ヒーローを守りたかっただけなのに、魔法少女になった   作:冷凍マカロン

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誕生!魔法少女ブレイヴ!

 

 

 赤い光の向こうで、何かが砕けた。

 

 続いて、少女の短い悲鳴が聞こえた。

 

「――っ!」

 

 ホワイトリリィ。

 

 ハヤトは咄嗟に手を伸ばした。しかし、自分の指先さえ見えない。身体がどうなっているのかも、足が地面についているのかさえ分からなかった。

 

 ただ、フェンリルの足元に倒れていた少女の姿だけが頭から離れない。

 

「間に合え……!」

 

『BRAVE SYSTEM、接続完了』

 

 赤い粒子が全身を包み込んだ。

 

 指先から熱が広がり、黒い装甲が両腕を覆っていく。胸元では銀色のプレートが噛み合い、真紅のラインが全身を走る。

 

 そして、両腕に一際大きなガントレットが装着された。

 

『Type Striker』

 

「間に合えっ!!」

 

 赤い世界を蹴った。

 

 直後、両腕から爆発音が鳴り響く。

 

「え――」

 

 身体が前へ持っていかれた。

 

 走り出したつもりだった。しかし、足が地面を蹴るより早く、背中を巨大な何かに蹴飛ばされたような加速が襲ってくる。

 

「うわああああっ!?」

 

 真紅の光を突き破った。

 

 壊れた道路。横転した車。火花を散らす信号機。

 

 その向こうには、巨大な黒い影。

 

 フェンリルだ。

 

 巨狼の足元では、ホワイトリリィが倒れた姿勢のまま光の剣を掲げていた。辛うじて展開した薄い障壁が、振り下ろされた爪を受け止めている。

 

 だが、白い光は今にも砕けそうだった。

 

「やめろぉぉぉっ!!」

 

 気づいたときには、フェンリルの横顔が目の前に迫っていた。

 

 巨狼の赤い瞳が動く。

 

 突然現れたハヤトに気づいたらしい。

 

 だが、もう止まれない。

 

「うおおおおっ!!」

 

 右拳を思い切り叩きつけた。

 

 ガァァンッ!!

 

 岩を殴ったような衝撃が肩まで突き抜ける。直後、ガントレットの外側から真紅の炎が噴き出した。

 

 ドゴォォンッ!!

 

 フェンリルの巨体が横へ弾き飛ばされた。

 

 黒い巨狼は道路を転がり、停車していた車へ激突する。その車体ごと数メートル押し流し、最後に爪を路面へ突き立てて停止した。

 

 砕けたガラスが夕日を反射する。

 

 遅れて、金属の潰れる音が響いた。

 

「…………は?」

 

 ハヤトは拳を振り抜いた姿勢のまま固まった。

 

 黒銀のガントレット。

 

 その外側から、赤い光と薄い煙が立ち上っている。

 

「俺が……やったのか?」

 

『有効打を確認』

 

 ついさっきまで、生身では何もできなかった相手だ。

 

 それを、自分が殴り飛ばした。

 

「……マジかよ」

 

 思わず口元が緩んだ。

 

 右腕には衝撃が残っていたが、それさえも今は興奮の方が勝っていた。

 

『警告。初回噴射において過剰な出力を検出しました』

 

「……過剰?」

 

『推進力の制御が不十分です。疑似魔力を過剰に消費しています』

 

「えっと……つまり?」

 

『現在の使用方法を継続することは推奨しません』

 

「……マジ?」

 

 格好よく殴り飛ばしたつもりだった。

 

 どうやら、相当無茶苦茶な使い方をしたらしい。

 

「あの……!」

 

 背後から声が聞こえた。

 

 振り返ると、ホワイトリリィが左手を地面について身体を起こしていた。

 

 近くで見ると、負傷の程度がよく分かる。白い衣装は泥と血で汚れ、右肩には赤い染みが広がっていた。右腕を動かそうとするたびに顔を歪めている。

 

「ありがとう……ございます」

 

「……あ」

 

「助けてくれて……」

 

 その言葉で、ようやく実感した。

 

 間に合った。

 

「……よかった」

 

「え?」

 

「いや、なんでもない! それより、あんたは休んでてくれ!」

 

 ホワイトリリィは左手で光の剣を握り直した。

 

「ですが、フェンリルはA級です。あなた一人では……!」

 

「大丈夫!」

 

 即答したものの、根拠なんてなかった。

 

 たった一発、横から殴っただけだ。それでも弱気なことを言えば、この少女は間違いなくまた立ち上がる。

 

「ここからは俺に任せろ!」

 

 フェンリルへ向き直る。

 

 黒い巨体は、すでに起き上がっていた。

 

 頬の毛皮は焼け焦げている。しかし、四本の脚はしっかりと地面を捉え、赤い双眸がハヤトへ向けられていた。

 

「……結構、元気そうだな」

 

『戦闘能力に大きな低下は認められません』

 

「先に言って!?」

 

 フェンリルが身を沈めた。

 

 次の瞬間、黒い巨体が視界から消える。

 

「……え?」

 

 左右へ目を走らせる。

 

 見つからない。

 

 直後、鼻を突く生臭い息。

 

「っ!?」

 

 振り向いたときには、巨大な牙が目の前にあった。

 

「うわっ!!」

 

 咄嗟に両腕へ力を込める。

 

 ブースターが爆ぜ、身体が真横へ吹き飛んだ。

 

 ガチンッ!!

 

 背後で巨大な牙が噛み合う。

 

「あっぶねぇ!!」

 

 しかし、今度は自分が止まらない。

 

 視界の端に、停車中の乗用車が映った。

 

「ちょ、待っ……!」

 

 ガシャァァンッ!!

 

 背中から窓ガラスへ突っ込んだ。

 

「いっ……てぇぇ……!」

 

 後部座席へ半分埋まりながら呻く。背中に鈍い痛みが広がり、息を吸うと脇腹まで疼いた。

 

「何だよ、このブースター……!」

 

『推進方向と出力が適切ではありません』

 

「俺だって好きで突っ込んだわけじゃ……」

 

 文句を言いかけたところで、割れ残った窓ガラスに映る姿が目に入った。

 

 銀色の長い髪。

 

 赤い瞳。

 

 黒と銀の戦闘服。

 

 見知らぬ少女が、こちらを見つめている。

 

「……誰?」

 

 首を傾げる。

 

 少女も傾げた。

 

 右手を上げる。

 

 少女も上げた。

 

「…………」

 

 嫌な予感がした。

 

 自分の頬へ触れる。

 

 柔らかい。顎の輪郭も違う。

 

 何より、視線を下げると。

 

「……待て」

 

 細くなった腰。

 

 そして、どう見ても昨日まで存在しなかった膨らみ。

 

「待て待て待て!!」

 

『フェンリル、旋回』

 

「なんで女になってんだよ!?」

 

『女性型戦闘用サブボディです』

 

「魔法少女になるって、そういう意味!?」

 

『規約に記載されています』

 

「どこに!?」

 

『第二百八十六項以降――』

 

「四百八十六条ある規約の真ん中に入れるな! そんな大事なこと!!」

 

『接近』

 

「くそっ!」

 

 文句は後だ。

 

 性別について悩む前に、命がなくなりそうだった。

 

 車から飛び出す。

 

 フェンリルは少し離れた場所でこちらを見ていた。しかし、その赤い瞳が一瞬だけ横へ動く。

 

 視線の先には、ホワイトリリィ。

 

「……おい!」

 

 巨狼が地面を蹴った。

 

 ハヤトの横を通り抜け、倒れた少女へ一直線に駆けていく。

 

「そっちは駄目だろ!!」

 

 両腕のブースターを噴射する。

 

 だが、追いつけない。

 

 フェンリルが巨大な顎を開いた。

 

「光よ!」

 

 白い光が弾けた。

 

 ホワイトリリィが左手で掲げた剣の前へ、三枚の障壁が重なるように展開される。

 

 ガァァンッ!!

 

 牙が一枚目を噛み砕いた。

 

 二枚目も砕け散る。

 

 しかし、三枚目で止まった。

 

「……っ!」

 

 リリィが苦しげに息を吐く。

 

 右肩を庇うように身体を傾けながらも、左手で巨大な顎を押し返していた。

 

「させるかぁっ!!」

 

 そこへ、ハヤトが突っ込んだ。

 

 だが、フェンリルは振り抜かれた拳を避け、巨大な前脚を横から叩きつけてきた。

 

「ぐあっ!!」

 

 ガントレットで受けたものの、衝撃に耐え切れず道路へ転がされた。

 

 先ほど車へ突っ込んだ背中が、再びアスファルトへ叩きつけられる。

 

「いっ……!」

 

 ハヤトが顔を上げると、フェンリルはすでにこちらを向いていた。

 

「……こいつ」

 

 ただ速いだけじゃない。

 

 自分がホワイトリリィを守ろうとしていることを、理解している。だから彼女を狙い、自分が飛び込んでくる瞬間を待っていたのだ。

 

『敵の加速動作に一定の特徴を確認しました』

 

「……何か分かった!?」

 

『加速直前、右肩が低下します』

 

「右肩……?」

 

 ハヤトはフェンリルを睨んだ。

 

 走り出した後を追うから見えない。

 

 なら、走る前なら。

 

「……分かった」

 

 巨狼の右肩へ視線を絞る。

 

 爪が路面を擦った。

 

 右肩が沈む。

 

「今だ!!」

 

 先に身体を低くした。

 

 直後、黒い巨体が頭上を通過する。

 

「見えた!!」

 

 両腕を地面へ向ける。

 

 ブースターが爆ぜ、身体が真上へ撃ち出された。

 

 両拳がフェンリルの腹へ突き刺さる。

 

 ドゴォォンッ!!

 

 巨体が持ち上がり、四本の脚が地面から離れた。

 

「……そうか!」

 

 地面だ。

 

 あいつは地面を蹴るから速い。踏み込み、加速し、方向を変える。

 

「空中じゃ、あの加速はできねぇだろ!!」

 

 左拳を振り抜いた。

 

 続けて右拳を腹へ叩き込む。

 

 右肩に衝撃が走ったが、今は構っていられない。

 

 殴った反動で身体が流される。ハヤトは反対のブースターを短く噴射し、どうにか姿勢を戻した。

 

「……こうか!」

 

 最初は身体を吹き飛ばすだけだったブースターが、少しずつ思った通りに動き始めていた。

 

 もう一発。

 

 そう思ったとき、フェンリルの顎が斜め下方へ向いた。

 

『魔力反応』

 

 ドォンッ!!

 

 何もない空間へ赤黒い魔力が放射された。

 

 反動で巨狼の身体が横へ跳ね、ハヤトの拳が空を切る。

 

「……は?」

 

 フェンリルは首を捻り、空中で身体の向きを変えた。

 

「おい、ちょっと待て! それ、ありかよ!?」

 

 次の瞬間には、巨大な口がこちらへ向いていた。

 

「……っ!」

 

 至近距離で赤黒い光が弾ける。

 

 咄嗟に両腕を交差させたが、衝撃を受け止めきれない。身体が空中から撃ち落とされた。

 

「ぐああっ!!」

 

 ドガァァンッ!!

 

 背中から道路へ激突した。

 

 肺から空気が絞り出される。さっきから何度も打ちつけている背中と脇腹に痛みが走り、一瞬、身体を起こせなかった。

 

 少し離れた場所へ、フェンリルが着地する。四本の脚で衝撃を受け止め、何事もなかったようにこちらを見つめていた。

 

「……マジかよ」

 

『口腔からの魔力放射を利用した軌道変更を確認』

 

「見りゃ分かるって……!」

 

 ようやく見つけた攻略法を、あっさり破られた。

 

 しかも、何度も噴射したせいで両腕が熱い。右肩には、拳を振るったときの衝撃まで残っている。

 

『疑似魔力残量、低下』

 

「……嘘だろ」

 

 ハヤトは痛む身体を起こした。

 

 あの巨体を殴り飛ばせる。空だって飛べる。

 

 それでも、相手の方がずっと戦い慣れている。

 

 そのとき、フェンリルが大きく口を開いた。

 

 喉の奥へ赤黒い光が集まり始める。

 

『高密度エネルギー反応。回避を推奨』

 

「っ!!」

 

 ハヤトは横へブースターを噴射した。

 

 身体が射線から外れた直後、赤黒い光線がすぐ横を通過する。

 

 背後で凄まじい爆発が起きた。

 

 ドォォォォンッ!!

 

 建物の一角が大きく抉られ、崩れた外壁の向こうから炎と黒煙が噴き上がる。

 

「……マジかよ」

 

 まともに食らえば、この身体でもどうなるか分からない。

 

 しかし、フェンリルは再び口を開いた。

 

「また!?」

 

 横へ飛ぼうとした、そのとき。

 

 道路脇に立つ看板が目へ入った。

 

 臨時避難所。

 

 矢印が示す先には、学校の体育館がある。何人もの避難者が、そちらへ逃げ込むのを見ていた。

 

 フェンリルの口元。

 

 自分の位置。

 

 その後ろ。

 

「……おい」

 

『後方に多数の生命反応』

 

 横へ逃げれば、自分は助かる。

 

 だが、あの光線は止まらない。

 

『回避を推奨します』

 

「俺が避けたら、後ろの連中は?」

 

『攻撃の直撃が予想されます』

 

「……だよなぁ!」

 

 目の前で、フェンリルの喉が赤黒く輝いた。

 

 もう時間がない。

 

 ハヤトは両脚を大きく開き、ガントレットを顔の前で交差させた。

 

『警告。防御による攻撃の完全阻止は困難です』

 

「分かってる!」

 

 さっきの威力は見ている。こんなもので受け止められるとは思っていない。

 

 それでも、退くわけにはいかなかった。

 

「来いやぁぁっ!!」

 

 赤黒い光線が放たれた。

 

 ドォォォォォンッ!!

 

「がっ――!?」

 

 交差させたガントレットに、凄まじい衝撃が叩きつけられる。

 

 次の瞬間、視界が真っ赤に染まった。

 

「ぐあああああっ!!」

 

 防げない。

 

 極太の光線は両腕を軽々と呑み込み、肩から胸、脚に至るまで、全身の装甲を容赦なく焼いていく。

 

 靴底がアスファルトを削った。

 

 一歩、二歩。

 

 どれだけ踏ん張っても、身体が後ろへ押し流されていく。

 

『装甲温度、急上昇』

 

「分かっ……てる!」

 

 ハヤトはブースターを噴射しようとした。

 

 だが、押し寄せる衝撃に両腕が押し込まれ、まともに向きを変えることさえできない。

 

「ぐっ……あああっ!!」

 

 ガントレットが軋む。

 

 特に、右腕がまずかった。

 

 何度も拳を叩き込んだ肩へ、正面から凄まじい負荷がかかっている。腕の奥が焼けるように痛み、指先の感覚が薄れていった。

 

 しかも、光線はハヤトの身体よりも遥かに太い。

 

 防ぎ切れなかった魔力が左右を抜け、道路や建物を焼きながら背後へ広がっていく。

 

 まずい。

 

 このままでは、自分がここに立っている意味がない。

 

「止まれ……!」

 

 ガントレットの表面に亀裂が走った。

 

 膝が折れかける。

 

「止まれってんだろぉぉっ!!」

 

 踏ん張る。

 

 だが、フェンリルの光線は少しも衰えなかった。

 

 全身が熱い。

 

 痛みで腕の感覚が遠のいていく。

 

 それでも、ハヤトは両腕を下ろさなかった。

 

 そのとき。

 

「あなたっ!!」

 

 聞き覚えのある声が、轟音の向こうから届いた。

 

 ホワイトリリィだった。

 

 左手に光の剣を握り、負傷した右肩を庇いながらこちらへ駆けてくる。

 

「来るな! 危ねぇ!!」

 

 しかし、彼女は足を止めなかった。

 

 光線の外側を回り込み、ハヤトの斜め後方まで駆け寄る。そこで踏みとどまると、左手の剣を掲げた。

 

 白い魔法陣が、その足元に広がる。

 

「光よ! 幾重にも重なり、すべてを守る盾となれ!!」

 

 白い閃光が弾けた。

 

 ハヤトの真正面。

 

 赤黒い光線との間へ、巨大な光の壁が出現する。

 

 さらに、その前へ二枚目、三枚目。

 

 何枚もの障壁が重なり、道路いっぱいに広がった。

 

 ドォォォォンッ!!

 

 極太の光線が障壁へ激突する。

 

「……っ!?」

 

 それまで全身を押し潰していた衝撃が、唐突に軽くなった。

 

 ハヤトは思わず顔を上げる。

 

 目の前には、巨大な白い光の壁。

 

 その向こうでは、赤黒い魔力が激しく渦巻いていた。

 

「リリィ……!」

 

「そのまま、動かないでください!」

 

 一枚目の障壁に亀裂が走った。

 

 直後、粉々に砕け散る。

 

 しかし、光線は二枚目へ激突した。

 

 リリィは歯を食いしばり、左手で剣を握り直した。

 

「ここからは……私が防ぎます!」

 

 二枚目にも亀裂が広がる。

 

 白い光の破片が飛び散り、三枚目が激しく軋んだ。

 

「おい! あんたも怪我してるだろ!」

 

「だからって、見ているだけなんてできません!」

 

 リリィの足元で、魔法陣がさらに強く輝く。

 

 新たな障壁が重なった。

 

 だが、魔力を込めるたびに、負傷した右肩が小さく震えている。左腕だけで剣を支えるのも、そろそろ限界らしい。

 

 それでも、彼女は構えを崩さなかった。

 

 ハヤトは、その背後から剣を掲げる姿を見つめた。

 

 自分が守ろうとした少女が、今度は自分の前に盾を作ってくれている。

 

「……ったく!」

 

 思わず笑ってしまった。

 

「どっちが助けられてんだか!」

 

「お互い様です!」

 

 リリィが剣を握る手に力を込めた。

 

 障壁の表面が激しく明滅する。

 

 そして、ようやく。

 

 赤黒い光線が細くなり、途切れた。

 

 轟音が消える。

 

 ひび割れた障壁の向こうに、フェンリルの姿が現れた。

 

「はあっ……はあっ……!」

 

 リリィが剣を支えに膝をつく。

 

 白い障壁が光の粒子となって消えていった。

 

 ハヤトも大きく息を吐いた。

 

 ガントレットは焦げ、全身の装甲から煙が立ち上っている。

 

 両腕が痺れていた。特に右肩は、少し動かすだけで激痛が走る。

 

 だが、まだ立っている。

 

 背後の避難所も無事だった。

 

「……助かった。マジで」

 

「それは……よかったです」

 

 リリィが小さく笑う。

 

 しかし、次の瞬間。

 

『高密度エネルギー反応』

 

「……は?」

 

 二人が顔を上げた。

 

 道路の向こうで、フェンリルが再び口を開いていた。

 

 赤黒い光が、その喉へ集まっていく。

 

「おいおいおい……!」

 

 三発目。

 

 ハヤトは思わず右腕を見た。

 

 もう一度受ければ、今度こそ耐えられない。

 

 リリィも、あれだけの障壁を展開した直後だ。

 

 フェンリルの牙の間から、赤黒い光が漏れ始めた。

 

 もう猶予はない。

 

「……撃たせなきゃいいんだろ!」

 

 ハヤトは左腕を後方へ向けた。

 

『警告。高出力噴射の連続使用は推奨しません』

 

「だったら、ここで棒立ちしてろって!?」

 

「……何をするつもりですか?」

 

「あいつの口、塞いでくる!」

 

「えっ!?」

 

 返事を待たずに地面を蹴った。

 

 ドォンッ!!

 

 左腕のブースターが爆ぜる。

 

 ハヤトの身体が、砕けた道路を滑るように加速した。

 

 右腕は痛む。

 

 だが、拳を握ることはできた。

 

 フェンリルが右前脚を持ち上げる。

 

 巨大な爪が正面から迫ってきた。

 

『右前方、攻撃』

 

「見えてる!」

 

 左腕を短く噴射する。

 

 身体が横へ流れ、爪がすぐ脇の道路を切り裂いた。

 

 ハヤトは、そのままフェンリルの懐へ飛び込む。

 

 頭上には巨大な顎。

 

 牙の奥で、赤黒い魔力が今にも弾けようとしていた。

 

「……間に合え!」

 

 痛む右拳を引いた。

 

 フェンリルが、こちらへ口を向ける。

 

 赤黒い光が膨れ上がった。

 

 ハヤトは地面を蹴り、右腕のブースターを一気に噴射した。

 

「それ、返してやるよぉぉっ!!」

 

 ドゴォォォンッ!!

 

 右拳が、フェンリルの下顎へ突き刺さった。

 

「ぐっ……!」

 

 右肩に凄まじい衝撃が走る。

 

 だが、それ以上の力が巨狼の顎を跳ね上げた。

 

 開いていた口が強引に閉じられる。

 

 ガチンッ!!

 

 牙が噛み合った。

 

 直後。

 

 フェンリルの喉が、内側から赤く輝いた。

 

「……あ?」

 

 閉じられた牙の隙間から、赤黒い光が噴き出した。

 

 巨大な首が、不自然に膨れ上がる。

 

『魔力放射、異常』

 

 ハヤトが意味を理解するより早く。

 

 ドォォォォォンッ!!

 

 フェンリルの体内で、凄まじい爆発が起きた。

 

「うわああああっ!?」

 

 巨狼の口から赤黒い魔力が四方へ噴き出す。

 

 爆発の衝撃でハヤトも弾き飛ばされた。

 

 咄嗟に左腕を動かしたが、姿勢を立て直す前に背中から道路へ叩きつけられる。

 

「がっ……! げほっ、げほっ……!」

 

 肺から空気が抜けた。

 

 車への衝突、空中からの落下、そして今の爆発。

 

 背中と脇腹に蓄積した痛みが、一度に押し寄せてきた。

 

 右腕は持ち上げることすら難しかった。

 

 それでも、何とか顔を上げる。

 

 道路の中央で、フェンリルがよろめいていた。

 

 喉から黒い煙が噴き出し、首から胸元にかけて毛皮が大きく焼け焦げている。

 

 今までの攻撃とは、明らかに違った。

 

 巨狼は前脚を踏み出そうとして、身体を大きく傾けた。

 

『蓄積された魔力が、内部で暴発したものと推定します』

 

「……なるほどね」

 

 ハヤトは動かない右腕を、左手で押さえた。

 

 とにかくビームを止めるつもりで殴った。

 

 まさか、こんなことになるとは思わなかった。

 

「……やったか?」

 

『討伐反応は確認できません』

 

「そこは空気読んでくれよ……!」

 

 だが、冗談を言っていられたのも、そこまでだった。

 

 フェンリルが顔を上げた。

 

 赤い双眸が、再びハヤトを捉える。

 

 喉から黒い煙が漏れ、呼吸は明らかに乱れていた。

 

 それでも、巨狼は四本の脚で地面を踏み締める。

 

 そして、身体を低く沈めた。

 

『高速移動の予兆』

 

「……っ!」

 

 ドンッ!!

 

 黒い巨体が走り出した。

 

 次の瞬間には、左側から爪が迫っていた。

 

「速っ……!」

 

 ハヤトは左腕のブースターを噴射し、身体を横へ逃がす。

 

 爪が頬のすぐ横を通過した。

 

 巨狼はすぐに反転し、牙を剥く。

 

 ハヤトは身体を低くして避けた。

 

 脇腹が痛む。

 

 右腕は、反撃に使えない。

 

 その代わり、ハヤトは巨狼の脚を見た。

 

 右前脚の踏み込みが浅い。

 

 呼吸も荒い。

 

 体内で起きた爆発が、確実に効いている。

 

「……最後まで化け物かよ」

 

 それでも、まともに一発食らえば終わる。

 

 フェンリルが再び右肩を沈めた。

 

 その瞬間。

 

「ルミナスレイ!」

 

 白い閃光が、ハヤトの横を駆け抜けた。

 

 ホワイトリリィだ。

 

 左手で振り抜いた光の剣から、光線が放たれていた。

 

 巨狼は咄嗟に跳んだ。

 

 光線は直撃しなかったが、避けたことで進路が変わる。

 

 その着地点へ、リリィが再び剣を向けた。

 

「逃がしません!」

 

 白い光の壁が立ち上がる。

 

 ガァンッ!!

 

 フェンリルの前脚が障壁へ激突した。

 

 壁に亀裂が走る。

 

 しかし、前脚を止められたことで巨狼の重心が前へ流れた。

 

「今です!」

 

「おう!!」

 

 ハヤトは地面を蹴った。

 

 左腕を後方へ向け、短く噴射する。

 

 フェンリルがこちらへ向き直り、爪を振り上げた。

 

「見えてんだよ!!」

 

 左腕の噴射で身体を横へ滑らせ、爪の内側へ潜り込む。

 

 巨狼の懐。

 

 巨大な胸元が、目の前に迫った。

 

 右腕を使おうとして、肩に鋭い痛みが走る。

 

「……っ!」

 

 ハヤトは咄嗟に身体を捻り、左拳を振り抜いた。

 

「うおおおっ!!」

 

 ドゴォォンッ!!

 

 左のガントレットが、フェンリルの胸元へ突き刺さった。

 

 焼け焦げていた毛皮が大きく裂ける。

 

 巨狼は仰け反り、背中から道路へ倒れ込んだ。

 

 ズンッ!!

 

 ハヤトも反動で後方へ流れた。

 

 痛む背中に力を入れ、どうにか両脚で着地する。

 

 巨狼が前脚をつく。

 

 しかし、身体が大きく傾き、すぐには立ち上がれない。

 

 裂けた胸元の奥に、赤黒い結晶のようなものが覗いていた。

 

「……ん?」

 

 結晶は、巨狼の呼吸に合わせて不規則に明滅している。

 

『解析完了。胸部に魔核を確認』

 

「……魔核?」

 

『魔獣の活動を維持する中核です。破壊すれば、討伐が可能と判断します』

 

 ハヤトはフェンリルを見た。

 

 巨狼は、まだこちらを睨んでいる。

 

 だが、右前脚は震え、立ち上がるだけでも苦しそうだった。

 

「……つまり」

 

 ハヤトは右拳を握ろうとした。

 

 指は動く。

 

 だが、肩の奥から鋭い痛みが走り、思わず顔を歪めた。

 

「あれをぶっ壊せば、終わりってことだな!」

 

『肯定』

 

「……狙いは決まりだ」

 

 ガントレットの奥で、低い駆動音が鳴った。

 

『提案。右腕へのエネルギー供給を一時的に引き上げます』

 

「……ん?」

 

『残存エネルギーを短時間に集中し、魔核を破壊します』

 

 ハヤトはひび割れた右のガントレットを見た。

 

 今の状態で、まともに殴れるとは思えない。

 

 だからこそ。

 

「……なるほどね」

 

 口元が少しだけ緩んだ。

 

「必殺技ってやつか!」

 

『現在の損傷状態では、負荷が非常に大きくなります』

 

「……一発勝負ってことね」

 

 フェンリルが、ゆっくりと立ち上がる。

 

 胸元には赤黒い魔核。

 

 狙う場所は、もう分かっていた。

 

「左は、まだ動くな?」

 

『左腕ブースターは稼働可能。ただし、残存エネルギーは僅かです』

 

「十分!」

 

 ハヤトは左拳を構え、痛む右腕を身体の横へ引いた。

 

 リリィも、少し離れた場所で剣を握り直していた。

 

 左腕は震えている。

 

 負傷した右腕は下げたままだ。

 

 二人とも、もう余裕なんてなかった。

 

「次で決める!」

 

「……分かりました。援護します!」

 

 次の瞬間。

 

 ドンッ!!

 

 フェンリルが走り出した。

 

 弱っているとは思えない加速。

 

 巨狼が最後の力を振り絞り、真正面から突っ込んでくる。

 

 ハヤトは右肩を見た。

 

 前脚が伸びる。

 

 巨大な爪が迫った。

 

「……見えてる!」

 

 左腕を短く噴射する。

 

 身体が横へ滑り、爪が頬のすぐ横を通過した。

 

 だが、フェンリルも止まらない。

 

 巨狼が首を捻り、巨大な牙をこちらへ向ける。

 

「……っ!」

 

 その瞬間。

 

 白い光の壁が、ハヤトの横へ立ち上がった。

 

 それまでの巨大な障壁とは違う、小さな壁だった。

 

 リリィは残された力を振り絞り、左手の剣を構えている。

 

 フェンリルの牙が障壁を噛み砕いた。

 

 しかし、その一瞬だけ、巨狼の顔がハヤトから逸れた。

 

「今です!」

 

「……ありがと!」

 

 ハヤトは地面を蹴った。

 

 左腕のブースターを短く噴射し、巨狼の懐へ身体を滑り込ませる。

 

 目の前には、巨大な胸。

 

 そして、赤黒く輝く魔核。

 

『Final Attack』

 

 ガントレットの奥で、駆動音が一段と高くなった。

 

 残されたエネルギーが、右腕へ集まっていく。

 

 真紅のラインが激しく輝く。

 

 腕の奥が熱い。

 

 肩も、肘も、悲鳴を上げていた。

 

『出力上昇』

 

「……よし!」

 

 フェンリルが障壁を噛み砕き、顔を戻した。

 

 赤い瞳が、目の前にいるハヤトを捉える。

 

 巨大な顎が開く。

 

 近い。

 

 牙の一本一本が、はっきりと見えた。

 

 だが、もう遅い。

 

『Approved』

 

 ハヤトは痛む右腕を引いた。

 

『BRAVE FINISH』

 

「うおおおおおおおっ!!」

 

 右腕のブースターが爆発した。

 

 ドォォォォンッ!!

 

 身体が、拳ごと前へ撃ち出される。

 

 狙うのは、一つ。

 

 赤黒い魔核。

 

「ぶっ壊れろぉぉぉっ!!」

 

 右拳が、魔核へ激突した。

 

 ガァァァンッ!!

 

「ぐっ……!」

 

 硬い。

 

 拳が止まった。

 

 衝撃が右腕を駆け上がる。

 

 今度こそ肩が壊れるかと思った。

 

 フェンリルの巨体が、こちらへ倒れ込んでくる。

 

「……まだ!」

 

 ハヤトは歯を食いしばった。

 

 右腕のブースターが唸りを上げる。

 

 赤い光がさらに強くなり、ガントレットが少しずつ魔核へ食い込んだ。

 

 表面に細い亀裂が走る。

 

 フェンリルが吠えた。

 

 巨大な牙が迫る。

 

 もう避ける余裕はない。

 

 ここで引けば、最後の一撃を失う。

 

「いけぇぇぇぇぇっ!!」

 

 最後の噴射。

 

 全身の力を、右拳へ叩き込んだ。

 

 バキィィンッ!!

 

 亀裂が一気に広がる。

 

 赤黒い光が隙間から噴き出した。

 

 そして。

 

 魔核が、砕けた。

 

 ドォォォォォォンッ!!

 

 衝撃がフェンリルの巨体を内側から突き上げる。

 

 巨大な狼が、最後の咆哮を上げた。

 

 赤黒い光が全身へ走る。

 

 前脚が崩れ、牙が砕け、黒い毛皮が赤い粒子となって風へ舞い上がった。

 

 ハヤトは反動で後方へ弾き飛ばされた。

 

 今度は姿勢を戻す余力もない。

 

 背中から道路へ落ち、そのまま横向きに転がった。

 

「がっ……!」

 

 しばらく動けなかった。

 

 右腕を身体の横へ投げ出したまま、どうにか顔を上げる。

 

 フェンリルの巨体が、ゆっくりと崩れていた。

 

 最後までこちらを睨んでいた赤い瞳も、やがて光を失う。

 

 赤黒い粒子が、夕暮れの空へほどけていった。

 

 道路を揺らしていた巨大な狼は、もういなかった。

 

『討伐を確認』

 

「……勝った?」

 

『肯定』

 

「……そっか」

 

 ハヤトは仰向けになった。

 

 痛い。

 

 背中も、脇腹も、両腕も。

 

 特に右腕は、指先を動かすだけでも肩に響いた。

 

 それでも。

 

「……やっべぇ」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 勝った直後くらい、もうちょっと格好よく立っていたかった。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 ホワイトリリィが、左手の光の剣を杖代わりにしながら近づいてきた。

 

 何度か足を止め、右肩を庇っている。

 

「……それ、俺が聞こうと思ってたんだけど」

 

「今はあなたの話です!」

 

「……はい」

 

 ハヤトは左手を地面について、どうにか上半身を起こした。

 

 右腕は持ち上がらない。

 

 その様子を見て、リリィが眉を寄せる。

 

「右腕……!」

 

「……ちょっと、使いすぎた」

 

「ちょっと、ですか!?」

 

「かなり……?」

 

「もう!」

 

 リリィは呆れたように息を吐いた。

 

 しかし、彼女自身も剣に体重を預けたままだ。右肩の血も止まっていない。

 

「……あんたも、人のこと言えなくない?」

 

「今はあなたの話です!」

 

「二回目!」

 

 それでも、リリィの表情は少しずつ柔らかくなっていった。

 

「……ありがとうございました」

 

「……うん」

 

「助けてくれて。本当に」

 

 真正面から言われると、どう返せばいいのか分からなかった。

 

「まあ……助かったなら、よかった」

 

 結局、それしか出てこなかった。

 

 遠くから、サイレンが聞こえてくる。

 

 ハヤトが顔を上げると、赤色灯が交差点の向こうへ見え始めていた。

 

「……何?」

 

『複数車両、接近』

 

「協会の救援です」

 

 リリィが答えた。

 

「協会……」

 

 ハヤトは、自分の身体を見下ろした。

 

 銀髪。

 

 赤い目。

 

 どう見ても女。

 

 黒銀の戦闘服に、両腕のガントレット。

 

 しかも、全身傷だらけ。

 

 説明できることが、一つもない。

 

『撤退を推奨』

 

「……それは同意」

 

「え?」

 

 ハヤトは左手を膝について、どうにか立ち上がった。

 

 右腕は動かさない。

 

「じゃ、俺帰る!」

 

「待ってください!」

 

「悪い! 色々説明できない!」

 

「そんな身体で、どこへ行くんですか!?」

 

「家!」

 

「そういう意味ではありません!」

 

 正論が背中へ刺さる。

 

 だが、サイレンは近づいていた。

 

「ごめん! またな!」

 

「待って!」

 

 ホワイトリリィの声に、足を止める。

 

「せめて、名前だけでも教えてください!」

 

「……名前?」

 

 天城ハヤト。

 

 さすがに、それを名乗るわけにはいかない。

 

 頭の中に、さっきから何度も聞いた言葉が浮かんだ。

 

 BRAVE SYSTEM。

 

「……ブレイヴ」

 

「え?」

 

 自分で口にしてみる。

 

 直球すぎて少し恥ずかしい。でも、今の自分には妙にしっくりきた。

 

「俺は、ブレイヴだ!」

 

「ブレイヴ……」

 

「ああ! じゃあな!」

 

「待ってください、ブレイヴ!」

 

 名前を呼ばれた。

 

 自分の名前じゃないのに、自分のことだと分かる。

 

 変な感じだった。

 

「……悪くないな」

 

 ハヤトは走り出した。

 

 といっても、まともに走れているかは怪しかった。

 

 背中が痛み、右腕を揺らすだけでも肩に響く。

 

 もちろん、ブースターは使わない。

 

 今の身体でまた車へ突っ込むのは、もう勘弁だった。

 

     ◇

 

 人目のない路地まで来たところで、ハヤトは左手を壁へついた。

 

「……おい」

 

『はい』

 

「そういや、お前の名前は?」

 

『自律支援AI、アストラです』

 

「……アストラね」

 

 ハヤトは息を吐いた。

 

「じゃあ、アストラ。これ、戻せる?」

 

『変身解除を実行します』

 

 赤い光が身体を包んだ。

 

 黒銀の装甲がほどけ、身体の重心が変わる。背中を流れていた銀髪の感覚が消え、視界の高さもわずかに戻った。

 

 光が収まる。

 

 制服姿の自分の手があった。

 

「……戻った」

 

『変身解除を確認』

 

 静かになった途端、身体の重さが一気に戻ってきた。

 

「……っ!」

 

 膝が抜けそうになり、左手で壁を押さえる。

 

 背中も脇腹も痛い。

 

 右腕を持ち上げようとすると、肩の奥に鋭い痛みが走った。

 

「いっ……!」

 

 慌てて腕を下ろす。

 

 変身を解けば全部元通り。

 

 そんな都合のいい話ではなかったらしい。

 

「……帰れるかな、これ」

 

『歩行可能です』

 

「そっか……」

 

 歩けるのと、楽に歩けるのは別問題だと思う。

 

 だが、反論する気力もなかった。

 

 人気のない路地を抜け、いつもの帰り道を歩く。信号で止まるたび、左肩を電柱へ預けた。

 

 右腕をなるべく揺らさないようにしていると、今度は歩き方までぎこちなくなる。

 

 ついさっきまで巨大な魔獣と殴り合い、空を飛び、女の姿になっていた。

 

 それなのに、帰り道はいつも通りだった。

 

 どこかの家から、夕飯の匂いまで漂ってくる。

 

 そこで、ハヤトは足を止めた。

 

「…………あ」

 

 夕飯。

 

 焼き魚弁当。

 

 牛乳。

 

 豆腐。

 

 全部、交差点の近くへ置いてきた。

 

「……俺の飯」

 

 思わず振り返る。

 

 遠くでは、まだサイレンが鳴っていた。

 

 さすがに今から取りに戻る気にはなれない

 

『何か問題が発生しましたか?』

 

「いや……何でもない……」

 

 世界は救った。

 

 ただし、夕飯は失った。

 

 何とも複雑な気分だった。

 

 ようやくアパートが見えたときには、階段を上る気力すら怪しくなっていた。

 

「……二階って、こんな遠かったっけ」

 

 左手で手すりを掴み、一段ずつ上る。

 

 部屋の前まで辿り着き、左手で鍵を差した。

 

 外した。

 

「……くそ」

 

 二度目で入った。

 

「ただいま……」

 

 返事はない。

 

 いつも通りだ。

 

『帰宅を確認』

 

「……まだいるんだな、お前」

 

『はい』

 

「そっか」 

 

左手で壁を押さえながら靴を脱ぐ。

 

 六畳の部屋は朝と何も変わっていない。開きっぱなしの教科書も、脱ぎ捨てた部屋着も、そのままだ。

 

 それを見た瞬間、張り詰めていたものが切れた。

 

「……もう無理」

 

 左手で鞄を床へ落とす。

 

 飯も風呂も着替えも、全部明日でいい。

 

 ベッドまでの数歩を何とか歩き、右腕を庇いながら腰を下ろした。

 

 そのまま横になる。

 

『休息を推奨します』

 

「……してる」

 

 返事をしたところまでは覚えている。

 

 フェンリルの牙。

 

 赤黒い光。

 

 ホワイトリリィの白い背中。

 

 砕けたガラスに映った、銀髪の少女。

 

 そして、最後に聞いた彼女の声。

 

『ありがとうございました』

 

 今日起きたことが頭の中に浮かんでは消えていく。

 

 だが、それを整理する余裕はなかった。

 

 天城ハヤトは、その日の出来事を理解するより先に、気絶するように眠りへ落ちた。

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