ヒーローを守りたかっただけなのに、魔法少女になった 作:冷凍マカロン
赤い光の向こうで、何かが砕けた。
続いて、少女の短い悲鳴が聞こえた。
「――っ!」
何も見えない。自分の身体がどうなったのかも、足が地面についているのかさえ分からない。ただ、倒れたホワイトリリィの姿だけが頭から離れなかった。
「間に合え……!」
『BRAVE SYSTEM、接続完了。Type Striker』
「間に合えっ!」
赤い世界を蹴った。その瞬間、両腕のあたりで爆発音が鳴った。
「え――」
身体が前へ持っていかれる。踏み込んだつもりだったのに、足で走る速度ではない。背中を巨大な何かに蹴飛ばされたような加速に視界が潰れ、赤い光を突き破った。
壊れた道路。横転した車。火花を散らす信号機。粉塵の向こうで、フェンリルの前脚が振り上げられていた。その下には、白い少女がいる。
「やめろぉぉぉっ!」
考える暇はなかった。気づいた時には、フェンリルの横顔が目の前にある。
拳を握る。喧嘩なんてまともにしたこともない。殴り方も知らない。それでも、あの爪をもう一度ホワイトリリィへ届かせるのだけは嫌だった。
右拳を、横から思い切り叩きつけた。
黒銀のガントレットがフェンリルの頬を捉える。拳の先で、岩みたいな骨と肉がひしゃげる感触がした。
次の瞬間、巨体が吹き飛んだ。
「……は?」
フェンリルは道路を横向きに転がり、停車していた車の側面へぶつかった。それでも止まらず、車体ごと数メートル押し流してようやく止まる。砕けたガラスが夕陽を散らし、遅れて金属の潰れる音が耳に届いた。
ハヤトは拳を振り抜いたまま、自分の右手を見た。
「俺が……やったのか?」
『有効打を確認』
あんな巨体を、自分が。右腕には重い衝撃が残っている。それでも骨は折れていない。
「この力があれば……」
怖さが消えたわけじゃない。それでも、さっきまで手も足も出なかった怪物が道路の向こうで倒れている。
「俺でも、あいつを倒せるかもしれない……!」
「あの……!」
振り向くと、ホワイトリリィが片手を地面について身体を起こしていた。白い衣装は泥と血で汚れ、腕も脚も傷だらけだ。近くで見ると、立ち上がろうとしていること自体がおかしいほど消耗している。
「ありがとう……ございます。助けてくれて」
その言葉で、ようやく実感した。間に合った。
「……よかった」
「え?」
「いや、なんでもない。それより」
ホワイトリリィが剣へ手を伸ばす。ハヤトは反射的にその前へ出た。
「あんたは負傷してるんだ。もう休んでてくれ」
「でも、フェンリルはA級です。あなた一人では――」
「大丈夫」
何の根拠もない。たった一発、たまたま当たっただけだ。それでも弱気なことを言えば、この少女はまた立ち上がる気がした。
道路の向こうでフェンリルが起き上がる。赤い瞳が、今度はホワイトリリィではなくハヤトを睨んでいた。
標的が変わった。それでいい。
「こいつは俺が倒す!」
自分にも言い聞かせるように叫び、ハヤトは前へ出た。
「待ってください! 単独でA級と戦うのは危険です!」
背後でホワイトリリィが立とうとした気配がした。直後、剣が路面へ当たる硬い音がする。
「ぐっ……!」
振り返りそうになるのを堪えた。今は、前を向く。
フェンリルと向かい合う。
さっきは殴れた。なら、もう一度。
拳を構えたところで、両腕のガントレットから薄く熱が立っていることに気づいた。
「アストラ。さっき俺を飛ばしたの、何?」
『ブースターです。両腕に装備されています』
「ブースター……」
ガントレットの外側に筒状の機構があり、内部で赤い光が脈打っている。
格好いい。こんな状況で思うことではない気もするが、格好いいものは格好いい。
『接近』
「っ!」
フェンリルの姿勢が沈んだ。
来る。
「来い!」
地面を蹴った。
そう思った瞬間。
消えた。
「……え?」
黒い身体が視界から消えた。左右へ目を振る。見つからない。
次に感じたのは、生臭い息だった。
「っ!?」
目の前に、牙がある。
大きすぎて口の中しか見えない。
「うわっ!」
考えるより先に、両腕へ力を込める。ブースターが爆ぜ、身体が真横へ吹き飛んだ。牙が空を噛む音を聞いた直後、今度は別の恐怖がやってくる。
「止まれ、止まれって!」
止まらない。
横向きのまま道路を滑るように飛び、その先に乗用車が迫る。
「うそだろ――!」
ガシャァン、と派手な音を立てて窓ガラスへ背中から突っ込んだ。
「いっ……てぇ……!」
後部座席へ半分埋まりながら呻く。頑丈になっていても痛いものは痛い。背中をさすろうとして、砕け残った窓ガラスに映るものが目に入った。
知らない少女がいた。
「……誰?」
銀色の長い髪、赤い瞳、黒と銀の戦闘服。どう見ても自分の顔ではない。
首を傾げると、向こうも傾げた。手を上げれば、同じように上がる。
「…………」
嫌な予感がして、自分の頬に触れる。柔らかい。顎の輪郭も違う。視線を下げると、制服ではない黒銀のスーツ、その先にどう見ても昨日まで存在しなかった膨らみがある。
「待て」
『フェンリル、旋回』
「待って。なんで見た目変わってんだよ!?」
『戦闘用サブボディです』
「魔法少女になる前に女になってるじゃねぇか!」
『規約に記載済みです』
「どこに!?」
『第二百八十六項以降――』
「四百八十六条ある規約の真ん中に入れるな、そんな大事なこと!」
『接近』
「くそっ!」
文句は後だ。死んだら性別どころではない。
車から飛び出した瞬間、黒い影が迫る。
「見えない……!」
『右後方』
振り向く。遅い。
爪がガントレットを叩き、身体ごと道路へ転がされた。肩が焼けるように痛む。起き上がった時には、またフェンリルがいない。
「速すぎるだろ……!」
正面に影。
今度は早めに反応した。ブースター起動させる。
「上なら!」
噴射で身体が一気に浮き上がる。避けられた、と思った途端、視界の端で黒い尾がしなった。
「え」
脇腹を横から殴り抜かれた。
「がっ!」
空中で身体が回る。空と地面が何度も入れ替わり、何も掴めないまま背中から道路へ叩きつけられた。
「かっ……!」
肺から空気が抜けた。目の奥が白くなる。
立たなきゃと思うのに、すぐには身体が動かなかった。さっきまでの高揚が、一発で消えている。
「……くそ」
腕で身体を起こす。背中も脇腹も痛い。強くなったのは間違いない。あの巨体を殴り飛ばせるくらいには。
でも、当たらない。
「最初の一発以外……何もできてない」
最初はフェンリルがホワイトリリィだけを見ていた。横から飛び込んだから殴れた。今は違う。向こうがこっちを見ているだけで、触れることすらできない。
フェンリルがこちらへ身体を向けた。低い姿勢。次も来る。そう分かっているのに、どちらへ飛ぶのかが分からない。
「高速移動、反則だろ……」
『解析完了』
「……何か分かった?」
『加速直前、右肩が低下します』
「右肩……?」
ハヤトはフェンリルを見る。
走った後を追うから見えない。なら、走る前なら。
視線を右肩へ絞る。フェンリルの身体全体を見るのをやめた。爪が路面を擦る音、喉の奥の唸り、自分の荒い呼吸が妙に近く聞こえる。
右肩が沈んだ。
「今だ!」
フェンリルが消えるより先にしゃがみ込む。
頭上を黒い巨体が通過した。毛皮が風を裂き、その腹が一瞬だけ視界いっぱいに広がる。
「いた!」
ハヤトは両腕を地面へ向けた。
「上だ!」
ブースターが爆ぜる。
身体が真上へ撃ち出され、両拳がフェンリルの腹へ突き刺さった。巨体が持ち上がり、四本の脚が地面を離れる。
フェンリルがもがいた。
爪が空を掻く。
そこで気づいた。
「そうか……!」
地面があるから、あいつは速い。蹴って、走って、方向を変える。
「空中じゃ、足場がない!」
今なら逃げられない。
ハヤトは左拳を振り抜いた。頬へ当たる。首が揺れた。その反動で自分の身体も流れかけるが、右腕のブースターを短く噴かして姿勢を戻す。
「こうか……!」
今度は右。腹へ一発。
左の噴射で身体を寄せる。殴るたび自分も弾かれるが、そのたび反対のブースターで戻る。最初はただ飛ぶだけだった推進器が、少しずつ自分の手足になっていく。
「まだ!」
フェンリルが尾を振ろうとする。空中では踏ん張れない。動きが地上ほど鋭くない。
ハヤトは両腕を引き、最後にブースターを同時に噴かした。
「落ちろぉぉっ!」
両拳が胸元へ叩き込まれた。
巨体が真下へ落ちる。
轟音とともに道路が沈み、粉塵が大きく広がった。
「っ……!」
ハヤトも落下する。地面が迫り、慌てて両腕を下へ向けた。今度は全開にしない。短く、弱く。
噴射が身体を支え、膝を深く曲げながらも立ったまま着地できた。
「……できた」
自分の両腕を見る。
初めて、思った通りに動いた。
「よし……!」
偶然じゃない。
見て、考えて、自分で当てた。
粉塵の奥で赤い光が二つ灯った。
「……まだ立つのかよ」
フェンリルが起き上がる。口元から黒い液体を垂らし、身体のあちこちから煙を上げている。それでも赤い瞳だけは死んでいない。
唸り声が低くなった。
『警戒』
「してる」
フェンリルが大きく口を開く。
牙の奥に、赤黒い光が集まり始めた。
「……何だ、あれ」
『高密度エネルギー反応』
皮膚が粟立つ。空気そのものが熱を帯び、喉の奥が乾く。
『回避』
「っ!」
光が弾けた。
ハヤトは右腕を横へ向け、ブースターを噴射する。身体が射線から外れた直後、赤黒い光線がすぐ横を通過した。
触れていない。
なのに、顔が焼けるように熱い。
「危な――」
背後で爆発が起きた。
振り向く。
建物の一角が抉られていた。壁が遅れて崩れ落ち、炎と黒煙が吹き出す。
「……マジかよ」
さっきまでの手応えが一気に遠のいた。あれをまともに食らえば、この身体でもどうなるか分からない。
フェンリルがもう一度口を開いた。
「また!?」
横へ逃げようとした。
その時、道路脇の看板が目に入る。
臨時避難所。
矢印の先は学校の体育館だ。ここへ来る途中、何人もの人が同じ方向へ逃げていた。泣いていた子供も、杖をついた老人もいた。
フェンリル、自分、その後ろ。
「……おい」
射線が一直線につながった。
『後方に多数の生命反応』
アストラの声が耳へ届く。
横へ飛べば、自分は助かる。その先は。
「…………」
ハヤトは横へ向けかけた腕を下ろした。
『回避可能です』
「俺はな」
口の中が乾く。
さっきの爆発を見た。
食らったら痛い、では済まない。
怖い。何が来るのか分かっている。その上で逃げないと決めると、足が震えた。
それでも、両腕を胸の前で交差させる。
「後ろは避けられないだろ」
フェンリルの喉が赤く染まる。
ハヤトは歯を食いしばった。
「来い……!」
赤黒い光線が放たれた。
直撃。
「ぐっ――!」
音が消えた。
熱と衝撃だけが押し寄せる。ガントレット越しでも腕が焼け、肩が抜けそうになる。靴底がアスファルトを削り、身体が少しずつ後ろへ押されていく。
「う、あああああっ!」
『装甲温度上昇』
「分かってる……!」
逃げれば楽になる。横へ飛べばいい。頭では分かっている。でも、その瞬間に後ろへ光が通る。
「ここ……通したら……!」
腕が震える。視界が滲む。ガントレットの表面に赤い亀裂のような光が走った。
「何のために……来たんだよ!」
光線が途切れた。
ハヤトの身体が前へ傾ぐ。
「はっ……はっ……」
黒銀のスーツから煙が上がっている。ガントレットの表面は焦げ、腕の感覚も薄い。
それでも。
後ろで爆発は起きなかった。
「……よし」
膝をつく。
ほんの少しだけ、笑いそうになった。
次の瞬間。
フェンリルが、また口を開いた。
「……嘘だろ」
赤黒い光が集まり始める。
立て。
右手を地面につく。
「動け……!」
脚に力を入れても身体が上がらない。もう一発は受け切れない。それでも分かっていて、退けなかった。
「くそ……!」
「ブレイヴ!」
白い光が横から飛び込んだ。
「……え?」
ホワイトリリィがハヤトの前へ滑り込み、剣を道路へ突き立てた。彼女の足元から白い光が咲き、巨大な花弁のような障壁が二人の前に広がる。
直後、二発目の光線が激突した。
「くっ……!」
白い壁が軋む。
ホワイトリリィの肩が震えている。膝も今にも折れそうだ。
「何してんだよ! あんた、もう――」
「あなたにだけは言われたくありません!」
「……!」
「こんなになるまで一人で受けて……!」
障壁に亀裂が走る。
それでも彼女は剣を離さない。
「一人で全部、守ろうとしないでください!」
その言葉が胸に刺さった。さっき自分が彼女へ「休んでいろ」と言ったばかりなのに、今度は自分が同じことをされている。
「……悪い」
「謝るなら、あとでお願いします!」
ホワイトリリィが剣の角度を変えた。白い障壁が傾き、真正面から受けていた光線が少しずつ上へ滑っていく。
「受け止め続けるのは無理です。でも――」
白い光が強くなる。
「逸らすだけなら!」
障壁の端が砕けた。
同時に、赤黒い光線が大きく上空へ跳ね上がる。雲の下を赤く照らし、そのまま夜空へ消えていった。
「今です!」
ハヤトは顔を上げた。
フェンリルは光線を吐き切った直後で、頭が高く上がっている。口元から赤黒い光が漏れ、動きも一瞬止まっていた。
今しかない。
両腕を見る。
焦げたガントレット。
ブースター。
最初は勝手に飛ばされ、次は車に突っ込み、上へ逃げれば尻尾で叩き落とされた。それでも空中で反動を抑え、着地にも使った。失敗した分だけ、少しずつ分かってきた。
「アストラ」
『はい』
「両方、まだ動く?」
『稼働可能』
「十分」
ハヤトは立ち上がった。脚は震えている。右腕も上げるだけで痛い。
でも、さっきまでとは違う。
ブースターが何をするものなのか。
ようやく分かる。
「今度は、俺が使う」
両腕を後ろへ構える。
「フルブースト!」
轟音とともに道路が弾け、身体が前へ撃ち出された。
速い。
視界が引き伸ばされる。
それでも、今度は目を閉じない。
右の噴射を弱めると身体が左へ流れ、左を強めれば戻る。
「いける……!」
フェンリルが爪を振り上げた。
右肩が沈む。
来る。
ハヤトは先に左へ噴射した。爪が頬のすぐ横を通る。銀髪が風圧で大きく舞った。
そのまま右を噴かして懐へ飛び込む。
巨大な牙。
その下。
顎。
「三度目は――」
左腕を後方へ。
短く噴射。
身体が回る。
腰が回り、肩が入り、右拳へ力が集まる。
「撃たせない!」
右ブースター最大出力。
アッパー。
拳がフェンリルの下顎へ突き刺さった。
鈍い衝撃が腕を駆け上がる。
「おおおおおっ!」
フェンリルの頭が跳ね上がった。前脚が地面から離れ、口の中に残っていた赤黒い光が飛沫のように散る。
巨体が背中から道路へ落ちた。
ズン、と足元が揺れる。
ハヤトも着地した。右腕の感覚が薄い。肩も痺れている。
それでも。
「効いた……!」
フェンリルが起き上がろうとする。
前脚をつく。
滑る。
もう一度。
身体がふらつく。
『胸部に高密度反応』
「胸?」
呼吸に合わせて黒い毛皮が上下している。その隙間から、赤黒い結晶のようなものが一瞬だけ見えた。
『魔核と推定』
「……あれか」
ハヤトは息を整える。
弱点。
ようやく見えた。
でもフェンリルも、まだ終わる気はないらしい。脚を震わせながら立ち上がり、こちらを睨む。口の端から黒い液体を垂らし、低い唸りを上げた。
今だって怖い。痛いし、腕もまともに上がらない。もう一度あの牙を食らえば、今度こそ終わるかもしれない。
それでも。
後ろから、ホワイトリリィの荒い呼吸が聞こえた。
もっと後ろには避難所がある。
ここまで来た理由は、もう十分だった。
『今です』
「……ああ」
右拳を握る。
ガントレットの奥で、低い駆動音が鳴った。
『Final Attack』
赤い光が右腕へ集まっていく。
フェンリルも身を沈めた。
最初は見えなかった動き。
今は、右肩が落ちるのが分かる。
『Approved』
ハヤトは息を吸った。
ヒーローになりたかったわけじゃない。怖いものは怖いし、痛いのも嫌だ。明日になれば学校もあるし、今日落とした買い物だって惜しい。
それでも、あの白い少女が倒れているのを見た時だけは、見なかったことにできなかった。
「……来い」
フェンリルが加速した。
黒い巨体が視界から消えかける。
でも。
もう、最初とは違う。
肩、脚、重心。走り出す前を見ている。
ハヤトも踏み込んだ。
『BRAVE FINISH』
ブースターが爆発する。
「うおおおおおおおっ!」
正面から突っ込む。
爪が来る。
半歩、内側。
牙が開く。
そこへ身体ごと滑り込む。
狙うのは一つ。
胸。
赤黒い結晶。
「そこだぁぁぁっ!」
右拳が魔核へ激突した。
硬い。拳が止まり、腕の骨が軋んだ。
「ぐっ……!」
フェンリルの巨体に押され、靴底が道路を削る。
『右腕負荷、上昇』
「まだ……!」
牙が迫る。
近い。
獣臭い息が顔へかかる。
怖い。
それでも、ここで引いたら終わる。
「まだだ!」
右ブースターが唸り、拳を押し込む。魔核の表面に細い亀裂が走った。
「いけ……!」
もう一度、噴射。
肩が悲鳴を上げる。
視界が滲む。
それでも拳は離さない。
「いけぇぇぇぇぇっ!」
亀裂が枝分かれし、赤黒い光がその隙間から漏れ出す。
そして、魔核が砕けた。
赤黒い光が爆発する。
「――っ!」
咆哮が街を震わせた。
フェンリルの身体から力が抜ける。爪が崩れ、牙が光へ変わり、黒い毛皮が粒子となって風へほどけていく。
最後までこちらを睨んでいた赤い瞳も、やがて消えた。
遠くで火が弾ける音や警報が戻ってくる。巨大な狼がいた場所には、もう何も残っていなかった。
『討伐を確認』
「…………」
ハヤトは震える右手を見た。
「……勝った?」
『肯定』
「……そっか」
そこで、全身から力が抜けた。
「あ」
膝が折れ、その場へ尻もちをつく。
「いっ……てぇ……」
身体中が痛い。ガントレットはひびだらけで、黒銀のスーツにも焦げ跡が残っている。銀髪も煤で汚れていた。
勝った直後くらい、もう少し格好よく立っていたかった。
「……まあ、いいか」
ホワイトリリィも、後ろの人たちも生きている。それで十分だった。
「ブレイヴ!」
顔を上げる。
ホワイトリリィが、剣を杖代わりにしながら歩いてくる。
「おい、無理すんな!」
「それをあなたが言うんですか?」
「いや、俺は……」
立ち上がろうとして膝が笑った。
「っと……」
「大丈夫ですか!?」
「それ、俺が聞こうとしてたんだけど」
どうにか立つ。
ホワイトリリィを見る。
「大丈夫か?」
彼女は一度瞬きをしてから、ハヤトを上から下まで見た。焦げたスーツ。ひび割れたガントレット。傷だらけの身体。
「……あなたの方が、ずっとボロボロじゃないですか」
「…………確かに」
「確かに、じゃありません」
少しだけ怒った声だった。
でも、その後に表情が柔らかくなる。
「ありがとうございました」
「……うん」
「助けてくれて。本当に」
真正面から言われると、どう返せばいいのか分からない。
「まあ……助かったなら、よかった」
結局、それしか出なかった。
遠くからサイレンが聞こえてくる。
ハヤトが顔を上げると、赤色灯が交差点の向こうへ見え始めていた。
「……何?」
『複数車両、接近』
「協会の救援です」
ホワイトリリィが答えた。
「協会……」
ハヤトは自分の身体を見る。
銀髪、赤い目、どう見ても女。黒銀の戦闘服に両腕のガントレット。しかも傷だらけで、説明できることが一つもない。
『撤退を推奨』
「……それは同意」
「え?」
ハヤトは踵を返した。
「じゃ、俺帰る」
「待ってください!」
「悪い。色々説明できない!」
「そんな身体でどこへ行くんですか!?」
「家!」
「そういう意味ではありません!」
正論が背中へ刺さる。
でも、サイレンは近づいている。
「ごめん! またな!」
「待って!」
ホワイトリリィの声に足を止めた。
「せめて、名前だけでも教えてください!」
「名前……?」
そういえば、この姿には名前がない。
天城ハヤトと名乗るわけにもいかない。どう見ても説得力がない。
頭の中に、さっきから何度も聞いた言葉が浮かんだ。
BRAVE SYSTEM。
「……ブレイヴ」
「え?」
自分で口にしてみる。直球すぎて少し恥ずかしい。でも、今の自分には妙にしっくりきた。
「俺は、ブレイヴだ」
「ブレイヴ……」
「ああ。じゃあな!」
「待ってください、ブレイヴ!」
名前を呼ばれた。
自分の名前じゃないのに、自分のことだと分かる。変な感じだった。
「……悪くないな」
ハヤトは走った。
ブースターは使わない。今の身体でまた車へ突っ込むのは勘弁だった。
人目のない路地まで来たところで、壁へ手をつく。
「アストラ。これ、戻せる?」
『変身解除を実行します』
赤い光が身体を包んだ。
黒銀の装甲がほどけ、身体の重心が変わる。背中を流れていた銀髪の感覚が消え、視界の高さも僅かに戻った。
光が収まる。
制服姿の自分の手があった。
「……戻った」
『変身解除を確認』
それだけ告げて、アストラは黙った。
静かになった途端、身体の重さが一気に戻ってきた。
「……っ」
一歩踏み出しただけで膝が抜けそうになる。
背中も脇腹も痛い。腕を持ち上げれば肩の奥が鈍く疼く。変身を解けば全部元通り、なんて都合のいい話ではなかったらしい。何より、頭の芯から電源を切られかけているように眠かった。
ハヤトは壁へ手をついた。
「……帰れるかな、これ」
『歩行可能です』
「そっか……」
それ以上、会話を続ける気力もなかった。
人気のない路地を抜け、いつもの帰り道を歩く。信号で止まるたび電柱へ肩を預けた。コンビニの明かりも見えたが、寄るための数十歩すら惜しい。
「……今日は、いいや」
ついさっきまで巨大な魔獣と殴り合い、空を飛び、女の姿になっていた。それなのに帰り道はいつも通りで、どこかの家から夕飯の匂いまで漂ってくる。誰も、この数十分で自分の人生がめちゃくちゃになったことなんて知らない。
ようやくアパートが見えた。手すりを掴んで階段を上るたび、脚が重くなる。
「……二階って、こんな遠かったっけ」
座り込みたくなったが、今止まれば動けなくなる気がした。
部屋の前まで辿り着き、鍵を差す。
外した。
「……くそ」
二度目で入った。
玄関を開ける。
「ただいま……」
返事はない。
いつも通りだ。
『帰宅を確認』
「……まだいるんだな、お前」
『はい』
「そっか」
靴を脱ぐ。片方を脱いだところで壁へ肩をぶつけ、もう片方はほとんど蹴り飛ばした。
六畳の部屋は朝と何も変わっていない。開きっぱなしの教科書も、脱ぎ捨てた部屋着も、そのままだ。
それを見た瞬間、張り詰めていたものが切れた。
「……もう無理」
鞄を床へ落とす。
飯も風呂も着替えも、全部明日でいい。
ベッドまでの数歩だけ何とか歩き、そのまま制服姿で倒れ込んだ。スプリングが身体を受け止めた瞬間、背中の痛みが戻ってきたが、起き直す気にはなれなかった。
『休息を推奨します』
「……してる」
返事をしたところまでは覚えている。
フェンリルの牙、赤黒い光、ホワイトリリィの白い背中、砕けたガラスに映った銀髪の少女。今日起きたことが頭の中に浮かんでは消えるが、整理する余裕はなかった。
天城ハヤトは、その日の出来事を理解するより先に、気絶するように眠りへ落ちた。