「それで、どの家にするか決まったか?」
ハンターのひと言で、私は我に返った。
どれにすべきだろうか。どれも巣にするには最高の状態だし、迷ってしまう。
「一応、参考になるかわかんないけど、あそこの建物は前はジンオウガが住んでいたぞ」
ハンターが指を指す方向を見る。確かに形跡はある。けれど、ただの廃屋にしては、まるでこれからまた使うような妙な小綺麗さを感じた。
「オウガは今、妊娠しててな。あの巣は新しく産まれてくる子どもたちの巣にするんだそうだ。今はレウスのいる王城で一緒に過ごしてるけどな」
その言葉を聞き、私の胸の奥に、ほんのりと温かい微笑ましさが浮かび上がった。新しい生命が、この平和な都で育まれていく。それはとても美しいことだ。 けれど…
――妊娠。産まれてくる、子どもたち。
(私には……一生、縁のない話よね……)
せっかく少しだけ軽くなりかけていた心が、再び冷たい現実の重みで沈んでいくのを感じた。
その子どもたちの親となるのは、あの不器用だけど誠実なリオレウス。そしてその傍らには、彼に愛され、彼を愛する誇り高き雌たちがいる。
それに比べて、私はどうだ。
あの傲慢な雄にさえ番として拒絶され、雌としての価値も、マガイマガドとしての誇りである兜角すらも失った、ただの居候。
微笑ましいはずの未来の話が、今の私にとっては、残酷なまでに眩しすぎた。
「個人的にだが、オウガの巣の隣がオススメだ。噴水の近くにあるし、爪を研いだりするのに便利なものが近くにあるからな」
ハンターのその言葉に、私はひとまず顔を上げた。これ以上迷って彼を困らせるわけにもいかない。私は小さく喉を鳴らし、ハンターにその家を巣にすることを伝える。
「そうか。じゃあ、そこに住むことをレウスに伝えてくる。今日は疲れたろ、ゆっくり休むといい」
そう言って、ハンターはひらひらと手を振りながら去っていった。 彼の気配が完全に消え、広い空間に私一匹だけが残される。
私はひとつ息を吐くと、新しい住処を整え始めた。本能に従い、寝床となる場所の瓦礫を前脚でどかし、身体のサイズに合わせて横たわりやすいよう床を均していく。
一通り綺麗にして、十分に住みやすくなった自らの巣。その中央に、私はゆっくりと身体を横たえた。
「……あぁ……」
冷たい石の床が、泥の落ちた甲殻に心地よく触れる――こんなに落ち着いて横になるのは、一体いつぶりだろうか。
生まれ育った巣を捨てて各地を彷徨い始めてからというもの、私には穏やかに眠りにつく時間など一瞬たりともなかった。常に他の捕食者の影に怯え、自らの惨めさに胸を灼かれ、ただ夜の寒さに耐えるだけの日々だった。
ここは静かだ。外からはかすかに澄んだ水路のせせらぎが耳を幸せにしてくれる…私はそっと目を閉じた。角の断面がまだ微かに疼くけれど、この都の温かな空気が、私の凍りついた身体を優しく包み込んでいくのを確かに感じ、やがて眠りについた。
◆
しかし…眠りについている最中、何やら聞き慣れない物音で目が覚めた。彷徨っている時の癖だ。敵が襲ってきた時にすぐ対応出来るよう、眠りにつくときはいつだって身体は眠らせない。
「……くっ……」
少し、身体が重たい。これほど穏やかな環境で熟睡したのはいつ以来だろうか。頭は深く眠っていたのに無理やり起こしたからだろう、すぐには四肢に力が入らない。 それでも警戒を怠らず、重い身体を動かして巣の外へと這い出た。
そこにいたのは……あのハンターだった。彼は何やら、大きな荷車を一生懸命に引っ張っていた。さっきの物音の正体はこれだったようだ。
「おっと、起こしちまったか?」
ハンターが私に気づき、申し訳なさそうに足を止める。まあ……物音で起きはしたわ。
「起こすつもりはなかったんだがな……すまん」
「別に気にしてないわよ。これは私の悪い癖だから。それよりそれは何なの?」
ハンターは笑いながら荷車の覆いを外して見せてくれた。
「本当は巣の前に置いておくつもりだったんだがな、起きちまったのなら仕方ない。今のうちに食っておけ」
荷車の上に横たえられていたのは、丸々と肥え太ったアプトノスの肉だった。これほど見事な獲物は、私の元の住処でも滅多にお目にかかれない。切り口からは新鮮な血の匂いが漂い、思わず喉が鳴るほどに美味しそうだった。
「レウスからの差し入れだ」
レウスの……? その名前を聞いた瞬間、私の動きがピタリと止まった。あの圧倒的で、そして8頭の雌たちに愛されるこの都の王。昨夜、私を「綺麗だ」と言い、この場所へ導いてくれた彼が、わざわざ私のためにこれを用意してくれたというのだろうか。
「それじゃ、俺は帰る。まだまだ夜は長いからな、それ食ったら寝るんだぞ」
そう言って、ハンターはまたひらひらと手を振りながら、暗闇の向こうへと去ってしまった。 彼の足音が完全に遠のいた後、私はぽつんと残された荷車の上、そこに横たわる肉を見つめた。
本当に美味しそうなお肉だ。
冷たい泥を漁り、干からびた死肉を齧って飢えを凌いできた私の胃袋が、新鮮な血の匂いに反応して、きゅう、と切なく鳴った。お腹も空いているし……まだ夜は深いけれど、お言葉に甘えて食べてしまおう。 そうして、私は大顎を開き、その柔らかな肉を一口、噛み締めた。
「…………っ」
美味しい……これほど瑞々しく、濃厚な生命の味がする肉を食べたのは、一体いつ以来だろう。いや、私のこれまでの生涯で、これほど上質な獲物を口にしたことなど一度もなかったかもしれない……あの雄に捧げた獲物も立派だったし、このくらい美味しかったのだろうか…。いや、今は忘れよう。
もう一口。さらにもう一口。
私は我を忘れて貪りつくような無様な真似はせず、ゆっくりと、しかし夢中になって食べ続けた。
噛み締めるたびに、上質な脂と温かい血が、冷え切っていた私の身体の内側へと染み渡っていく。ただの栄養ではない。そこには、あの優しき王の配慮と、それをわざわざ運んできてくれた人間の、確かな温もりが籠もっているような気がしてならなかった。
お肉を骨まで残さず綺麗に食べ終え、私は本当に久しぶりにお腹が満たされる感覚を味わっていた。 何もなくなった荷車を見つめていると、満腹の幸福感によって、抗いようのないほどに心地よい睡魔が、どっと一気に襲いかかってきた。
これは……多分、さっきの物音くらいじゃ、次は目は覚めないかもしれない。
そのくらいに睡魔は激しく、容赦なく私を襲っていた。私はその激しいのに心地よい睡魔に敗北を認め、這うようにして巣へと戻った。
冷たい石の床に大きな身体を横たえると、同時に、意識は深い深い闇の底へと沈んでいった。 角の痛みすらも、この深い眠りのなかへ、穏やかに溶けて消えていくようだった。
◆
翌朝、差し込む朝日の眩しさに目を覚ますと、昨日よりもずいぶんと身体が軽かった。
熟睡と上質な食事による影響は凄まじいと心から思う。たった一日で、あそこまでボロボロだった身体がここまで楽になるのだから、生命の神秘とは本当に不思議なものだ。
私は巣の外へと這い出し、広場の近くにある噴水へと向かった。澄み切った水をペロペロと喉に流し込み、渇きを潤す。
その時、私の元へ、一歩、また一歩と重厚な足音を響かせて近付いてくる者がいた。 振り返ると、そこにいたのはジンオウガだった。
その歩みは力強いが、どこか慎重だ。視線を落とせば、彼女のお腹は大きく膨らんでおり、一目で妊娠していることが分かった。モンスターとしての本能が告げている。そう遠くないうちに彼女は無事に産卵の日を迎えるだろう。
しかし、なぜ、レウスのいる王城で過ごしているはずの彼女がここにいるのだろうか。
水を飲むのを止め、私は全身ををわずかに強張らせた。私のような角の折れた貧相な居候の元へ、彼の愛を一身に受ける彼女が、一体何の用だろうか?
ジンオウガは私の前に静かに腰を下ろすと、私を見つめて静かに問いかけてきた。
「あなたも……つらい過去を持っているんでしょう?」
「…………」
私は、小さく頷くことしかできなかった。 あの傲慢な雄の言葉、泥の中に転がった角の痛み、そして自分への底なしの嫌悪。声にしてしまえば、またあの暗い涙が溢れてしまいそうだった。代わりに、私は消え入りそうな声で、ずっと胸の奥に引っかかっていた質問を返した。
「……あなたも、ってことは、あなたもつらい過去を持ってここに来たの?」
私の問いに、ジンオウガはゆっくりと目を閉じ、過去を思い返すように静かに教えてくれた。
「ええ……住処を別の強力なモンスターに追われ、群れは散り散りになり、私は完全に孤独になってここに来たのよ」
私と同じだった。この広く残酷な世界に居場所をなくし、誰の隣にも立てなくなった、孤独。
「でもね、ここに来た理由は……未来を掴みに来たんだ。ここは誰のことも拒絶をしない。飯も、寝床もある。そして何より……独りにならない」
独りにならない。 その言葉は、私にとって何よりも眩しい光のようだった。
ジンオウガは愛おしそうに自身の大きく膨らんだ腹部に目を落とし、少し照れたように、しかし誇らしげに喉を鳴らした。
「私はまだ成熟して間もない、若い雌だけれど……今、このお腹にはレウスの子どもがいる。これが……レウスが私を愛し、二度と独りにしないという何よりの証拠。そして、私は今、本当に幸せなんだ」
……今は幸せ、か。
ジンオウガはフッと優しく鼻を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がって言った。
「私の個人的な話はこれで終い。レウスがあなたを呼んでいるわ。一緒に来て」
彼が……私を呼んでいる?
わけも分からず困惑する私を置いて、ジンオウガは迷いのない足取りで歩き出す。私は慌ててその後を追いかけ、昨日訪れたあの広場へと再び足を踏み入れた。
そこには、すでにリオレウスの姿があった。彼は私を見つけると、威厳の中にも穏やかな笑顔を浮かべて見せてくれた。
「おはよう。昨日はぐっすり寝られたか?」
「ええ……久しぶりに、熟睡できた気がするわ……」
各地をただ彷徨っていた時は、いつ敵に襲われるかも分からず、一瞬たりとも気が休まることはなかった。けれど昨夜は、この都の温かさに守られて、本当に久しぶりに深い眠りにつくことができたのだ。
ふと、彼の顔を間近で見て、私は首を傾げた。
(あれ? よく見ると、彼の目の周りには、酷く色濃い隈ができてる)
「……もしかして、寝不足?」
私の問いかけに、彼は翼を少しすぼめ、苦笑いするように喉を鳴らした。
「……まあ、番が8頭もいると、寝る時間はあまり取れなくてな。さあ、俺のことはいいから。飯にしよう」
そう言って、彼は部屋の隅にある食糧庫から、新鮮で大きな肉の塊を器用に咥えて持ってきてくれた。 圧倒的な強さと包容力。その裏にある、あまりにも人間くさくて、どこか可笑しな幸せな苦労。彼のその姿を見つめていると、私の胸の奥に、またひとつ温かな波紋が広がるのを感じる。
差し出された肉を前にして、私はどうしても尋ねずにはいられなかった。
「なぜ……私に、こんなに構うの? こんな……雌としての魅力も、価値も存在しない私に……。なんなら、私たちは昨日初めて出会ったばかりよ」
その問いかけに、リオレウスは首を振ると、まっすぐに私を見つめてこう答えた。
「生憎、理由なんかない。ただ、寂しそうで、悲しそうで、苦しんでいる雌をほっとくことができない性分なだけだ」
そう。貴方はそういう性格なのね。 呆れるほどの底なしの優しさを持っているわね。……あの雄とは本当に大違いだわ…。
私がそう考えていると、彼は静かに、しかし力強い声で言葉を続けた。
「雌としての魅力や価値がないと言ったが、お前は少々卑屈すぎる。いや、自分というものを、正しく評価できていないな」
自分を、正しく評価?何を言っているの… 私には雌としての魅力なんか……ないに決まっているじゃない。他の雌のような美しさも、立派な体躯もない。なにより、マガイマガドの誇りである角すら、無残に折られているのだから。
再び深く沈み込もうとする私に、彼は優しく、けれど断固とした口調でこう言った。
「なら、俺からひとつだけ言っておく。俺は『マガイマガド』じゃない。お前が角を折られていようが、傷だらけだろうが……俺にとっては、放っておくことができない、傷ついた一匹の雌なんだよ」
「……っ」
その瞬間、頭を強く殴られたような衝撃が走る――私はここで、初めて出会ったのだ。自分の価値を、身体の一部や種族の枠組みなんかで決めない雄に、私は生まれて初めて、巡り合うことができたのだ。
滲んだ目から、ついに堪えきれなくなった大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
その瞬間、広場の入り口の影から、呆れたような、しかし楽しげな声が響いた。
「あら……? 雌を泣かせるなんて、雄としてどうなのかしら。レウス、ここは責任を取るべきじゃない?」
入ってきたのはリオレイアだった。彼女はわざとらしくレウスをからかうような視線を向ける。
リオレウスは翼をすぼめ、ひどく困ったように喉を鳴らした。
「……番にしろ、そう言いたいんだろうが、それはしないぞ。俺が責任を持って番にするのは、意図的でなくても惚れさせたらだ。……まあ、泣かせてしまった責任は取るべきだと思っているけどな」
そんな風に言い訳をする彼に向かって、今度はタマミツネがくすくすと笑いながら告げる。
「意図的でなくても、ね。……夜の散歩中に寂しそうな影を見つけ、近づいて素直な感想を述べた結果、惚れられてしまうという、実質ナンパのようなことでも、あなたは責任を取って娶ってくださいますものね?」
「うっ……」
リオレウスはあからさまに視線を逸らし、気まずそうに身を縮こまらせた。
さらに、広場の奥で羽を休めていたライゼクスも、獰猛な笑みを浮かべながら電撃をパチパチと鳴らして割り込んできた。
「正当防衛のねじ伏せによる、支配欲の刺激で雌落ちさせちまっても、責任を取ってくれるもんなぁ?」
「お前たち、それは……っ」
さらにさらに、今度はティガレックスが頬を赤く染めながら割り込む。
「見ず知らずの雌の口をキスで塞いだ結果、番にする予定なんてなかったのに、一目惚れさせてしまったのなら…旦那様は責任を取ってくれましたからね」
「う………あぁ……」
絶対的な王であるはずの彼が、次々と集まってきた雌たちに過去の「やらかし」を暴露され、どんどん小さくなっていく。
ついさっきまで、胸が締め付けられるような感動と涙の中にいたはずなのに、目の前で繰り広げられるあまりにも賑やかで、愛に溢れた修羅場に、私の涙はいつの間にか引っ込んでしまっていた。
「泣かせてしまった責任を、取ってくれるというのなら……もう少し、ここに居てもいい?」
まだ少し滲む視線の向こう、私は震える声でリオレウスにそう伝えた。 彼は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかで、包容力に満ちた眼差しに戻って深く頷いた。
「もちろん。全然構わないぞ」
快く受け入れてくれた。それどころか、彼は翼を少しだけ私の背に添えるようにして、こう伝えてくれたのだ。
「いや……『ここに居てもいい』じゃない。俺は、お前にここに居てほしいんだ」
さりげなく、私がこの都から去るのを引き留めるような、熱を持った言葉に私は息を呑んだ。
――私はいま……彼に、求められている?ここに居てほしい、だなんて。それって、つまり……そういうこと、なの?
その瞬間、私の胸の奥が、今までにないほどに激しく、じんわりと熱くなっていくのを感じていた。彼を見つめる私の瞳に、自然と熱が籠もっていく。
身体が、少し……熱い。
これは、もしかして……いや、駄目。違う!信じちゃ駄目!!
私はもう、恋なんかしないって……決めたのよ……!」
心の中で必死にそう叫び、私は高鳴る鼓動を抑え込もうと身を硬くした。二度と傷つかないために、あの泥の中で固く誓ったはずだった。
けれど――私の拒絶とは裏腹に、これまで凍りついていた背中から、灰青色の冷たい煙ではない、パチパチと小さな音を立てる「紫の火花」が、ひとすじだけ弾け飛んだ。
私が必死に自分の気持ちにブレーキをかけ、整理をつけようと黙り込んでいると、そんな私を値踏みするように見つめていたリオレウスの番たちが、不敵な笑みを浮かべて彼に向き直った。
「……レウス、ちょっと彼女を借りていいかしら?」
リオレイアが代表してそう告げると、彼は何も疑うことなく首を縦に振った。
「ああ。まあ、雄である俺よりも、同じ雌同士のほうが落ち着くかもしれないな。レイア、彼女のことを頼むぞ」
彼はそう言って、どこまでも爽やかに、そして少し眠そうにその場を去っていった。残されたのは、彼の8頭の雌たちと私だけ。
私は何が起きているのか完全に訳が分からず、ただ口を半開きにして呆けていた。
「……え?」
私のそんな間抜けた呟きなど、彼女たちにとってはただの挨拶にもならなかったようだ。
「さあ、行きましょうか」
「ちょっと面白いことになってきたじゃない?」
リオレイアやタマミツネ、そしていつの間にか距離を詰めていたナルガクルガたちに周囲を完全に囲まれ、私は少々……いや、かなりの力尽くで、抗う間もなく強引に別の場所へと連れて行かれてしまったのだった。
◆
リオレイアたちに連れていかれた先で、彼女は私の目をまっすぐに見つめ、核心を突くように聞いてきた。
「あなた、もうレウスに惚れているでしょう?」
その端的な質問に、私は全力で首を横に振り、否定をした。あんなとんでもない雄に、一度恋で破滅した私が、出会って二日で心を奪われるはずがない。そう自分に言い聞かせた。
けれど――否定をすればするほど、何故だか胸の奥がキリキリと激しく痛む。
「……胸が痛むでしょう?」
レイアの追及に、私は言葉を失った。痛い。あまりにも図星すぎて、今度は肯定するように小さく身を竦めることしかできなかった。
「なら、それは紛れもなく恋というものよ。どうして、あなたはその気持ちを必死に否定しようとするの?」
優しくも逃げ場のない質問に、私は消え入りそうな声で、私のなかの「誓い」を絞り出した。
「私はもう……二度と、恋なんかするつもりはないから。あんな惨めな思いは、もう凝り懲りなのよ……!」
しかし、レイアは憐れむのではなく、深い目をして私を諭した。
「けれど、あなたは今、現に胸を痛めるほどの恋をしているわ」
そう言われ、私は完全に何も言い返せなくなってしまった。私の強がりなど、彼女たちの前では、薄い氷のように簡単に砕け散ってしまう。
「……あなたが恋をしないと決めている原因は、その角なのでしょう?」
レイアの視線が、私の半分失われた兜角へと向けられる。
「私たちに教えてくれない? その角が折れた理由を。ひとりで抱え込んでいるより、誰かに打ち明けた方が、きっと少しは心がマシになるわよ?」
彼女の言葉に、私は深く、深く悩んでしまった。 あの傲慢な雄になじられ、誇りを足蹴にされ、自分を価値のない雌だと呪い続けた、もっとも惨めで醜い記憶。誰にも言いたくなかった。思い出すだけで鬼火が灰青色に淀んでしまうほどのトラウマ。
けれど、目の前にいる彼女たちの瞳には、侮蔑も、哀れみもない。ただ、同じ雌としての、確かな情愛だけがあった。
私は……少し悩んだ末に、胸の奥底に燻っていたすべてを、彼女たちに打ち明けることにした。
「私たちの頭部にそびえる、この独特な形状の角。これは、マガイマガドの命とも言える部位よ。主に雄が雌に対するアピールに用いるものであり、一生に一度しか生えない。一度でも折れてしまえば、二度と元に戻ることはないの」
そこまで教えると、話を聞いていたライゼクスが不思議そうに首を傾げて聞いてきた。
「つまり、その角の価値があるのは雄だけじゃねぇのか? 雌のお前には関係ねぇだろ」
「ええ。その通りよ。確かに、雌の私が角でアピールをする必要はない。けれど……違うの。私が言いたいのは、そういう実用性の話じゃない。この角は、マガイマガドという誇り高き種族にとって……」
言葉に詰まり、言い淀んだ私のセリフを、リオレイアが静かに遮った。
「誇りの象徴そのものなのよ、ゼクス」
「あ……」
レイアのその言葉に、ライゼクスは「なるほどな」と納得したように顎を引いた。しかし、すぐにまた別の疑問が浮かび上がってきたらしい。
「じゃあ、なんでそれが折れてんだよ? 雌へのアピールに使うってんなら、雄同士の縄張り争いや喧嘩の弾みで折れたりするだろ? それなら理解できるんだけどよ……」
「ええ……。そうね。普通なら、そうよ。マガイマガドの頑強な角が失われるとすれば、それは同格以上の強者と命がけの戦いをした時くらい。雄同士の激しい激突の末に折れることはあるわ」
「じゃあ、なんで尚更お前の角が折れてんだよ?」
逃げ場のないライゼクスの問いに、私の喉がヒュッと鳴った……折れたんじゃないわ。
「…………折られたのよ」
ついに、一番触れられたくなかった真実を、私は彼女たちの前で打ち明けてしまった。
「私には、雌としての魅力がない。その事実を、私は誰よりも深く理解していた。だからこそ、私は高望みなどしなかった。分不相応な王を求めるのではなく、自分の身の丈に合った番いの契りを結べればそれでいい。そう考えていたの」
私は堰を切ったように、あの日の記憶を語り始めた。
「だから実力も、群れにおける格も、決して高くはない雄。そんな雄ならば、不器用で寄る辺ない私と、互いの傷を舐め合うようにして細々と寄り添って生きていけるかもしれない……そう願って、私は自ら仕留めた極上の獲物を差し出した。それが私の、生涯で最初で最後の求愛だったわ」
息をつく。レイアたち8頭の雌モンスターは、物音ひとつ立てず、私の拙い告白に耳を傾けている。
「……けれど、彼は私の淡い期待を無残に打ち砕いた。差し出された肉を忌々しげに蹴り飛ばすと、見たこともないほど自身に満ちた目で私を見下ろしたのよ。『雌に求愛される俺は、もっと上の、極上の雌を番にできるはずだ!』って」
あの傲慢な咆哮が、今でも耳の奥で不快に木霊する。
「『俺の番はお前じゃない、消えろ貧相な雌が』って言われて、私はショックで頭が真っ白になって、指先ひとつ動かせなかった。そんな私に、彼は容赦なく襲いかかってきた。爪で、牙で、私の身体を打ち据えて……そして、バキ、と」
私は、半分失われた頭部の断面を前脚で撫でた。
「鈍く惨めな音が鳴り響いて、私の兜角の片方が、何の意味もない暴虐によって叩き折られ、泥の中に転がったわ。彼は私が失った誇りを足蹴にし、勝ち誇って去っていった。冷たい泥の中に這いつくばりながら、私はただじっと耐えていたの。不思議と、怒りは湧かなかった。ただ……底なしの自己嫌悪だけが私を満たしたわ」
私は自嘲気味に、ふっと笑う。
「『私は、あんな雄にさえ娶ってもらえない、価値のない雌なのだ』ってね。折られた角の断面から、熱い血とともに鬼火が噴き出したけれど、その炎はもう、マガイマガドの紫じゃなかった。熱を持たず、自らの体温すら奪っていくような、弱々しい灰青色の煙。私は自分の惨めさから逃げるように縄張りを捨てて、ただひたすらに、ここへ彷徨い着いたのよ」
すべてを話し終えると、広場を囲む空気は、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。凍りつくような沈黙のなか、最初に口を開いたのは、リオレイアだった。
「……あなたは……身体だけでなく、マガイマガドとしての、そして雌としての誇りも傷つけられたのね……」
リオレイアのその声は、ひどく静かだった。けれど、その双眸の奥には、見たこともないほどに激しく、そして冷徹な「憤怒」の炎が静かに揺らめいていた。
「…成程な。そういう事情だったか」
その声が響いた瞬間、周囲の温度が劇的に跳ね上がったかのように錯覚した。
声のした方向へ恐る恐る視線を向けると、そこには、いつの間にか戻ってきたリオレウスが佇んでいた。
しかし――彼の双眸は、いつもの穏やかさを完全に失い、まるで全てを焼き焦がす太陽のように黄金色に激しく輝いていた。それだけではない。
ドクン……! ドクン……! と。
彼の巨大な胸の奥から、周囲の大気を激しく震わせるほどの地響きのような心臓の音が、大音量で鳴り響いていた。誰がどう見ても、その肉体には計り知れない怒りが満ち満ちていた。
「盗み聞きとは感心しないわね、レウス?」
リオレイアが、その怒気を受け流すように静かに問いかける。
「悪いな。寝ようとしたんだが、ハンターの奴が『今のうちに聞きに行け』って言うもんだからな。つい盗み聞きしちまった」
彼の口調そのものは、昨日、そして今朝とまるで変わらない穏やかなものだった。しかし、まとう威圧感が何もかも違っていた。ただそこにいるだけで皮膚がチリチリと焼けるような、圧倒的な強者の圧。
(……ハンターが言っていた、リオレウスの怒りとは、これほどまでに恐ろしいものだったのね……!)
私がその圧倒的な迫力に息を呑んでいると、すぐ近くで別の足音が近づき、聞き覚えのある声が鼓膜に届いた。
「いや、あれでもまだ抑えている方だぞ」
声の主はハンターだった。彼は古びた壁に背を預けながら、冷や汗を拭うように苦笑いしている。
「嫁と子どもたち、それにお前さんが近くにいるからな。レウスも理性を保っちゃいるが……もしあいつがこの街を離れて、その元凶の雄を本気で滅ぼしに向かえば……後は言わなくても分かるだろ?」
ええ……分かったわ。人間の国が、都を丸ごと明け渡してまで彼の怒りを鎮めようとした理由が今なら痛いほどによく分かる。この世のすべてを灰にする災厄そのものが、今、目の前で静かに燃え盛っているのだ。
「そういう事。因みに、その時に『街を明け渡すから怒りを収めてくれ』って決死の覚悟で交渉したのが、何を隠そうこの俺だ」
ハンターは少しおどけたように肩をすくめて見せたが、その言葉の裏にある凄まじい歴史の重みに、私はただ圧倒されるしかなかった。
「ハンター、一人忘れているぞ。俺がこうしてなんとか怒りを抑えている理由には、お前も含まれているからな」
黄金に輝く目を細め、リオレウスが低く響く声でそう告げた。ハンターは、まったく怯える様子もなく、むしろ呆れたような、しかし深い信頼の色を湛えた苦笑いを浮かべた。
「……はいはい。相変わらずだな、お前は。聞いての通り、俺があの日に逃げなかった、というか命がけの覚悟で交渉に出向いたのは他でもない――」
ハンターはそこで一度言葉を区切り、愛おしそうに、そして誇らしげに、その巨大な赤き翼をそっと見上げた。
「モンスターのくせに、妙に人間くさいんだよ。こいつの怒りは0か100しかないんだ。何もしなけりゃ穏やかそのもの。しかし…逆鱗に触れるとこうして本気で怒り狂っちまう。だが、そこから自分を抑え込めるだけの理性もある。だからこそ、俺はこいつと対話をして、そして友達になったんだよ」
そう話すハンターの目は優しかった。
「レウス、そろそろ怒りを収めて。彼女が怖がっているわよ」
リオレイアがたしなめるように、けれど優しくそう告げると、リオレウスは天を仰いで深く、深く深呼吸をした。彼が胸いっぱいに大気を吸い込み、吐き出すたびに、先ほどまで周囲を激しく震わせていたあの恐ろしい心臓の音と、肌を灼くようだった周囲の温度が、少しずつ、確実に落ち着いていく。
「……すまなかったな」
最後に小さく息を漏らし、リオレウスは私に向き直った。その瞳からは先ほどの苛烈な黄金の輝きが消え、私が最初に出会った、あの鋭くも温かい、深い色へと元に戻っていた。
あれほどの怒りを振り撒いておきながら、番の一言でその怒りを完全に制御してみせる理性の強さ。そして、ただの通りすがりでしかない私のために、それほどの怒りを宿してくれたという事実。
元に戻った彼の姿を見つめながら、私は呆然としつつも、恐怖の代わりに不思議な安堵感で胸がいっぱいになっていた。
「取り敢えず落ち着いたから屑野郎を消し炭にするのは辞めだ。……その雄への復讐ではなく、君自身の誇りを取り戻すために、俺たちにできることはあるか?」
リオレウスは、傷ついた私の目をじっと見据えたまま、どこまでも真摯にそう問いかけた。
私は、ぐっと唇を引き締めて首を横に振る。別に……過去のことだから。もう、とうに受け入れたことなのだから。これ以上、見ず知らずの王やその番たちに面倒をかけるわけにはいかない。そう言って、私は懸命に言葉を絞り出して断ろうとした。
けれど、私の言葉を遮るように、すぐ隣に控えていたリオレイアがフッと不敵に笑って横やりを入えた。
「ねえ、レウス。今度はこんなに彼女を怯えさせた責任を取ったらどうかしら?」
その鋭いパスに、リオレウスは「むっ」と唸り、顎に前脚を当てて何かを深く考え込み始めた。
彼が真剣に悩みに入ったその隙を突いて、端で雷をパチパチと散らしていたライゼクスが、ニヤリと凶暴で艶やかな笑みを浮かべた。
「なぁ旦那。だったらよぉ……」
嫌な予感が、私の背中の産毛を逆立てる。ライゼクスは楽しげに喉を鳴らし、こともなげにとんでもない言葉を放った。
「そいつが過去の雄のことなんか一発で忘れちまうくらい、激しい交尾をしたらどうだ?」
「……へ?」
思考が、完全に停止した。
今、このライゼクス、一体何て言った? 過去を忘れるために、交尾? 私と彼が?
頭の中で沸騰した血が全身を駆け巡り、私は自分の耳がどうにかなってしまったのではないかと、ただ呆然と彼の顔を見上げるしかできなかった。
「賛成!」
「いい刺激になるわよ」
リオレイアやタマミツネが、待ってましたとばかりに一斉に面白がって囃し立てる。
「ちょっと待って……!彼はあなたたちの旦那様、れっきとした唯一無二の番なのよね!? 番でもない雌に、自分の旦那様を差し出すなんて……ちょっと、普通じゃないわよ!」
私の必死の抗議に、彼女たちはケロリとした顔で笑い飛ばした。
「別に今更よね?」
「おう。アタシたちは普通じゃないのが普通だからな」
「うふふ、腰が砕ける覚悟をしたほうがいいわよ?」
そうだった……ここは最初から、私の知る野生の常識なんて一切通用しない、普通じゃない都だった……。
あまりの怒涛の展開にクラクラしてしまい、私が天を仰いでいた、その時だった。
私のすぐ目の前に、リオレウスがゆっくりと足音を響かせて近づいてきた。
「……俺は、番以外の雌と交尾をするつもりはない」
彼のその言葉に、私の胸の奥がほんの少しだけキュッと冷たくなった。
そうよね……普通はそうよ。私みたいな貧相で、出会ったばかりの雌とそんなことをするわけがない。やっぱり、今のやり取りは彼女たちのただの悪い冗談で――
「しかし、俺はお前と交尾がしたい」
……え? 今、なんて……?
「お前と出会って、話して、泣いているところを見て……俺は、お前を放っておけなくなった。お前の角が折れているからじゃない。傷ついているからでもない。ましてや、可哀想だからでもない――お前自身が、俺にとって大切になったからだ」
リオレウスがさらに一歩、私の体温が跳ね上がるほどの至近 距離まで近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
「俺はお前がこれ以上苦しまないために、お前を苦しませたあの雄の記憶を、綺麗さっぱり忘れさせてやりたい」
私の狼狽をよそに、レウスの優しい温もりを孕んだ瞳と私の瞳がまっすぐに絡み合う。
「愛して愛して愛しまくって。お前の中の『雄』の記憶を俺だけにしてやりたい」
彼の翼爪が私の顎に添えられ、そしてクイ、と力が込められる。私の逃げ場をなくした視線の先で、彼のまっすぐな瞳が私を捉えている。
「だが、勘違いするな。俺は、ただその雄の記憶を無理やり消したいわけでもない。俺が与えたいのは、過去を忘れるための一夜じゃない……これから先、お前が二度と独りで泣かなくて済む未来だ」
何故だろう。威圧されているわけでもないのに、彼の眼差しからどうしても目を逸らすことができない。いや――心のどこかで、逸らしたくないと強く願ってしまっている……!
「だから……」
レウスは私と目を合わせたまま、真っ直ぐで真剣な顔で告げた。
いやぁ…本当は半分にする予定だったが、書きたいところまで一気に書いて、早く読んでほしいと思った結果結合してしまった。
その結果が1話で13000文字という…。
執事と正妃を地獄に落とすならどれが良い?
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空飛ぶイビルジョー
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レウスが連れてきた怨嗟童貞マガド
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何故か死んでない混沌ゴア
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レウスにボコられ、八つ当たり中のネギ