チャラ男に彼女をNTRられた僕だけど.....   作:サイキック探偵

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路地裏の彼女...

三年後――。

 

     ◇◇◇

 

「朝霧君、お疲れ様です」

 

「お疲れ様です」

 

 午後六時。

 

 終業のチャイムが鳴り、社員たちが次々と更衣室へ向かっていく。

 

 僕も作業着の汚れを払いながら、ロッカーを閉めた。

 

 三年前は右も左も分からなかった工場。

 

 今では後輩に仕事を教える立場になっていた。

 

「朝霧先輩!」

 

「はい?」

 

 今年入社した新人が慌てて駆け寄ってくる。

 

「今日教えてもらった検品なんですけど、明日もう一回見てもらえますか?」

 

「もちろん」

 

「焦らなくていいから、一緒に覚えていこう」

 

「ありがとうございます!」

 

 新人は安心したように笑った。

 

 その姿を見ていると、三年前の自分を思い出す。

 

「立派になりましたね」

 

 後ろから聞き慣れた声がする。

 

 振り返る。

 

「桐島係長!」

 

 三年前と変わらない、落ち着いた笑顔。

 

 ただ肩書きは主任から係長へ昇進していた。

 

「今では後輩が頼る先輩ですか」

 

「まだまだですよ」

 

「昔、桐島さんに教えてもらったことを真似してるだけです」

 

「ふふっ」

 

 桐島さんは嬉しそうに笑った。

 

「それでも十分ですよ」

 

「教わったことを次の世代へ繋げる」

 

「それが職場ですから」

 

 僕は少し照れながら頭を掻いた。

 

     ◇◇◇

 

 会社を出る。

 

 空を見上げると、黒い雲が街を覆っていた。

 

「降りそうですね」

 

「朝霧君」

 

 桐島さんが傘を差しながら近付いてくる。

 

「天気予報、見ましたか?」

 

「いえ」

 

「今日は大雨になるそうですよ」

 

「帰るなら早い方がいいです」

 

「分かりました」

 

 その時。

 

 ゴロゴロッ――!

 

 大きな雷が鳴り響く。

 

「うわっ!」

 

 新人たちが慌てて空を見上げる。

 

 数秒後。

 

 ポツッ。

 

 ポツッ。

 

 雨粒が落ち始めた。

 

 そして。

 

 ザァァァァァァァァッ――!!

 

 一瞬で土砂降りになった。

 

「うぉ!すっご……」

 

 道路があっという間に水浸しになる。

 

 風も強い。

 

 まるで空がひっくり返ったような豪雨だった。

 

     ◇◇◇

 

「朝霧君」

 

「はい」

 

「今日は送っていきます」

 

「どうやらこの豪雨で送迎の車が来れないそうですから」

 

「え?」

 

「私が一緒に寮まで付き添いますよ」

 

「でも……」

 

「遠慮しない」

 

 桐島さんは笑う。

 

「係長命令です」

 

「……ありがとうございます」

 

 その時だった。

 

 ピリリリリ。

 

 桐島さんのスマホが鳴る。

 

「失礼します」

 

 電話へ出る。

 

「はい、桐島です」

 

「えっ?」

 

 表情が変わる。

 

「分かりました」

 

「すぐ向かいます」

 

 電話を切る。

 

「申し訳ありません」

 

「設備トラブルです」

 

「戻らないと」

 

「僕は大丈夫です」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「寮まで走って二十分くらいですし」

 

 少しだけ迷う桐島さん。

 

 でも仕事には行かなければならない。

 

「気を付けて帰ってください」

 

「何かあったらすぐ電話してくださいね」

 

「はい」

 

 そう言って桐島さんは会社へ戻っていった。

 

     ◇◇◇

 

「さて」

 

 僕はこういう時の為にあった折りたたみ傘を広げる。

 

 しかし。

 

 雨が強すぎる。

 

 傘を差していても、足元はすぐびしょ濡れになる。

 

「参ったな……」

 

 大通りを歩く。

 

 車が水しぶきを上げながら走っていく。

 

 街灯の光が雨粒に反射して、視界も悪い。

 

 少しでも近道をしようと、普段は通らない細い路地へ入った。

 

 その時だった。

 

「……っ」

 

 何かが見えた。

 

 街灯の明かりが届かない路地の奥。

 

 雨に打たれながら、小さく蹲っている人影。

 

 最初はゴミ袋かと思った。

 

 でも違う。

 

 肩が震えている。

 

 人だ。

 

 女の子……?

 

 長い金髪が雨で張り付き、男物の薄汚れたパーカーを着た、小柄な少女が膝を抱えて座り込んでいた。

 

 裸足だった。

 

 足には泥が付き、小さな擦り傷がいくつも見える。

 

 雨の冷たさで身体は小刻みに震えていた。

 

 僕は立ち止まる。

 

(なんで時間に……?)

 

(こんな場所で?)

 

(それもこんなボロボロの姿で……)

 

 少女はゆっくり顔を上げる。

 

 濡れた前髪の隙間から見えた瞳は、怯えきっていて、今にも消えてしまいそうだった。

 

 もちろん、この時の僕はまだ知らない。

 

 その少女が――

 

________________

 

 雨はさらに強くなっていた。

 

 バケツをひっくり返したような豪雨。

 

 路地裏には雨水が流れ、小さな川のようになっている。

 

 少女はその中で膝を抱えたまま、一歩も動かなかった。

 

(このままじゃ危ない)

 

 そう思った時には、もう身体が動いていた。

 

「だ、大丈夫ですか!」

 

 少女の前まで駆け寄り、傘を差し出す。

 

 すると少女はビクッと肩を震わせ、僕の顔を見て怯えたように後ずさった。

 

「……ひっ」

 

 小さく悲鳴を上げる。

 

 その声はかすれていて、長い間まともに話していないようだった。

 

「ごめん」

 

「驚かせるつもりじゃなくて」

 

 僕はできるだけ優しく声を掛ける。

 

「こんな所にいたら風邪を引くよ」

 

「……」

 

 返事はない。

 

 ただ震えているだけだった。

 

 近くで見ると、少女の服は泥だらけで何日も洗っていないようだった。

 

 袖は破れ、膝にも擦り傷がある。

 

 細い腕には誰かに掴まれたような跡も見えた。

 

(何があったんだ……)

 

 胸が締め付けられる。

 

     ◇◇◇

 

 少女は何度も僕の顔を見る。

 

 何かを確かめるように。

 

 でも、その目に敵意はない。

 

 あるのは恐怖だけだった。

 

「えっと...立てるかな?」

 

 ゆっくり手を差し出す。

 

 少女はその手を見つめる。

 

 触れようとして。

 

 また引っ込める。

 

「大丈夫」

 

「無理にとは言わない」

 

「でも、このままだと本当に危ない」

 

 雷が鳴る。

 

 ゴロゴロッ――!!

 

 その音に少女は身体を小さく丸め、耳を塞いだ。

 

「……っ」

 

 よほど怖いのだろう。

 

 その姿は、迷子になった子どものようだった。

 

「……寒いよね」

 

 僕は自分の上着を脱ぎ、少女の肩へそっと掛ける。

 

「え……?」

 

 少女は驚いたように僕を見る。

 

「濡れてるけど、少しは暖かいと思う」

 

 少女は何も言わない。

 

 ただ、上着をぎゅっと握り締めた。

 

     ◇◇◇

 

「家は?」

 

 首を横に振る。

 

「帰る場所は?」

 

 また首を横に振る。

 

「……そっか」

 

 事情は分からない。

 

 でも、一つだけ分かる。

 

 この子には帰る場所がない。

 

「名前、聞いてもいい?」

 

 少女の肩がまた震えた。

 

 しばらく唇を動かす。

 

 でも声が出ない。

 

 何度も息を吸って。

 

 ようやく、小さな声が漏れた。

 

「……れ……」

 

「え?」

 

「……れん」

 

 その名前は、大雨の音にかき消されそうなほど小さかった。

 

「れん?」

 

 僕は聞き返す。

 

 少女はハッとしたように口を押さえた。

 

(今、自分の名前を……)

 

 少女は慌てて首を横に振る。

 

「ち、違……」

 

 かすれた声。

 

 それ以上、言葉は続かなかった。

 

 僕は深く考えなかった。

 

 きっと何か事情があるんだろう。

 

「そっか」

 

「言いたくなかったら、それでもいい」

 

 少女は目を丸くした。

 

 疑うことも。

 

 責めることも。

 

 僕はしなかった。

 

     ◇◇◇

 

 風がさらに強く吹く。

 

 少女のお腹が、小さく鳴った。

 

「……」

 

 少女は恥ずかしそうにお腹を押さえる。

 

 その仕草を見て、僕は少しだけ笑った。

 

「お腹、空いてる?」

 

 小さく頷く。

 

「今日は何か食べた?」

 

 首を横に振る。

 

「昨日は?」

 

 また首を横に振る。

 

 その答えだけで十分だった。

 

(この子……何日もまともに食べてない)

 

 僕は決心する。

 

「行こう」

 

 少女は不安そうに僕を見る。

 

「温かいご飯を食べよう」

 

「身体も温めよう」

 

「話はそのあとでいい」

 

 少女は動けない。

 

 信じていいのか分からない。

 

 そんな表情だった。

 

 だから僕は、無理に手を引かなかった。

 

「ゆっくりでいい」

 

「僕は待つから」

 

 その一言に。

 

 少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

 雨なのか涙なのか、もう見分けはつかない。

 

 それでも。

 

 その涙は、少女が初めて誰かの優しさに触れた瞬間だった。

 

___________________

 

 少女の涙は止まらなかった。

 

 ぽろぽろと。

 

 まるで今まで我慢してきたものが、一気に溢れ出したように。

 

でも不思議なことにその涙は何かを懺悔してるようにも見える

 

「……」

 

 僕は何も言わずに待った。

 

 泣き止むまで待とうと思った。

 

 無理に話を聞き出しても、この子を苦しめるだけだと分かっていたから。

 

 しばらくすると。

 

 少女は小さく頷いた。

 

「……い、く」

 

 かすれた声。

 

 それでも確かに、自分の意思でそう言った。

 

「うん」

 

 僕は安心したように笑う。

 

「じゃあ帰ろう」

 

     ◇◇◇

 

 少女は立ち上がろうとして。

 

「……ぁ」

 

 ふらり、と身体が傾いた。

 

「危ない!」

 

 慌てて支える。

 

 身体は驚くほど軽かった。

 

(軽すぎる……)

 

 まともに食べていないせいだろう。

 

 腕も細く、少し力を入れたら折れてしまいそうだった。

 

「歩ける?」

 

 少女は無理に頷こうとする。

 

 しかし、一歩踏み出した瞬間。

 

 ガクッ

 

 膝から崩れ落ちた。

 

「っ……!」

 

「もう無理しなくていい」

 

 僕はしゃがみ込む。

 

「ごめんね」

 

「少しだけ我慢して」

 

 そう言って少女へ背中を向けた。

 

「背中、乗れる?」

 

 少女は戸惑っている。

 

「でも……」

 

 何日ぶりだろう。

 

 少女が初めてはっきり言葉を口にした。

 

「……おもい」

 

 自分は重いから。

 

 迷惑だから。

 

 そう言いたかったのだろう。

 

 僕は少し笑った。

 

「大丈夫」

 

「僕、一応工場で働いてるから」

 

「力には自信あるんだ」

 

 少女は何度も首を横に振る。

 

 それでも僕は笑顔を崩さなかった。

 

「風邪引いちゃうから」

 

「お願い」

 

 その言葉に。

 

 少女は恐る恐る僕の背中へ身体を預けた。

 

「よいしょ」

 

 立ち上がる。

 

 やっぱり軽い。

 

 あまりにも軽かった。

 

(ちゃんと食べてないんだ……)

 

 胸が痛くなる。

 

     ◇◇◇

 

 大雨の中を極力彼女の負担にならないように走る

 

 折りたたみ傘では二人を守りきれない。

 

 僕も少女もびしょ濡れだった。

 

 それでも少しずつ寮へ近付いていく。

 

 少女は僕の背中で、小さく震えていた。

 

「寒い?」

 

 こくり、と頷く。

 

「もう少しだから」

 

「温かいお風呂もあるし、ご飯もあるから」

 

 その言葉に。

 

 少女の身体が小さく震えた。

 

「……ご、はん」

 

「うん」

 

「今日は何食べようかな」

 

「カレーが残ってたかな」

 

「それとも親子丼にしようか」

 

 少女は何も言わない。

 

 でも。

 

 背中越しに、小さくお腹が鳴った。

 

「ふふっ」

 

 思わず笑ってしまう。

 

「いっぱい食べよう」

 

 少女は恥ずかしそうに顔を伏せた。

 

     ◇◇◇

 

 十分ほど歩いた頃。

 

 ようやく寮が見えてきた。

 

「着いた」

 

 寮の玄関前。

 

 雨宿りをしていた大島寮長が、こちらを見て目を丸くした。

 

「朝霧!?」

 

「その子どうした!?」

 

 僕は少女を背負ったまま事情を説明する。

 

「路地裏で倒れていて……」

 

「放っておけなくて」

 

 大島寮長は少女を見る。

 

 痩せ細った身体。

 

 泥だらけの服。

 

 震える肩。

 

 その姿を見て、何も聞かなかった。

 

「……そうか」

 

 ただ一言だけ呟く。

 

「とりあえず中へ入れ」

 

「風邪引くぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 僕は深く頭を下げた。

 

 こうして。

 

 朝霧悠真と、名前も素性も分からない一人の少女の共同生活が始まってゆくのだった

 

_____________________

 

大島寮長がタオルを持ってくる。

 

「とりあえずこれ使え」

 

「ありがとうございます」

 

 少女の肩にタオルを掛ける。

 

 少女は何度も僕と寮長を見比べていた。

 

 まるで、どうして自分にここまでしてくれるのか理解できないような目だった。

 

「へっ大丈夫だ」

 

 寮長が静かに言う。

 

「ここにいる間くらい、何も心配するな」

 

 少女は俯いた。

 

「……はい」

 

 小さな返事。

 

 そして僕は気付く。

 

 その声には、まだ強い警戒心が残っている。

 

     ◇◇◇

 

 しばらくして。

 

 少女は借りた服に着替えて、食堂へやってきた。

 

 髪はまだ少し濡れている。

 

 でも、さっきより顔色は良くなっていた。

 

「座って」

 

 僕はテーブルへ料理を並べる。

 

 温かいご飯。

 

 味噌汁。

 

 卵焼き。

 

 簡単な料理ばかりだけど、今の少女には十分だと思った。

 

「……食べていいの?」

 

「もちろん」

 

「全部?」

 

「全部食べていいよ」

 

 少女は箸を持つ。

 

 しかし、すぐには食べなかった。

 

 料理をじっと見つめている。

 

「どうしたの?」

 

「……」

 

 少女の手が震えている。

 

 そして。

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

「怒らない?」

 

「怒らないよ」

 

 その答えを聞いて。

 

 少女はようやく箸を動かした。

 

 一口。

 

 そして二口。

 

 次第に食べる速度が早くなっていく。

 

「ゆっくりでいいよ」

 

「喉に詰まるから」

 

 少女は慌てて頷く。

 

 それでも食べる手は止まらない。

 

 僕は何も言わずに見守った。

 

     ◇◇◇

 

 食事が落ち着いた頃。

 

 少女は少しだけ顔を上げた。

 

「……どうして」

 

「ん?」

 

「どうして……助けたの?」

 

 その質問に、僕は少し考えた。

 

 どうしてだろう。

 

 自分でも明確な理由は分からない。

 

 ただ。

 

 あの路地裏で見た少女の目が。

 

 どうしても昔の自分と重なった。

 

「……君の目が」

 

「昔の僕と同じだったから」

 

 少女の動きが止まった。

 

「……昔...の?」

 

「うん」

 

 僕は少し遠くを見る。

 

「僕も昔、全部嫌になったことがあった」

 

「学校も辞めた」

 

「知ってる人が誰もいない街まで来た」

 

「その時の僕は、何をしていいか分からなかった」

 

 少女は黙って聞いている。

 

「でも」

 

「たまたま周りの人に助けてもらった」

 

「仕事を教えてくれる人がいて」

 

「住む場所を用意してくれる人がいて」

 

「家族も応援してくれた」

 

 僕は少女を見る。

 

「だから今度は、僕が誰かを助ける番かなって思った」

 

「それだけだよ」

 

「……」

 

 少女は俯いた。

 

 長い金髪が顔を隠す。

 

「……そっか」

 

 声が震えていた。

 

「ごめん...なさい」((ボソ

 

「うん??」

 

「いや...なんでもない...です」

 

「そう?」

 

 僕は苦笑する。

 

「まぁでも時間はかかったけど」

 

「少しずつ、取り戻せたから」

 

 その言葉が。

 

 少女の胸を深く抉った。

 

 なぜなら少女――神崎蓮には、分かってしまったからだ。

 

 目の前にいる男が言っている「全部失った理由」。

 

 それを作った人間の一人が。

 

 他でもない自分だったから。

 

 かつて自分が笑いながら踏みにじった人生。

 

 壊した人間。

 

 その人間が今。

 

 自分の目の前で。

 

 自分を助けている。

 

「……っ」

 

 少女は唇を噛む。

 

 胸の奥が苦しくなる。

 

 逃げたい。

 

 ここから消えてしまいたい。

 

 でも。

 

 行く場所なんて、もうどこにもない。

 

「……どうして」

 

 少女の声が震える。

 

「どうして……そんな事があったのに優しくできるの」

 

「君に?」

 

「うん」

 

 僕は少し困ったように笑う。

 

「優しくしたつもりはないよ」

 

「ただ、困ってる人を放っておけなかっただけ」

 

 その言葉が。

 

 さらに胸へ突き刺さった。

 

 神崎蓮は知っている。

 

 自分なら、そんなことはしなかった。

 

 困っている人を見ても。

 

 自分に関係なければ、きっと通り過ぎていた。

 

 それどころか。

 

 人の気持ちを踏みにじっても、自分が楽しければそれでいいと思っていた。

 

 そんな自分とは正反対の人間が。

 

 今。

 

 自分の目の前にいる。

 

「……っ」

 

 少女は顔を伏せた。

 

「ごめん……」

 

「え?」

 

「……なんでもない」

 

 それ以上は言えなかった。

 

 自分が何者なのか。

 

 本当の名前が何なのか。

 

 どうしてここまで落ちたのか。

 

 何も言えない。

 

 言えるはずがない。

 

 もし知られたら。

 

 この人はきっと、自分を追い出す。

 

 当然だ。

 

 自分が昔、彼から奪ったものを考えれば。

 

 許されるはずがない。

 

     ◇◇◇

 

「そうだ」

 

 僕は思い出したように言った。

 

「名前」

 

「……」

 

「さっき、雨の中で聞いた時は『れん』って聞こえたけど」

 

 少女の肩が跳ねる。

 

「本当の名前?」

 

「……」

 

 一瞬。

 

 本当の名前を言おうとした。

 

 けれど。

 

 喉の奥で止まった。

 

「……りん」

 

「え?」

 

「りん……」

 

 少女は小さな声で言う。

 

「私の名前」

 

 偽名だった。

 

 けれど。

 

 今の自分には、この名前しかない。

 

「りんちゃんか」

 

 僕は笑う。

 

「よろしく、りん」

 

「……うん」

 

 その呼び方に。

 

 少女の胸がまた痛くなる。

 

「よろしく……」

 

 神崎蓮。

 

 かつて人の人生を壊すことに何の罪悪感も持たなかった男は。

 

 今。

 

 りんという偽名を名乗りながら。

 

 自分が壊した男の隣に座っていた。

 

 そして。

 

 目の前の男が、自分を疑うことなく笑っている。

 

 その笑顔を見るたびに。

 

 胸の奥に、消えない罪悪感だけが積み重なっていく。

______________________

 

 

 食事を終えてからしばらく。

 

 食堂には、雨音だけが響いていた。

 

 外ではまだ激しい雨が降り続いている。

 

 窓ガラスを叩く雨粒。

 

 時折、遠くで雷鳴が響く。

 

 そんな中、僕は向かいに座る少女――りんを見ていた。

 

 さっきより顔色は良くなった。

 

 温かい食事を食べて、お風呂にも入った。

 

 けれど。

 

 その表情からは、まだ緊張が抜けていない。

 

「りん」

 

「……はい」

 

「無理に話さなくてもいいからね」

 

「今日はもう遅いし」

 

「……」

 

 りんは小さく頷く。

 

 けれど、その直後。

 

「……あの」

 

「ん?」

 

「本当に……ここにいていいんですか?」

 

 その声は、とても小さかった。

 

「もちろん」

 

「でも……お...私、何も持ってないです」

 

「お金も」

 

「帰る...場所も……」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 僕は少し考えてから答えた。

 

「それなら、これから考えればいいよ」

 

「……これから?」

 

「うん」

 

「仕事を探すとか」

 

「住む場所を探すとか」

 

「今すぐ全部決めなくてもいい」

 

 りんは俯いたまま、黙っている。

 

「少なくとも」

 

「今夜、雨の中に戻すつもりはないよ」

 

 その言葉に、りんの肩が微かに震えた。

 

「……あり...がとう...ございます」

 

「どういたしまして」

 

     ◇◇◇

 

 すると、大島寮長が食堂へ戻ってきた。

 

「朝霧」

 

「はい」

 

「部屋のことなんだがな」

 

「はい」

 

「実は貸す部屋が今1個もなくてなすまんがお前の部屋で大丈夫か?」

 

「もちろんです。この子...りんを連れてきたのは自分なんで自分が面倒見ます!」

 

「フッそうか」

 

 寮長はりんを見る。

 

「一晩くらいなら問題ねぇだろ」

 

「明日の朝、改めてこれからどうするか考えればいい」

 

「ありがとうございます」

 

 りんが頭を下げる。

 

「礼なんかいらねぇよ」

 

 寮長は豪快に笑う。

 

「困ってる奴を見捨てるほど、この寮は冷たくねぇからな」

 

 その言葉を聞いたりんは、また俯いた。

 

 何かを堪えるように。

 

「……ありがとうございます」

 

 今度は、少しだけ声が震えていた。

 

     ◇◇◇

 

 僕は部屋へ戻る。

 

 布団を取り出し、床へ敷いた。

 

「ここ使って」

 

「……はい」

 

 りんは部屋の入口に立ったまま、なかなか入ってこない。

 

「どうしたの?」

 

「……本当にここで寝ていいんですか?」

 

「うん」

 

「僕は床で寝るから」

 

「そんな……」

 

「気にしなくていいよ」

 

 僕は笑った。

 

「今日はりんの方が疲れてるでしょ」

 

 りんはしばらく黙っていた。

 

 やがて。

 

「……ありがとう」

 

 小さく頭を下げる。

 

「じゃあ、電気消すね」

 

「はい」

 

 部屋の明かりを消す。

 

 窓の外から、雨音が聞こえてくる。

 

     ◇◇◇

 

 りんが布団へ入ってしばらく。

 

 僕は眠れずにいた。

 

 今日、突然出会った少女。

 

 名前は、りん。

 

 家はない。

 

 お金もない。

 

 そして、あの路地裏で一人きりだった。

 

 何があったのかは分からない。

 

 でも。

 

 今は無理に聞かなくてもいいと思っていた。

 

「……朝霧.....さん」

 

 暗闇の中から、りんの声が聞こえる。

 

「起きて...ますか?」

 

「うん」

 

「……どうして」

 

「ん?」

 

「どうしてこんなお.....私に良くしてくれるんですか???」

 

 僕は少し考える。

 

「う〜んそんな事考えてないな〜?」

 

「え……」

 

「ただ」

 

「困ってる人を放っておけないだけよ」

 

ニコッと笑いかけそうりんに言う

 

 しばらく沈黙。

 

「……そう...ですか」

 

「うん」

 

「……朝霧...さんは」

 

「昔、何かあったんですか?」

 

 僕は天井を見上げた。

 

 少しだけ迷った。

 

 でも、今まで誰にも話さなかった過去を、ほんの少しだけ話してみる。

 

「昔ね」

 

「僕には彼女がいたんだ」

 

「……彼女」

 

「うん」

 

「でも」

 

「その子を、別の男に取られた」

 

 りんの呼吸が止まった。

 

「……」

 

「それだけじゃない」

 

「学校にいるのも辛くなって」

 

「全部から逃げるみたいに、この街へ来た」

 

 暗闇の中。

 

 りんは何も言わない。

 

 僕は知らない。

 

 その話を聞いている少女が、どんな顔をしているのか。

 

「……辛かったん...ですよね」

 

「うん」

 

「でも」

 

 僕は少し笑う。

 

「今は大丈夫」

 

「時間はかかったけど、仕事もできるようになったし」

 

「家族とも普通に話せてる」

 

「だから、りんも大丈夫だよ」

 

 その言葉。

 

 りんには、あまりにも重かった。

 

     ◇◇◇

 

 暗闇の中。

 

 りんは布団を強く握り締めた。

 

(……俺だ)

 

 胸の奥が締め付けられる。

 

(この人が言っている男は……俺だ)

 

 忘れるはずがない。

 

 朝霧悠真。

 

 高校時代。

 

 自分が彼女を奪った男。

 

 自分が笑いながら、彼の人生を壊した。

 

 あの頃は、それが楽しかった。

 

 自分には何でもできると思っていた。

 

 女の子も。

 

 金も。

 

 人の感情も。

 

 全部、自分の思い通りになると思っていた。

 

 だけど。

 

 今は違う。

 

 自分の手元には何もない。

 

 名前すら偽っている。

 

 そして。

 

 自分が壊した男に助けられている。

 

(……どうして)

 

(どうして、俺はあんなことを……)

 

 りんの目から、また涙がこぼれる。

 

 けれど声は出さない。

 

 隣で眠ろうとしている悠真に気付かれないように。

 

(ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい)

 

 何度心の中で謝っても。

 

 あの日々が消えるわけではない。

 

 それでも。

 

 今のりんには、謝ることしかできなかった。

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