彼女の静かな寝顔をこれ以上汚さないよう、俺は崩れ落ちていく彼女の身体を優しく、冷たい地面へと横たえた。それから、狂ったように洞窟の外へ飛び出した。
大空を奔り、獲物を執拗に狩り集める。そして、暗い洞窟の奥へと持ち帰り、彼女の枕元へと静かに置いていく。息を整える間もなく、俺は再び外の世界へ飛び出し、獲物を引き裂き、また彼女の元へと運んでいく。
お前が死後の世界へ旅立つ道中、決して、一瞬たりともお腹を空かせて悲しい思いをしないように。貪るように肉を喰らっていたあの愛おしい朝を、あの大好きな笑顔を思い出しながら、俺は洞窟の奥が埋まるほどの大量の肉を、彼女への供物として捧げ続けた。
そして最後に、俺は自らの身体から引き剥がした【赤黒い鱗】を、彼女のすぐ傍へとそっと供えた。
「俺の匂いが大好きなお前が、これで、少しでも安心できるように」
目が見えないお前が、深い暗闇のなかで迷ってしまわないように。俺の温もりの残り香が、ずっとお前を包み込んで守ってくれるように、祈りを込めて。それが、夫としての俺がしてやれる最期の、本当に最期のお世話だった。
「……行くよ」
俺は彼女の姿を、その異形の中に残る愛しい面影のすべてを魂に焼き付けると、振り返ることなく、洞窟の入り口へと歩みを進めた。
外の眩しい光が差し込む境界線に立ち、俺は周囲にある巨大な大岩へと爪を掛けた。俺のような規格外の強力な生物でなければ、1ミリたりとも動かすことすら敵わない超巨大な岩。それを、地響きを立てながら力任せに引きずり、洞窟の入り口へと次々に嵌め込んでいく。
ひとつ、またひとつと、光が遮られ、彼女と過ごした優しくて切ない空間が、閉ざされた暗闇へと戻っていく。
「ごめんな……本当は……お前を、もっと日の光が届くような、花が咲き乱れる綺麗な場所に安置してあげたかった。けれど、俺の目が届かなくなった後、お前の遺体や供物を、ハンターや他の薄汚いモンスターどもに指一本触れさせたくないんだ」
彼女という気高き陸の女王を、俺の愛しい妻を、誰の目にも晒したくない。お前と俺の、あの狂おしいほどに愛おしかった思い出は――すべて、この深淵の洞窟に封印する。
最後の岩が入り口を塞ぎ、光が消え去った。二度と誰も破ることのできない完璧な墓標を前に、俺は力無く翼を羽ばたかせ、彼女の遺言を守るため、そして俺自身のケジメをつけるために、孤独な大空へと舞い上がった。
――空が、やけに眩しかった。
いつもなら、雲の流れも、遠くを飛ぶ鳥の姿も、すべてが愛おしく感じられるはずの大空。だが、今の俺には、そのすべてがひどく鬱陶しく感じられた。
「…………」
何も考えたくなかった。考えれば、思い出してしまうから。俺の腕の中で、静かに息を引き取った彼女の姿を…俺の体温を求め、最後まで離さなかった、あの細い腕を…
そして……二度と聞くことのできなくなった、あの愛しい声を…
『愛しているわ……』
「…………っ」
ズキリ、と胸の奥が痛んだ。
……違う。これは、悲しみなんかじゃない。胸の内側を、何か得体の知れないものが食い破ろうとしている。
ドクンッ。
「……あがっ!?」
突如、心臓が激しく跳ねた。視界が大きく揺れる。翼の動きが不規則に乱れ、俺の巨体が空中で大きく傾いた。
「な、んだ……っ、これは……!」
息ができない。喉が内側から焼ける。全身の血液が沸騰しているかのような熱さと、骨の髄まで凍りつくような悪寒が、同時に俺を襲った。
そして――俺の口から、黒紫色の靄が溢れ出した。
「……っ、あああああッ!!」
咆哮が、大空を切り裂いた。身体の内側で、何かが蠢いている。俺のものではない、別の何かが。
俺の血液に入り込み、筋肉を這い回り、神経の一本一本にまで侵入してくる。
その正体を、俺は知っていた。
狂竜ウイルス
彼女の身体を蝕み、命を奪った、あの忌々しいウイルスだ。
「……ふざけるな……!」
爪が震える。翼が激しく痙攣する。視界の端が黒く染まり、世界の輪郭が歪んでいく。
「ふざけるな……ふざけるなよ……ッ!!」
何故だ。どうして、俺までこんな目に遭わなければならない。俺はただ……彼女を愛したかっただけなのに…彼女と一緒に、生きていたかっただけなのに…!
なのに、どうして……!
『――殺せ』
ふと、頭の奥で声がした。
『――壊せ――喰らえ――殺せ――』
「黙れ……」
『――
「黙れと言っているんだ……ッ!」
『――夜を呼べ――』
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!!」
俺は自分の頭を振り、必死に意識を繋ぎ止めようとした。だが、狂竜ウイルスは容赦なく俺の身体を侵食していく。
目に映る岩山が、獲物に見えた。 遠くを飛ぶ鳥が、引き裂くべき敵に見えた。何もかもが、壊したくてたまらない。
それなのに…頭の片隅には、彼女の笑顔が残っていた。
『あなた……私のこと、愛してくれる?』
「……ああ……」
掠れた声が漏れる。
「愛している……。愛しているに、決まっているだろうが……!」
その瞬間、俺の身体から黒紫色の靄が爆発的に噴き出した。
黄金の瞳が、燃え上がる…理性が、千切れかけた。
そして――
ゴォォォォォォォッ!!
大空の彼方から、凄まじい風圧が吹きつけた。
俺は反射的に顔を上げた。そこにいたのは、一頭の古龍だった。
純白の鱗…黄金に輝く翼…神々しいまでの姿でありながら、その全身から放たれる圧倒的な存在感は、周囲の空気そのものを震わせていた。
シャガルマガラ
狂竜ウイルスを撒き散らす、天廻龍。
つい先ほど、ゴア・マガラから脱皮を終えたばかりなのだろう。翼にはまだ新たな身体に馴染みきっていないような動きがあり、その純白の鱗は、太陽の光を浴びて眩しいほどに輝いていた。
そして、あいつの周囲にも、黒紫色の靄が漂っていた。
狂竜ウイルス。
俺の身体を蝕んでいるものと、同じもの。
「…………」
シャガルマガラは俺を見た。瞳が静かにこちらを捉える。
敵意があるのか、それとも、単に同じ空を飛ぶ生物として認識しただけなのか。
そんなことは、どうでもよかった。俺の中で、何かが音を立てて切れた。
――ああ…そうか…お前か…お前も、こいつを撒き散らしているのか。
彼女を苦しめたものを。
彼女の命を奪ったものを。
俺の愛しい妻を、あんな姿に変えてしまったものを……!
「……お前が……!」
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。シャガルマガラが翼を広げる。それを見た瞬間、俺の身体は、もはや俺の意思を待たなかった。
ドォンッ!!
大気が爆ぜた。赤い巨体が、黒紫色の靄を引き裂きながら、白き天廻龍へと突進する。
「――死ねェェェェェッ!!」
咆哮とともに、俺の爪がシャガルマガラの翼へと振り下ろされた。
黄金の光と、狂竜の闇が、空の只中で激突した。
◆
――どれほどの時間が経過したのだろう。
空を覆っていた雲は、いつの間にか遠くへと流れ去っていた。大地には無数の爪痕が刻まれ、巨大な岩山は無惨に砕け散り、周囲一帯には、激闘の凄まじさを物語る傷跡だけが残されていた。
その中心に…俺は、立っていた。
いや、正確には……立っていることしかできなかった。
全身の鱗はあちこちで剥がれ落ち、赤い血が傷口から絶え間なく流れ続けている。翼膜には無数の裂傷が走り、呼吸をするたびに肺の奥が焼けるように痛んだ。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。それでも、俺は倒れなかった。倒れる理由が、なかった。
そして…俺の足元には、シャガルマガラが横たわっていた。
シャガルマガラ、天廻龍と呼ばれる古龍は、その神々しい翼を地面に投げ出し、力なく息を荒げていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
黄金の翼は泥と血に汚れ、純白の鱗には無数の亀裂が走っている。
その頭蓋を…俺は、片脚で踏みつけていた。
「……っ、くそ……!なんなんだ、お前……!」
シャガルマガラが、苦しげに顔を歪めた。
「はぁ……はぁ……!お前、なんで俺にそこまで恨みをぶつけてやがる……!俺がお前に何かしたか!?」
…………その言葉を聞いた瞬間、頭の中で、何かがすっと静かになった。身体の奥で暴れ回っていた熱が、急速に引いていく。耳をつんざいていた血潮の音が遠のき、歪んでいた視界が、ゆっくりと本来の姿を取り戻していった。
ああ…そうか…俺は、今まで……
「…………」
俺はゆっくりと、自分の足元を見下ろした。
そこには、苦痛に顔を歪めるシャガルマガラがいた。傷だらけになりながらも、ただ困惑と理不尽への憤りで俺を見上げる、生きた古龍。
そして、その頭蓋を踏みつけているのは、俺自身だった。
……何をしているんだ、俺は。
そう思った。こいつは――このシャガルマガラは、彼女をゴア・マガラへと変えた張本龍ではない。全く別の命なのだ。
こいつが生まれ、脱皮を果たし、ただこの空を飛んでいたことに、何の罪もない。ただ生きていただけ。彼女の命を奪った脱皮不全はこいつのせいではあるが、こいつが意図して彼女を殺した訳ではない。
ウイルスの狂気に飲まれ、やり場のない絶望をこの古龍に八つ当たりしていた。その事実を突きつけられた瞬間、急激に冷めていく頭のなかで、己の醜さと滑稽さに、吐き気がするほどの虚しさが押し寄せてきた。
狂竜ウイルスに侵され、理性を失った。怒りに任せて、目の前の相手に襲いかかった。その結果が、これだ。
「……おい」
俺は、静かに口を開いた。
「……なんだよ……!」
シャガルマガラが、警戒するように俺を睨み上げる。
「お前は……」
言葉が途切れた。何を言えばいいのだろう。妻が死んだ。お前と同じ、シャガルマガラに成ろうとした。子供を望んで、命を懸けた。俺を愛してくれた。
そして、俺の腕の中で死んだ。
………だから、何だというのだ。
こいつが、何をしたというのだ。
俺の妻のことなど、知るはずもない。
俺たちが、どんな時間を過ごしたのかも。
彼女が、どんな願いを抱いていたのかも。
その願いが、どれほど残酷な結末を迎えたのかも。
こいつは、何も知らない。
………そんなことは、最初から分かっていた。
分かっていたはずなのに…俺は、こいつを殺そうとした。傷だらけの純白の肉体。泥にまみれた黄金の翼。
無惨に破壊された周囲の景色が、俺の犯した八つ当たりという名の、あまりにも独りよがりで、醜悪な暴力を証明している。そして今も…俺の脚は、こいつの頭蓋を踏みつけている。
「……お前は……」
シャガルマガラが、荒い息の合間に言葉を絞り出す。
「俺に……何の恨みがあるんだ……?」
俺は、しばらく黙っていた。怒りは、もうなかった。狂竜ウイルスに引きずられるような衝動も、嘘のように消え去っていた。ただ、何も感じなかった。
目の前の古龍に対しても。
自分自身に対しても。
傷口から絶え間なく流れ落ちる、自身の赤い血に対しても。
そして……この先の未来に対しても。
「……別に」
俺は、ぽつりと答えた。
「ただ単に……」
踏みつけた脚に、ほんの少しだけ力を込める。シャガルマガラの身体が、びくりと震えた。
「お前は、脱皮するタイミングが悪かった」
(そして…俺の妻も…)
俺は、黄金の瞳を細めた。
「……それだけだ」
「――なっ……」
シャガルマガラが何かを言いかけた。だが…俺は、もう何も聞くつもりなどなかった。
ミシリ…!
足元から、小さな音が響いた。シャガルマガラの頭蓋に、亀裂が走る音だ。
「おい、待――」
バキィッ!!
鈍い破砕音が、大地に響き渡った。俺の脚の下で、シャガルマガラの頭蓋が砕け散った。純白の巨体が、一度だけ大きく痙攣する。
それきり……動かなくなった。
「……………」
俺は、しばらくその場から動かなかった。足元に横たわる古龍を見下ろす。
つい先ほどまで、俺を殺そうとしていた存在。
俺が殺す理由など、本来ないはずの存在。
そして俺が、殺した存在。
……それが、どうしたというのだろう。
妻は帰ってこない。どれほど強く願っても。どれほど多くの命を奪っても。どれほど空を駆け、どれほど大地を血で染め上げても。彼女が、再び俺の名前を呼んでくれることはない。
『あなた……』
「………」
『愛しているわ……』
「…………」
俺は、ゆっくりと脚を持ち上げた。そして、力なく一歩を踏み出す。身体中が痛かった。傷口から血が流れ、翼は重く垂れ下がり、呼吸をするだけでも苦しかった。
それでも…胸の奥には、何もなかった。
怒りも…憎しみも…達成感も…罪悪感さえも…
何ひとつ、残っていなかった。
俺はただ、空を見上げた。
いつもと変わらない、広大な空…眩しい太陽…どこまでも続く、青い世界。
……ああ……綺麗だな。
いつもなら、そう思えたはずなのに…今は、何も感じなかった……俺は、誰もいない空へと視線を戻した……そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「……帰るか」
帰る場所なら、ある。俺を待っている妻たちがいる。守らなければならない家族がいる。彼女と交わした、最後の約束がある。だから、帰らなければならない……分かっている。そんなことは、分かっているんだ。
それなのに……俺の胸の中には、ただただ、底のない空虚だけが広がっていた。
◆
レウスが洞窟の入り口を封印し、孤独な大空へと旅立ってから数日後。
光の届かない、深い暗闇に閉ざされた墓所の奥底にて。大量の供物と、一頭の雄の深い愛に包まれていた彼女の遺体に、奇妙な、そして神秘的な異変が起き始めていた。
冷たくなっていたはずの彼女の肉体の奥深くで、一つの、確かな【卵】が形作られていたのだ。
彼女は成体になりきれず、肉体が崩壊する『渾沌に呻くゴア・マガラ』となって命を散らした。
しかしそれは、裏を返せば、彼女の肉体が「半分だけでも確かに成体に、古龍へと至っていた」という証明でもあったのだ。
幼体、無性生殖のウイルスの塊のままでは決して叶わなかったはずの奇跡。半分だけ成体になれていた彼女の肉体は、あの最後の、命を焦がすような激しい愛の営みをきっかけにして、彼から注がれた熱を、遺伝子を、自らの内へ懸命に組み込み、一つの新しい生命の雛形として構築させていた。
さらに、奇跡はそれだけに留まらなかった。彼女の肉体に遺された、膨大な数の狂竜ウイルスたち。生前、彼女が最愛の彼を傷つけまいと、自らの強い意志で完璧に御してみせたあのウイルスたちは、主が息絶えた後もなお、その忠実な「制御」を失っていなかった。
シャガルマガラが撒き散らす破壊の呪いではない。彼女の愛によって調教されたウイルスたちは、主の死後、自発的に、彼女の肉体に宿ったばかりの小さな命を守ろうと動き出したのだ。
彼らは健気にも自らのエネルギーを燃やし、卵を包み込むような優しい「温もり」を生成しようと試みる。だが、主を失い、世界の底で徐々に衰退していくウイルスたちの熱量だけでは、新しい命を孵化させるには、決定的に不十分だった。
このままでは、小さな命は冷たい暗闇のなかで、やがて凍りついて消えてしまう。
しかし――その絶望的な暗闇のなかに、一つだけ、本物の太陽のような熱を放ち続けるものが残されていた。
彼女が寂しがらないようにと、彼が最期に寄り添うように供えていった、あの【リオレウスの赤黒い鱗】。
それまでただ卵の周囲を漂っていたウイルスたちは、まるでひとつの明確な意志を持った軍隊のように、一斉に動き出した。一匹一匹では力のない微小なウイルスたちが、全員で協力し、互いの身体を繋ぎ合わせるようにして、冷たい地面に置かれていたあの赤い鱗を、主の卵の元へとじりじりと運び始めたのだ。
やがて、彼らの必死の活動によって、レウスの鱗が卵の表面へとそっと重ね合わされる。ジュワ、と暗闇に微かな熱の波動が広がった。鱗に宿る、あのレウスの圧倒的な生命力と太陽の温もりが、彼女の遺したウイルスたちの健気な熱と完全に混ざり合う。
その絶対的な温もりを受け取った瞬間――冷たく静止していた卵の奥底で、トクン、と小さな、本当に小さな新しい鼓動が鳴り響いた。誰にも見られることのない世界の底で、二頭の果てしない愛の結晶は、親たちの遺した温もりに守られながら、静かに、力強く、その成長の歩みを再開し始めた。
それから、どれほどの時が流れたのだろう。閉じ込められた暗闇のなかで、父の残した鱗の温もりと、母の愛したウイルスたちの献身に守られ続けた卵が、ついにその殻を内側から力強く突き破った。
パキ、と静寂のなかに美しい亀裂の音が響き、次の瞬間――誰もいない墓所の奥底で、新しき生命の力強い【産声】が、高らかに鳴り響いた。
「ピャァ…!」
産み落とされたその子どもの身体には、親たちの生きた証が、あまりにも鮮烈に刻まれていた。その幼き鱗は、父たるリオレウスの燃えるような【赤】、母たるリオレイア希少種の気高き【金】、そして母が世界の底で身に纏っていたゴア・マガラの深き【黒】が、まるで美しいマーブル模様のように複雑に混ざり合っていた。
かつて母の肉体を苦しめ、悲劇へと変えたシャガルマガラの純白の鱗は、どこを探しても一枚として存在しない。何故なら、あの呪わしい白い鱗は、愛の営みの果てに注ぎ込まれた父たるリオレウスの、圧倒的な太陽の赤によって完全に染め上げられ、淘汰されたからだ。
この子どもは、世界を拒絶するシャガルマガラではない。破壊を振りまく古龍でもない。その姿は、紛れもなくリオレウスの系譜を継ぐ、力強い翼を持った飛竜の形をしていた。
リオレウスの形をしたゴア・マガラというべき、生態系の常識を根底から覆す新たなる飛竜。母から受け継いだあの狂暴な「混沌のウイルスの力」を、父から受け継いだその胸の奥で燃え盛る「太陽の心臓」が、完璧に統率し、従え、支配している。
もしも、この世界にこの新しき王の名をつける者がいるとするならば――
【混沌を統べる ゴア・マガラ】
世界で一番愛し合い、命を散らした二頭の、果てしない愛の結晶。目も見えない暗闇の底で、その子どもは父と同じ強靱な四肢で立ち上がり、母と同じ研ぎ澄まされた五感で、大岩の隙間から差し込む一筋の『光』を、確かに見つめていた。
生まれたばかりの命は、生きるための本能に従い、すぐさま最初の食事を始めた。
その小さな鼻が捉えたのは、すぐ傍に積み上げられていた大量の肉の匂い。まだ目が見えなくとも、この子どもには本能で理解できていた。
この肉が、かつて自分の父親が、大好きな母親のために遺してくれた大切な供物なのだということを。子どもは迷うことなく、その肉へと貪欲に食らいついた。
産み落とされてから既にかなりの時が流れており、積み上げられた肉はどれも完全に腐敗し、死の毒を孕んでいたが……この小さな王にとっては、何の問題も、障害もなかった。
この子の父親は誰か?
あの狂竜ウイルスなどものともせず、死の淵にいた母親を最期まで、狂おしいほどに愛し尽くした、かの偉大なる王、レウスなのだ。
この子はあの最強の父親の遺伝子を色濃く引き継いでいる。あらゆる毒やウイルスをその圧倒的な生命力で焼き尽くし、我が物として従えてしまう、腐った肉に宿る病原菌など、彼の体内にある「太陽の心臓」の前には、ただの極上のエネルギーに過ぎなかった。
一心不乱に肉を喰らい、やがて腹が膨れると、子どもは母親の遺体にそっと寄り添った後、洞窟の入り口から差し込んでいるあの一筋の眩しい光に向かって、小さな身体で頑張って這い寄っていった。
光に触れたい。外の広い世界を、父と母が飛び回ったあの大空を『見て』みたい。
しかし……まだ生まれたばかりの非力な身体では、かつて父親が「自分レベルの強力な生物でなければ1ミリも動かせない」と、愛を込めて頑丈に積み上げたあの巨大な大岩を動かすことは到底できなかった。
大岩の壁に小さな前脚をぶつけ、ふにゃりとその場に転がってしまう。それでも、子どもの瞳には絶望などなかった。閉ざされた暗闇の中で、父の遺した赤い鱗を大切に抱きしめながら、いつかあの壁を破り、大空のどこかにいる父親の元へと羽ばたくその日のために、新しき王は再び静かに力を蓄え始めるのだった。
◆
子どもが生まれ落ちてから、数年の歳月が過ぎた。かつてはふにゃふにゃと転がっていた小さな身体は、洞窟に遺されたエネルギーをすべて喰らい尽くし、今や見上げるほどに巨大な飛竜へと成長を遂げていた。
全身に広がるのは、父の赤、母の金、そしてゴア・マガラの黒が複雑に絡み合った、禍々しくも美しいマーブル模様の鱗。
胸の奥では、母譲りの混沌のウイルスを完全に統べる「太陽の心臓」が、ドクドクと力強く脈打っている。
「――グゥ、ウウゥッ……!」
あいも変わらず、彼は今日も、洞窟の入り口を塞ぐあの巨大な大岩にその頑強な四肢を掛け、渾身の力で押し出そうと肉体をきしませる。
ズ、ズズ……ッ……大岩が、地響きを立てて僅かに揺れた。あと少し。あとほんの少し成長して身体が出来上がれば、この閉ざされた暗闇を破り、外の世界に出ることができる。その確かな手応えがあった。
けれど、子どもは決して満足していなかった。これだけ大きくなっても、自分はまだ、あの憧れの父親のようにはなれていない。母の遺したウイルスの記憶が彼に教えてくれる。
自分の偉大な父親は、この巨大な大岩を「運ぶこと」ができたのだと。それに比べて今の自分は、全力で押し出すことすら、まだ完全には出来ていないのだから。
「もっと……もっと強くならなきゃ。あのお父さんのように!」
いつかあの偉大な空の王と肩を並べられる日を夢見て、彼は今日も、大岩を相手にその足腰を限界まで鍛え上げる。ひとしきり身体を動かし、心地よい疲労感に包まれながら、彼は母の遺骸の傍らへと戻り、父の遺した赤い鱗を愛おしそうに抱きしめて静かに眠りについた。
外に出られたら、今度はあの大空を飛ぶ練習をするんだ。そして……まだ見ぬ、けれど魂の底から大好きな、お父さんに会いに行こう。その胸に秘めた純粋な決意は、暗闇の墓所を優しく照らす、何よりも眩しい太陽の光そのものだった。
夢のなかで、彼は大岩を木っ端微塵に粉砕し、眩しい大空へと羽ばたいていた。まだ見ぬ、けれど誰よりも憧れている父親の姿を求めて、世界の果てまで飛んでいく。
しかし……そんな、彼の胸を躍らせる幸福な夢は――最悪の衝撃音によって、無残に砕かれた。
ドーーーーーーーン!!!
「…っ…!お母さんっ!」
洞窟の全土を激しく揺るがす、耳をろうするほどの爆発音が轟いた。彼は瞬時に目を覚ますと同時に、凄まじい警戒心とともに、母の遺体を守ろうと、その巨大に成長した翼を広げて母の骸へと覆い被さった。
パラパラと、崩落した洞窟の壁の破片が、母を必死に庇う彼の翼の鱗へと激しく降り注ぐ。やがて、濛々と立ち込める土煙のなかで激しい揺れが収まっていった。
彼は唸り声を上げながら、様子を確かめるために入り口の方へとゆっくりと向かった。そこで彼が目にしたのは、信じられない光景だった。
かつては一筋の光しか入り込ませず、自分の未熟さと、成長の確かな手応えを何年もの間教えてくれ続けていたあの超巨大な大岩が、無残にも粉々に砕け散っていたのだ。
岩の向こうからは、これまで経験したことのない、圧倒的な量の「外の光」が土煙を透かして差し込んできている。
(――僕が、僕の力で、いつか乗り越えたかったのに……っ!)
外に出られる喜びなど、微塵もなかった。あるのは、激しい怒りと屈辱。自分を鍛え上げ、いつか偉大な父親と同じ領域に達するための『指標』でもあった大切な大岩を、どこの馬鹿野郎か分からない他人の手によって、暴力的に破壊されたのだ。
母の遺したウイルスの波動が、彼の胸の奥にある「太陽の心臓」をドクドクと激しく煽り立てる。マーブル模様の鱗を逆立て、彼は砕けた大岩の瓦礫の向こう側を獰猛な瞳で睨みつけた。
煙の向こう側へと、彼はついに念願だった外の世界へと足を踏み出した。
しかし、生まれてから数年間、一度も日の光を浴びずに暗い洞窟に引きこもっていたせいだ。押し寄せる圧倒的な光に目が眩み、チカチカとして上手く外の景色を見ることができない。
それでも彼は、じっと堪えながら双眸を世界の明かりへと慣らしていった。やがて視界がクリアになるにつれ、彼は外の状況を少しずつ理解していく。
彼のいる場所から少し離れた場所に、何やら巨大な巣――人間たちの「街」が見えた。そして、その街のすぐ近くで、頭の角が両方ともなくなっている、まるで鎧を纏った巨大な猫が、地響きを立てながら激しい戦闘を繰り広げていたのだ。
その戦いの凄まじさに五感を尖らせていた、次の瞬間だった。
ヒュンッ――!
と、その戦場から、凄まじい速度で何かが自分の方向へと飛んできた。彼は本能のままに、父と母の血を引く強靱な尻尾をバチィンと横一文字に振るい、その飛来物を容赦なく弾き飛ばす。
――ドガアアアアアン!!!
弾かれた物体は、離れた岩肌に激突した瞬間、聞き覚えのある耳をろうするような大爆発を起こした。
「……成る程ね」
爆炎を見つめながら、彼の胸の奥で、冷徹なまでの理解が追いついていく。あの飛んできた奇妙な物体が何なのか、その詳しい正体は知らない。
けれど、あの角がない猫のような生物と戦っている奴らが放った「武器」が、ここまで飛んできて……そして、あの自分の成長の証だった大岩を粉砕したのだ。
つまり、彼にとって神聖だった試練の岩は、彼らを狙って放たれたわけでもなく、ただの【流れ弾】によって無残に破壊されたのだ。
「僕の目標を……ただの『流れ弾』で片付けたのか……っ!」
狙われたわけですらないという事実が、彼の胸の奥にある怒りの炎を、さらに激しく、獰猛に燃え上がらせる。
彼は大きく翼膜を広げると、街を荒らすあの角なし猫と、それを迎え撃つ人間たちの戦場を、冷徹な「黄金の瞳」でじっと見下ろすのだった。
◆
「あなたは……その後、彼女を亡くした場所に行ったことはある?」
私は恐る恐る尋ねた。私は……夫を殺されたあの場所へ戻ることは、未だに出来ていない。戻れば……またあの恐ろしい咀嚼音が、すべてを奪われたあの日が鮮明に蘇って、正気を保っていられなくなるから……。彼のような偉大な王なら、その恐怖すら乗り越えているのだろうか。
「……つい最近、その大陸には行ったよ……」
リオレウスの言葉に、私は胸の奥を突かれるような思いがした。ああ、あなたは……どれほど辛い出来事を思い出すことになっても、彼女との思い出を大切にするために、前を向いて歩める強いお方なのね。
「私とは、大違いね……」
自嘲気味に呟いた私の声を、彼は即座に遮った。
「……いや……違うよ……」
え……?どういう、こと?
「大陸には行ったよ……。でも……洞窟には行かなかった……いや、行けなかった……! あと一歩が……どうしても、踏み出せなかったんだ……!」
彼の黄金の瞳から、大粒の涙がまたひとつ、石畳へと零れ落ちた。圧倒的な生態系の王。古龍すら怯むほどの熱量を放ち、異形の子供たちを堂々と我が子と呼ぶ、非の打ち所のない強き「紅蓮の王」。その彼が、今、私と同じように……いや、私以上に、過去のトラウマに身体を震わせ、弱さを晒している。
「俺だって……怖いんだ。あの大岩を見てしまうと、今でもあいつを死なせてしまった瞬間が、俺のせいで冷たくなっていったあいつの体温が、昨日のことのように蘇る……」
彼もまた、傷ついた一頭の雄に過ぎなかった。完璧な強者などではなかった。ただ、傷つきながらも、それでも必死に翼を広げて、この都を守り続けているだけなのだと、その涙が物語っていた。
そして…彼の弱音を聞いたことで、私の中に、今までになかったある思いが静かに芽生え始めていた。
彼の……力になってあげたい。
彼の傷を……癒してあげたい。
彼が私の傷を暴こうとせず、ただ包み込み、癒そうとしてくれているように――私も彼を、あの暗闇の底から救い出す手助けがしたい。同じように心を引き裂かれた者として、彼の隣に立ちたい。だから……。
「じゃあ、私と一緒にその場所へ行く?」
私は、彼が過去と、そして彼女のいた暗闇と向き合うための提案を口にしていた。彼は驚いたように、涙に濡れたその黄金の瞳を大きく見開いていた。
「一匹で行くよりも、二匹で行ったら……少しは気が楽になるかもしれないわよ? それに……」
言葉を続けようとして、私は少しだけ気まずくなってしまった。けれど、これは今、この場できちんと伝えなければならない。
「あなたに私の気持ちが分かるわけないでしょ、なんて……酷いことを言ってしまったから。それの、謝罪の意味も込めて……」
すべてを失って、白き灰のようになっていたはずの私の心。その奥底で、彼を救いたいと願う、小さくも確かに熱い火種がパチリと音を立てて爆ぜたような気がした。そこまで言って、俯きがちに彼を見上げると……。リオレウスは、その大きな顔をほんの少しだけ綻ばせ、優しく、慈しむように笑っていた。
「一匹で行くよりも、二匹で行ったら少しは気が楽……か」
彼は私の言葉をそう復唱すると、今度は大きな身体を震わせ、声を上げて笑い出した。
「はは! まさかあなたの傷を癒そうとしたら、俺の方が助けられるとは思いもしなかった! ははは!」
そう言って暫くの間、可笑しそうに笑った後、彼はゆっくりと私の方を振り返った。その黄金の瞳からは、もう先ほどまでの涙の陰は消え去っていた。
「……あなたのお陰で、今度はあと一歩が踏み出せるかもしれない。ありがとう」
「……どういたしまして」
私が少し照れくさそうに答えると、彼は一度、決意を固めるように深く頷いた。
「……うん。そうと決まれば、決意が揺らぐ前に行くとするかな」
そう言って、彼は今度こそあの巨大な翼を大きく広げ、大空へと飛び立とうとした。けれど、私はその力強い背中に向かって、すぐに呼び止めていた。
「私も行くわ」
明日にするでも、傷が癒えるのを待つでもない。彼が今、過去と向き合うと決めたのなら、私も今、このきしむ翼を広げる。彼は私の言葉に再び振り返り、どこまでも温かい笑顔で答えた。
「……あなたは……本当に優しいお方だ」
そして、彼は私の元へと静かに近づき、私の目を見つめてこう伝えてくれた。
「俺の用事が終わったら……次は、あなたの場所に行きましょう。勿論、俺もお供しますよ」
私の場所。あの凄惨な記憶が眠る、火山の縄張り。彼が一緒なら、私もいつか、あの地獄のようなあの日の一歩先へと進めるかもしれない。
私は数ヶ月ぶりに、自分の白い身体の奥底で、かつてないほど強固な「生きる意味」が、確かに熱を帯びていくのを感じていた。
色褪せた白い灰の甲殻の隙間から、ほんの一瞬、目には見えないほどの小さな青い火花が、パチリと音を立てて爆ぜた。
レウスの精神状態
1.レウスはゴアの死直後――悲嘆を「世話」という行動に置き換えている。
まず、ゴアが亡くなった後のレウスは、泣き叫んだり、妻の遺体にすがりついたりしたあと、異様なほど精力的に行動しています。
ゴアが死後の世界へ旅立つときに空腹にならないよう、獲物を狩り続ける。自分の鱗を剥がし、そばに置く。遺体と供物を守るため、巨大な岩で洞窟を封鎖する。
これらの行動には、共通点があります。
「もう何もしてやれない」という現実に直面する代わりに、「まだ妻のためにしてやれること」を探しているのです。
特に、肉を運び続ける所です。レウスは、ゴアがもう食べられないことを理解できていないわけではない。それでも、かつておいしそうに肉を食べていた妻の姿を思い出し、彼女が死後に空腹で苦しまないようにと供物を捧げ続ける。
これは、理屈で死を否定しているのではなく、愛情が習慣として残り続けている状態に近い。
生前なら、ゴアがお腹を空かせていれば食べ物を用意できた。寒ければ温めてやれた。目が見えなければ、自分の存在を感じられるように寄り添えた。
しかし、死後は何をしてもゴアの反応が返ってこない。
だからこそ、レウスは最後まで「夫としての世話」を続ける。
「それが、夫としての俺がしてやれる最期の、本当に最期のお世話だった」
レウスはゴアを埋葬しているだけではありません。ゴアのために何かをしてあげられる自分自身にも、別れを告げているのです。ただし、心の整理がついているわけではありません。むしろ、これ以上世話をすることができないという現実を、行動の終わりによって突きつけられています。
2. 洞窟の封鎖――愛情と保護欲が、喪失への恐怖に変わっている
ここでは、レウスの愛情に別の感情が混ざり始めています。
レウスはゴアを花の咲き乱れる美しい場所に安置してやりたかった。それでも、その願いを諦めてまで、遺体と供物を洞窟の中に封じ込めた。
理由は、ハンターやモンスターに妻を傷つけられたくないから。
一見すると、妻を最後まで守ろうとする夫の愛情です。しかし、精神状態という観点では、もう少し複雑です。ゴアはすでに亡くなっています。遺体を守ることはできても、生前の彼女を取り戻すことはできません。それでもレウスは、妻に関する最後のものを自分の管理下に置こうとしています。
ここには、取り返しのつかない喪失に対して、残されたものだけは絶対に失いたくないという心理があります。
さらに、洞窟を封鎖する行為には、妻との思い出を外の世界から切り離す意味もあります。
『お前と俺の、あの狂おしいほどに愛おしかった思い出は――すべて、この深淵の洞窟に封印する』
レウスが封印しようとしているのは、遺体だけではない。彼女と過ごした幸福な時間も、その時間が二度と戻らないという事実も、いったん自分の目の届かない場所に閉じ込めようとしているように見えます。
もちろん、妻の遺体を守ること自体は異常な行為ではない。問題は、その行為がレウスにとって、妻の死を受け入れるための儀式であると同時に、妻の死を自分の世界から切り離そうとする最後の抵抗にもなっていること。
そして、レウスは洞窟を閉じたあと、振り返らない。これは決意の強さとも読めそうだが同時に、もう一度振り返れば足を止めてしまうことを、レウス自身が理解しているようにも読める。
3. 空が眩しい――悲しみが世界全体の色を変えている
精神状態の変化を示す最初の大きな転換点。
それまでのレウスにとって、大空は愛おしい場所でした。雲の流れも、鳥の姿も、すべてが生きる喜びとつながっていた。
ところが、妻を失った直後には、それらすべてが鬱陶しいものに変わっている。世界そのものが変わったのではない。世界を美しいと感じさせていた、レウスの心の側が変わってしまった。
心理学的には、強い悲嘆に伴う興味や喜びの喪失、あるいは快感を得にくくなる状態と関連づけて考えられる。
そして、レウスは妻の死を思い出すことを恐れている。
『何も考えたくなかった。考えれば、思い出してしまうから』
レウスは悲しみを感じることそのものよりも、記憶を通して妻の死を何度も追体験することに耐えられなくなっている。
ゴアの声を思い出した瞬間、胸が痛む。彼女が最後まで体温を求めていたことを思い出す。もう二度と声が聞けないと理解してしまう。
つまり、レウスにとって思い出は、幸福の記録であると同時に、妻がもういないことを証明するものでもある。愛しているからこそ思い出したい。しかし、思い出すたびに失った現実を突きつけられるから、考えたくない。
この矛盾が、レウスの精神を追い詰めていく。
4. 狂竜ウイルスの侵食――悲嘆と破壊衝動が結びつく
ここからは、心理的な苦痛に、作中設定としての生物学的・超常的な要因が加わります。
レウスは、自分の胸の痛みを悲しみではないと否定します。そして、狂竜ウイルスが体内を侵食し、幻覚的な知覚の変化や、破壊衝動、命令するような声が現れる。
心理的な要因
最愛の妻を失ったことによる極度の悲嘆。
妻の死に対する、行き場のない怒り。
思い出すことすら苦痛になっている精神状態。
狂竜ウイルスによる要因
身体の異常と激しい生理的苦痛。
周囲の存在が敵や獲物に見える知覚の変化。
「殺せ」「壊せ」と命じる声。
理性による衝動の抑制が困難になること。
この二つが同時に起きているため、レウスは自分の感情を正しく整理する余裕を失っていきます。特に重要なのは、レウスが最初から無差別に暴れたいわけではないことです。
レウスは、妻を愛していた。妻と生きていたかった。その願いが叶わなかったことに苦しんでいます。
ところが、狂竜ウイルスは、その苦しみを解消する代わりに、破壊衝動と結びつけてしまう。
心の中にある「なぜ妻が死ななければならなかったのか」という問いが、「何かを壊せ」「誰かを殺せ」という衝動に変換されていく。
ただし、これはウイルスが悲嘆そのものを作り出したという意味ではない。悲嘆はすでに存在し、そこにウイルスによる異常が重なった、それだけです。
では、なぜシャガルマガラを襲ったのか?
レウスはシャガルマガラがゴアを殺そうとしたわけではないと知らない。そもそも、冷静に考える余裕がない。
その瞬間、シャガルマガラは、レウスの中で次の三つを象徴する存在になったと考えられます。
・妻を苦しめたもの。
・妻を救えなかった自分にはどうすることもできない、理不尽な運命。
・行き場のない怒りをぶつけることができる、目の前の対象。要約、八つ当たり。
ゴアの死は、どれだけ怒っても覆らない。過去を殴り返すこともできない。しかし、目の前のシャガルマガラなら攻撃できる。変えられない現実への怒りが、攻撃可能な対象へと向けられている。
そして、狂竜ウイルスがその行動を促進している。だからこそ、レウスの襲撃は、単純な復讐というよりも、悲嘆とウイルスによる衝動が絡み合った、制御を失った暴力である。
5. 「愛している」――理性が崩れかけても、愛情だけは残っている
レウスの身体はウイルスに侵食され、頭の中では殺意を命じる声が響いている。世界のあらゆるものが破壊対象に見え始めている。
それでも、妻が生前に尋ねた「私のこと、愛してくれる?」という言葉に対して、彼は答えています。
「愛している」と。
問題は、レウスが妻を思い出したことで怒りが消えるのではなく、むしろウイルスの侵食が激しくなっていること。つまり、愛情が彼を完全に理性へ引き戻す力にはなっていないことを示す。しかし、愛情が消えてしまったわけでもありません。むしろ、理性が崩れかけている状況でも、妻への愛情は彼の内側に残り続けている。
レウスの愛情は、理性が正常に働いているから存在するものではない。怒りや苦痛に支配されていても、妻を愛しているという事実そのものは変わらない。それだけのこと。レウスはそういう男なのです。
ただし、愛情が残っていることと、その愛情によって正しい行動ができることは別問題。
この直後、レウスはシャガルマガラに襲いかかる。レウスは妻を愛している。だからこそ、妻を苦しめたものを許せない。しかし、その愛情は、目の前の相手が本当に憎むべき存在なのかを判断するための冷静さを与えてはくれない。
愛情そのものが悪いのではない。当然です。愛情から生じた怒りを、狂竜ウイルスによって制御できなくなっているのです。
6. シャガルマガラへの勝利――怒りが消えた瞬間、残ったのは自分への嫌悪
最も恐ろしい部分。シャガルマガラの「俺がお前に何かしたか!?」という言葉を聞いた瞬間、レウスの中で何かが静かになります。それまで彼を突き動かしていた熱が引き、視界が正常に戻り、自分が何をしているのかを認識できるようになる。
つまり、レウスはようやく自分の行動を外側から見られるようになったのです。
そして、そこで気づく。自分が踏みつけているのは、妻を意図的に殺した犯人ではない。妻の人生も、彼女の願いも、何も知らない一頭の生物なのだと。このときレウスに起こっているのは、単なる怒りの鎮静化ではない。
自分が何をしたのかを理解する認知能力が戻り、行動の責任を認識し始めているのです。ところが、その認識が戻ったからといって、彼はシャガルマガラを解放しません。
むしろ、こう考えています。
「こいつが、何をしたというのだ。」
「分かっていたはずなのに…俺は、こいつを殺そうとした。」
ここには、非常に痛烈な自己認識があります。
レウスは、相手に罪がないことを理解できている。自分の行為が八つ当たりだったことも理解できている。
つまり、レウスの道徳的な判断能力が完全に失われたわけではない。しかし、理解できたことと、行動を取り消せることは違う。彼はすでにシャガルマガラを瀕死に追い込み、頭蓋を踏みつけています。自分の行動が間違いだったと気づいた瞬間にも、相手を解放するという選択をしない。
そして、最後には殺害する。
なぜ、レウスは殺すことをやめなかったのか?
レウスは怒りが消えたあとも、妻を失った現実は何も変わらない。怒りに支配されていた間、レウスには攻撃する理由があるように感じていた。
しかし、理性が戻ると、その理由が崩れてしまう。シャガルマガラを殺しても妻は帰ってこない。相手が無関係だと分かっている。それでも、自分はここまでの暴力を振るってしまった。
この状況でレウスが直面するのは、怒りをぶつける相手を失うことだけではない。自分が何をしても、妻の死という現実を変えられないという事実です。
彼はその事実を認識しながら、なおもシャガルマガラを殺します。これは、冷静な復讐ではない。しかし、単にウイルスに操られたからだと片付けるのも違う。
なぜなら、レウスが理性を取り戻したあとにも、自分の足で相手を踏みつけ、最後の一撃を加えているから。
ここで生じているのは、少なくとも自分の行為を間違いだと理解しているのに、それを止めることができない、あるいは止めることを選ばない精神状態ということ。
7. 「それだけだ」――感情が消えたのではなく、感情を向ける先を失った
シャガルマガラを殺害する直前、レウスはこう言います。
「お前は、脱皮するタイミングが悪かった」
「……それだけだ」
この台詞は、冷静な処刑人の言葉とは違う。レウスは、シャガルマガラが自分の妻を殺したわけではないと理解しています。相手に罪がないことも、頭では分かっている。
だからこそ、彼は相手を責める言葉を見つけられない。
それでも、妻が死んだことへの怒りは消えていない。だから、彼は「タイミングが悪かった」という言葉で、あまりにも理不尽な出来事を片付けようとした。
この言葉には、皮肉も、八つ当たりも、諦めも含まれている。そして、その直後にシャガルマガラを殺害したあと、彼の感情は完全に空白へと向かいます。
『怒りも…憎しみも…達成感も…罪悪感さえも…何ひとつ、残っていなかった』
ここは、怒りが収まったから平静になった、というわけではない。むしろ、怒りを失ったあとに、レウスを支えるものが何も残っていない。
シャガルマガラを殺す前のレウスには、少なくとも怒りがありました。怒りは苦痛を伴う感情ですが、何かに向かって行動するためのエネルギーにもなる。
しかし、殺害したあと、その怒りさえ消えています。
妻は帰ってこない。相手を殺したところで、何も取り戻せない。自分が何をしたのかを理解しても、過去は変えられない。
その結果、彼は感情を向ける先を失ってしまった。心理学的な言葉で表現するなら、強いストレス下での感情の麻痺や、現実感・感情の希薄化に近い。
レウスは悲しみを乗り越えたのではなく、悲しみを感じることすらできないほど、精神的に消耗している。
8. 「帰るか」――生きる理由は残っているのに、生きる喜びを失っている
レウスはゴアを失ったあとも生きる。家族も残っている。妻と交わした最後の約束もあります。そして、レウス自身もそれを理解している。
『帰る場所なら、ある。俺を待っている妻たちがいる。守らなければならない家族がいる。彼女と交わした、最後の約束がある。だから、帰らなければならない……分かっている』
この文章から分かるのは、レウスが生きるための理由を完全に失ったわけではない、ということ。レウスには帰る場所がある。自分を待つ者たちがいる。守らなければならない家族がいる。
しかし、それらを理解していることと、心から帰りたいと思えることは別です。
レウスは「帰らなければならない」と考えていますが、「帰りたい」とは言っていませんから。この違いは大きいですよ。
以前なら、家族のもとへ帰ることは喜びだったはずです。妻たちの顔を見て、声を聞き、触れ合うことそのものが、彼にとって幸福だったでしょう。
ところが、今は違う。
帰るべき場所があることは分かっている。そこで待っている家族を大切に思っていることも、おそらく変わっていない。それなのに、自分の中に喜びが湧いてこない。
これは、生きる理由は理解できているのに、生きる実感を失っている状態。しかも、レウスにはもう一つの問題があります。最愛の妻を失ったレウスには、残された家族がいる。
その家族を守ることは、彼の責任であり、妻との約束を果たすことにもつながる。しかし、レウス自身が精神的に回復していなければ、家族を守るために帰ることと、家族と一緒に幸福に生きることの間には、大きな隔たりが生じます。
9. このレウスは、具体的にどのような精神状態なのか?
ここまでの分析を整理すると、次のようになります。
① 強烈な悲嘆
最愛の妻を失った事実に直面しながら、彼女のために何かをしてやろうと行動し続けています。妻の死を頭では理解していても、心の整理はついていません。
② 怒りと衝動の制御困難
狂竜ウイルスによる異常が、悲嘆に伴う怒りや破壊衝動を増幅しています。判断力が損なわれ、妻の死と直接関係のない相手に暴力を向けます。
③ 理性の回復と自己認識
シャガルマガラの言葉をきっかけに、自分の行為を認識します。相手に罪がないことも理解しますが、その理解が行動を止めるには至りません。
④ 感情の麻痺と空虚感
殺害後には、怒り、達成感、罪悪感さえも感じられなくなっています。悲しみが解決したのではなく、精神的な消耗によって感情が希薄化した状態と解釈できます。
⑤ 義務感によって維持される生
家族も約束も残っています。彼は帰るべき理由を理解していますが、そこへ帰ることに幸福を感じられる状態には戻っていません。
敢えて言葉にするなら…「最愛の妻を失った悲しみを、狂竜ウイルスによって怒りへと歪められ、その怒りを使い果たした結果、空虚さだけが残った燃え尽き症候群の男」
そして、この後の巣に帰ったレウスは遺言通りに家族を愛する。そこにある愛は間違いなく『本物』、演技でも自己欺瞞でもない。ただし…それは遺言に縛られている状態である。幸福、幸せを大いに感じているが、その深層では無意識下で遺言による『義務的に本物の愛』を注いでいる。
本物だけど本物じゃない。かといって偽物でもない。愛は間違いなく本物である。
何が言いたいかといえば…レウスの精神が乖離しかけていたということ。その証拠に、レウスはどんどん大人しくなっている。
ゴアがなくなる前、家出、不倫等の遠出をしていた。
ゴアが死亡した後、それらを一切しなくなった。
オウガと出会った時、もみくちゃにされ悲鳴を上げていた。
しかし…第一声は『それで?』
マガドと出会った時、『お前も俺の庇護下に入りたいのか?』
ナナの場合『随分と疲れているな…』
とセリフが明らかに変化している。これはレウスの精神状態が本気でヤバい段階に入っていたことをさします。何より…疲れていたのはナナだけでなく、レウス本人ですからね。
そんな精神状態がマズイレウスが…前に進もうとしている。そして…その洞窟の中には…
皆さんはこの中ならどれが読んでみたいです?
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著・ギルマス「赤い竜の君」
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