翌日、リオレウスがハンターと奥さん、そして子どもたちに「少し……前に進んでくる」と伝えた。
ハンターは彼の言葉の真意をすべて察したのだろう。それ以上は何も聞かず、ただ「怪我すんなよ?」とだけ言って、いつもの気さくな笑みで送り出してくれた。
子どもたちは「パパ! お土産待ってるね!」と、何も知らない無邪気なお願いをして、元気に小さな翼をパタパタと振っていた。
そして、見送りに集まった彼の奥様たちといえば……。
「ナナさん。旦那様のことをよろしくお願いします」
と、代表してマガイマガドが穏やかな、しかしすべてを信頼しきった眼差しで私に向かって言ってきた。
「ええ。謹んでお受けするわ」
私は彼らの想いを受け止め、深く頷いた。彼をあの日の苦しみから解放する。そのために、今の私にできる全力を尽くしてみせるわ。
「ナナさん。そろそろ行きますよ」
彼のそのセリフと共に、私たちは同時に地を蹴り、大空へと羽ばたいた。並んで飛ぶ彼の紅蓮の翼から、心地よい熱風が私の白い身体へと吹き寄せる。
まだ私の翼は白く色褪せ、きしむような音を立てていたけれど――その隣に並び立つだけで、昨日までの凍えるような冷たさは、不思議ともう感じなくなっていた。
目指すは、別大陸にある植物のいっさい生えていない「死んだ森」。その洞窟の日の光すら届かない暗闇の底。私たちは竜の都を背に、互いの過去と向き合うための最初の旅路へと、力強く羽ばたいていった。
◆
目的地へ向かう道中、彼と共に飛行しているが……彼はとにかく飛ぶのが速い。古龍である私でさえ、ついていくのが精一杯だわ……。
「ふふ、これでもまだゆっくり飛んでいる方ですよ」
嘘でしょ……? こんなに疾風のような速さなのに、まだ全力じゃないというの……?
彼の実力の底知れなさに戦慄すると同時に、上空の冷たい風に晒され、私の白い身体が再び寒さでガタガタと震えだす。かつての青き炎を失った今の私には、この高空の寒気はあまりにも応えた。
すると、私の異変を察したのだろう。彼は翼の角度を変え、滑り込むようにして私の真下へと移動した。
「寒ければ俺の背中にどうぞ。子どもたちに大人気な、暖かい背中ですよ」
さりげなく、ずっと私の様子を気にかけてくれていたらしい。そして私が寒さに震えたのを見て、その温もりを分け与えてくれるというのだ。彼はやはり、世界を照らす太陽のように暖かくて、どこまでも優しい。
私は彼の言葉に甘えて身を委ね、その大きな背中へとそっと乗った。次の瞬間、甲殻を通じて伝わってきたのは、濃厚で力強い熱量だった。私は上空の激しい風に振り落とされないよう、彼の大きな背中にギュッと抱きついた。
彼の背中の圧倒的な温もりに包まれながら、私はそっと呟く。
「本当に暖かいわね……」
「そう思って貰えてうれしいですよ」
彼は羽ばたきを緩めることなく、穏やかに返してくれた。しかし……こうして彼の巨体に隙間なく抱きついているからこそ、分かることがあった。
彼は……小さく、本当に微かに、震えている。
上空の寒気のせいではない。彼が今も、その胸の奥であの罪の記憶を、暗闇の洞窟を怖がっているのだ。けれど、彼は空を飛んでいる最中に、その弱まった様子を一度として私に見せることはなかった。
決意が揺らいでしまわないために、決して弱音を吐かず、ただ前だけを見据えて飛び続けていたのだ。そんな彼の不器用な強がりを愛おしく思った瞬間、私の前脚が無意識に動いていた。
「……ナナさん。どうしたんです? 寒かったですか?」
不思議そうに尋ねる彼に対し、私は彼に抱きつく力をさらに強めた。さっきよりも強く、ギュッと彼の太い首に前脚を回し、私の色褪せた頭をその硬い首筋にこすりつけるようにして、深く抱きつく。
「あなたも震えていたから……私の、僅かな温もりを分けてあげようって思ったの。あまり、意味はないかもしれないけれど……」
冷え切った私の身体では彼を暖めることなんて到底できないかもしれない。それでも、私のすべてを使って彼の孤独な震えを止めたかった。
「……ふふ……ありがとうございます。ナナさん、あなたのお陰で暖まりましたよ」
彼の喉の奥が優しく鳴った。その瞬間、甲殻を通じて伝わっていた彼の小さな震えは、ピタリと治まっていた。
◆
とうとう……俺は、この場所にまで戻ってきてしまった。かつてマガイマガドをこの地へ捨てに訪れ、そして俺と彼女が奇跡的な出会いを果たした、あの因縁の大陸。
マガイマガドを捨てる時、俺はこの場所の近くにまで来た。彼女への愛おしさと、溢れんばかりの後悔に突き動かされて、あのお墓である巨大な大岩の前まで辿り着いた。
だが……俺はあの岩を退かし、もう一歩、暗闇の奥へ踏み込むことは出来なかった。
……怖かったんだ。
大岩を退けたその先で、もし彼女の遺体が完全に朽ち果てて消えてしまっていたら……俺の遺した赤い鱗も、彼女の温もりも、すべてが幻のように失われていたら……。
そう思うと身体が恐怖でカタカタと震えて動かなくなってしまった。情けないことに、俺はあの岩の前から、ただ逃げ出すことしかできなかった。
「――リオレウス、大丈夫? 顔色が優れないけれど……」
耳元で響いたその声に、俺はハッと我に返り、背中の上にいる彼女へと優しく声を返した。
「……ええ。大丈夫ですよ、ナナさん」
俺の胸の内にある、あの洞窟への消えない未練と恐怖を打ち明けたとき、彼女が言ってくれた。
『一匹で行くよりも、二匹で行ったら……少しは気が楽になるかもしれないわよ? 』
その言葉にどれほど救われただろう。ナナさんが一緒に来てくれたからこそ、俺は恐怖を乗り越え、もう一度この大陸の土を踏む覚悟を決めることができた。今こうして飛べているのも、すべて、隣で支えてくれる彼女のお陰だった。
俺はナナさんを背中に乗せたまま、あの愛おしい思い出が眠る、最愛の妻の墓所――あの洞窟へと向かって翼を大きく羽ばたかせた。
だが、目的地であるはずの洞窟が遠目に見えてきた、その瞬間だった。俺の、そして背中のナナさんの身体が、同時にピクリと硬直した。
「……な、んだ……あれは……っ!?」
俺の喉から、信じられないものを見たかのような驚愕の声が漏れた。俺の双眸の先、あの洞窟の入り口にあるはずの、俺レベルの化け物でなければ1ミリも動かせないはずの、あの完璧な墓標…
「あの大岩が……ない……ッ!?!?」
完璧に封印したはずの入り口が、無残にも粉々に砕け散っていた。
そして、少し離れた先にある人間の街。そこから禍々しい黒い霧と、見たこともない紫色の鬼火のエネルギーが、天を衝くようにして激しく吹き荒れているのが見えた。
……行かなければならない。頭で考えるより先に、全身の血が激しく沸き立つような、そんな根拠のない強烈な衝動に駆られていた。俺は背中にナナさんを乗せたまま、黒い霧と紫の鬼火が荒れ狂う戦場へと猛烈な速度で直行していった。
移動しながら、戦場の渦中を見下ろしたその時、俺の双眸が、見覚えのある悍ましい巨体を捉えた。
「あいつ……まだ生きていたのか。本当に呆れた生命力だな」
あの両角の折れたマガイマガド。あいつは過去に、俺の大事な妻であるマガドの心と身体、そして誇りを傷つけ、その角を折ったクズ野郎だ。あいつがこれから生まれてくる子どもたちの教育に悪い存在へと成り下がったから、俺がわざわざこの別の大陸まで力任せに運んで捨ててきたのだ。
あの時、そいつの骨を何本も踏み潰し、さらに上空から殺すつもりで豪火球で肉を焼き焦がし、結果的に生存していたが瀕死にはしてやったんだが……まさか数ヶ月経った今も、泥水をすするような執念で生きていたとはな。
だが――その因縁のマガイマガドを前にしても、今の俺の心は1ミリも動かなかった。
俺の視覚と嗅覚が、マガイマガドの正面で対峙しているその『未知の飛竜』へと注がれた、まさにその瞬間。
俺の頭の中から、マガイマガドの存在なんか一瞬でどうでもよくなって、消し飛んでしまったのだ。
ドクン、と胸の奥の心臓が、今までにないほど激しく脈動を始める。
(何故だ……何故、この飛竜から目が離せない……? 何故、こいつからは……あいつの、俺の愛した妻の匂いがするんだ……!?)
それは、見たこともない奇妙な姿の飛竜だった。赤、黒、そして金の三つの色彩が複雑に混ざり合ったマーブル模様の美しい翼。だが……その翼を広げる仕草も、どっしりと地面を踏み締めるその強靱な四肢の形も、何もかもが俺の身体に、随分とよく似ていた。
見た所、まだ戦闘が始まってそこまで時間は経っていない。あのマガイマガドはぶっちゃけ何で生きているのか分からないほどの致命傷だらけだが、怨嗟の力に突き動かされているのか、その動きは全く鈍っていなかった。
そして……あの飛竜。あいつが防御に使う、あの禍々しい霧の盾。あれは間違いなく、狂竜ウイルスだ。さらに驚くべきことに、そのウイルスがマガイマガドの放つ紫の鬼火を分解し、自らのエネルギーとして貪欲に吸収している。
随分と強力な能力を持っている。だが……少々それに頼りすぎているな。霧の盾で自らの視覚が遮られている、その致命的な隙をマガイマガドに見事に突かれている。
(そこは上に跳ばなければ避けられないぞ。……ああ……また、突き飛ばされた)
身体こそ、俺ほどではないにしろ十分に立派だが、まるで実戦の経験が足りない。……足りないというより、そもそも戦い方というものを知らないと言ってもいい。
ガガッ、と凄まじい衝撃音が響き、マーブル模様の翼が地面に擦れて土煙を舞わせる。そして傷つき、苦悶の声を漏らす。あいつが傷つくたび、俺の胸の奥が引き裂かれるように痛むのだ……。
「あの子……随分とあなたに顔と匂いが似ているわね。まるで他人とは思えないわ」
ナナさんが俺の背中の上から、驚きを孕んだ声でそう言った。
正直……否定ができなかった。漂ってくる匂いと顔の輪郭。そして、恐らくはまだ巣立ちの年齢にすら達していないはずの若個体だというのに、その体格は一般的なリオレウスを遥かに凌駕している。
そして何より、最大の根拠は――あの『黄金の瞳』だ。俺と同じ……黄金の瞳。
「震えてるわよ? 助けに行きたいんじゃないの?」
助けに……俺が、あの子を…
「あ……! また殴り飛ばされた!」
マガイマガドの容赦のない強撃が炸裂し、あの子の巨体が激しく石畳の上を転がった。……っ……!胸が、張り裂けそうなほどに痛い……!あいつは……あの子は……!間違いなく、俺の血を、そしてあの暗闇の底で散った最愛の妻の命を継いだ――俺たちの、子どもだ……!
「ナナさん……俺は……あの子を……我が子を……!」
助けたい!そう叫び終わるよりも早く、俺の身体は本能のままに、戦場の渦中へと向かって急降下を始めていた。
「きゃあぁぁぁ!!!」
上空の風を一気に切り裂く猛烈な重力加速に、背中のナナさんが悲鳴を上げる。ごめん、ナナさん! 許可も取らずにいきなり落っこちちまって!
「気にしないで! 護りに行きなさい!」
突風に煽られながらも、ナナさんは即座にそう叫び返してくれた。
――ありがとう、ナナさん……!
心の底から感謝しながら、さらに翼を窄めて自由落下の速度で肉迫していく。地表にどんどん近づく。標的であるマガイマガドの真上、激突するわずか数瞬前、背中のナナさんがふわりと俺の身体から離脱した。
極限まで引き上げられた集中力が、世界の流れをスローモーションへと変えていく。俺から離れたナナさんの軌道を見届ける。あの位置は……傷つき、倒れ伏している我が子の目の前か。
ナナさんが、身を挺してあの子を守ろうとしてくれている。古龍としての誇りを失い、白い灰のようになっていたはずの彼女が、他人の我が子のために盾になろうとしてくれている。
なんて、気高く、頼もしいお方だ。我が子をよろしくお願いします――!そう魂の奥で念じながら、俺はすべての意識を真下のクズ野郎へと引き戻した。
限界まで引き絞った両脚の爪。全体重と落下の衝撃エネルギーのすべてを、無防備なマガイマガドの背中へと叩きつける!
――ズドーン!!!
凄まじい轟音と共に石畳がクレーター状に陥没し、爆風のような土煙が周囲の景色を激しく巻き上げた。
(よくも……よくも俺の、俺たちの我が子を、ここまで痛めつけてくれたな……?)
土煙の奥底で、俺の黄金の瞳が、本物の地獄の業火に染まっていく。
◆
「痛い……っ!」
思わず、喉の奥から苦悶の声が漏れた。あの猫が放つ火の玉。そのエネルギー自体は、僕の放つ紫黒の『霧の盾』で完全に防ぎ、分解して吸収することはできる。けれど、盾を展開して防いでいるその瞬間、僕の視界は完全に遮られてしまうのだ。
そのわずかな隙を狙って、左右から、時には上空から、信じられない速度で物理的な打撃が飛んでくる。その連撃への対処が、今の僕にはどうしても上手く出来ない……っ!
それに、なんだか様子がおかしい。こいつ……さっきから僕に近づいて匂いを嗅ぐたびに、何故か激昂して攻撃の苛烈さが増している気がする!
猫の目は、もはや正気とは思えないほどの怨念で赤く染まっていた。
「くっ、……うあぁっ!」
今度は左へと大きくステップを踏んだかと思えば、視覚の死角である右側から、爆風を伴った強靱な尻尾の叩きつけが飛んできた。
まともに横腹を抉られ、僕は無様に地面を転がされる。悔しい。猛烈に悔しいけれど、僕よりも目の前の猫の方が、地獄のような戦場を生き抜いてきた『戦闘経験』が遥かに豊富だ。
そんなことは当たり前だ。生まれてからずっと暗い洞窟に引きこもっていた僕と、執念だけで生き延びてきた怪物。経験の差は大きいどころか、0と100みたいなものだ!
そして、その当たり前の経験の有無が、実戦においては決定的な実力差となって僕に跳ね返ってくる。気づけば、僕は瓦礫に背を預けるまで、完全に追い詰められていた。
「はぁ……はぁ……っ」
激しく肩を上下させ、荒い息を吐き出す。猫のエネルギーを吸収しすぎたせいか、それとも肉体が限界を迎えているのか、胸の心臓が破裂しそうに熱く、息が苦しい……!猫の狂気的な瞳が、勝利を確信してギラリと歪んだ。
あいつは僕に最後にとどめを刺すかのように、背中の鬼火を爆発させて上空へと高く上昇していった。上空からの質量を乗せた決死の急降下攻撃――それを避けるだけの力は、今の僕の足腰には残っていなかった。
(……ここまで、なのかな……っ)
万事休す。僕が絶望にその瞳を細め、最期の瞬間を覚悟した、まさにその時だった。
ズドーン!!!
上空から音もなく、信じられないほどの超高速で落下してきた「何か」が、僕のすぐ目の前に激突した。激しい地響きと共に凄まじい土煙が巻き上がって視界を完全に遮り、強烈な突風が僕の鱗を叩く。
僕は思わず目を瞑り、やがて風が収まるのを待ってから、ゆっくりとまぶたを開いた。土煙の向こう側――僕のすぐ目の前には、マガイマガドの爪から僕を庇うようにして、純白の美しい何かが毅然と立ち塞がってくれていた。
「あなたは……誰ですか?」
「私はナナ・テスカトリ。色々訳があって、この近くを飛んでいたの」
ナナ・テスカトリさん……。気高く、美しい竜。けれど、彼女の身を包む甲殻は、まるで燃え尽きた灰のように真っ白で、どこか儚い雰囲気を醸し出していた。
「助けていただき、ありがとうございます」
僕が素直に感謝の言葉を口にすると、彼女はふふ、と優しく、どこか悲しげに喉を鳴らした。
「あら? 助けたのは私ではないわよ?」
え……? じゃあ、一体誰が。困惑する僕の視線の先で、彼女は「あなたを助けたのは……そこにいるわよ」と言って、僕の前から静かに横へと移動した。
遮るものがなくなったその先に、その竜はいた。僕よりも遥かに大きく、立派な翼。全身を覆うのは、夕焼けの空をそのまま切り取ったかのような、悍ましくも力強い赤黒い鱗。そして、その強靱な脚の下には、さっきまで僕を死の淵まで追い詰めていたあの猫が、上から押さえつけられ、無残に組み敷かれていた。
猫は激しく炎を撒き散らし、物凄い力で暴れて抵抗している。それなのに、その赤い飛竜の足元は、まるで大地そのものが固定されているかのように、ピクリとも動く気配がなかった。圧倒的な、絶対的な力量。
その時、僕の鼻腔を、強烈な熱気と共にある「匂い」が駆け抜けた。
――間違いない。僕がずっと、あの暗い洞窟の奥底で、寂しさを堪えるために肌身離さず抱きしめ続けていた、あの【赤黒い鱗】の匂いだ。
ドクン……! と、僕の胸のなかの心臓が、今日一番の音を立てて激しく脈動した。そして、その赤い飛竜の鋭い双眸が、ゆっくりとこちらを向いた。
暗闇の世界で、僕がずっとずっと焦がれ、その姿を思い描き続けていた、最愛の、偉大なる父親の目。それは、すべてを優しく包み込み、悪しきものを焼き尽くす、本物の太陽のような――『黄金の瞳』だった。
「……戦い方が、まるでなっていない」
じっと僕を見つめたまま、お父さんは、低く、呆れたような、けれどどこか酷く懐かしむような声でそう言い放った。
さぁ…とうとう出会っちゃいましたよ…。
子ども達へのお土産はお兄ちゃんになるんですかねぇ…。
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