彼は洞窟の入り口で翼を広げた。
「じゃあ、行ってくる」
「……いってらっしゃい、あなた」
そして私に頬ずりをして、大空の彼方へと狩りに出かけていった。今日の彼は私のために、丸々と肥えた一番美味しいお肉を狩ってきてくれるのだろう。ただいま、と私の元へ帰ってくるあたたかい彼の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。けれど…
「……ごめんなさい。あなたとの約束を、待てなかったわ」
彼がいなくなった今こそが、私の待ち望んでいたその時だった。私は、この異形の身体を包む幼体の殻を脱ぎ捨てる、『脱皮』をしようと決めていた。
少し前から、私は自分の身体のなかに起きていた、ある決定的な変化に気づいていたのだ。かつて私を絶望の底に突き落としたあのクソ野郎――シャガルマガラ。あの王が存命している限り、周囲のゴア・マガラは脱皮を阻害され、ゴア・マガラのまま生きる運命にある。
けれど、いつからか、私の肉体を縛り付けていたあの悍ましい阻害の波動が、綺麗さっぱり消え去っているのを感じていた。それがあらわす事実は、ただ一つ。
あのクソ野郎のシャガルマガラが、世界のどこかで死んだのだ。ハンターの手によってか、あるいは寿命によってかは分からない。けれど、私を呪っていた枷はもうどこにもない。今なら、私は確実に成体へと脱皮ができる……!
「……あんな奴と同じ、純白の姿になるなんて、想像するだけで反吐が出そうになるわ。でも……」
嫌悪感で身震いする翼膜を、私は自らの腕で強く抱きしめた。そうだ。私は、あの古龍になりたいわけじゃない。シャガルマガラとしての、古龍の力が欲しいわけでもない。
ただ、彼の顔が見たい。私を救ってくれた、愛する夫の顔を、この目で真っ直ぐに見つめたい。理由はそれだけで十分だった。
それに――成体になれば、もう一つの奇跡が叶うかもしれない。あの焦らされた夜の後、私たちは何度も、貪るように交尾を重ねていた。
彼はいつだって愛おしそうに私を抱きしめてくれたけれど、やはり幼体の、ウイルスでできた不完全なこの肉体では、彼の子どもを身籠ることは出来なかった。
けれど、完全な成体へと生まれ変われば、生命の理さえも超えて、彼との間に新しい命を宿すことが出来るかもしれない。だから……私は脱皮をする。
因みに…初めて私と交尾する時、彼ったらなんて言ったと思う?
『無性でも穴はあるんだな』
ストレートにド下ネタをぶち込んできたのよ?ありないと思わない?でも、そんな彼も私は大好き。
「ふふ、戻ってきたあなたの驚く顔を見るのが、今から本当に楽しみだわ」
世界一大好きな優しい旦那様なんだから、顔だって絶対に私好みのハンサムに違いないもの。大好きな夫の姿を初めて『見る』未来を想像すると、胸の高鳴りが止まらない。驚いた彼が、どんな風に慌てて、どんな風に私を抱きしめてくれるかしら。そんな悪戯っぽい妄想が、脱皮への恐怖を完全に消し去ってくれた。
私は洞窟の奥深くに身を潜めると、全身の細胞を沸き立たせ、漆黒の殻を内側から引き裂くように、力強く身体を震わせ始めた。
私は冷たい地に深く伏し、身体の奥底から湧き上がる衝動に身を任せて脱皮の準備を整えた。内側からドクドクと、異様なほどの熱が全身を駆け巡る。
……ああ、始まったのだわ。私の肉体が、内側から全く別の「生命」へと再構築されていく生々しい感覚が皮膚の裏側から伝わってくる。
ドクン、ドクンと、身体が私の意志とは無関係に、脱皮のステップを進めるために激しく脈動する。
漆黒の外殻がミシミシと軋みを上げ、背中にある翼膜の付け根が、新たな強靱な脚を形成するためにボコボコと不気味に膨らんでいく。同時に、暗闇しか映さなかった頭部の感覚器官が、新たな形へと変形を始めていた。間違いない。脱皮は、驚くほど順調に進んでいる。
「くっ……あ、あど、少し……っ」
肉体が引き裂かれるような、凄まじい激痛が走る。私の魂のどこかでは、まだあの憎きシャガルマガラと同じ姿になることへの強い拒絶があったけれど、ゴア・マガラとしての肉体の本能は、成体へと至る正当な進化の道を大いに喜んでいた。
心は反吐が出そうなほど嫌がっているのに、肉体の本能だけが歓喜に震えている。それは、恐ろしいほど奇妙で、歪な感覚だった。
けれど……あと少し。あと少しの痛みを耐え抜けば、私は完全な成体になれる。そうなれば、私の顔に「双眸」が開く…!今まで私を全肯定して、愛し続けてくれた、あの最愛の夫の姿をこの目で見ることができる…!
そして……不完全な幼体の殻を脱ぎ捨てれば、今度こそ彼の子どもをこの身に宿し、本当の意味で、名実ともに彼の番になれるのだ!だから……もっとよ、もっと!
私は痛みをねじ伏せるようにして肉体の本能をさらに煽り立て、脱皮の速度を加速させた。あの純白の、神々しいシャガルマガラへとなるために。
パラパラと、私の身体を覆っていた禍々しい黒い鱗が、ボロボロと地面に剥がれ落ちていく。もっと剥がれて。もっと、私に光を頂戴。彼を映すための瞳を、子どもを育むための完全な身体を、私に……!
すべてが順調だった。あの暗闇の底で、最高の結末を手に入れられるはずだった。
――ギチッ。
突如、肉体の奥底で、悍ましい『拒絶』の音が鳴り響いた。
「……え?」
身体の動きが……ピタリと止まった。いや、違う。私の意志が止めたのではない。内側から沸き立っていたあの圧倒的な成長の熱量が、冷や水を浴びせられたかのように急激に凍りついていく。
脱皮のプロセスが、強制的にストップさせられたのだ。いくら力を込めようとしても、身体が全く言うことを聞かない。半分ほど白銀の輝きを見せ始めていた私の肉体の上で、残りの黒い鱗が、まるで肉に直接縫い付けられたかのように強固に固まり、これ以上、どうしても剥がれ落ちてくれない。
「嘘……でしょ……? なんで、動かないの……っ!?」
私は激しいパニックに陥りながら、見えない腕で、剥がれかけの己の身体を何度も掻き毟った。痛い。ただ苦痛だけが肉体を苛み、半分だけ白い鱗が露出した歪な姿のまま、進化の歩みが完全に停止してしまっている。
「嘘よ…!だって…だってあの阻害のウイルスを放っていたシャガルマガラは、確かに死んだはずよ!だから私は脱皮を始めたのに…!……ま、まさか……!」
頭の芯が、スーッと凍りついていくような絶望的な理解が、私の脳裏をよぎった。
「遅すぎたというの?あのクソ野郎が死んで、枷が外れたその短い隙に……私の知らないどこか別の場所で、別のゴア・マガラが、私よりほんの僅かだけ早く……シャガルマガラに、成体へと、成リ上がってしまったというの……!?」
新しく誕生したシャガルマガラが世界に放った、次世代の脱皮阻害ウイルス。それが、大気を伝ってこの洞窟にまで届き、今まさに成体になろうとしていた私の肉体を、無残に、そして決定的に叩き潰したのだ。
「あ、あ、あああ……っ!!」
全身を襲うのは、筋肉が引き裂かれ、骨が異形のまま固定されていく、言葉を絶するほどの激痛。成体になりきれず、かといって幼体に戻ることもできない。子孫を残すことも叶わず、目は開かず、ただ半身を黒く濁らせたまま、余命を苦痛の中で呻きながら死を待つだけの化け物――
【渾沌に呻くゴア・マガラ】
世界で一番愛する人の顔を見るための切ない賭けは、最も残酷な形で、私に敗北を突きつけた。
「痛い……っ……違う……こんな……こんなはずじゃ……私は……レウスを……見るために……彼と……幸せになるために……!」
私はただ、大好きな夫の顔が『見たい』と願っただけ。ただ、普通の番のように、いつか彼との間に新しい命を授かりたいと、そう願っただけだった……!
なのに、神様はどこまで私を残酷におもちゃにすれば気が済むの!顔の感覚器官は変形したまま引き裂かれ、求めた「双眸」は完全には得られない。真っ白なシャガルマガラにもなれず、元の暗闇のゴア・マガラに戻ることすら叶わない。
つまり……私の『彼の顔が見たい』というあまりにも純粋な願いのせいで、私は二度と彼の顔を見ることも、光の世界へ帰ることもできない、この世で最も哀れな身体になってしまったのだ……。
「あ、あああ……っ……う、あぁ……!」
内側から骨をきしらせ、肉を侵食していく凄まじい苦痛に、私は地面をのたうち回りながら激しい悲鳴を上げた。剥がれ落ちるはずだった黒い鱗が、無理やり露出した白い鱗を締め付け、皮膚を血に染めていく。
皮肉にも、今の私の肉体は、かつてリオレイア希少種だった頃の失われた【黄金の鱗】、ゴア・マガラとして世界を呪っていた【黒い鱗】、そしてシャガルマガラとして光を掴もうとした【白い鱗】の三つが、歪に混ざり合って斑になった、言葉を失うほど醜悪な姿へと変わり果てていた。
第一の竜生を、あのクソ野郎との壮絶な戦いと苦痛の果てに失い……。
第二の竜生を、彼と共に歩むための未来への投資の失敗によって失い……。
……そして、命を賭けて掴み取ろうとした、彼との本当の幸せという名の「第三の竜生」を……掴みきれず、引き裂かれ、異形のまま固定されてしまった、世界のどこにも居場所のない化け物の姿……。
「う……うあ、ああぁ……っ!!」
激痛と絶望のなかで、私はただ、戻ることのない暗闇の世界に向かって、声を枯らして呻き続けるしかなかった。
◆
俺は狩りを終えて、獲物を抱えながら彼女の待つ洞窟へと向かっていた。
珍しく、今日はゆっくりしたいからお肉を狩ってきてくれない?なんて甘えてきたからな。当然引き受けたさ。愛しい妻の頼みなのだから。
彼女と暗闇の底で出会ってから、結構な時間が経った。そろそろ、俺の一匹旅行を終えて、元の賑やかな俺たちの巣へと帰るには丁度いい頃合いだろう。あいつが大人しく俺の後ろをついてきて、俺の巣にいる7頭の妻たちの前に出たら、一体どんな修羅場になるだろうか。
『また番を増やしてきたのね! この雌誑しの旦那様は!』
なんて、レイア達にもの凄い剣幕でどやされるに違いない。けれど、なんだかんだ言っても、彼女が我が家から追い返されることは絶対にないという確信があった。俺の自慢の妻たちは、みんな個性豊かで優しいからな。異形の姿のまま孤独に引きこもっていた彼女の事情を話せば、きっと、温かく受け入れてくれるさ。
「お待たせ。ただいま!」
そんな明るい未来を思い描きながら、俺はいつものように洞窟の入り口をくぐり、声をかけた。
――だが、いつもならすぐに返ってくるはずの、あの恥ずかしそうな、けれど愛おしい彼女の声が返ってこない。
「……おい? 聞こえてないのか?」
気になった俺は洞窟の奥へと歩みを進めた。だが…俺の耳に、静寂を切り裂くような、悍ましくも痛切な『呻き声』が飛び込んできた。
地を這うような、筋肉と骨がきしむ音。そして、苦痛に耐えかねた激しい悲鳴……まさか……っ!俺のいない隙に、彼女がハンターか、あるいは別の凶暴な大型モンスターに襲われているのかもしれない!
全身の血が、一気に冷たく凍りつく。俺は抱えていた肉なんか放り出して、急いで洞窟の奥へと走り出した。
「おい……っ!」
奥ににたどり着いた俺の瞳が捉えたのは――想像していた天敵の姿ではなかった。そこに這いずり、のたうち回っていたのは、禍々しい【漆黒】と、神々しい【純白】、そして輝きを放つ【黄金】の鱗。その三つの色彩が、歪に、残酷に混ざり合った、見たこともない異形の怪物だった。
こいつは、一体誰だ? どこから迷い込んできた怪物なんだ?一瞬、脳が思考を拒絶した。だが、その斑の化け物が、激しい血を流しながら、俺の気配を察して顔を上げた。
「……あ……なた……っ……!」
押し潰されたような、けれど、太陽を呼ぶ切実な声…その一言を聞いた瞬間、俺の胸に鋭い爪が突き刺さったような衝撃が来た。
「おまえ……なのか……?」
声が、まともに震えて出なかった。俺は急いでその異形の怪物の元へと駆け寄り、その身体に触れようとして、すんでのところで己の爪を止めた。
改めて、至近距離でその姿を直視する。黒。白。金。三つの命の記憶が、無理やり一つの肉体に縫い付けられたかのように、激しく軋みを上げている。その皮膚の隙間からは、限界を超えたエネルギーが血と共に吹き出し、彼女の身体を内側からボロボロに引き裂き続けていた。
「どうして……こうなっているんだ……?」
俺の口からは、掠れた声でそう尋ねることしか出来なかった。今朝まで、あんなに温かくて、愛おしかった彼女が、今は見るも無惨な三色の異形となって、血とウイルスを吐き出しながらのたうち回っている。
「ごめんなさい……あなた……私……我慢が、出来なかったの……」
息も絶え絶えに、彼女は俺の気配に向かって言葉を紡ぐ。どういう事だ? 何が我慢出来なかったんだ? 一体お前の身に、何が起きたっていうんだ。
「あなたの……顔が見たかった……」
「……っ!」
再び胸の奥を突き刺されたような衝撃が走った。俺は何も言えなかった。
「あなたの……子どもが欲しかった……」
俺は、また、何も言えなかった。喉の奥が完全に張り付いて、言葉が、呼吸が、うまく繋がらない。
「分かっていたの……例え…子どもが産まれなくても……あなたが私を……そのままの姿で愛してくれることくらい……」
当たり前だ。そんなの、当たり前に決まっている! 子どもが産まれなくてもいい、俺はお前と一緒にいたいから番にすると誓ったんだ…!
「なのに……私は、強欲にも……欲しがってしまった……。あなたが愛しいから……大好きなあなたとの……愛の結晶が、欲しくなってしまった……」
彼女の、血を吐くような告白を聞きながら、俺は……気づいてしまった。彼女が、こんなにも悍ましく、苦しい姿になってしまった本当の理由を……。
誰のせいでもない。
だが…俺にはそう思う事が出来なかった…。
俺が彼女を、その絶望の底からすくい上げて『愛した』から……だから彼女は、俺のその想いに応えようとして、俺を……『愛してしまった』のだ。
俺を愛するが故に、もっと近づきたいと、本当の番になりたいと願って、命懸けの脱皮に賭けてしまった。
すべて……俺のせいなのだ……。
俺の愛が……彼女を……この地獄へと引きずり込んだんだ……。
「――っ、あああッ!!」
俺はもう、なりふり構っていられなくなって、周囲を猛烈に汚染しているウイルスの嵐のなかへ飛び込み、彼女の異形の身体に強く抱きついた。
黒と白と金の鱗が、俺の肉体を削り、焼くような痛みを放つ。だが、そんな痛みはどうでもいい。これしきの傷、お前の味わっている苦痛の万分の一にも満たない。
「もう……何も喋るな。大丈夫だ。その姿になったとしても、俺はおまえを愛する。おまえは、俺の美しくて、愛しい妻のままだ」
耳元で、強く、壊れそうな彼女の身体を抱きしめながら誓う。責任を……取らないと。口先だけで『惚れさせた責任を取る』なんて格好つけていた、己の甘さを呪う。
俺が彼女を、こんな目にあわせてしまったんだ。その責任を、俺の命のすべてを懸けてでも、果たさなきゃいけない…!彼女を……この絶望から、俺の手で救わなければ……!なのに…。
「離してくれ……これから俺は、おまえを助けに行かなければならないんだ……っ!」
激痛に震える彼女を少しでも安静にし、肉体への負担を避けるために、俺は一度その身体を地面へ優しく下ろそうとした。
一刻の猶予もない。彼女が生きていられる時間を、一秒でも長く延ばすんだ。そしてその稼いだ僅かな時間で、俺の命のすべてを懸けて、必ず彼女を救う手立てを見つけてみせる!
そう、魂に固く誓っていた。なのに……彼女の強靱な腕が、俺の身体をガッチリと捕らえて離さなかった。
「いいの……あなた……もう……」
「おい……っ!? 離せ、おまえを助けるために、俺は――」
彼女が何故俺を、折れんばかりの力任せでギュッと抱きしめているのか。そして……この後に、彼女が一体何を言おうとしているのか。重なり合う肌の震えと、消え入りそうなその声色で、俺には痛いほど分かってしまっていた。
お願いだ……言わないでくれ……っ!
おまえの口から、その言葉だけは絶対に聞きたくない……!
頼むから…言うな……!!
「私は……もう……助からないから…………」
俺の胸元に顔を埋めたまま、彼女は残酷な現実を、ぽつりと静かに告げた。内側から細胞が崩壊していくその苦痛。それを誰よりもリアルに、絶望的な実感を伴って理解しているのは、他の誰でもない、彼女そのものだったのだ。
俺の背中に回された彼女の腕の力が、まるでこれが最後の温もりだとでも言うように、一層強く、愛おしそうに締め付けられる。狂竜ウイルスが、今は涙のように彼女の身体から溢れ、俺たちの視界をどこまでも暗く染め上げていった。
俺は、ただ、その残酷すぎる現実の前に、言葉を失って絶句するしかなかった。だが…
「……ふざけるな……ふざけるな……! ふざけるな!!!」
俺の腹の底から、怒りと悲しみが混ざり合った絶叫が迸った。洞窟の岩肌がビリビリと震えるほどの咆哮。その音に、彼女の身体がびくりと小さく跳ねる。
「何が『私はもう助からない』だ! そんなの、一体どこの誰が決めたんだよっ!」
「……私……私の身体が、もう……」
「認めないぞ、そんなこと!!」
認めるか。認めてたまるか、そんな残酷な終わり方……!
俺の腕の中で、彼女の身体がボロボロと崩れ落ちながら彼女の命を削り続けている。それが分かっていて、何もできない自分への怒りで、胸が狂いそうだった。
「あなた……脱皮不全に陥った生物はね……命が短いのよ……肉体が持たないの。だから……」
「だったら、その短い命が尽きる前に、俺がおまえを絶対に助け出す!!」
だから……頼むから、一度その腕を離してくれよ……!おまえを助けに行くための、一分一秒が惜しいんだ。でも、今の俺の力で無理やりおまえを振り切ったら、そのボロボロの身体をさらに傷つけてしまう…。それだけはしたくないんだ……!頼むから、俺に、おまえを助けに行かせてくれ……!
「……私ね……辛いの……」
「分かってる! 痛いんだろ、苦しいんだろ! だから俺が――」
「違うの……。あなたが……居なくなるのが、一番辛いの……」
「……っ……なっ……!」
喉の奥が、カッと熱くなって言葉を失った。
「……あなたの……体温が感じられない時間が……一瞬でも、怖くて、寂しくて、耐えられないの……」
おまえ……おまえ、こんな時にまで、何を言ってるんだ……!
「どうせ……死んでしまうのなら、これ以上痛い思いをするくらいなら……大好きな、あなたの胸の中で死にたいの……。お願い、もうどこにも行かないで……離さないで……もっと強く、抱きしめて……お願い……っ!」
彼女の異形の腕から、血が混ざったウイルスの熱が、俺の皮膚へと染み込んでくる。その腕の力は、驚くほど弱々しくて、けれど、俺のすべてを縛り付けるには十分すぎるほど、切実で、愛おしさに満ちていた。
……そんなことを、そんな声で言われたら…俺に、断れる訳……ないじゃないか……!
俺は助けに行くための四肢を完全に奪われ、ただ目の前の愛しい妻の願いのままに、その壊れそうな身体を抱きしめ返すことしかできなかった。
「ねぇ……あなた……」
俺の胸の中で、彼女が壊れそうな声で、けれど愛おしそうに俺を呼んだ。
「なんだ?」
「こんな姿になっちゃったけど……それでも本当に、私のこと愛してくれる?」
何を当たり前のことを言っているんだ。俺はお前の外見がどうなろうが、目が見えなくなろうが、そんなことは最初からどうでもよかったんだ。
「言わなくても分かるだろ……。愛している。世界で一番、お前を愛しているさ」
「ふふ……分かっているわよ……。大好きな旦那様のことだから……そのくらい……全部分かっているわ……」
なら、なんでそんな質問をしたんだ。胸が締め付けられるような愛おしさと切なさが、俺の心臓を激しく揺さぶる。
「ねぇ……あなた……最後に、キスをしてくれる?」
お安い御用だ。そんなこと、何度だってしてやる。
「口を開けろ」
俺が低くそう告げると、彼女は素直に、その口元を僅かに開いた。肉体が内側から崩壊していく影響で、その口からは鉄の匂いがする真っ赤な血と、周囲の空気を黒く染めるほどの濃密な狂竜ウイルスが、これでもかと溢れ出てくる。
普通の生物なら、触れただけで発症して狂い死ぬような死の毒霧。
けど……だからなんだ。目の前で苦しんでいる愛する妻が、俺にキスを求めているんだ。なら、命を懸けてそれに応えるのが、夫としての役目というものだ。
「……んむ……」
俺は躊躇なく、彼女の嘴に、自分の嘴を重ね合わせた。絡み合う熱の中で、彼女の口内に深く舌を滑り込ませる。
「…レロ…っ…」
口いっぱいに広がるのは、彼女の流した生々しい血の味と、身体をチリチリと焼くようなウイルスの猛烈な毒の味。正直言って、めちゃくちゃ不味い。身体が本能的に拒絶反応を起こしそうになる。
けれど……俺は絶対に、唇を離さなかった。不味かろうが、毒だろうが関係ない。むしろ、お前を苦しめているその不条理な呪いを、俺がこのまま全部吸い尽くしてやる。
彼女の体内に巣食う狂竜ウイルスを、一匹残らずこの喉の奥に飲み込んで、俺の規格外の生命力で焼き尽くしてやるくらいの勢いで、俺は彼女のすべてを貪るように、深く、深く、熱いディープキスを交わし続けた。
「……ぷはっ……!」
どれほどの時間が経ったのだろう。絡み合っていた舌がようやく離れる。彼女と俺は、互いに肩で息を荒げるほど、激しく狂おしいキスだった。俺の口の周りには、吸い尽くした彼女の血と黒いウイルスの残滓が痛々しくこびりついている。
「はぁ……はぁ……ふふ。やっぱり……私、あなたが、本当に大好きなんだわ……」
少しだけウイルスの毒気が抜けたのか、彼女は掠れた声で、けれど今日一番の愛おしそうな笑みを浮かべた。俺も大好きだ。
「ねぇ……あなた……もう一つだけ、最後のお願いがあるの……」
なんだ? いくらでも言うといい。お前が望むなら、世界一の肉でも、古龍の命でも、なんだって獲ってきてやる。全て叶えてみせるさ。
「……今…ここで……私と、交尾をして……」
「んな……っ!? バカ言うな! それはお前の身体に、負担がデカすぎるぞ!!」
俺は驚愕して叫んだ。ただでさえのたうち回るほどの激痛のなかにいるんだ。そんな激しい行為を今のお前の身体でしたら、ただでさえ短いお前の命が、さらに縮んで、今すぐ崩壊しちまうかもしれない……!
「いいの……死ぬ前に、あなたと一つに繋がりたいの……。あなたに、最後まで雌として愛されたいの……お願い……」
叶えてあげたい。その切実な願いを、俺の腕の中で消えかけている愛しい妻の最期の望みを、叶えてあげたい。だが……お前が壊れてしまうかもしれない恐怖に、俺の心の準備がどうしても追いつかない。
「……やっぱり、無理……なの?」
見えない瞳を潤ませるようにして、彼女の気配が寂しげに揺れた。
「いや……無理じゃない、無理じゃないが、お前の身体が――」
「また……私を焦らすつもり……? あの、初めて出会った夜みたいに……」
「それは……っ」
あの夜の、お互いにじれったくて、けれどどうしようもなく甘かった記憶を引っ張り出されて、俺は言葉に詰まった。お前、今その話は……。
「じゃあ……もう、いいわよ」
私の制止を振り切るように、彼女の口調からふっと弱々しさが消えた。
――ギチッ、と肉体がきしむ強烈な音が響く。
「なっ……!?」
次の瞬間、視界が激しく反転した。脱皮不全でボロボロのはずなのに、彼女の火事場の馬鹿力とも言える凄まじい怪力が俺の身体を襲ったのだ。
成す術もなく、俺は地面に力任せに組み伏せられていた。バサリ、と彼女の翼が俺の視界を覆い尽くし、彼女が俺の身体の上にドサリと跨る。
「あなたがしてくれないのなら……私の方から行くんだから……っ!」
耳元で、荒い息と共に、かつての「陸の女王」としての強固なプライドと、愛する雄を独り占めしようとする激しい雌の本能が混ざり合った声が響く。死を前にしてなお、いや、死がすぐそこに迫っているからこそ、彼女の愛は狂暴なまでに燃え上がっていた。押し付けられた異形の肉体の熱と、彼女の覚悟の重さに、俺の魂は完全に圧倒されていた。
俺自身はまだ心の準備が整っていないのにも関わらず、俺の身体は素直だった。彼女の覚悟を受け止めろ、そう言うかのように下半身に血が集まっていく。
そして起立した直後、すぐさま彼女が腰を下ろし、交尾が始まった。
彼女の愛は凄まじかった。俺の腰を、骨盤を破壊しそうな勢いで何度も打ち付けてきた。けれど、俺は彼女に身を委ね続けた。
腰を打ち付けるたび、彼女の口からは息が漏れ、そして荒くなっていく。
だからこそ...俺には分かる。彼女の身体はもう...限界だ。
だから...俺は彼女を一度抱きしめ、身体が繋がったまま、彼女との立場を反転させた。彼女を下に組み敷き、俺が彼女に覆い被さる。そして、あの日と同じように彼女の耳に囁く。
「俺も…覚悟を決めた。だから...覚悟を…しろ」
「……嬉しいわ……あなた……」
俺の胸の下で、彼女が深く、愛おしそうに吐息を漏らした。その声を肌で受け止めながら、俺はただ、彼女を愛し続けた。
今までと何も変わらない、ただ純粋な愛の営み。けれど、俺の理性が、俺の強靱な本能が、恐ろしいほどの明確さで真実を告げていた。
俺が今やっていることは、彼女を救うことなんかじゃない。肉体の崩壊が進む彼女に、決定的な引き金を引く――まさにとどめを刺す行為であり、愛する妻の息の根を止める行為なのだということを。
一線を超えるたびに、彼女の身体から溢れる命の灯火が、パチパチと音を立てて激しく燃え尽きていくのが分かる。
普通の夫なら、今すぐ止めるべきなのだろう。
けれど……彼女がそれを心から願うのなら。
これが、世界のどこにも居場所のない化け物にされてしまった彼女の、最期に残された『雌としてのプライド』なのだとしたら。
俺はその願いを、何が何でも叶えてやらなきゃならない。
途中で投げ出すことなんて、雄のプライドに懸けて絶対に許されない。
だから――俺はやる。
お前が命を燃やし尽くすと言うのなら、俺はその火床になってやる。周囲を汚染する黒い霧も、崩れ落ちていく三色の鱗も、そのすべてを俺の身体で受け止め、圧し潰すようにして、俺は激しく、深く、彼女の肉体と魂を限界まで愛し抜いた。
そして…激しい営みの果てに、俺は彼女の中に俺の熱を大量に注いだ。彼女の死後も、俺の熱が残り続けるために。彼女の中に温もりを残すために、ドクドクと大量に注ぐ。
「...んっ...!入ってくる...あなたが...あなたの熱が...私の中に…..熱いものが…沢山...」
だが…行為が…とうとう、残酷な終わりを告げた。
「……あなた……」
「……なんだ……」
声を返す俺の喉は、ボロボロに引き裂けそうだった。腕の中の彼女は、もう、消え入りそうな虫の息だ。あれほど激しく燃え上がっていた命の熱が、指の隙間からサラサラと零れ落ちる砂のように、急激に冷めていくのが分かる。
「……私……本当に、幸せだったわ……」
「……そうか……」
「あなたと、番になれて……本当によかった……」
「……っ、……そうか……!」
溢れそうになる涙を、奥歯が砕けるほど噛み締めて堪える。彼女の胸の脈動が、目に見えて弱まっていく。次に彼女が紡ぐ言葉が、本当に最後の、遺言になるのだと本能が察していた。
「あなた……私の分まで、奥様たちを……あなたの家族を、たくさん、愛してあげてね……。これが……本当の……最後のお願い……」
「……分かったよ……」
……分かった。お前の願いなら、俺の命に懸けて全部守る。でも……頼むから……。お前も、お前だって俺の大事な奥さんなんだ。やっと出会えた、俺の愛しい8頭目の妻なんだ。だから……行かないでくれよ……! 置いていかないでくれ……っ!
「さようなら……あなた……。愛しているわ……」
「ああ……さようならだ……っ! 俺も、お前を愛している……!」
それが、最期の交わし。ふっと、彼女を縛り付けていたすべての苦痛が消え去るように、その異形の身体から力が抜けた。
――彼女の息の根が、止まった。
俺の腕の中で、最愛の彼女が、静かに死んだ。その瞬間、せき止めていた涙はもう、完全に抑えられなくなった。
「ああ……あああああ!!!!」
静寂に包まれた暗い洞窟の奥底で、俺は冷たくなっていく彼女の身体を壊れそうなほど強く抱き締めたまま、狂ったように慟哭を上げ、ただひたすらに泣き続けた。
世界のどこを探しても、もう、俺の呼ぶ声に応えてくれる彼女はどこにもいなかった。
◆
「目が見えない彼女のために、俺が彼女の目になった。子どもは産めないと諦めている彼女に、諦めるにはまだ早いと励ました」
彼はそこで一度、言葉を区切った。
「そして……彼女は俺の顔を見たいと願った。俺との子どもが欲しいと願った。シャガルマガラに脱皮をすれば、そのどちらもが手に入る。だから……脱皮をしようとした。そして……失敗をした」
目が見えない。子どもも産めない。なのに……彼が彼女を、その絶望の底からすくい上げて『愛した』から……。
だから彼女は、彼のその暖かく大きな想いに応えようとして、彼を……『愛してしまった』のだ。
彼を愛するが故に。もっと近づきたいと、その姿をこの目で見たいと願って、命懸けの脱皮にすべてを賭けてしまった。そして……失敗してしまった……。
「そして……俺の腕の中で、彼女は死んだ……」
彼の目は酷く悲しげで……そして、ついにその黄金の瞳から大粒の涙が溢れていた。私は……目の前で夫を殺されてしまった……。けれど……彼は……。自らの手で、自らが与えた愛のせいで……愛する奥さんの息の根を止めてしまったのだ。
「他でもない、俺のせいだ」という言葉の、あまりにも重すぎる真実。私のように外敵に奪われたのではない。
自分が彼女を絶望から救い、光を見せてしまったからこそ、彼女は命を落とした。
その事実が、どれほどこの紅蓮の王の心を永く、深く、抉り続けてきたのだろう。かけるべき言葉が見つからず、私はただ、涙を流す巨躯を呆然と見つめることしかできなかった。
レウスは彼女と激しい接吻と交尾によって大量の狂竜ウイルスを吸引、摂取することによって当時の肉体の許容量を越え、狂竜症を発症。そして極限化に至ります。
また、彼女との遺言により、レウスは番を愛し尽くすことを実行。『家出』などによる『遠出』をすることを避け、自ら番を増やすことをしなくなりました。
これがレウスが数年間、女誑しが鳴りを潜めていた真実です。その証拠に…オウガとマガドはレウスが口説き落としましたが…出会った原因は竜の都を訪れたのが発端です。そしてナナも同様、竜の都で過ごしている時に訪ねてきています。
要約すると、レウスは巣を狩り以外で離れることはなく、引きこもり続けているようなものです。
次回、まだ少しだけレウスの過去回想は続きます。
皆さんはこの中ならどれが読んでみたいです?
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著・ギルマス「赤い竜の君」
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巣立ちしたレウスの子ども達のその後
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