かわりもの
ジョウト地方、コガネシティ。
巨大なラジオ塔を中心に、百貨店、地下通路、駅、ゲームコーナー、花屋、民家が雑多に並ぶジョウト最大の都市は、朝から人とポケモンで溢れていた。
そんな街の一角。
《フラワーショップこがね》。
色とりどりの花が店先に並ぶ、小さな花屋である。
その二階の窓に、少しだけくたびれた看板が掛かっていた。
《クロバ探偵事務所》
午前十時十二分。
探偵事務所の主は、まだ寝ていた。
「クロバ。クロバ。起きるロト」
返事はない。
「午前十時十二分ロト」
ソファの上で、男が毛布を頭まで被った。
「……あと五分」
「昨日もそう言って二時間寝たロト」
「今日は違う」
「どう違うロト?」
「今日は……本気で五分」
ベッドではなくソファで寝ている時点で、昨晩どんな生活をしていたのかはおおよそ察することができた。
テーブルには空になったミックスオレの瓶。
皿の上には食べかけのサンドイッチ。
床には脱ぎ捨てられたジャケット。
そしてテーブルの端には、コガネゲームコーナーでもらった景品交換券が数枚。
ロトムスマホがクロバの顔の真上まで飛んできた。
「昨日、ゲームコーナーから帰ってきたの午前三時四十七分ロト」
「勝ってたから仕方ない」
「最終的には負けたロト」
クロバが毛布の中で沈黙した。
「しかも今月の家賃、まだ払ってないロト」
「……それは今関係ないだろ」
「あるロト」
その時だった。
階下から声が響いた。
「クロバくーん! 起きとるー!?」
クロバが目を開いた。
聞き覚えのある声だった。
一階のフラワーショップの店主である。
「ほら来たロト」
「ロトム」
「何ロト?」
「俺はいない」
「いるロト」
「いないことにしてくれ」
階段を上がってくる足音がした。
クロバは勢いよく身体を起こした。
「鍵かけたっけ」
「昨夜帰ってきた時、かけ忘れたロト」
「先に言え!」
扉が開いた。
「おるやないの!」
クロバはソファの上で固まった。
数秒後。
ジャケットを羽織り、ブルーグレイのレンズのサングラスをかけたクロバは、一階へ降りていた。
「せやから、うちも鬼やないんよ?」
店主が言う。
「分かってます」
「今月だけやったらええねん。先月も遅れとるやろ?」
「それは不可抗力で」
「どこが不可抗力やねん。ゲームコーナー行っとったやろ」
「……誰から聞いたんです?」
「街じゅう知っとるわ」
ロトムスマホがクロバの肩の横で浮いていた。
「有名人ロト」
「黙ってろ」
店主は腰に手を当てた。
「探偵なんやろ? 仕事せなあかんで」
「仕事が来ればしますよ」
「客待っとるで」
「え?」
クロバはサングラス越しに店主を見た。
「……客?」
店主が奥を指差した。
店の隅。
鉢植えの間に置かれた椅子に、一人の女性が座っていた。
三十代半ばほどだろうか。茶色のコートを着た、ごく普通の女性だった。
その足元にはヨーテリーが座っている。
「探偵さん?」
女性が尋ねた。
「ああ。俺がクロバです」
「ほんまに探偵なん?」
「その質問、結構傷つくんですけど」
ロトムが横から口を挟んだ。
「肩書き上は探偵ロト」
「余計なこと言うな」
女性は少し困ったように笑った。
「ちょっと、調べてもらいたいことがあるんです」
クロバの表情が変わった。
ほんの少しだけ。
それまで眠そうだった目から、気怠さが消えた。
「二階で聞きましょう」
探偵事務所のテーブルを挟み、クロバと女性が向かい合った。
女性の名前はミナミ。
コガネシティ北側で小さな雑貨店を営んでいるという。
「変なこと言うようやけど……最近、うちの店に、同じ人が何人も来るんです」
クロバが眉を寄せた。
「同じ人?」
「顔も服も、ぜんぶ同じ。でも違う人なんよ」
「どうしてそう思うんです?」
ミナミは鞄からロトムスマホを取り出した。
写真を表示する。
店内の防犯カメラから切り抜いた画像だった。
帽子を被った若い男が映っている。
次の画像。
同じ男。
その次も。
同じ男。
「三日間、毎日来とる。でもな」
ミナミは画面を拡大した。
「一日目は右利きやったんよ。二日目は左利き。三日目は……」
クロバが身を乗り出した。
三枚目。
男がヨーテリーを見ている。
その表情が、異様だった。
「ヨーテリーがめちゃくちゃ怯えたんです。普段、人に吠えたりせえへん子やのに」
足元のヨーテリーが小さく鳴いた。
「ワン……」
ロトムが聞き取る。
「この人、匂いがおかしかったって言ってるロト」
「匂い?」
「人間じゃない匂い。でも知ってる匂いだったロト」
クロバは数秒考えた。
「何か盗まれました?」
「薬です」
「薬?」
「ポケモン用の傷薬とか、なんでもなおしとか。大量やない。ちょっとずつ」
「金は?」
「触られてへん」
クロバは腕を組んだ。
右手首のポケッチが淡く光る。
「同じ顔の人間。毎回挙動が違う。ポケモンが人間じゃないと言っている」
ロトムがくるりと回った。
「メタモンロト?」
「普通ならな」
クロバは三枚目の写真を見た。
「でもメタモンなら、変身する対象を見ないといけない」
「昔見た相手に変身した可能性は?」
「メタモンの変身はそこまで都合よくない。少なくとも、この精度で記憶だけを頼りに同じ人間へ何度も変身するなんて聞いたことがない」
クロバは立ち上がった。
「現場を見ましょう」
雑貨店を調べても、目立った痕跡は残っていなかった。
鍵は壊されていない。
窓も正常。
防犯装置にも異常なし。
それなのに商品だけが消えている。
クロバはしゃがみ込み、床を指でなぞった。
微かに油っぽい汚れ。
「ロトム」
「分析するロト」
スマホから光が伸びた。
「機械油。消毒薬。それと微量のポケモン用栄養剤成分ロト」
「店には?」
「こんなん使ってへんよ」
ミナミが答えた。
クロバは立ち上がった。
「ルカリオ」
腰のプレミアボールを投げる。
白い光と共にルカリオが現れた。
「ルカ」
「この周辺。妙な波動がないか見てくれ」
ルカリオが目を閉じた。
耳が小さく動く。
しばらくして、目を開いた。
「ルカ」
「何かいるロト。裏路地」
クロバたちは店の裏へ回った。
狭い路地。
ゴミ箱。
室外機。
雑居ビルの壁。
何もない。
だがルカリオは、一台の室外機の裏を指差した。
クロバが覗き込む。
そこにいた。
紫色の、小さな塊。
「……メタモン」
メタモンだった。
だが普通ではない。
体表は乾き、あちこちに傷がある。
そして身体の側面には、注射針を刺したような小さな痕がいくつも残っていた。
「モ……ン……」
クロバが手を伸ばした瞬間。
メタモンの身体が揺れた。
一瞬で形が変わる。
クロバになった。
ジーンズ。
Tシャツ。
ジャケット。
サングラス。
ブーツ。
右手のポケッチ。
左手のゼンブイリング。
何一つ違わない。
目の前にもう一人、完璧なクロバが立っていた。
「……俺を見て変身した?」
ロトムが叫んだ。
「違うロト! クロバが来る前から変身を始めてたロト!」
クロバの顔から表情が消えた。
偽物のクロバがこちらを見る。
そして──。
「来るな!」
喋った。
ミナミが息を呑む。
クロバ自身も驚いた。
メタモンは普通、人間へ変身しても人間の言葉までは使えない。
「来るな……来るな……!」
偽物のクロバが頭を抱えた。
その姿が崩れる。
次の瞬間、ルカリオ。
さらにヨーテリー。
ゴミ箱。
街灯。
カイリュー。
クロバの知らない男。
またメタモン。
次々と姿が変わる。
何も見ていない。
完全に記憶だけで。
「ロトム。こいつ、何て言ってる」
メタモンへ戻った個体が震えている。
「……怖いって言ってるロト」
「何が?」
ロトムが黙った。
珍しく、声から軽さが消えていた。
「薬が熱い。身体が痛い。失敗すると殴られる。もっと上手く変われって言われる。ずっと変われって言われる」
クロバの手が止まった。
「他にもいるのか?」
メタモンが震えながら頷いた。
「何匹?」
ロトムが訊く。
返事を聞いたロトムが、ゆっくりクロバを見る。
「いっぱい、って言ってるロト」
クロバはサングラスを外した。
その下の目は、もう眠そうではなかった。
「仕事だな」
「依頼料どうするロト?」
「後で考える」
「またそれロト」
「今はこいつをポケモンセンターへ運ぶ」
クロバがメタモンを抱き上げた。
一瞬、メタモンが怯える。
「大丈夫だ」
クロバは静かに言った。
「もう変身しなくていい」
その言葉を聞いた瞬間。
メタモンの身体から力が抜けた。
♢
ポケモンセンターで検査を受けた結果は、想像以上に酷いものだった。
複数の薬物。
異常な筋力増強剤。
神経刺激剤。
変身能力に関係すると考えられる未知の化合物。
身体能力は通常個体を遥かに超えている。
しかし代償として内臓、神経、筋肉のすべてに深刻な負担がかかっていた。
「これ、人為的やね」
ジョーイが険しい顔で言った。
「自然にこうなったとは考えにくいわ」
「助かりますか」
「この子はな。せやけど、同じ薬をもっと長く使われとる子がおったら……分からへん」
クロバは黙った。
ベッドで眠るメタモンを見る。
小さな身体だった。
人間にも。
ポケモンにも。
物にもなれる。
その能力だけを欲しがった誰かに、徹底的に壊されかけていた。
♢
夕方。
クロバはコガネゲームコーナーには行かなかった。
事務所へ戻り、ロトムと二人で防犯カメラ映像、盗難記録、警察発表、ネット上の目撃情報を洗った。
似た事件は七件。
ポケモン用品店。
倉庫。
薬局。
配送センター。
どれも少量ずつ盗まれている。
そして、犯人の外見が毎回違う。
警備員。
店員。
配達員。
警察官。
「全部、メタモンなら説明できる」
「でも何で少量ずつロト?」
「試験だ」
クロバが言った。
「能力試験。どこまで自然に人間社会へ紛れられるか試してる」
「目的は?」
「盗みだけじゃない」
クロバは画面を指差した。
「人間に完璧に化けられるポケモンを作れるなら、使い道はいくらでもある。窃盗。詐欺。侵入。誘拐。情報収集」
「悪趣味ロト」
「ああ」
翌朝。
ルカリオの波動探知と、メタモン自身の証言から場所は絞られた。
コガネシティ南西部。
使われなくなった物流倉庫。
表向きは廃業したポケモン用品卸会社の倉庫だった。
夜。
クロバは一人で建物の前に立っていた。
「一人じゃないロト」
肩の横にロトム。
隣にはルカリオ。
上空にはカイリュー。
そして背後にはカブトプス。
バクフーンが静かに炎を揺らす。
「そうだな」
クロバは腰のプレミアボールに触れた。
「行くぞ」
倉庫内部には、十二人。
地下にさらに六人。
そして。
「ポケモンの波動、二十以上ロト」
ルカリオが低く唸った。
地下へ下りる。
そこでクロバが見たものは、檻だった。
何列も並ぶ檻。
その中に。
メタモン。
メタモン。
メタモン。
十匹を超える紫色の身体が閉じ込められていた。
痩せている。
傷だらけ。
中には身体が不自然に震えている個体もいた。
壁際には薬品。
注射器。
モニター。
そして大型の透明な実験槽。
「誰やお前!」
男たちが振り返った。
クロバは答えなかった。
一匹のメタモンを見ていた。
檻の中で、カイリューの姿へ変わる。
クロバのカイリューではない。
記憶の中にいるカイリュー。
それが咆哮した。
鋼鉄製の檻が歪んだ。
「薬の効果、想定以上ロト!」
「止めろ!」
研究員らしい男が叫ぶ。
「制御薬を入れろ!」
別の男が注射器を手にする。
クロバが動いた。
「ルカリオ!」
ルカリオが飛び出す。
男の手から注射器だけを弾き飛ばした。
「何しよんねん!」
「探偵」
クロバはサングラスの奥から男を見る。
「こいつらを返してもらう」
男が笑った。
「アホか。そいつらにいくらかかっとる思てんねん!」
「知るか」
「こいつらは商品や!」
その一言だった。
空気が変わった。
バクフーンの首元から紫色の炎が揺らめいた。
カブトプスが鎌を構える。
カイリューの目から温厚さが消える。
ルカリオは静かに拳を握った。
ロトムだけが言った。
「クロバ」
「分かってる」
クロバはジャケットのポケットに手を入れた。
「壊すなよ。建物も、人間も」
「ポケモン達には言わなくていいロト?」
「そっちは全力で助ける」
戦闘は短かった。
犯罪者たちのポケモンは弱くなかった。
しかしクロバの手持ちは、その遥か上にいた。
ルカリオが波動で死角の敵を読み、
カブトプスが檻の錠を正確に切断し、
カイリューが暴走したメタモンを力で押さえ、
バクフーンが炎を壁のように展開して、逃げ道だけを塞ぐ。
それでも最大の問題は、強化されたメタモンたちだった。
何匹ものメタモンが変身する。
バンギラス。
ハッサム。
カイリュー。
ルカリオ。
ギャラドス。
そして──。
クロバ。
五人のクロバが並んだ。
「気持ち悪いロト」
「俺もそう思う」
偽物たちはそれぞれプレミアボールを構える仕草まで再現している。
ロトムが叫ぶ。
「身体能力までコピーされてないロト! でも薬物強化分だけ人間状態でもかなり強い!」
一人が飛びかかってくる。
クロバは避けた。
拳がコンクリートの壁へ突き刺さった。
壁が砕けた。
「……人間に化けて出していい力じゃないだろ」
二人目。
三人目。
クロバは逃げる。
攻撃はしない。
「クロバ!?」
「こいつらは敵じゃない!」
暴れているのは苦痛と恐怖のせいだ。
ルカリオが理解した。
波動を広げる。
そして見つける。
部屋の奥。
大型装置。
そこから発せられている高周波。
メタモンを興奮状態にしている。
「ルカ!」
「それか!」
カブトプスが動いた。
鋭い鎌が一閃する。
配線だけが切断された。
装置が沈黙した。
瞬間。
偽物のクロバたちが次々と崩れた。
紫色のメタモンへ戻る。
床へ倒れる。
「ロトム!」
「生きてるロト!」
クロバが駆け寄った。
「救急要請。ポケモンセンターと警察にも連絡」
「もうやってるロト!」
背後で犯罪者の一人が逃げようとした。
ルカリオが振り返る。
男が止まった。
「……逃げたら?」
ロトムが訳す。
「追いかけるって言ってるロト」
「逃げへん! 逃げへんからそのルカリオ睨ませるんやめてくれ!」
数時間後。
夜明け前のコガネシティ。
倉庫から次々とメタモンが運び出されていった。
逮捕されたのは二十一人。
彼らはポケモン泥棒、密売人、非合法研究者らが集まって作った犯罪グループだった。
大きな思想もない。
世界征服など考えていない。
ただ金のためにポケモンを捕まえ、壊し、利用していた。
だからこそ。
クロバには、妙に腹が立った。
数日後。
クロバはポケモンセンターを訪れた。
最初に助けたメタモンの病室だった。
「元気そうだな」
「モン!」
メタモンがベッドから飛び降りる。
そして変身した。
クロバ。
「……また俺か」
「モン!」
次にルカリオ。
次にカイリュー。
次にロトムスマホ。
最後に、普通のメタモンへ戻った。
ジョーイが笑った。
「この子な、ずっとあんた待っとったで」
「俺を?」
「退院できるんやけど、野生に戻すか保護施設へ送るか決めなあかんくてな」
クロバがメタモンを見る。
メタモンもクロバを見上げている。
「野生に戻りたいか?」
メタモンは首を横に振った。
「保護施設?」
また横。
「じゃあ、どうしたい?」
メタモンが跳ねた。
クロバの腰を指す。
プレミアボール。
「……まさか」
「モン!」
ロトムが笑った。
「一緒に行きたいって言ってるロト」
クロバは頭を掻いた。
「うち、狭いぞ」
「モン!」
「金もない」
「モン!」
「仕事もほとんどない」
「それはクロバが悪いロト」
「お前には聞いてない」
クロバは腰から新品のプレミアボールを取り出した。
白いボール。
中央に赤いライン。
「それでも来るか?」
メタモンが笑ったように見えた。
「モン!」
クロバがボールを軽く投げた。
メタモンが自分から触れる。
赤い光。
ボールの中へ吸い込まれた。
一度。
二度。
三度。
カチッ。
静かな電子音が響く。
クロバはプレミアボールを拾い上げた。
「……よろしくな、メタモン」
ボールが小さく揺れた。
その日の午後。
《クロバ探偵事務所》。
「クロバ」
「何だ」
「家賃払ってないロト」
クロバはソファに横になったまま天井を見た。
「事件解決したんだから報酬が入るだろ」
「依頼人から受け取った報酬、一万二千円ロト」
「十分だ」
「今回の調査費、交通費、食費、壊した倉庫設備の確認その他で差し引き──」
「待て」
「ほぼゼロロト」
沈黙。
机の上でメタモンが笑っている。
「モンモン」
「お前まで笑うな」
メタモンの身体が変わった。
店主になった。
腰に手を当てる。
そして、記憶していた声で言った。
「クロバくーん! 家賃まだー!?」
クロバが勢いよく起き上がった。
「それ覚えなくていい!」
ロトムが大笑いした。
一階から本物の声が飛んできた。
「クロバくーん! おるんやったら返事しぃやー!」
クロバはサングラスをかけた。
窓を見る。
しばらく考えて。
「……ゲームコーナー行くか」
「働けロト!」
こうしてクロバ探偵事務所に、新しい仲間が一匹増えた。
記憶だけで、人にも。
ポケモンにも。
物にも。
完璧に変身できる。
世界でも、おそらく他に例のないメタモン。
この時クロバはまだ知らなかった。
金のためにメタモンを改造していた小さな犯罪グループ。
その事件で押収された薬物の成分の中に──。
現在のジョウト地方では、採取できるはずのない物質が混じっていたことを。
そしてそれが、遠く離れた地方でかつて起きたある事件へと繋がっていくことを。
今のクロバにとって重要なのは、そんなことではない。
今月の家賃だった。