チャラ男に彼女をNTRられた僕だけど..... 作:サイキック探偵
出発の日まで、あと三週間。
家の中は少しずつ慌ただしくなっていった。
母さんは旅行用の大きなバッグを買ってきてくれた。
「荷物、入りきるかしら」
「多分、大丈夫」
「足りなかったら向こうで買えばいいわね」
笑おうとしているのが分かる。
でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。
◇◇◇
数日後。
久しぶりに外へ出た。
必要な生活用品を買うためだ。
服。
タオル。
歯ブラシ。
ノート。
筆記用具。
その他諸々を買っていく
一人暮らしで必要になりそうな物を少しずつ揃えていく。
街を歩いていると、ふと見覚えのある制服姿が目に入った。
反射的に顔を伏せる。
(学校の生徒……)
胸が大きく脈打つ。
気付かれたくない。
話しかけられたくない。
急いで路地へ入る。
数秒後。
恐る恐る振り返ると、その生徒は僕に気付くことなく通り過ぎていった。
「……はぁはぁ...」
思わずその場にしゃがみ込む。
まだ駄目なんだ。
制服を見るだけで身体が震える。
自分でも情けなく涙が込み上げてくる
◇◇◇
その日の夕方。
家へ帰る途中で一人の人物と鉢合わせた。
「……悠真?」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
「隼...人」
制服姿の隼人が立っていた。
「買い物か?」
「うん」
「そうか」
少し気まずい空気が流れる。
隼人は僕が持っている紙袋を見て、小さく笑った。
「準備か」
「うん」
「聞いたぞ」
「県外行くんだってな」
「父さんから?」
「先生経由でな」
隼人は少しだけ空を見上げた。
「寂しくなるな」
「……ごめん」
「だから謝るなって」
隼人は苦笑する。
「お前が決めたことなら応援する」
「ありがとう」
◇◇◇
二人は近くの公園へ向かった。
高校へ入学する前、中学生の頃によく遊んでいた場所だった。
ベンチへ腰掛ける。
しばらく無言。
風だけが木々を揺らしていた。
「向こう行ったら」
隼人が口を開く。
「友達作れよ」
「……できるかな」
「できるさ」
「悠真は優しいから」
その言葉に苦笑する。
「優しいだけじゃ駄目だったけどね」
思わず漏れた言葉。
隼人はすぐに首を横へ振った。
「違う」
「悪いのは神崎だ」
「それだけは忘れるな」
僕は何も言えなかった。
すると隼人がポケットから小さな箱を取り出した。
「これ」
「え?」
「餞別」
箱を開ける。
中にはシンプルな腕時計が入っていた。
「社会人になるなら必要だろ」
「隼人……」
「安物だけどな」
僕は首を横へ振る。
「嬉しい」
「本当にありがとう」
「壊すなよ」
「今度はスマホみたいにな」
その冗談に、二人とも少しだけ笑った。
あの日以来。
初めて自然に笑えた気がした。
◇◇◇
帰り際。
隼人は僕の肩へ拳を軽く当てる。
「悠真」
「何?」
「絶対生きろよ」
「……」
「どんなに辛くても」
「逃げてもいい」
「格好悪くてもいい」
「だから生きろ」
最後に僕の目をギュッと見つめ
「生きてくれ」
その言葉は、親友からの約束だった。
僕はゆっくり頷く。
「うん」
「約束する」
この約束が。
数年後。
絶望の中で蹲る一人の少女を救う理由になることを、この時の二人はまだ知らなかった。
_________________
出発の日まで、あと一週間。
部屋の中は段ボール箱でいっぱいになっていた。
本棚に並んでいた漫画。
昔集めていたゲーム。
アルバム。
使わなくなった教科書。
一つずつ荷物をまとめていく。
荷物を整理していると、一冊のアルバムが床へ落ちた。
「……」
開くつもりはなかった。
でも、ページは勝手に開いてしまう。
そこに写っていたのは、高校の入学式。
僕と隼人が肩を組んで笑っている写真。
その少し後ろには、美咲も写っていた。
まだ何も知らなかった頃の笑顔。
「……」
そっとアルバムを閉じる。
もう振り返らない。
そう決めたんだ。
◇◇◇
夜。
夕飯を食べ終えると、父さんが封筒を持ってきた。
「悠真」
「これを持っていけ」
「……?」
中を開く。
まとまったお金が入っていた。
「父さん、こんなに」
「生活が落ち着くまでの資金だ」
「でも」
「返さなくていい」
「親なんだから」
思わず目頭が熱くなる。
「ありがとう」
「向こうへ行ったら無理するな」
「困ったらすぐ連絡しろ」
「うん」
母さんも横で微笑む。
「困ったらこまめに連絡してね!」
「お腹すいたりしたらすぐにお米やおかず送ってあげるからね!」
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
「ありがとう」
この家族だから。
ここまで立ち直れたのかもしれない。
◇◇◇
僕は窓から夕焼けを眺める。
あと数日で、この景色ともお別れだ。
生まれ育った街。
初恋をした街。
そして、一番大切なものを失った街。
「さようなら」
まだ早い。
でも心の中では、もうこの街に別れを告げていた。
数日後。
朝霧悠真は、過去を捨て未来に進むために列車へ乗り込む。
____________________
出発の日。
まだ空が薄暗い早朝だった。
玄関には、大きな旅行バッグと段ボールが一つ。
荷物はそれだけ。
十八年間暮らした家を出るには、あまりにも少ない荷物だった。
母さんは朝早くから起きて、お弁当を作ってくれていた。
「向こうで食べてね」
「ありがとう」
父さんは車の鍵を手に取る。
「駅まで送る」
「うん」
玄関を出る前、僕は一度だけ家の中を振り返った。
リビング。
廊下。
自分の部屋。
どれも見慣れた景色だ。
「行ってきます」
そう口にした瞬間。
母さんの目から涙がこぼれた。
「……体に気を付けてね」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「無理しちゃ駄目だからね」
「困ったらすぐ帰ってきなさい」
何度も何度も言葉を重ねる。
「うん」
それしか言えなかった。
父さんは僕の肩を軽く叩く。
「行こう」
僕は静かに頷いた。
◇◇◇
駅までは車で三十分。
窓の外を流れる景色を眺める。
通っていた中学校。
高校へ続く道。
よく寄ったコンビニ。
何度も歩いた商店街。
一つ一つが思い出だった。
だけどもう。
二度と戻ることはないかもしれない。
◇◇◇
駅へ着くと、ホームにはすでに数人の乗客が並んでいた。
スーツ姿の会社員。
旅行客。
学生。
みんなそれぞれの人生を歩いている。
僕も今日から新しい人生を始める。
「悠真!」
後ろから声が聞こえた。
振り返る。
「隼人!」
息を切らしながら走ってきた隼人だった。
「間に合った……」
「なんで」
「見送りに決まってんだろ」
そう言って笑う。
「学校は?」
「サボったよ」
「怒られるよ」
「今日くらいいいだろ」
二人で笑う。
「これ」
隼人が紙袋を差し出した。
「また?」
「今度は飯だ」
中にはレトルトカレーやインスタント味噌汁、お菓子がたくさん入っていた。
「社会人は忙しいって母ちゃんが言ってた」
「だから簡単に食える物」
「ありがとう」
「本当にありがとう」
言葉にすると涙が出そうになる。
「泣くなよ」
「まだ泣いてない」
「目、赤いぞ」
「……うるさい」
二人で少し笑った。
◇◇◇
やがて発車ベルが鳴る。
電車がホームへ滑り込んできた。
「時間だな」
隼人が小さく呟く。
「うん」
僕は荷物を持ち上げる。
「隼人」
「なんだ」
「今までありがとう」
「礼はいい」
「また会おう」
「絶対な」
「うん」
固く握手を交わす。
それだけで十分だった。
◇◇◇
電車へ乗り込む。
窓際の席へ座る。
発車ベルがもう一度鳴った。
ゆっくりと列車が動き出す。
ホームでは父さんと母さん。
そして隼人が大きく手を振っていた。
僕も小さく手を振り返す。
景色が少しずつ遠ざかっていく。
生まれ育った街。
高校。
美咲。
神崎。
全部が遠くなっていく。
「さようなら」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
その瞬間。
朝霧悠真の高校時代は、本当の意味で終わりを迎えた。
この旅立ちは逃げではない。
もう一度、自分の人生を歩き始めるための第一歩だった。
そして数年後。
仕事にも慣れ、穏やかな生活を送るようになった彼は――
ある雨の夜。
路地裏で一人の少女と出会う。
___________________
電車に揺られ、何時間が経っただろう。
窓の外の景色は、もう見慣れた街並みではなくなっていた。
高いビル。
知らない駅名。
初めて見る景色。
それらをぼんやり眺めながら、僕は一つだけ思う。
(本当に来たんだな)
もう後戻りはできない。
この街には僕を知る人はいない。
高校での出来事も。
美咲のことも。
神崎のことも。
誰も知らない。
それだけが、少しだけ心を軽くしてくれた。
◇◇◇
終点の一つ手前の駅で降りる。
ホームへ足を踏み出すと、知らない街の空気が肌を撫でた。
「ここが……僕の新しい街」
小さく呟く。
スマホで送られてきた地図を確認しながら歩き始める。
駅前には飲食店が並び、スーツ姿の会社員や学生が忙しそうに歩いている。
僕もその流れに混じりながら歩く。
十五分ほど歩くと、一棟の古い建物が見えてきた。
『社員寮』
看板にはそう書かれていた。
「ここか」
深呼吸を一つして中へ入る。
◇◇◇
「おう、新人か」
受付には五十代くらいの男性が座っていた。
体格が良く、少し怖そうな顔をしている。
思わず背筋が伸びる。
「朝霧悠真です」
「今日からお世話になります」
「そんな固くなるな」
男性は笑いながら立ち上がった。
「俺は寮長の大島だ」
「よろしくお願いします」
「部屋は二〇三号室」
「共同生活だから最低限のルールだけ守ってくれ」
「まぁルールつっても騒がない、汚さないとかそんなところだそれ以外は特になんもねぇよなんなら女の1人や2人連れ込んでも文句は言わねぇよ」
とニヤニヤと笑いながら言う大島さんだが【彼女】と言う言葉がとても冗談で聞ける状態ではなかった
「......はい、分かりました」
と返事をしそそくさと鍵を受け取り、二階へ上がる。
廊下には少し年季が入っているけど、綺麗に掃除されていた。
二〇三号室。
鍵を回し、ゆっくり扉を開ける。
◇◇◇
「……」
六畳ほどの小さな部屋。
ベッド。
机。
椅子。
小さなクローゼット。
窓からは街並みが見える。
決して広くはない。
でも。
「今日から……ここが僕の家か」
荷物を床へ置く。
しばらく部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
寂しい。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
この部屋には、過去の思い出が一つもない。
だからこそ、ここからやり直せる気がした。
◇◇◇
夕方になると、寮長が部屋を訪ねてきた。
「朝霧」
「はい」
「明日は朝七時に集合だ」
「仕事の説明と職場案内をする」
「分かりました」
「今日はゆっくり休め」
「ありがとうございます」
寮長が帰ったあと、僕は窓を開けた。
夕焼けが街を赤く染めている。
知らない街。
知らない人たち。
そして知らない毎日。
不安はある。
でも。
「頑張ろう」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
この街では。
もう過去に縛られない。
そう心に誓いながら、僕は新しい生活の最初の夜を迎えた。
__________________
翌朝。
午前六時。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
慣れない場所だからか、あまり眠れなかった。
「……今日からだ」
顔を洗い、鏡を見る。
高校時代の制服姿ではない。
会社から支給された作業着に袖を通す。
胸元には会社の名前が刺繍されていた。
鏡の中の自分は、もう高校生ではない。
一人の社会人として、新しい人生を歩き始めるんだ。
◇◇◇
午前七時。
寮の前には数人の社員が集まっていた。
「おっ、新人だ」
「今年は一人だけか」
「若いな」
みんな気さくに話しかけてくれる。
高校で人の視線が怖くなっていた僕は、少し戸惑いながらも頭を下げた。
「朝霧悠真です」
「よろしくお願いします」
すると大島寮長が手を叩く。
「よし、全員揃ったな」
「会社まで送るぞ」
社員たちはワゴン車へ乗り込んでいく。
僕も最後尾へ座った。
◇◇◇
二十分ほどで会社へ到着した。
大きな工場。
何台ものトラックが出入りしている。
「でか……」
思わず声が漏れる。
「最初はみんなそう言う」
隣の先輩社員が笑った。
「そのうち慣れるさ」
会社へ入ると、朝礼が始まった。
何十人もの社員が整列している。
その人数に圧倒されていると、一人の女性が前へ出てきた。
「静かに」
落ち着いた、よく通る声だった。
その一言だけで、ざわついていた社員たちが一斉に静かになる。
僕も思わずその人を見る。
年齢は二十代後半くらい。
肩まで伸びた黒髪を一つにまとめ、きっちりと作業着を着こなしている。
凛とした雰囲気で、背筋も真っ直ぐ。
優しさよりも「頼れる」という言葉が似合う女性だった。
「今日から新人が一名配属されます」
社員たちの視線が僕へ集まる。
「朝霧君」
「はい!」
「前へ」
緊張しながら前へ出る。
「自己紹介をお願いします」
「は、はい」
深呼吸を一つする。
「今日からお世話になります」
「朝霧悠真です」
「まだ分からないことばかりですが、一生懸命頑張ります」
「よろしくお願いします!!」
一礼すると、社員たちから温かい拍手が起こった。
その拍手に少しだけ胸が軽くなる。
ここには誰も僕の過去を知らない。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
◇◇◇
朝礼が終わると、先ほどの女性が僕の前まで歩いてきた。
「朝霧君」
「はい」
「私は君の教育係になります」
そう言って軽く頭を下げる。
「桐島紗希です」
「製造第二課の主任をしています」
「よろしくお願いします」
僕も慌てて頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
桐島さんは一見すると厳しそうだった。
でも、その目には新人を見下すような色はない。
真っ直ぐで、誠実な人だということが何となく伝わってきた。
「緊張していますか?」
「……少し」
「大丈夫」
桐島さんは小さく微笑む。
「最初から完璧な人なんていません」
「失敗するのも仕事です」
「だから焦らなくて大丈夫ですよ」
その優しい言葉に、僕は少しだけ驚いた。
厳しい人だと思っていた。
でも違った。
この人は――
新人が安心できるように、ちゃんと気を配ってくれる人なんだ。
「ありがとうございます」
「では行きましょう」
桐島さんは歩き始める。
僕もその後ろを追いかけた。
___________________
桐島さんの後を歩きながら、工場の中を見て回る。
広い。
思っていた以上に広かった。
機械の動く音。
フォークリフトの走る音。
社員同士が交わす大きな声。
高校とはまったく違う空間だった。
「まずは施設の案内からします」
「はい」
桐島さんは歩く速度を少し落とした。
僕がついて来られるように気を遣ってくれているのだろう。
「ここが休憩室」
「こちらが更衣室」
「食堂は二階です」
「お昼休みは十二時から一時間」
一つ一つ丁寧に説明してくれる。
僕は必死にメモを取った。
「そんなに急いで書かなくても大丈夫ですよ」
「え?」
「あとで資料も渡しますから」
「あ……すみません」
「ふふ...謝る必要はありません」
桐島さんは少しだけ笑った。
「真面目...なんですね」
「そう……ですか?」
「ええ」
「今どき珍しいくらいに、だからとても好感が持てますよ」
その言葉に少しだけ照れてしまう。
昔から真面目だとは言われてきた。
でも、それを褒められたのは初めてだ
◇◇◇
一通り案内が終わると、製造第二課へ案内される。
「みんな、少し集まって」
桐島さんが声を掛けると、作業をしていた社員たちが集まってきた。
「今日から配属された朝霧君です」
「よろしくお願いします!」
頭を下げる。
「おっ、本当に若いな」
「俺の息子より若いぞ」
「頑張れよ」
笑い声が上がる。
その中から、一人の男性が前へ出てきた。
三十代前半くらいだろうか。
少し茶色がかった髪で、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「俺は佐伯」
そう言って手を差し出してきた。
「よろしくな」
「よろしくお願いします」
握手を交わす。
「朝霧君」
「はい」
「主任の言うことだけ聞いてれば一人前になれるから安心しろ」
「ちょっと、佐伯さん!」
桐島さんが少し呆れたような顔をする。
「また変なこと言って」
「変じゃないですよ」
「主任、本当に面倒見いいじゃないですか」
「そういうことは本人の前で言わなくていいです」
少しだけ頬を赤くする桐島さん。
そんな姿を見て、社員たちが笑う。
「照れてる照れてる」
「うるさいです」
「皆さん仕事してください」
一斉に持ち場へ戻っていく社員たち。
その様子を見て、僕は少し驚いた。
(こんな雰囲気なんだ)
もっと殺伐としている職場を想像していた。
だけど違う。
冗談を言い合えるくらいには、みんな仲がいい。
◇◇◇
「朝霧君」
桐島さんが小さく手招きする。
「こちらへ」
案内されたのは作業台だった。
「今日は難しいことはしません」
「まずは見学です」
「はい」
「仕事は焦って覚えるものではありません」
「安全第一です」
真剣な表情でそう言う桐島さん。
その姿を見ていると、この人が周囲から信頼されている理由が何となく分かる気がした。
「それと」
桐島さんは少しだけ表情を柔らかくする。
「困ったことがあったら、遠慮せず私に相談してください」
「仕事のことでも」
「寮のことでも」
「この街のことでも」
「一人で抱え込まないこと」
その言葉に、僕は少しだけ息を飲む。
一人で抱え込まない。
高校時代、一番できなかったことだ。
「……はい」
今度は自然に返事ができた。
新しい街。
新しい仕事。
そして、新しい出会い。
朝霧悠真の止まっていた時間は、少しずつ、ゆっくりと動き始めていた。
_________________
その日の仕事は、見学だけで終わった。
機械の名前。
工具の使い方。
作業の流れ。
覚えることは山ほどある。
正直、頭の中はいっぱいだった。
「今日はここまでです」
桐島さんが資料を閉じる。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
思わず大きな声で返事をする。
すると近くで作業していた佐伯さんが笑った。
「元気だけは百点だな」
「ぁ...ははは……」
少し恥ずかしくなる。
「でも悪くない」
桐島さんも優しく微笑んだ。
「返事は仕事の基本ですから」
その一言だけで、少しだけ肩の力が抜けた。
◇◇◇
帰りの送迎車。
僕は窓の外を眺めていた。
知らない街並みが流れていく。
「疲れたか?」
隣に座った佐伯さんが缶コーヒーを差し出してくる。
「ありがとうございます」
「初日はみんなそんなもんだ」
「俺なんか初日にフォークリフトと壁ぶつけそうになって主任に怒られたし」
「えっ」
「まあ未遂だけどな」
豪快に笑う佐伯さん。
その様子に、僕もつられて笑ってしまう。
「珍しい」
前の席から桐島さんが振り返る。
「佐伯さんが新人を一日で笑わせるなんて」
「主任が怖すぎるから俺がフォローしてるんですよ」
「誰が怖いんですか」
「主任です」
「今月の残業、増やしましょうか?」
「すみませんでした!」
「「「ハハハハ!!」」」
車内に笑い声が響く。
その空気が心地良かった。
高校では、あんな風に自然に笑うことなんて、最後の方はもうできなかったから。
◇◇◇
寮へ戻ると、大島寮長が缶ビールを片手にテレビを見ていた。
「お、初日お疲れ」
「ただいま戻りました」
「どうだった」
「皆さん優しい人ばかりでした」
「だろ?」
大島さんは嬉しそうに笑う。
「あそこの主任は特に面倒見がいい」
「桐島主任ですか」
「昔から新人が辞めないように必死なんだよ」
「そうなんですね」
「仕事には厳しいが、人は見捨てねぇ」
その言葉に、今日一日の桐島さんの姿が浮かぶ。
緊張している僕を気遣い、焦らなくていいと言ってくれた。
一人で抱え込まないようにとも言ってくれた。
(……いい人だな)
自然とそう思えた。
◇◇◇
夜。
部屋へ戻る。
ベッドへ倒れ込むと、全身が重かった。
「疲れた……」
でも、その疲れは嫌なものじゃない。
ちゃんと働いた証拠だ。
机の上には、今日桐島さんから渡された資料が置いてある。
ページを開く。
手書きで小さく書き込まれたメモが目に入った。
『分からないことがあれば、いつでも聞いてください』
『焦らず、一つずつ覚えていきましょう』
その短い言葉を見て、思わず笑みがこぼれる。
「……明日も頑張ろう」
高校を辞めてから初めてだった。
“明日が来ること”を、少しだけ楽しみに思えたのは。
この街での生活は、まだ始まったばかり。
そして、この職場には。
朝霧悠真の心を少しずつ癒やしてくれる人たちが確かにいた
________________
仕事を始めて、3週間。
最初は何も分からなかった僕も、少しずつ工場の雰囲気に慣れ始めていた。
「朝霧君」
「はい!」
「今日は部品の検品を一人でやってみましょう」
「もちろん、分からなくなったらすぐ呼んでくださいね」
「はい!」
桐島さんに教わった通り、一つ一つ確認していく。
焦らない。
確認を怠らない。
それだけを意識して作業を続けた。
「いい調子ですね」
後ろから声が聞こえる。
振り返ると桐島さんが僕の作業を見ていた。
「えっ」
「ちゃんと確認しながら作業できています」
「このままで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
褒められることに慣れていない僕は、少し照れてしまう。
「ふふっ」
桐島さんは小さく笑った。
「朝霧君は褒めるとすぐ顔に出ますね」
「えっ!?」
「今、少し嬉しかったでしょう?」
「……はい」
正直に答えると、桐島さんはまた笑った。
「素直なのは良いことですよ」
◇◇◇
仕事が終わり、更衣室へ向かう。
ロッカーを閉めると、佐伯さんが肩を組んできた。
「おい新人」
「はい?」
「明日休みだろ?」
「はい」
「みんなで飯行くぞ」
「え?」
「歓迎会だ歓迎会」
「主任も来るし」
「えっ、桐島主任もですか?」
「もちろん」
「新人歓迎会なんだから主役はお前だ」
そんなことを言われると緊張してしまう。
「気負うな」
「飯食って喋るだけだよ」
佐伯さんは笑いながら僕の背中を叩いた。
◇◇◇
翌日の夜。
会社の近くにある居酒屋。
十人ほどが集まり、歓迎会が開かれていた。
「朝霧!」
「飲め!」
「まだ未成年です!」
「あ、そうだった!」
店内に笑い声が響く。
その様子を見て、僕も自然と笑ってしまう。
「はい」
隣からコップが差し出される。
見ると桐島さんだった。
「ウーロン茶です」
「ありがとうございます」
コツン。
軽くグラスを合わせる。
「改めて、入社おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「無理はしていませんか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
優しく問いかけるその声に、一瞬だけ言葉が詰まる。
高校時代なら、「大丈夫です」と無理をして笑っていただろう。
でも今は少し違う。
「……少し疲れます」
正直に答えた。
「でも」
「毎日が充実しています」
その言葉を聞いた桐島さんは、安心したように微笑んだ。
「それなら良かったです」
◇◇◇
歓迎会が終わり、帰り道。
夜風が心地よかった。
「朝霧君」
「はい」
桐島さんが隣を歩く。
「来週で一か月ですね」
「そうですね」
「社会人になって最初のお給料が入ります」
その言葉に、僕は立ち止まった。
「あ……」
そうだ。
給料は一か月働いてから支払われる。
だから、まだもらっていなかったんだ。
「初めてのお給料は嬉しいですよ」
「何に使うか決めていますか?」
少し考える。
「……まだ決めてません」
「でしたら」
桐島さんは少しだけ照れくさそうに笑う。
「ご両親に何か贈ってみるのも素敵ですよ」
その一言で、父さんと母さんの顔が浮かんだ。
仕事も決まっていない僕を信じ、送り出してくれた二人。
「……そうですね」
「そうします」
心からそう思えた。
初めての給料は。
自分のためじゃなく、家族への「ありがとう」に使いたい。
そう決めた。
_________________
歓迎会から翌日
僕は仕事にも少しずつ慣れ始めていた。
失敗はまだ多い。
でも、その度に桐島さんや先輩たちが教えてくれる。
怒鳴られることはない。
「次はこうするともっとやりやすいですよ」
「ありがとうございます!」
毎日一つずつできることが増えていく。
それが少し嬉しかった。
◇◇◇
仕事終わり。
更衣室で着替えていると、佐伯さんが声を掛けてきた。
「なあ朝霧」
「はい?」
「もうすぐ初給料だろ」
「そうですね」
「何買うんだ?」
「まだ考えてます」
「ゲームか?」
「それとも服か?」
「いや……」
僕は少し笑う。
「親に何か贈ろうかなって」
一瞬、更衣室が静かになった。
「……へぇ」
佐伯さんは少し驚いたような顔をする。
「いい息子じゃねぇか」
「ガハハハ!確かにな!」
別の先輩社員も笑う。
「初給料で親にプレゼントなんて、俺は考えもしなかったぞ」
「俺なんか全部パチンコで消えた」
「最低ですね」
「主任!」
いつの間にか桐島さんが立っていた。
「新人に変なこと教えないでください」
「すみません!」
更衣室に笑い声が響く。
◇◇◇
会社を出ると、桐島さんが僕に声を掛けた。
「朝霧君」
「はい」
「もしプレゼントで迷っているなら、お買い物に付き合いましょうか」
「え?」
「この街に来たばかりでしょう?」
「どこに何があるか分からないと思って」
思わぬ申し出だった。
「でも、お忙しいんじゃ……」
「明日は私もお休みなんです」
「それに」
少しだけ微笑む。
「教育係として、新人のお手伝いくらいはしますよ」
僕は少し迷った。
一人で探すつもりだった。
でも、この街のことは何も分からない。
「……お願いします」
「はい」
桐島さんは嬉しそうに頷いた。
「では明日の十時に駅前で待ち合わせしましょう」
「遅刻しないでくださいね」
「はい!」
◇◇◇
翌日。
久しぶりの休日。
朝から少し緊張していた。
「何を贈れば喜ぶかな……」
父さん。
母さん。
二人とも欲しい物なんて聞いたことがない。
父さんは昔から物を大切に使う人だった。
母さんも「私は何もいらない」が口癖だ。
だから余計に難しい。
そんなことを考えながら駅へ向かう。
すると待ち合わせ場所には、すでに桐島さんが立っていた。
今日は仕事着ではない。
白いブラウスに紺色のロングスカート。
仕事中のきりっとした雰囲気とは少し違い、柔らかな印象だった。
「おはようございます」
「お、おはようございます!」
思わず少し緊張してしまう。
「ふふっ」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「今日は仕事じゃありませんから」
そう言って笑う桐島さんを見て、僕も少しだけ笑顔になる。
今日は、初めての給料で贈る「ありがとう」を探す一日が始まる。
_________________
駅前のショッピングモール。
休日ということもあり、多くの人で賑わっていた。
「結構大きいですね」
「この辺りでは一番大きなお店ですよ」
桐島さんは慣れた様子で館内へ入っていく。
僕もその後を追いかけた。
◇◇◇
「まずはお父さんへのプレゼントから考えましょう」
「はい」
二人は紳士用品売り場へ向かう。
ネクタイ。
財布。
ベルト。
腕時計。
どれも立派で、見ているだけで緊張してしまう。
「これなんてどうですか?」
桐島さんが一本のネクタイを手に取る。
紺色を基調にした落ち着いたデザイン。
「素敵ですね」
「お父さんはスーツを着るお仕事なんですか?」
「はい」
「営業の仕事をしています」
「でしたら普段使いできますね」
僕はネクタイを手に取る。
父さんがこれを着けて仕事へ行く姿を想像する。
自然と笑みが浮かんだ。
「これ……いいな」
◇◇◇
次は婦人用品売り場。
ストール。
バッグ。
アクセサリー。
化粧品。
「お母さんは何が好きなんですか?」
「料理です」
「あと花が好きで」
「家でもよく育ててました」
「なるほど」
桐島さんは少し考え込む。
そして一軒のお店へ入った。
「これなんてどうでしょう」
店員が並べていたのは、上品なエプロンだった。
落ち着いたベージュ色で、小さな花の刺繍が入っている。
「……綺麗」
思わず声が漏れる。
「お料理が好きなお母さんなら使ってくださるかもしれません」
母さんの姿が頭に浮かぶ。
毎日ご飯を作ってくれた母さん。
お弁当を作ってくれた母さん。
その姿に、このエプロンはよく似合う気がした。
「うん...これにします!!」
迷いはなかった。
◇◇◇
ネクタイとエプロン。
二つを持ってレジへ向かう。
「お会計はこちらです」
店員が笑顔で案内してくれる。
僕は財布を取り出そうとして——。
「あ……」
手が止まる。
財布の中には生活費しか入っていない。
まだ初任給は振り込まれていないのだ。
「どうしました?」
桐島さんが不思議そうに尋ねる。
僕は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「まだ……給料が入ってませんでした」
「あっ」
桐島さんも思い出したように小さく笑う。
「そうでしたね」
二人で顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。
◇◇◇
その様子を見ていた店員が優しく声を掛けてくれた。
「もしよろしければ、お取り置きもできますよ」
「取り置きですか?」
「はい」
「一週間でしたら無料でお預かりできます」
僕は桐島さんを見る。
桐島さんも微笑みながら頷いた。
「ちょうど初任給の日までですね」
「はい」
「それなら、お給料をもらってから改めて買いに来ましょう」
僕は店員へ向き直る。
「お願いします」
「かしこまりました」
店員は丁寧に伝票を書き始める。
商品には『お取り置き』と書かれた札が付けられた。
「初任給で買うからこそ、意味があります」
桐島さんが静かに言う。
「ご両親もきっと、その気持ちが一番嬉しいと思いますよ」
「……はい」
僕は大きく頷いた。
少し待つことになる。
でも、それでいい。
初めて自分で働いて稼いだお金で買うからこそ、このプレゼントには価値がある。
父さんと母さんへ。
今まで伝えきれなかった「ありがとう」を、この二つに込めよう。
そう心に決めた。
______________
取り置きの手続きを終え、店を出る。
ショッピングモールの通路を歩きながら、僕は何度も取り置き伝票を見返していた。
「嬉しそうですね」
隣を歩く桐島さんが、少しだけ笑う。
「分かりますか?」
「ええ」
「さっきからずっと伝票を見ていますから」
「あっ……」
慌てて伝票を財布へしまう。
少し恥ずかしくなってしまった。
「すみません」
「謝ることではありません」
桐島さんは優しく首を横に振る。
「そのくらい、ご両親のことが大好きなんですね」
その言葉に、自然と頷いていた。
「はい」
「高校を辞めた時も」
「何も言わずに支えてくれました」
「この街へ来る時も」
「背中を押してくれました」
「だから」
「初めてのお給料だけは」
「ちゃんと恩返しに使いたくて」
桐島さんは何も言わなかった。
ただ、穏やかに微笑んで聞いてくれていた。
◇◇◇
二人はショッピングモールのフードコートで少し休憩することにした。
それぞれ飲み物を買い、窓際の席へ座る。
「初任給って、不思議なんですよ」
桐島さんがジュースを一口飲む。
「不思議……ですか?」
「金額じゃないんです」
「自分の力で初めて稼いだお金って、それだけで特別なんですよ」
その言葉には実感がこもっていた。
「桐島さんも、ご両親に?」
「はい」
少し懐かしそうに笑う。
「私はお父さんに財布を」
「お母さんにはマフラーを贈りました」
「喜んでもらえましたか?」
「泣かれました」
「えっ」
「『こんなに立派になったんだね』って」
照れくさそうに笑う桐島さん。
仕事中には見せない、少し年相応の表情だった。
「……素敵ですね」
「朝霧君のご両親も、きっと喜びますよ」
その言葉を聞いて、胸が温かくなった。
◇◇◇
帰り道。
駅前で別れる前に、桐島さんが言った。
「初任給まで、あと一週間ですね」
「はい」
「その一週間も頑張りましょう」
「はい!」
「取り置きの商品が待っていますからね」
二人で笑う。
「今日はありがとうございました」
僕は深く頭を下げた。
「一人だったら、何を買えばいいか分かりませんでした」
「お礼を言うのはまだ早いですよ」
桐島さんは微笑む。
「無事にプレゼントを渡せてからです」
「そうですね」
「その時は、ぜひ感想を聞かせてください」
「はい」
◇◇◇
寮へ戻ると、大島寮長が新聞を読みながら声を掛けてきた。
「買えたか?」
「はい」
「でも取り置きです」
「まだ給料日前なんで」
「そうか」
寮長は満足そうに頷く。
「それでいい」
「働いて稼いだ金で買うから意味がある」
「はい」
その言葉に力強く頷いた。
あと一週間。
あと一週間頑張れば、初めてのお給料がもらえる。
そのお金で父さんと母さんへプレゼントを買う。
それが今の僕の、小さな目標になっていた。
高校を辞め、絶望しか見えなかった日々。
あの頃の僕には想像もできなかった。
「来週が楽しみだ」
そんな風に思える日が、また来るなんて。
_______________
入社して一か月。
長いようで、あっという間だった。
最初は何も分からず、ただ先輩の後ろをついて歩くだけだった僕も、今では簡単な作業なら一人で任せてもらえるようになっていた。
「朝霧君」
「はい!」
「この検品、お願いできますか?」
「任せてください」
「分からないことがあれば呼んでくださいね」
「はい!」
桐島さんが少し離れた場所で別の新人教育をしている。
僕は教わった通り、一つずつ丁寧に検品を進めていく。
焦らない。
確認を怠らない。
その言葉は、もう身体に染み付いていた。
◇◇◇
昼休み。
食堂で昼食を食べていると、佐伯さんがニヤニヤしながら隣へ座ってきた。
「なあ朝霧」
「はい?」
「今日、何の日か知ってるか?」
「え?」
「忘れたのか」
「今日は給料日だぞ」
「……!」
その瞬間、箸が止まった。
そうだ。
今日は初任給の日。
一か月頑張った証が、初めて形になる日だった。
「そんな顔するなよ」
佐伯さんが笑う。
「みんな最初の給料日はそんなもんだ」
「ありがとうございます」
自然と笑顔になる。
◇◇◇
午後。
仕事を終え、更衣室へ向かう途中だった。
「朝霧君」
桐島さんが声を掛けてきた。
「はい」
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
「今日は経理へ寄ってください」
「はい」
言われた通り経理へ向かう。
受付の女性が一つの封筒を差し出してきた。
「初任給です」
「一か月、お疲れ様でした」
僕は両手で封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
少しだけ重みを感じる封筒。
それは、お金の重さじゃない。
一か月毎日働き続けた努力の重さだった。
◇◇◇
寮へ戻る。
部屋へ入ると、机の前へ座った。
ゆっくり封筒を開く。
中には給料明細と、銀行への振込通知。
「これが……」
僕が働いて稼いだお金。
父さんや母さんに頼らず、自分の力で手にした初めてのお金だった。
胸の奥が熱くなる。
「頑張って良かった!」
思わず呟く。
◇◇◇
その日の夜。
僕は机へ向かい、白い便箋を取り出した。
何度もペンを止める。
何を書けばいいんだろう。
ありがとう。
その一言だけじゃ足りない。
でも、難しい言葉も違う気がした。
しばらく考えたあと、ゆっくりと文字を書き始める。
⸻
父さん、母さんへ
元気にしていますか。
僕は元気です。
最初は慣れない仕事ばかりで毎日ヘトヘトでした。
でも職場の皆さんが優しく教えてくれるので、少しずつ仕事にも慣れてきました。
今日、初めてのお給料をもらいました。
高校を辞めた時は、何もかも終わったと思っていました。
それでも二人は僕を責めず、背中を押して送り出してくれました。
本当にありがとうございます。
初任給で買った小さなプレゼントです。
高価な物ではありませんが、僕からの「ありがとう」の気持ちです。
これから少しずつ恩返ししていきます。
身体に気を付けてください。
また必ず帰ります。
朝霧悠真
⸻
書き終えると、大きく息を吐いた。
少し照れくさい。
でも、これが今の僕の本当の気持ちだった。
明日は、あの取り置きしてもらったプレゼントを受け取りに行く。
そして、この手紙と一緒に実家へ送る。
人生で初めて、自分の力で贈る「ありがとう」を胸に抱えながら。
____________________
翌日。
仕事が終わると、僕は真っ先に更衣室へ向かった。
「朝霧君」
着替えていると、桐島さんが声を掛けてくる。
「今日はプレゼントを受け取りに行く日でしたね」
「はい」
「昨日、手紙も書きました」
「そうですか」
桐島さんは嬉しそうに微笑んだ。
「きっとご両親も喜びますね」
「そうだと嬉しいです」
「私も少し楽しみです」
「え?」
「朝霧君がどんな顔で帰ってくるのか」
「ふふっ」
その言葉に、僕も笑ってしまう。
◇◇◇
仕事を終えた僕は、ショッピングモールへ向かった。
休日ほど人は多くないが、館内は仕事帰りの人たちで賑わっている。
あの日訪れた紳士用品店へ入ると、あの日接客をしてくれた店員がすぐに僕の顔を思い出したようだった。
「いらっしゃいませ」
「あ、お取り置きをお願いしていた朝霧です」
「はい、お待ちしておりました」
店員は奥へ向かい、丁寧に包装された箱を持って戻ってきた。
紺色の包装紙に包まれたネクタイ。
そして、優しい花柄の包装紙で包まれたエプロン。
「お預かりしていた商品です」
「ありがとうございます」
僕は財布から初任給で下ろしたお金を取り出す。
少しだけ手が震えた。
レジにお金を置く。
店員が会計を済ませ、商品を僕へ渡した。
「ありがとうございました」
「ご両親、きっと喜ばれますよ」
「はい」
その言葉だけで胸が温かくなった。
◇◇◇
店を出ると、すぐ近くの文房具店へ入る。
プレゼントだけでは少し寂しい気がした。
「そうだ」
父さんも母さんも甘い物が好きだった。
和菓子屋へ入り、小さな詰め合わせを選ぶ。
高価な物ではない。
でも、一緒にお茶を飲みながら食べてくれたら嬉しい。
「これもお願いします」
店員が丁寧に包んでくれる。
気付けば両手いっぱいになっていた。
◇◇◇
その足で郵便局へ向かう。
窓口で段ボール箱を受け取り、近くの荷物台で静かに箱を開く。
まず、一番下に緩衝材を敷く。
その上へ父さんのネクタイ。
隣には母さんのエプロン。
和菓子。
そして最後に、昨日書いた手紙をそっと乗せた。
箱を閉じようとして、手が止まる。
「……」
もう一度だけ手紙を読む。
少しだけ文字が歪んでいた。
書きながら涙をこらえていたからだ。
「これでいい」
ゆっくり箱を閉じ、ガムテープで封をする。
◇◇◇
窓口へ運ぶ。
「こちらをお願いします」
「ご実家宛ですね」
「はい」
送り状へ実家の住所を書く。
差出人には、自分の名前と今住んでいる寮の住所。
それを書いた瞬間、少しだけ実感が湧いた。
(本当に一人で暮らしてるんだな)
「お預かりします」
職員が箱を受け取る。
箱はカウンターの向こうへ運ばれていく。
見えなくなるまで、僕はその後ろ姿を見送っていた。
◇◇◇
郵便局を出る頃には、外は夕焼けに染まっていた。
スマホを取り出し、父さんへ一通だけメッセージを送る。
『数日後に荷物が届くと思います』
『二人で開けてください』
送信ボタンを押す。
数分後。
すぐに返信が届いた。
『分かった』
『母さんも楽しみにしてる』
たったそれだけの短い文章。
だけど、その一文だけで自然と笑顔になれた。
僕が送ったのは、ネクタイやエプロンだけじゃない。
「元気にやってるよ」
「心配しないで」
そんな想いも、一緒に箱へ詰めたのだから。
_____________________
荷物を送ってから三日後。
昼休み。
社員食堂で昼食を食べていると、スマホが小さく震えた。
画面を見る。
『父さん』
その文字を見た瞬間、胸が少し高鳴った。
「少し失礼します」
桐島さんへ軽く頭を下げ、食堂の外へ出る。
人気の少ない廊下で通話ボタンを押した。
「もしもし」
『悠真か』
「うん」
『今、大丈夫か』
「昼休みだから大丈夫」
少しだけ沈黙が流れる。
そのあと。
父さんが静かに話し始めた。
『荷物、届いた』
「うん」
『母さんと一緒に開けたよ』
その声は、どこか嬉しそうだった。
◇◇◇
『箱を開けたら』
『まず手紙が見えてな』
『母さんが「悠真らしいね」って笑ってた』
僕も思わず笑みを浮かべる。
『そのあと』
『ネクタイを見つけてな』
『……正直、びっくりした』
「気に入ってくれた?」
『ああ』
『明日から会社へ着けていく』
「本当に?」
『せっかく息子が初任給で買ってくれたんだからな』
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
◇◇◇
『母さんもな』
『エプロン見た瞬間、泣いてた』
「え……」
『「もったいなくて使えない」なんて言ってる』
思わず苦笑する。
「使ってもらわないと意味ないのに」
『俺もそう言った』
『でも』
『「これは悠真が初めて働いたお金で買ってくれた物だから」って』
父さんが少し笑う。
『しばらく抱き締めたままだった』
僕は何も言えなかった。
ただ目頭が熱くなる。
◇◇◇
『それから』
『和菓子も食べたぞ』
「どうだった?」
『母さんが「甘くて美味しい」って喜んでた』
『二人でお茶を飲みながら食べた』
「そっか」
良かった。
本当に良かった。
その一言しか出てこなかった。
◇◇◇
『悠真』
父さんの声色が少し変わる。
『手紙、何度も読んだ』
『母さんなんか三回も読んでたぞ』
「恥ずかしいな」
『照れるな』
『親っていうのはな』
『子どもが元気に生きてるだけで十分なんだ』
『それだけで幸せなんだよ』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
『だから』
『恩返しなんて焦らなくていい』
『お前は』
『ちゃんとご飯を食べて』
『ちゃんと寝て』
『ちゃんと笑って暮らせ』
『それが一番の親孝行だ』
気付けば、僕の頬を涙が伝っていた。
「……うん」
「分かった」
声が震える。
『泣いてるのか?』
「泣いてない」
『嘘つけ』
「……少しだけ」
二人で笑う。
◇◇◇
電話を切ると、しばらくその場から動けなかった。
初任給。
金額は決して多くない。
だけど。
あのプレゼントは、父さんと母さんにちゃんと届いた。
僕の「ありがとう」も、一緒に届いた。
「朝霧君?」
振り返ると、桐島さんが心配そうに立っていた。
「大丈夫ですか?」
僕は涙を拭き、笑顔を作る。
「はい」
「父さんと母さんが、すごく喜んでくれました」
その一言で、桐島さんはすべてを察したように微笑んだ。
「それは良かったですね」
「……はい」
その日。
朝霧悠真は、高校を辞めてから初めて思った。
――あの時、生きることを諦めなくて、本当に良かった。
_______________________
父さんとの電話を終えたあと。
僕はゆっくりと食堂へ戻った。
少し赤くなった目を見て、佐伯さんがすぐに気付く。
「おい朝霧」
「はい?」
「なんかいいことあっただろ」
「顔が泣き笑いになってるぞ」
「あっ……」
慌てて目元を隠す。
すると桐島さんが、小さく笑いながら席へ座った。
「ご両親からお電話があったそうです」
「おぉ!」
佐伯さんが嬉しそうに身を乗り出す。
「プレゼント渡せたのか!」
「はい」
僕は少し照れながら頷く。
「父さんは明日からネクタイを着けて会社へ行くそうです」
「お母さんはエプロンを見て泣いたって」
その瞬間。
「……いい話じゃねぇか」
佐伯さんが鼻をすすった。
「佐伯さん」
「いや、目にゴミが」
「泣いてますよね」
「泣いてねぇ!」
食堂のみんなが笑う。
その空気が、とても温かかった。
◇◇◇
午後の仕事も終わり、帰る準備をしていると、桐島さんが僕を呼び止めた。
「朝霧君」
「はい」
「少しだけ、お時間いいですか」
「もちろんです」
二人で会社の屋上へ向かう。
夕日が街を赤く染めていた。
「今日は」
桐島さんが静かに口を開く。
「きっと忘れられない一日になりましたね」
「はい」
「一生忘れません」
そう答えると、桐島さんは満足そうに頷いた。
「初任給って」
「不思議なんです」
「え?」
「金額は毎年増えていくかもしれません」
「でも」
「初任給だけは、一生に一度しかありません」
「だから今日という日を、大切に覚えていてください」
その言葉を聞きながら、僕は空を見上げた。
あの日。
高校を辞めると言った日の空とは違う。
今日の空は、少しだけ明るく見えた。
◇◇◇
「それと」
桐島さんが少しだけ真面目な表情になる。
「朝霧君」
「はい」
「最近、よく笑うようになりましたね」
「……え?」
「入社した頃は」
「いつもどこか遠慮していました」
「誰かに迷惑を掛けないように」
「誰にも心配を掛けないように」
「そんな風に見えていました」
僕は驚いた。
そこまで見抜かれていたなんて。
「でも今は違います」
「会社のみんなと話して」
「笑って」
「困ったら相談もできるようになりました」
「それが私は嬉しいんです」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
「こちらこそ」
「朝霧君が頑張ってくれているからですよ」
◇◇◇
その日の夜。
寮の部屋へ戻る。
机の引き出しを開けると、初任給の明細書が入っている。
その隣には、父さんたちへ送った手紙の下書き。
僕はそれを大切にファイルへしまった。
「これは」
「一生取っておこう」
初任給の明細。
手紙の下書き。
どちらも、社会人になった僕の大切な宝物だ。
窓の外では、街の灯りが静かに輝いている。
この街へ来たばかりの頃は、寂しさしか感じなかった。
でも今は違う。
頼れる上司がいる。
優しい先輩たちがいる。
応援してくれる家族がいる。
そして、少しずつ前を向ける自分がいる。
だけど——。
運命はまだ、朝霧悠真に平穏な日々だけを与えるつもりはなかった。
数年後。
ある雨の夜。
彼は、すべてを失った一人の少女と出会う。