ヒーローを守りたかっただけなのに、魔法少女になった   作:冷凍マカロン

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初投稿です。よくわかってないです。


英雄を守る者
走れ、ハヤト!


 

 街が、巨狼の足元で沈んだ。

 

 フェンリルが前脚を踏み下ろす。たった、それだけだった。

 

 六車線の道路が波打ち、アスファルトが裂ける。埋設管から水が噴き上がり、放置された乗用車が衝撃で横転した。信号機が根元から傾き、夕暮れの街を悲鳴が駆け抜けていく。

 

「止まらないでください! そのまま避難を!」

 

 その中心に、一人の少女がいた。

 

 ホワイトリリィ。

 

 純白だったはずのドレスは灰色の粉塵に汚れ、右肩から胸元へ赤い筋が伸びている。額には汗が浮かび、呼吸も浅い。それでも彼女は、逃げていく人々へ笑ってみせた。

 

「大丈夫です。ここから先には、行かせません」

 

 声は震えていない。けれど、光の剣を握る指は血の気を失うほど強く柄を締めていた。

 

「ママぁ……!」

 

 泣き声。

 

 ホワイトリリィが振り返る。

 

 歩道の脇に、幼い男の子が一人へたり込んでいた。人波に押されて母親とはぐれたらしい。転んだ膝から血が滲み、恐怖で立ち上がることもできずにいる。

 

 そして、フェンリルの赤い眼も少年を捉えた。

 

「っ!」

 

 少女が地面を蹴った。

 

 白い光が道路を一直線に走り、少年を抱き上げる。

 

「大丈夫。しっかり掴まって」

 

「お、お姉ちゃ――」

 

 少年の声を、風を裂く音が掻き消した。

 

 巨大な尾が迫る。

 

 逃げ切れない。

 

 ホワイトリリィは少年を胸へ抱き込み、敵へ背を向けた。

 

「光よ!」

 

 白い障壁が展開される。

 

 直後、轟音。

 

 フェンリルの尾が障壁を打ち据えた。

 

「く……っ!」

 

 少女の靴底が舗装を削り、一メートル、二メートルと押し戻される。障壁へ蜘蛛の巣状の亀裂が走り、光の欠片が頬を掠めた。

 

 それでも、腕の中の少年には傷一つなかった。

 

「お姉ちゃん……血……」

 

「え?」

 

 ホワイトリリィは自分の右肩を見る。白い生地が赤く濡れていた。

 

「ああ。これくらいなら平気です」

 

 笑った。

 

 明らかに平気ではない。唇の端にも赤いものが滲んでいる。

 

 それでも少女は少年を抱えたまま走り、避難誘導員へ託した。

 

「お願いします」

 

「ホワイトリリィさん! あなたも一度下がってください! 応援が来るまで!」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、光の剣を握り直す音がした。

 

 背後には、まだ逃げ切れていない人々がいる。

 

 老人の手を引く女性。泣きながら走る子供。足を引きずる会社員。

 

 フェンリルが低く唸った。

 

 それだけで近隣の窓ガラスが次々と砕ける。

 

 四肢を覆う黒い毛。建物の二階へ届きそうな巨体。人間など一噛みで消えてしまいそうな顎。薄暗くなり始めた街の中で、赤い瞳だけが異様なほど鮮明だった。

 

 地震に牙を生やして、台風へ意思を与えたような怪物。

 

 その前に立つ白い少女は、あまりにも小さい。

 

 ホワイトリリィは浅く息を吸い、剣を構えた。

 

「……あなたの相手は、私です」

 

 フェンリルの前脚が沈む。

 

 黒い巨体が消えた。

 

「っ!」

 

 少女が剣を横へ構える。

 

 次の瞬間、巨大な爪が白い刃へ叩きつけられた。

 

 閃光。衝撃。

 

 ホワイトリリィの身体が宙へ浮き、道路へ叩きつけられる。一度、二度と跳ね、そのまま壊れたバスへ背中から激突した。車体が大きく凹む。

 

 数秒、動かなかった。

 

「……まだ」

 

 剣を杖代わりにして身体を起こす。

 

 右脚が震えている。左腕はほとんど上がらない。息をするたび胸の奥が軋んだ。

 

 それでも少女は、一歩前へ出た。

 

 背中には市民がいる。

 

 だから退かない。

 

 フェンリルが前脚を持ち上げる。巨大な影が少女を覆った。

 

 もう、避ける力は残っていない。

 

 それでもホワイトリリィは最後まで、怪物へ背中を向けなかった。

 

 

     ◇

 

 

「高っ」

 

 天城ハヤトは牛乳の値札を二度見した。

 

 見間違いではない。

 

 十二円。先週より十二円高い。

 

「十二円……」

 

 値札を見る。財布を見る。もう一度値札を見る。

 

「されど……十二円かぁ」

 

 隣で商品を選んでいた主婦が、ちらりとこちらを見た。

 

 ハヤトは何事もなかった顔で牛乳を籠へ入れる。高校生男子が乳製品十二円の値上げにここまで追い詰められている姿は、できれば他人には見られたくない。

 

 問題は、その次だった。

 

 豚肉と豆腐を見比べる。

 

「…………」

 

 豚肉を持つ。値段を見る。戻す。

 

 代わりに豆腐を二丁取った。

 

「今日は、お前らが肉だ」

 

 豆腐は何も答えない。当然である。答えられたら怖い。

 

 卵、食パン、もやし、安売りの納豆。それから夕飯用に、半額シールの貼られた焼き魚弁当も確保する。

 

 一人暮らしを始めてから覚えたことがある。

 

 腹は減る。財布も減る。しかも大体、同時に減る。

 

「ゲーム一本買うのも遠いな……」

 

 財布の中身を確認する。

 

 バイト代が入るまで、あと少し。

 

 友人から誘われている新作アクションゲーム。欲しい。かなり欲しい。

 

「……中古なら」

 

 一瞬だけ考える。

 

「ダメだダメだ」

 

 首を振った。

 

 ゲームは食べられない。悲しいが、人類はまだそこまで進化していない。

 

 会計を済ませ、スーパーの外へ出る。買い物袋を覗き込み、弁当、豆腐、牛乳、卵を確認したところで、ハヤトは小さく頷いた。

 

「箸ある。よし」

 

 以前、弁当に箸が入っていなかった。家には割り箸もなく、最終的に焼き魚をスプーンで攻略した。

 

 あれは食事というより作業だった。

 

「人間は道具を使う生き物だからな」

 

 誰に言うでもなく呟き、歩き出す。

 

 夕方の神宿市。駅前商店街は仕事帰りの会社員と制服姿の学生で混雑していた。

 

 パン屋から流れてくる甘い匂い。自転車のベル。店員の呼び込み。遠くを走る電車の音。

 

 いつもの街だった。

 

 頭上の大型モニターでは、ニュース番組が流れている。

 

『本日午後、神宿市北部に出現した魔獣は、魔法少女ホワイトリリィによって討伐されました』

 

 ハヤトの足が止まった。

 

 画面の中には破壊された道路と消防車、救急隊。その中心に白い少女が立っている。

 

『ホワイトリリィさん。本日も多数の市民を救助されたとのことですが、ご自身のお怪我は?』

 

『問題ありません』

 

 返事は早かった。

 

『負傷者も全員、救助できました。それが一番です』

 

 ホワイトリリィが笑う。

 

 周囲から拍手が起こった。

 

「やっぱリリィ強いな」

 

「今日A級だったんだろ?」

 

「一人で倒したって」

 

 通行人たちもモニターを見上げている。

 

 ハヤトも何となく足を止めたまま画面を見る。

 

「……問題ありません、ねぇ」

 

 笑顔。

 

 綺麗な立ち姿。

 

 けれど、右肩だけが妙に下がっていた。怪我をした腕を記者から隠すように背中へ回している。白い手袋の手首には薄い赤色。

 

「……問題あるだろ、それ」

 

 思わず口から出た。

 

 誰も気に留めない。

 

 画面では、もう次の質問が始まっている。

 

 すぐ近くで、小さな女の子が母親の袖を引いた。

 

「魔法少女って、痛くないの?」

 

「痛いと思うよ」

 

「じゃあ、なんで笑ってるの?」

 

 母親は少し困った顔をした。

 

「みんなが怖がらないようにしてくれてるんじゃない?」

 

「ふーん」

 

 女の子は画面を見上げ、小さく手を振った。

 

「ありがとう」

 

 テレビの向こうへ届くはずもない。

 

 それでも、その一言だけが妙に耳へ残った。

 

「……頑張りすぎだろ」

 

 ハヤトは買い物袋を持ち直し、歩き出した。

 

 数歩。

 

 ふと、鼻の奥に消毒液の匂いが蘇る。

 

「……」

 

 足が止まった。

 

 もちろん商店街に、そんな匂いはしない。

 

 記憶だ。

 

 白い壁。硬い長椅子。夜なのに妙に明るかった病院の廊下。

 

 まだ小さかったハヤトには椅子が高く、足が床へ届かなかった。

 

 隣には父が座っていた。

 

 普段は大きく見えた背中が、その日だけはひどく小さかった。

 

『あの子は助かった』

 

 父はそう言った。

 

 母が助けに戻った子供のことだった。

 

 その後に何を言われたのかは、もうよく覚えていない。

 

 立派だった。

 

 勇敢だった。

 

 人を救った。

 

 きっと、そんな言葉だった。

 

 覚えているのは、膝の上で握られた父の手が小さく震えていたこと。

 

 病室の扉が、いつまで経っても開かなかったこと。

 

 そして、母が二度と家へ帰ってこなかったこと。

 

 何年経っても、そこだけはうまく整理できない。

 

 母が誰かを助けたことを後悔しているわけじゃない。

 

 助かった子供を恨んだこともない。

 

 ただ、人を救ったから立派だった、英雄だった、そこで話を終わらせられるたびに、どうにも引っかかった。

 

 助けに行った人間は。

 

 一番危険な場所へ走った人間は。

 

 誰にも助けてもらえなくていいのか。

 

 昔から胸のどこかに、一つだけ残っている問いがあった。

 

 ヒーローは、人を守る。

 

 なら。

 

 ヒーローは誰が守るんだ。

 

 大型モニターが乱れた。

 

「……?」

 

 画面へノイズが走り、ニュース番組の音楽が途切れる。モニター全面が赤く染まった。

 

『緊急警報』

 

 一瞬で商店街の空気が変わる。

 

『神宿市中央区において大規模魔獣反応を確認。周辺住民は直ちに指定避難施設へ移動してください』

 

「中央区?」

 

 ハヤトは眉を寄せる。

 

 ここだ。

 

 正確には、ここから数区画先。

 

「近っ」

 

 ざわめきが広がった。

 

 すぐに商店街の店員たちが動き始める。

 

「地下避難所はこちらです!」

 

「走らないでください!」

 

「子供を先に!」

 

 防災扉が開き、シャッターが次々と降りる。

 

 人の流れが一斉に変わった。

 

 ハヤトも流れに乗る。

 

 魔獣警報自体は初めてではない。

 

 魔獣が出る。協会が警報を出す。魔法少女が来る。市民は逃げる。

 

 この街では、それが正しい。

 

 自分も逃げればいい。

 

 高校生が魔獣相手にできることなんてない。

 

 ドンッ。

 

 遠くで、腹の底へ響く音がした。

 

 何人もの人間が振り返る。

 

「爆発?」

 

 誰かが言った。

 

 少し遅れて地面が揺れ、吊り看板が左右へ軋んだ。買い物袋の中で牛乳パックが倒れる。

 

「……近いな」

 

 歩調が速くなる。

 

 もう一度。

 

 ドォンッ!

 

 今度は大きかった。

 

 足元から振動が上がってくる。

 

 ビルの向こうで黒煙が膨れ、その煙を切り裂くように白い光が走った。

 

「……え」

 

 ハヤトの足が止まった。

 

「ホワイトリリィ?」

 

 さっきニュースに映っていた。

 

 肩を怪我していた。

 

 血を隠して、問題ないと笑っていた。

 

「今日二回目だろ」

 

 自分でも驚くほど乾いた声が出た。

 

「いやいや……休ませろよ」

 

 誰への文句なのか分からない。

 

 協会か。

 

 魔獣か。

 

 世界か。

 

 全部かもしれない。

 

「君、止まらないで!」

 

 避難誘導員に肩を押された。

 

「あ、はい」

 

 一歩、避難所へ向かう。

 

 そこで。

 

 ビルの向こうから、黒いものがせり上がった。

 

 最初は崩れた建物かと思った。

 

 違う。

 

 頭だ。

 

「……でか」

 

 フェンリル。

 

 巨大な狼がビルの隙間から姿を現した。

 

 一歩踏み込む。

 

 道路が沈み、車が跳ねる。街灯が一本、火花を散らしながら倒れた。

 

「A級だ!」

 

「逃げろ!」

 

 悲鳴が爆発した。

 

 人の流れが速くなる。

 

 その巨体の足元に、あまりにも小さな白い影があった。

 

 ホワイトリリィ。

 

 光の剣を構える。

 

 フェンリルの前脚が沈む。

 

 消えた。

 

 次の瞬間、爪と剣が激突した。

 

 白い身体が宙へ投げ出され、道路を転がる。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 止まった。

 

 ハヤトの喉が鳴る。

 

「……立つな」

 

 少女の指が動いた。

 

「おい」

 

 剣へ手を伸ばす。

 

「もういいだろ」

 

 腕で地面を押す。

 

「立たなくていいって……」

 

 ホワイトリリィは、また立った。

 

 巨狼と、逃げる人々の間へ。

 

 まるで、そこ以外に立つ場所など知らないように。

 

「何やってんだよ……」

 

 分かっている。

 

 あれがヒーローなのだ。

 

 人を守るから。

 

 逃げないから。

 

 誰かが助けを求めたら立つから。

 

 だからみんなは彼女を頼る。

 

 あんな状態でも、誰かが言う。

 

 助けて、と。

 

 フェンリルが口を開いた。

 

 喉の奥に赤黒い光が集まり、空気が震え始める。

 

 ホワイトリリィが光の剣を地面へ突き立てた。

 

 白い障壁。

 

 その後ろには、まだ逃げ切れていない人がいた。

 

 脚を怪我した男。

 

 その肩を支える女性。

 

 泣いて動けなくなっている子供。

 

「……まだいる」

 

 ハヤトの視線が止まった。

 

 フェンリルを倒す。

 

 そんなことはできない。

 

 でも。

 

 あの三人なら。

 

 男の肩くらいなら貸せる。

 

 子供なら抱えて走れる。

 

 あの人たちが逃げれば、ホワイトリリィだってここに残る理由がなくなるかもしれない。

 

「……」

 

 頭の中で、もう一人の自分が叫んでいた。

 

 馬鹿なことをするな。

 

 避難しろ。

 

 正しい場所へ行け。

 

 自分が行ったところで、救助対象が一人増えるだけだ。

 

「分かってるよ」

 

 誰に言われたわけでもない。

 

 自分で、自分に答えた。

 

 白い障壁へ赤黒い奔流が叩きつけられた。

 

 轟音。

 

 熱風。

 

 ホワイトリリィの身体が沈む。

 

 靴底が道路を削り、障壁へ一本、また一本と亀裂が走っていく。

 

 少女の片膝が地面へ落ちた。

 

「……っ」

 

 それでも。

 

 立とうとした。

 

 折れかけた腕で剣を握り直そうとしている。

 

「なんでだよ……」

 

 ここからなら分かる。

 

 肩だけじゃない。

 

 脚も。

 

 腕も。

 

 呼吸も。

 

 全部、限界だ。

 

 なのにまだ立つ。

 

 後ろに人がいるから。

 

 それだけで。

 

「もういいだろ……!」

 

 胸の奥が熱くなった。

 

 腹が立った。

 

 フェンリルに。

 

 こんな状況そのものに。

 

 そして、傷だらけの一人へ全部押しつけたまま逃げようとしている自分自身に。

 

 白い壁の後ろで、子供が泣いている。

 

 ホワイトリリィが一瞬だけ振り返った。

 

 その顔が見えた。

 

 怖かった。

 

 当たり前だ。

 

 あの人だって怖い。

 

 それでも、自分が逃げれば後ろの人間が死ぬから立っている。

 

 その光景が、嫌になるほど記憶と重なった。

 

 白い病院。

 

 震えていた父の手。

 

『あの子は助かった』

 

 母も誰かが残っていたから戻った。

 

 危ないと分かっていて、自分が行かなければその子が死ぬと思ったから。

 

 そして母は帰ってこなかった。

 

 あの時。

 

 ハヤトは子供だった。

 

 何もできなかった。

 

 ただ待っていた。

 

 誰かが母を助けて連れて帰ってくれることを。

 

 でも。

 

 帰ってこなかった。

 

 人を助けに行った人間は。

 

 一番危険なところへ走った人間は。

 

 どうして、最後まで一人なんだ。

 

「……嫌だ」

 

 小さく声が出た。

 

 目の前で。

 

 また同じことが起きようとしている。

 

 自分ではフェンリルを倒せない。

 

 そんなことは最初から分かっている。

 

 なら。

 

 倒さなくていい。

 

 後ろの人を逃がす。

 

 一人担ぐ。

 

 子供を抱える。

 

 叫んで注意を引く。

 

 石でも何でも投げて、一秒だけでも怪物の目を逸らす。

 

 その一秒で。

 

 誰か一人でも逃げられるなら。

 

「俺でも……できるだろ」

 

 勝つ必要はない。

 

 ヒーローになる必要もない。

 

 ただ。

 

「あの人を、一人にしなきゃいい」

 

 右足が動いた。

 

 一歩。

 

 人の流れと逆へ。

 

「……っ」

 

 二歩。

 

 避難所から離れている。

 

「俺、何やってんだ……」

 

 怖い。

 

 今すぐ戻りたい。

 

 でも今度は、足を止めなかった。

 

「君! そっちじゃない!」

 

 誘導員の声が飛ぶ。

 

「知ってます!」

 

「戻れ!」

 

「それも知ってます!」

 

 走る。

 

 瓦礫を飛び越える。

 

 買い物袋が脚へぶつかった。

 

「邪魔!」

 

 手放した。

 

 袋がアスファルトへ落ちる。

 

 焼き魚弁当。

 

 豆腐。

 

 牛乳。

 

 卵。

 

 本日の夕飯と明日の朝飯。

 

 一瞬だけ振り返る。

 

「……くそ、牛乳!」

 

 ちょっと惜しい。

 

「今じゃねぇ!」

 

 前を向いた。

 

 爆風が正面からぶつかる。

 

「っ!」

 

 熱い。

 

 砂埃が目へ入り、口の中がざらついた。

 

 息を吸うたび喉が痛む。

 

 それでも走る。

 

 近づけば近づくほど、フェンリルの大きさが現実になる。

 

 爪一本が人間より長い。

 

 牙は自分の胴より太い。

 

 吐息だけで道路脇のゴミ箱が転がる。

 

「……マジかよ」

 

 脚が震えた。

 

 歯まで鳴りそうになる。

 

「こんなの相手にしてんのかよ……!」

 

 ホワイトリリィを見る。

 

 さらに腹が立った。

 

 こんなものを。

 

 一人で。

 

 傷だらけで。

 

「ふざけんな……!」

 

 誰に向けた言葉なのかは分からない。

 

 ただ走った。

 

 フェンリルを倒しに来たわけじゃない。

 

 ホワイトリリィの後ろへ行く。

 

 残っている人を逃がす。

 

 それが終わったら。

 

 あの人にも逃げろと言う。

 

 聞かなかったら。

 

「引きずってでも連れてく……!」

 

 どうやって。

 

 知らない。

 

 自分よりずっと強い人だ。

 

 それでも何もしないよりはいい。

 

 白い障壁が砕けた。

 

 光が夕空へ散る。

 

「っ!」

 

 ホワイトリリィが剣を持ち上げようとする。

 

 腕が上がらない。

 

 本当に。

 

 もう限界だ。

 

「おい!」

 

 ハヤトが叫んだ。

 

 少女がこちらを見る。

 

「もういい!」

 

 走る。

 

「後ろの人は俺がやる!」

 

 届いたかは分からない。

 

 それでも叫ぶ。

 

「だから、お前も逃げろ!」

 

 ホワイトリリィの目が見開かれた。

 

 その顔に浮かんだものが驚きだったのか、呆れだったのか、ハヤトには分からなかった。

 

 フェンリルの巨大な爪が持ち上がる。

 

 間に合わない。

 

 まだ遠い。

 

 子供にも。

 

 リリィにも。

 

 届かない。

 

「くそっ!」

 

 ハヤトは手を伸ばした。

 

 何の意味もない。

 

 届く距離ですらない。

 

 そんなことは分かっている。

 

 それでも。

 

 また、誰かを助けようとした人間が。

 

 自分の目の前で。

 

 一人で死ぬのだけは。

 

「嫌なんだよ……!」

 

 手を伸ばす。

 

 その瞬間。

 

『適合者を確認』

 

「……は?」

 

 声がした。

 

 女の声。

 

 冷たい。

 

 妙に落ち着き払った声。

 

 悲鳴と爆音に満ちた戦場には、あまりにも似つかわしくない。

 

「誰だ!?」

 

『照合中』

 

「どこに――」

 

 道路の亀裂から、銀色の球体が浮かび上がった。

 

「……何だ、それ」

 

 泥も埃も付着していない。

 

 中央の赤いレンズだけが静かにこちらを向いている。

 

『個体識別。天城ハヤト』

 

 背筋が冷えた。

 

「なんで名前知ってんだよ」

 

『BRAVE SYSTEMへの適合を確認』

 

「だから話聞け!」

 

『緊急契約手続へ移行します』

 

「契約!?」

 

 球体から光が広がった。

 

 一瞬、人の輪郭を取る。

 

 銀色の髪。

 

 赤い瞳。

 

 少女の姿をした光像。

 

 表情らしい表情はない。

 

 その姿を認識した直後、ハヤトの目の前を大量の文字列が埋め尽くした。

 

「……は?」

 

 第一条。

 

 第二条。

 

 第三条。

 

 生命維持。身体変換。疑似魔力。損傷。後遺症。

 

「待て待て待て!」

 

 スクロールしても終わらない。

 

『全四百八十六項目です』

 

「多いわ!」

 

 背後で金属音がした。

 

 ホワイトリリィの剣が道路へ落ちる。

 

 ハヤトの顔から血の気が引いた。

 

「これ使えば!」

 

 光像を見る。

 

「俺、戦えるのか!?」

 

『肯定』

 

「アイツを助けられる?」

 

 一瞬だけ、返答が遅れた。

 

『可能性は存在します』

 

 それで十分だった。

 

「貸せ!」

 

『規約への同意が必要です』

 

「同意する!」

 

『内容を確認してください』

 

「四百八十六項目読んでたらあの人死ぬだろ!」

 

『重要事項です』

 

「お前、今それ言う!?」

 

 フェンリルの影がホワイトリリィを覆う。

 

 ハヤトは目の前の文字列を両手でまとめて払った。

 

「分かった!」

 

 何に対して怒鳴っているのか、自分でも分からない。

 

「怪我するかもしれない!」

 

『はい』

 

「死ぬかもしれない!」

 

『はい』

 

「身体がおかしくなるかもしれない!」

 

『はい』

 

「それでも!」

 

 ホワイトリリィを見る。

 

 傷だらけで。

 

 腕も上がらなくて。

 

 それでも最後まで誰かを庇っている。

 

 病院の廊下。

 

 震えていた父の手。

 

 帰ってこなかった母。

 

 胸の奥にずっと残っていた問いが浮かんだ。

 

 人を守る人間がいる。

 

 みんなが、その人を頼る。

 

 なら。

 

「あの人は……」

 

 誰が助ける。

 

 ヒーローは。

 

 誰が守る。

 

 誰かじゃない。

 

 もっと強い人間でもない。

 

 今。

 

 ここには。

 

 自分がいる。

 

「……だったら」

 

 ハヤトはホワイトリリィを見た。

 

 怖い。

 

 死にたくない。

 

 何が起きるのかも分からない。

 

 それでも拳を握る。

 

「今ここにいる俺が、守ればいいだろ!」

 

 文字列を見る。

 

「全部承認する!」

 

『最終確認。身体構造の変更、重大な負傷、後遺症、および死亡の可能性を含む全項目へ同意しますか』

 

「ああ!」

 

 一歩、前へ。

 

「やれ!」

 

『承認を確認』

 

 赤い粒子が舞い上がった。

 

 光がハヤトの腰へ集束する。

 

 金属同士が噛み合う音。

 

 銀。

 

 黒。

 

 そして中央に、心臓のように脈打つ赤い人工コア。

 

 見たこともない装置が腰へ固定された。

 

 ドクン。

 

 自分の鼓動。

 

 ドクン。

 

 装置の鼓動。

 

 二つが重なる。

 

『BRAVE SYSTEM』

 

 フェンリルの爪が振り下ろされる。

 

 ホワイトリリィはもう動けない。

 

 ハヤトは腰の装置へ手を掛けた。

 

「間に合え……!」

 

 銀色の少女。

 

 後にアストラと名乗る存在が告げる。

 

『Stand by』

 

 赤い光が溢れ出す。

 

 指先が熱い。

 

 心臓が痛いほど鳴っている。

 

 怖い。

 

 それでも。

 

 ハヤトは最後まで、傷ついた英雄から目を逸らさなかった。

 

 そして。

 

 真紅の光が、世界を呑み込んだ。




第一話、読んでいただきありがとうございました!
感想・評価などいただけると励みになります。
次回――初変身、そして初戦闘。
その名は、ブレイヴ。
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