ヒーローを守りたかっただけなのに、魔法少女になった 作:冷凍マカロン
午前九時十二分。
神宿支部では、プリンを巡る戦争が始まっていた。
「ないのだ」
冷蔵庫の前で、小柄な少女が呟いた。誰も反応しない。
「ないのだ……!」
二度目は、明らかに部屋全体へ向けた声だった。
神宿支部の休憩室には、これから始まるミーティングのために所属メンバーが集まっている。窓から差し込む真夏の日差しとは裏腹に、冷房は少し効きすぎていた。長机には資料端末と紙コップ、誰かが置きっぱなしにした菓子袋。ホワイトボードには昨日の出動記録が半端に残り、隅には誰のものか分からない傘が三本立てかけてある。
その日常のど真ん中で、ティナ・アルディアは冷蔵庫の中を睨んでいた。神宿支部所属の魔法少女、リトルキング。明るい髪が肩口で跳ね、小柄な身体は開いた扉の影へほとんど隠れている。
「ティナのプリンが、ないのだ」
長机の向こうで新聞を広げていた赤城レイナの手が、わずかに止まった。魔法少女インフェルノ。背が高く、長い赤髪を適当に後ろで束ね、コーヒー片手に椅子へ深く沈んでいる。
「昨日、ティナはプリンを買ったのだ」
「へえ」
「名前も書いたのだ」
「用心深いな」
「油性ペンで、でっかく『ティナ』って書いたのだ」
「そりゃ間違えようがねえな」
「そうなのだ」
ティナは冷蔵庫を閉め、振り返った。
「レイナ」
「なんだ」
「昨日の夜はあったのだ」
「あったな」
「今朝はないのだ」
「世の中、そういうこともある」
「レイナ」
「なんだよ」
「口の端にカラメルついてるのだ」
レイナのコーヒーカップが止まった。
黙っていれば精悍な美女なのだが、その口元には証拠能力の高すぎる茶色い欠片が残っている。
ソファから雑誌が少しだけ持ち上がった。
「……現行犯」
雨宮ナギ。魔法少女テンペスト。長い髪は寝癖なのか元からなのか分からない具合に崩れ、朝からソファを占領している。雑誌の下から覗いた目も、まだ半分眠っていた。
「違う。これはコーヒーだ」
レイナが即座に言い返す。
「コーヒーは固まらない」
「最近のコーヒーは固まるんだよ」
「プリンも最近のコーヒーだったのだ?」
「そういう品種がある」
「怒ったのだぁぁぁぁぁ!」
「朝っぱらから物騒だな、お前!」
ティナが飛びかかる。レイナは笑いながら片手でその額を押さえた。手足をばたつかせても体格差のせいでまるで届かない。
「返せ! ティナの三時のおやつを返すのだ!」
「もう消化始まってるから無理だって!」
「最低なのだ!」
「はっはっはっ!」
「笑うなぁ!」
「レイナさん、あとで買ってあげてくださいね」
人数分の茶を並べていた神崎ユズハが、困ったように笑った。魔法少女ブルームハート。肩まで伸びた柔らかな茶髪と穏やかな声だけで、部屋の騒音が少し丸くなる。
「お詫びに二個買う」
「三個なのだ」
「なんで増えた」
「慰謝料なのだ」
「プリンに慰謝料ってあんの?」
「四個」
ソファからナギの声が飛んだ。
「お前まで増やすなよ!」
「精神的苦痛込み」
「ナギは話が分かるのだ!」
「私はいらない」
「じゃあ何で増やした!」
「ティナが喜ぶ」
「優しいのだ!」
「優しさの方向がおかしいだろ!」
「朝からうるさい!」
休憩室の扉が勢いよく開き、空気が止まった。
入ってきた男はシャツの袖を肘まで捲り、ネクタイもすでに緩んでいた。片手に分厚い書類、もう片手には紙コップ。目の下に居座る隈だけで、ここ数日の勤務状況がなんとなく想像できる。
神宿支部長である。
「廊下まで聞こえてるぞ、リトルキング」
「支部長! レイナがティナのプリン食べたのだ!」
「インフェルノ」
「はい」
「買って返せ」
「はい」
「三個なのだ!」
「わかったよ」
支部長は書類を机へ置いた。ずしりとした音がする。
「あとインフェルノ」
「今度はなんすか」
「昨日の報告書」
「ああ、出しただろ」
「出したな」
一枚抜き取る。
「『デカかった。殴った。勝った』」
「分かりやすいだろ?」
「報告書を俳句にするな」
「五七五じゃねえぞ」
「そういう問題じゃない!」
レイナが豪快に笑った。ティナはプリンの恨みを忘れ、「確かに五七五じゃないのだ」と指を折り始めている。ユズハは口元を押さえ、ナギはまた雑誌を顔へ戻した。
「……俺、魔獣より先にお前らの報告書で過労死しそうだ」
「その場合、労災は出るんですか?」
「ブルームハート、お前まで話を広げるな」
「すみません」
謝りながらユズハは笑っている。
支部長は胃の辺りを押さえ、自分の席へ向かった。
「もういい。会議始めるぞ。ウィッチクラフトは?」
「ここ」
「うおっ」
返事はすぐ横から聞こえた。
長机の端で、九条イオが三台の端末を並べていた。魔法少女ウィッチクラフト。白衣の袖は片方だけ肘まで捲れ、頬へ落ちた髪も直す気配がない。端末の横には分解途中の小型機械と工具まで広げられている。
プリン戦争が始まってから、一度も顔を上げていなかった。
「……いつからいた」
「最初から」
「今までの騒ぎ聞こえてたか?」
「聞いてない」
「同じ部屋だったよな?」
「今忙しい」
イオは画面を指で拡大した。
「ブレイヴ見てるから」
その名前で、部屋の空気が少し変わった。ナギの雑誌が下がり、レイナもティナを押さえていた手を離す。ユズハが湯呑みを置き、自分の席へ向かった。
部屋の奥に座っていた白咲ユイも顔を上げた。魔法少女ホワイトリリィ。右肩には、フェンリル戦で負った傷を固定する装具がまだ残っている。
「……ブレイヴ」
「ホワイトリリィ」
支部長がすかさず呼んだ。
「はい」
「肩は?」
「日常生活には問題ありません。軽度の任務なら――」
「休め」
「でも」
「休め」
「……はい」
「お前ら全員、負傷を『動くから平気』で済ませようとするのやめてくれないか。医療班から怒られるの俺なんだぞ」
「動くなら問題なくない?」
イオが画面を見たまま言う。
「ウィッチクラフト」
「なに?」
「お前は昨日、待機指示を無視して現場へ行った側だ」
「あれは必要だった」
「何が」
「ブレイヴがいた」
「だからだよ!」
支部長は椅子へ座る前から疲れていた。
イオは意に介さず、端末を大型モニターへ接続する。
銀髪の少女が映った。
黒と銀の装甲。両腕を包むガントレット。その後部から赤い光を噴き上げながら、リザードナイトへ飛び込んでいく。
「おお」
レイナが身を乗り出した。
「こいつがブレイヴか」
「思ったより華奢なのだ」
ティナがモニターを見上げる。
「華奢っつーか……動きがすげえな。あの装備でそこまで踏み込むのかよ」
レイナは映像を食い入るように見ている。
「すごく真っ直ぐな戦い方ですね」
ユズハが言った。
「だろ?」
なぜかレイナが胸を張る。
「インフェルノは会ったことないだろ」
「これから会えばいい」
「決定事項みたいに言うな」
映像の中で、リザードナイトの盾へブレイヴの拳が叩き込まれた。火花が散り、硬い盾が僅かに歪む。
「すごいのだ」
ティナが机へ手をつく。
「何回も同じところ殴ってるのだ」
「最初と最後で動き方も違う」
イオが映像を少し戻した。
「最初はブースターに振り回されてる。途中から横移動と姿勢制御に使って、最後は反動まで抑えてる」
「その場で覚えたのか?」
「たぶん」
「へえ」
レイナの目が楽しそうに細くなった。
「いいじゃねえか。戦いながら自分のやり方を掴んでいく奴、俺は好きだぞ」
「インフェルノが好きそうなのだ」
「どういう意味だ」
「考える前に突っ込むところ」
「俺はちゃんと考えてる!」
「『デカかった。殴った。勝った』」
ナギが雑誌の陰から呟く。
「おい、その報告書ずっと擦る気か?」
部屋にまた笑いが起きた。
支部長だけが資料をめくる。
「で、ウィッチクラフト。昨日、ブレイヴと接触したんだな」
「うん。装備と身体構造を見せてほしいって頼んだ」
「怖いのだ」
ティナが即座に身を引いた。
「断られたから追った」
「そこで諦めろよ!」
「まだ話が終わってなかった」
「相手の中では終わってる!」
支部長が額を押さえる。その横でレイナが堪えきれず笑った。
「それで?」
「追ってる途中、アームを止められた」
支部長の手が止まる。
「……ブレイヴに?」
「分からない。本人も驚いてたから、たぶん違う」
「自分でも知らない力ってことか?」
「そこが気になってる」
イオはモニターへ目を戻した。
「あと、私を殴れる場面があったけど、止めた」
「追い回されてんのに?」
レイナが眉を上げる。
「……随分、冷静じゃねえか」
「だからもっと調べたい」
「まず反省しろ」
支部長の言葉は、たぶん届いていない。
「……ブレイヴさんらしいです」
静かな声が割って入った。
ユイだった。
「ホワイトリリィは直接会ってるんだったな」
「はい」
「どんな奴だった?」
ユイはすぐには答えなかった。
強かった。
無茶だった。
戦い方も危なっかしくて、自分の力に振り回されていた。
けれど、最初に浮かんだのはそんなことではない。
「……あの人、私に『頑張れ』って言わなかったんです」
レイナが眉を上げる。
「頑張れ?」
「はい」
ユイは右肩の固定具へ指を添えた。
「あの時、私はフェンリルに負けかけていました。身体もほとんど動かなかった。でも、まだ戦わないとって思ってたんです。魔法少女なのに、ここで寝ているわけにはいかないって」
いつの間にか、部屋が静かになっていた。
「ブレイヴさんが来て、それでも私、立とうとしたんです。そうしたら……『あんたは負傷してるんだ。休んでてくれ』って」
「へえ」
レイナが小さく笑う。
「優しいじゃねえか」
「最初はもっと雑でしたけど」
「なんて?」
「『そこで寝てろ』みたいな感じでした」
「そっちの方が好きだわ」
「インフェルノ」
「褒めてんだよ」
ユイもつられて笑った。
けれど、すぐにモニターへ視線を戻す。
「魔法少女になってから、誰かを守ることは当たり前だと思っていました。危なくても、怖くても、まだ立てるなら立たなきゃいけないって。だから最初は、少し腹が立ったんです。知らない人に、もう戦うなって言われて」
ユズハが黙って聞いている。
「私の仕事なのにって。でも……」
フェンリルの光線を受け止めた黒銀の背中が、今でも鮮明に残っている。
「……でも、嬉しかったんです」
今度は誰も茶化さなかった。
「魔法少女だからじゃなくて、怪我してるから休んでいいって言ってくれた。それで、代わりに戦って。あの人だって、きっと初戦闘だったはずなのに」
ユイは固定具から手を離した。
「誰かに守られるのって……あんな感じなんだなって」
冷房の低い音だけが残った。
ティナはプリンのことを忘れ、レイナも笑っていない。ナギはいつの間にか雑誌を腹の上まで下ろしていた。
「……なるほどな」
支部長が資料を閉じた。
「すみません。あまり参考にならない話で」
「いや。むしろ大事だ」
紙に残っているのは戦闘記録と被害状況ばかりだ。そこから、ブレイヴが何を考えて拳を振るったのかまでは分からない。
「少なくとも、いきなり敵扱いする相手じゃなさそうだな」
「私は最初からそう言ってる」
「お前は解体したい側だろ」
「非破壊を優先する」
「その単語を会話に出ない」
僅かに空気が緩んだ。
支部長は全員を見渡す。
「現状、協会での扱いは未登録戦闘者『ブレイヴ』。確認されて二日。その間にA級フェンリルを含む二体と交戦しているが、所属も本人の素性も分からん」
「野良なのだ?」
「その可能性が高いと思っていた」
支部長はそこで言葉を区切った。
「だが、未登録のまま戦わせ続けるわけにもいかない。本人の安全のためにも、一度こちらから接触する必要がある」
「二日でそれなら、放っといたらそのうち死ぬぞ」
レイナが言った。
「……はい」
ユイの返事が妙に早い。
支部長が見る。
「ホワイトリリィ」
「はい」
「右肩」
「……分かっています」
「ならよろしい」
ティナが頬を膨らませた。
「支部長、それ最近便利に使ってるのだ」
「必要だからだ!」
「右肩いたいかも」
ナギがぼそりと続ける。
「テンペストはサボろうとするな、あと任務明けに屋上で寝るな」
「涼しい」
「せめて寝るなら!医務室で寝ろ!」
日常の空気が戻りかけたところで、イオが端末を操作した。
「その前に一つ」
大型モニターに複数の波形が現れる。
「これ、私たちの魔力反応」
続いてブレイヴのデータ。
ティナが首を傾げた。
「……小さいのだ」
「小さすぎる」
イオは画面を指した。
「あれだけの出力なのに、ブレイヴ本人から出ている魔力がほとんど増えてない」
レイナの表情から笑みが消える。
「じゃあ、あの馬鹿力はどこから出てんだ?」
「分からない。それに装甲とガントレットも、本人の魔法で作っているようには見えない。身体とは別の仕組みで動いてる」
「昨日お前のアームを止めたのも?」
「たぶん同じ。少なくとも、ブレイヴ本人の魔力反応じゃなかった」
支部長が腕を組んだ。
「外部装備か?」
「それに近い。でも、それだけじゃ説明できない」
「本人も分かってないんだよね」
ナギが言った。
「うん」
イオは先ほどの戦闘映像を戻す。最初の噴射で姿勢を崩し、次には少し使い方を変え、その次には空中で身体を制御している。
「自分の力を使いこなせないんじゃない。自分が何を使ってるのか知らないまま、戦いながら覚えてる」
「それって……」
ユズハの声が僅かに曇る。
「かなり危険なんじゃないですか?」
「危険」
イオはあっさり肯定した。
モニターの中央で、銀髪の少女が拳を構えている。
何者か分からない。
本人すら、自分が何になったのか理解していないかもしれない。
それでもユイが倒れていた時、彼女は前へ出た。
「イオさん」
「なに?」
ユイは画面から視線を外さなかった。
「ブレイヴさんは、本当に魔法少女なんですか?」
誰も答えなかった。
少女の姿をしている。
人間離れした力を持っている。
魔獣と戦っている。
だから魔法少女。
今までは、それを疑う理由がなかった。
「私も最初はそう思ってた」
イオが椅子から立つ。
「女の子の姿になる。強い。魔獣と戦う。だから魔法少女。でも、それって私たちが知ってるものに当てはめただけなんだよね」
支部長が眉間へ皺を寄せた。
「ウィッチクラフト。結論は?」
「まだ仮説」
「構わん」
イオはブレイヴの静止画と、ほとんど動かない魔力反応を並べた。
「出力と魔力が釣り合わない。装備は身体と別系統。本人も仕組みを知らない」
ナギが完全に身体を起こす。
レイナの笑みも消えていた。
ティナは黙ってモニターを見上げ、ユズハも言葉を挟まない。
ユイだけが、画面のブレイヴを静かに見つめていた。
イオの口元が、ほんの少し上がった。
未知を見つけた研究者の顔だった。
「この子――魔法少女じゃないかもしれない」