で告げた。

 

『Stand by』

 

 真紅の粒子が一斉に舞い上がる。

 

 爪が振り下ろされる。

 

 距離は、まだある。

 

 生身のままなら、絶対に間に合わない。

 

 怖い。

 

 死にたくない。

 

 それでも、ハヤトは目を逸らさなかった。

 

 今度こそ、あの人を一人にしないために。

 

 そして。

 

 真紅の光が、世界を呑み込んだ。

 

          




第一話、読んでいただきありがとうございました!
感想・評価などいただけると励みになります。
次回――初変身、そして初戦闘。
その名は、ブレイヴ。
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