金冠タマミツネ、一文字消して「金タマミツネ」とかと下ネタ考えてました。
お父さんの背中に乗っていると、遠くの地平線に丸々と肥えたアプトノスの大きな群れが見えてきた。日の光を浴びて草を喰む彼らの気配を察知した瞬間、僕のお腹はまたグゥゥと盛大に鳴った。
「よ〜し! いっぱい狩るぞ〜っ!」
僕はやる気満々で、お父さんの背中の上で翼をバタつかせて意気込んだ。でも、すぐにお父さんから落ち着いた声が返ってきた。
「今は大人しく、お父さんの狩りを上空からよく見なさい。そして学びなさい」
ええ〜っ、僕もやりたいのに……!少しだけつまらなそうに首を傾げた僕に、ナナさんがクスクスと喉を鳴らした。
「ふふ、お父さんはね、あなたをただ甘やかしたいのよ。美味しいお肉を、自分の手で一番綺麗な状態で食べさせてあげたいの」
「そうなの……?」
「ええ。だから今は、私と一緒にここで特等席で見物しましょう?」
ナナさんの優しい言葉に促されて、僕は大人しくお父さんの背中から離れる。上空で滞空しながらお父さんの全身の筋肉がピンと張り詰め、極限まで集中しているのが伝わってくる。僕も、瞳を凝らし、お父さんの狙う先をじっと見つめた。
そして――。シュンッッッ!!!
「……えっ?」
一瞬だった。本当に、瞬きをする一瞬の間にお父さんの大きな身体が、僕たちの目の前から音もなく完全に『消失』したんだ。
何が起きたのか分からず僕が慌てて地上を見下ろすと、アプトノスの群れから、一番丸々と肥えていて美味しそうだった一匹が、抵抗する暇すら与えられずに一瞬で消え去っていた。
そして激しい風の音と共に、気がつくと目の前に大きな獲物を足に掴んだお父さんが、優雅に翼を広げて戻ってきていた。
「どうだ? 今の俺の軌道が分かったか?」
お父さんは少しだけ得意げに、けれど厳格な父親のトーンを崩さずに僕に聞いてきた。でも……。
「……分かんないよ。お父さん、速すぎて全然見えなかったもん……」
僕がショックを受けながら素直に白旗を上げると、後ろからナナさんが呆れたようにため息をついた。
「……リオレウス、そんな生まれたての幼い子を相手に、格好をつけて全力を出しちゃダメじゃない。もっとゆっくりやって見せないと、この子が学べないわよ?」
ナナさんが僕の気持ちを完璧に代弁してくれて、お父さんは「いや、これが普段の俺の狩りで……」と、少しだけ狼狽えたように翼をパタつかせていた。
不器用だけど僕を甘やかしたくて必死なお父さんと、それを優しく嗜めるナナさん。お父さんとナナさんは夫婦だからかな、やっぱり物凄く仲がいい。僕もナナさんみたいなお嫁さんが見つかるかな?
「と、取り敢えず食べなさい」
地面に降り立つと、ナナさんに怒られて少し気まずそうに、お父さんが大きな獲物を僕の目の前に差し出してきた。僕は目の前にあるお肉の、今まで嗅いだこともない瑞々しくて美味しそうな匂いをお腹いっぱい吸い込んでから、思いっきりその肉体へと食らいついた。
ブチッ……! と小気味よい音が鳴り響き、僕は新鮮なお肉を力強く噛みちぎる。
(――わぁ……! 噛み応えがすっごい……!)
驚きで、僕の黄金の瞳がさらに大きく見開かれた。今まで、あの暗い洞窟の奥底で食べていたお肉は、どれもドロドロに腐っていて食べ応えなんてこれっぽっちもなかった。それに、食べるといつも舌や内臓がピリピリと痺れるような感覚があった。
だけど、お父さんが今狩ってきてくれたこのお肉は、どれだけ噛んでも全然ピリピリしない。それどころか、お口の中にじゅわっと広がるお肉の脂が、びっくりするくらいに甘くて美味しいんだ……!
「美味しいよ、お父さん! こんなに甘くて美味しいお肉、僕、初めて食べた!」
引き裂いたお肉をもぐもぐと咀嚼しながら、僕が満面の笑顔でそう伝えると、お父さんは「そうか、そうか!」と翼をバサバサと揺らして凄く、凄く喜んでくれた。
「まだ食べられるか?」
お父さんが僕の顔を覗き込んで、心配そうに、けれど嬉しそうに聞いてくる。
うん! まだまだいけるよ!これだけ美味しくて、身体の奥から元気が湧いてくるお肉なら、もう一匹くらいは難なく僕のお腹に入りそう!
「うん、もう一匹食べたいな! お父さん!」
お父さんが僕をこれでもかっていうくらい甘やかしてくれるなら、僕も、今はその大きくてあたたかいお父さんの優しさに、思いっきり甘えたい。
僕がそうやって素直な気持ちを伝えると、お父さんは今日一番の眩しい笑顔を浮かべた。
「よし! 任せておけ! 次はもっと丸々と肥えた、極上のやつを狩ってきてやるからな!!」
威厳なんてどこへやら、お父さんは本当に嬉しそうに翼をはためかせ、大空の彼方へと勢いよく飛んでいった。隣で見守るナナさんも、「本当に、良いお父さんね」と呆れ半分、愛おしさ半分といった様子で、飛び去っていくお父さんの後ろ姿を優しく見つめていた。
お肉を一生懸命食べていると、ナナさんが僕のことを、どこか眩しいものを見るように微笑ましそうに見つめているのに気づいた。
「ナナさんも、一緒に食べようよ!」
僕が引き裂いたお肉を差し出すと、ナナさんは優しく小さく首を横に振った。
「私はお腹が空いていないから大丈夫よ。お気遣いありがとうね」
そう言って綺麗に微笑むナナさんを見て、僕はもぐもぐとお肉を咀嚼しながら
(……ナナさんって、本当に綺麗な竜だな……)
と、子供ながらに見惚れてしまった。そんな穏やかな空気のなかで、僕はふと気になったことを聞いてみることにした。
「ねえ、ナナさんはお父さんとどうやって出会ったの?」
「どう、出会ったって?」
「え? ナナさんは、お父さんの奥さんなんでしょう?」
だって、あんなに仲が良さそうだし、お父さんの背中に一緒に乗ってここまで来てくれたんだもの。そう思ったのだけれど、僕がそう言った瞬間、ナナさんのあの真っ白な顔がポッと少し赤くなって、大慌てで首を左右に横に振った。
「ち、違うわよ……っ! 私は彼の番では断じてないわ!」
「え? そうなの……?」
僕は首を傾げた。目が見えなくても、僕の研ぎ澄まされた嗅覚や感覚は、ナナさんから「お父さんのことが好き」っていう、とても温かくて深い親愛の匂いがしているのをちゃんと捉えているのだけれど……。
「私はね、彼の住処にちょっと居候させてもらっているだけの身なのよ」
ナナさんは少し照れくさそうに羽ばたきながら、はぐらかすようにそう言った。
「ただいま。ほら、さっきよりもっと丸々と肥えた奴を見つけて来たぞ!」
遠くの大空から、お父さんが大きな翼を羽ばたかせて帰ってきた。その足元には、さっきのよりも一回りほど巨大な獲物がガッチリと掴まれている。
ドサッ、と僕の目の前に置かれた極上の獲物から漂う甘い匂いに、僕のテンションは一気に跳ね上がった。
「わぁ〜い! お父さん、ありがとう!」
僕は大喜びで、またしても新鮮なお肉に勢いよく食らいついた。やっぱりお父さんの狩ってきたお肉はピリピリしなくて最高に美味しい!
「所で、さっきは二人で何を話していたんだ?」
お父さんのいない間に仲良くなった僕とナナさんの姿を見て、お父さんが能天気にナナさんに話しかけた。すると、ナナさんはさっき赤くなった顔をさらに真っ赤に染めて、ぷいっと明後日の方向を向いてしまった。
「……なんでもないわよ」
「……?」
ツンとしてそっぽを向いてしまったナナさんに、お父さんは頭の上に大きな疑問符を浮かべて完全に首を傾げていた。けれど、お父さんはすぐに僕の方へと満面の笑顔で振り向いた。
「どうだ、美味いか? お前ならまだまだ、あと二、三匹は余裕で食べられるだろ?」
お父さんにそう優しく聞かれて、僕は嬉しさのあまり、もぐもぐとお肉を噛みちぎりながら元気いっぱいに答えた。
「うん! 僕、もっといっぱい食べる!」
「よし! 分かった、今度はもっと最高の獲物を狩ってきてやるからな!」
僕が喜んで甘えるたびに、お父さんの過保護スイッチは限界突破していくみたいだった。お父さんは再びもの凄い勢いで大空の彼方へと、まるで弾丸のように飛び去っていった。
……のだが。お父さんが行ってしまった後、二匹目のお肉を半分くらいまで美味しく食べたところで、僕はふと、自分の身体のある「異変」に気がついた。
(あれ……? なんだか、急にお腹が……いっぱいになってきたぞ……?)
◆
「ふふ……やっぱりね」
数年間も「ウイルスの栄養の残滓」だけで絶食筋トレを続けていたあの子の胃袋は、予想通り信じられないほど小さく縮んでいたみたい。新鮮なお肉の美味しさに脳が興奮して「もっと食べたい!」と思って甘えてしまったけれど、現実の身体は、二匹目の半分でもう、はち切れそうなくらいに限界を迎えていた。
「あのお父さん、あなたに良いところを見せたくて、すっかり張り切りすぎちゃったのね。戻ってきたら、なんて言うかしら?」
小さくなった胃袋を抱えて冷や汗を流すあの子と、これからもっと大きな獲物を抱えて戻ってくるであろう、親バカ全開なリオレウスの反応を想像して、私は微笑ましさに胸を躍らせていた。
お腹がはち切れそうなくらいにいっぱいになると、今度はどうしようもないほどの抗い難い眠気が、心地よい温もりと共にあの子を襲ってきたらしい。
数年間、暗闇の底で飢えと孤独に怯え、張り詰めていた緊張の糸。それが大好きな父親と出会い、お腹いっぱいお肉を食べて、身も心も完全に安心しきってしまったからだろう。
「ナナさん……僕、なんだか眠くなってきちゃった……」
トロンとした眠そうな目で私にそう伝えてくるあの子に、私はどこまでも優しい、母親のような微笑みを浮かべた。そして、あの子のすぐ傍までそっと歩み寄り、寄り添った。
「いいのよ、好きなだけ眠りなさい。寝る子は育つものよ。あのお父さんが帰ってくるまで、私がちゃんとあなたを守ってあげるからね」
白い翼を広げ、あの子を外敵や冷たい風から優しく包み込むようにして眠りを促す。あの子は私の差し出した心地よい灰色の温もりに甘えるようにして、静かに深い、穏やかな眠りへと落ちていた。
すやすやと規則正しい寝息を立て始めるあの子を見つめながら、私は自分の翼をそっと抱きすくめる。
熱を失い、白い灰のようになっていたはずの私の翼。けれど、この子を包み込んでいる今、私の胸の奥には確かに、あの日失ったはずの「誰かを守りたい」という温かな炎が小さく揺らめいていた。
◆
大空を滑空しながら、俺の頭の中はさっきまで息子が美味そうに肉を頬張っていた姿で満たされていた。あいつが肉を喰らう姿を見るたびに、俺の胸の奥は、張り裂けそうなほどの後悔と愛おしさで激しく掻き乱されてしまう。
俺が過去を恐れてあの洞窟に会いに行かなかった何年間もの間、この子はあの光の届かない世界の底で、ただ一人きりで食事をしていたんだ。腹が減っても、誰も食べ物を運んでくれず、誰も「美味いか?」と頭を撫でてはくれなかった。
亡き母親が遺した、あの健気なウイルスたちだけが、必死に外から吸い取ってきた栄養の残滓を運んで、あの子の命を繋いでいた。だからこそ。父親らしいことを何一つしてやれなかった数年分の埋め合わせをするように、俺は何度でも、あいつが満足するまで獲物を運んでやりたい。
あいつの胃袋を新鮮で美味い極上の肉だけで満たしてやりたいんだ。だから、息子が一切れの肉を食べ終わるたびに、俺は焦るように「まだ食べられるか?」と尋ねてしまう。そしてあいつが、目をキラキラと輝かせながら、元気よく「うん! もっと食べたい!」と答えて、この俺に全力で甘えてくれるのが、心の底から嬉しくて仕方がなかった。
俺は我が子の「もっと食べたい」という可愛い言葉だけを胸に抱き、親バカ全開の凄まじい速度で空を飛びまくった。そして三匹目の獲物を仕留め、俺は意気揚々とそれを抱えて戻ってきた。
だが、上空から見下ろした視界の先――さっきまで二匹目の肉を頬張っていたはずの我が子は、お腹を丸々と膨らませたまま、ナナさんの腕の中でぐっすりと眠りについていた。
俺は獲物を音もなく地面へと下ろすと、翼の羽ばたきを極限まで消して、静かに彼女たちの傍らへと降り立った。
「……眠ってしまったのか?」
起こさないように、地を這うような静かなトーンでナナさんに尋ねる。
「ええ、お腹がいっぱいになっちゃったんですって。ふふふ……」
そう言って、眠る我が子の頭を愛おしそうに撫でるナナさんは、まるで本物の母親のような、優しい慈愛に満ち溢れていた。
「あなたに狩ってもらったお肉が、世界で一番美味しいから、嬉しくてお腹にどんどん入っちゃったそうよ。そうして、この小さな胃袋がお腹いっぱい膨らむまで、夢中で食べちゃったみたいね」
ナナさんのその言葉が、俺の胸の奥深くにじんわりと、何よりも温かい熱となって染み渡っていく。
(ああ……そうか。お前は俺の狩った肉を、そんなに喜んで食べてくれたんだな。胃袋が小さくなっているのも忘れるくらい、俺に甘えたくて、俺を喜ばせたくて、お腹がはち切れそうになるまで頑張って詰め込んでくれたんだ)
俺は静かに我が子の傍らへと歩み寄り、異形の、けれど誰よりも愛しい身体を壊さないようにそっと見つめた。そして、我が子を包み込んでいるナナさんの真っ白な翼の隣に、俺の赤黒い翼を静かに重ね合わせた。
白と、赤。二つの大きな翼によって作られた、暗闇のなかの小さな、臨時の巣。外の世界からの冷たい風も、危険な外敵の気配も、すべて遮断されたその絶対的な安心感のなかで、我が子はピクピクと耳を動かしながら、大人の温もりに抱かれて、さらに深く、深い穏やかな眠りへと落ちていった。
(こんなに眠りが深いと、起きるまでにはまだかなりの時間が掛かりそうだな……)
我が子の規則正しい、小さな寝息を特等席で聴きながら、俺はそう思って異形の身体をそっと寄せた。すると、隣で我が子を一緒に包み込んでいたナナさんが瞳をこちらに向けていた。
「――今だったら、行けるんじゃないの?」
「……?」
何がだ? 俺はナナさんが突然何を言い出したのか、一瞬だけ分からなかった。
「奥さんの所よ。……あの、洞窟の中」
ナナさんに静かにそう告げられた瞬間、俺は衝撃に目を見開いた。そうだ。忘れていたわけじゃない。俺が数年ぶりに、恐怖を乗り越えてこの大陸にまで戻ってきた本当の理由は――あの日、絶望の底で立ち止まってしまった己の過去に、一歩前に進むための『ケジメ』をつけるためだった。
俺はあの大岩を退かし、あの愛しい彼女に会いに行くためにここへ来たんだ。我が子との奇跡的な出会いに持っていかれていたけれど、俺にはまだ、夫として果たさなければならない目的が、あの暗闇の奥に残されている。
「……そうだな。いつまでも過去の恐怖に怯えて、立ち止まっている訳にはいかないな」
俺は覚悟を決めた目をナナさんへと向けた。
「ナナさん、俺が戻るまで、我が子を頼んで宜しいでしょうか?」
「ええ。任せなさい。私の命に懸けて、この子は指一本触れさせないわ。あなたはあなたの、果たすべき目的を果たしに行くのよ。……待っているからね」
ありがとう、ナナさん。本当に…
「……行ってきます」
俺は眠る我が子の体温を最後に一度だけ翼で感じ、それから静かに身を起こした。そして、かつて自らの爪で完璧に封印した、あの洞窟の前までとんぼ返りしていく。
◆
岩が砕けた洞窟の前で一度瞑想をする。前は…あの大岩を退かして、前へ進む覚悟がなかった。けれど、その大岩はもう無い。必要なのは…前へ進む覚悟だけ。
「ふぅ〜…よし。いくか…」
一歩、また一歩と、以前はどれだけ足掻いても踏み出すことができなかった洞窟の入り口へと、俺は確かな足取りで歩みを進める。洞窟の中に足を踏み入れると、ひんやりとした静謐な空気が俺の赤黒い鱗を撫でた。奥へ進むにつれて、外の光は一切届かなくなり、あの日のままの、視界を拒むような濃密な暗闇が濃くなっていく。
だが、俺の瞳はどんな暗がりの中でもはっきりとその景色を捉えていた。
(久しぶりだな…この冷たい闇は…)
胸の奥で過去を思い出す。ここに来るのが怖かったんだ。冷たくなってしまった彼女の姿をその目で見るのが、自分の無力さをこれでもかと突きつけられるようで、どうしても一歩が踏み込めなかった。
だが、今の俺には、俺のそんな弱みに静かに寄り添ってくれるナナさんがいてくれる。そして何より、あの過酷な暗闇の先で独りきりで生き抜き、俺を真っ直ぐに見つめて「お父さん」と呼んでくれた、俺たちの最高の愛の結晶が、外で帰りを待っている。もう、怖くなんてない。
やがて、俺は洞窟の最奥へと辿り着いた。そこには、かつて俺が彼女を看取り、俺の翼で静かに眠らせた、あの日と同じ場所があった。地面を見つめると、長い年月を経てすっかり風化し、ボロボロに崩れた黒い甲殻の残骸が、寂しげに残されていた。
「やはり……もう、朽ちていたな……」
我が妻の亡き骸は、時の流れと共に静かに朽ちていた。ミイラのように原型を留めている部分こそあれど、大半は砂粒のようになってしまっている。その残骸に残されていたのは……彼女が最期にすべての力を振り絞って守り抜き、そして俺たちのために遺していった、小さな卵の殻だった。ただし…
「……三つ、あったのか…?」
俺は、目の前に残された三つの卵を見つめながら、呆然と呟いた。そのうちの二つは、殻にひびが入ったまま、孵化することなく朽ちていた。そして、残る一つだけが、内側から殻を破り、空っぽになっていた。
「…………」
俺は、しばらくの間、何も考えることができなかった。
俺には、息子がいた。あの暗闇の底で、孤独に耐えながら生き延びてくれた、愛しい我が子が。その事実だけで、俺は十分すぎるほど救われたと思っていた。
だが……違ったのだ。俺たちには、三頭もの子供がいたのだ。あの子だけではなかった。この場所で、彼女のお腹から生まれてくるはずだった命が、あと二つもあったのだ。
「……ああ、そうか」
ようやく、それだけを絞り出した。この二つの卵も、俺たちの子供だったんだ。…俺と…彼女の…あの子と同じように、この世界に生まれ落ちるはずだったろ小さな命だったのだ…。
「……っ」
胸の奥が、ひどく痛んだ。俺は、あの子を失ったわけではない。それどころか、奇跡的に再会することができた。あの暗闇の底で生き抜いてくれた息子を、この翼で抱きしめることができた。
それなのに…俺は、その喜びを噛み締めることさえ、許されないような気がした。
俺が、もっと早くここへ戻っていれば…。
俺が、あの日、絶望に呑まれずに立ち上がっていれば…。
せめて、彼女が息を引き取った後だけでも、ここへ戻ってくることができていたなら…。
この子たちを、救えたのだろうか。
卵を温めてやることができていたなら…
彼女に代わって、俺がこの小さな命たちを守ってやれていたなら…
この二つの卵も、あの子と一緒に、今頃は大空を見上げていたのだろうか…。
「……俺は……」
声が、震えた。俺は何年もの間、彼女を失った悲しみに囚われ、この洞窟へ足を踏み入れることさえできなかった。自分が傷つくことを恐れ、冷たくなった彼女の亡骸と向き合うことから逃げ続けた。
その間に、俺が知ることさえなかった二つの命が、ここで失われていた。
もちろん、俺が戻っていれば必ず救えたなどという保証はない。卵の中で何が起きていたのか、今となっては確かめようもない。俺がどれだけ悔やもうと、過ぎ去った時間が戻ることもない。それでも……
「……ごめんな…っ…!」
俺は、二つの卵へと深く頭を垂れた。
「ごめん…っ…!お前たちの父親なのに、俺は……!」
何もしてやれなかった。生まれてくることさえ知らず、守ることも、温めることも、声をかけてやることもできなかった。
父親として、あまりにも情けなかった。
俺は、目の前の卵を傷つけないよう、そっと翼を寄せた。
もう、温もりを与えてやることはできない。
どれほど願っても、この子たちが殻を破ることはない。
それでも、せめて最後くらいは……父親として、そばにいてやりたかった。
「……ごめんな……」
その言葉は、暗闇の中へ静かに溶けていった。しばらくして、俺は残る一つの卵へと視線を移した。殻を破り、確かに生まれた証を残している卵。
俺たちの息子が、この中から生まれてきたのだ。
「この卵から、あの子は産まれたのだな……」
あの暗闇の底で、あの子は確かにここで産声を上げたんだ。あの子は、生きていてくれた。独りきりで、何年もの間、過酷な環境に耐えながら。それでも命を繋ぎ、俺のもとへやってきてくれた。
……あの子だけでも、生きていてくれて、本当によかった。
心の底から、そう思う。けれど、だからこそ、思わずにはいられなかった。
もし、あの子の隣に、二頭の兄弟がいたなら。
あの暗闇の中でも、互いの温もりを分け合い、寄り添いながら生きることができていたなら。
あの子は、もう少しだけ、寂しくなかったのだろうか。
「……お前は最期まで、俺たちの未来を、必死に守ろうとしてくれていたんだな」
静寂に包まれた洞窟の奥で、俺は愛しい妻の生きた証に向けて、静かに首を垂れた。
残された卵の殻の破片が、何よりも雄弁に、彼女の深い、深い愛を物語っていた。俺が外の世界で勝手に絶望に暮れて、ただ立ち止まっている間も、彼女は最後まで、この子たちを守ろうとしていたのだ。
俺が失ったと思い込んでいた未来を、彼女は命を懸けて繋ごうとしてくれていた。それなのに、俺は……
「……っ、ああ……」
喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れた。
悲しかった。
悔しかった。
何より、自分が許せなかった。
だが、ここでいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。この二つの命を取り戻すことは、もうできない。
どれだけ後悔しても、どれだけ自分を責めても、俺はこの子たちに父親としての時間を与えてやることができないのだ。だからこそ…
「なあ……俺はもう、絶対に立ち止まらない」
俺は、涙を堪えながら、愛しい妻へと語りかけた。
「お前が命懸けで遺してくれたあの子を、今度は俺が、この翼でどこまでも広く、どこまでも高い空へと連れていく。俺たちの可愛い太陽を、立派に育て上げてみせるさ」
そして、俺は二つの卵へと、もう一度だけ視線を向けた。
「……お前たちの分まで、なんて言うつもりはない」
この子たちは、この子たちだ。
そして、あの子は、あの子なのだから。
失われた命の代わりに、残された命を愛することなどできない。
俺は、あの子をあの子自身として、心の底から愛している。それでも……
「……お前たちが生まれてくるはずだった未来も、俺は決して忘れない」
それが、今の俺にできる、せめてもの償いだった。
溢れそうになる涙をグッと堪え、俺は彼女の魂へ向けて、力強くそう誓った。その瞬間、何年もの間、俺の胸を重く締め付けていた枷が、すうっと消えていくのを感じる。
過去の悲しみは、決して消えない。けれど、それはもう、俺の足を止める鎖ではない。これからの新しい未来へと我が子と共に羽ばたくための、俺とあの子の、確かな絆だ。
残された卵の殻の破片に、俺はそっと己の翼爪を重ねる。冷たいはずのその破片から、不思議と、あの日彼女を抱きしめた時と同じ、あたたかくて気高い雌としての温もりが伝わってきた気がした。
「……ありがとうな。お前のおかげで、俺は本当の父親になれた」
俺は、残された卵の殻にそっと触れた。もう、過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。二人の子供を救えたのかどうかも、今となっては分からない。
それでも――あの子は、生きている。お前が命懸けで遺してくれた、俺たちの未来が。だからこそ、俺はもう立ち止まらない。失われた二つの命を忘れることなく、残されたあの子を、父親として精一杯愛していこう。
それが、今の俺にできることだから。
「……行ってくるな」
最後にもう一度だけ、妻の亡骸と、二つの卵に向かって静かに告げた。そして俺は、長い年月を閉じ込めていた洞窟を後にした。
もう二度と、過去から目を背けることはない。俺の帰りを待つ、愛おしい家族のもとへ、今度こそ父親として歩き出すために。
俺は踵を返し、洞窟の入り口へと歩き出す。一歩、また一歩と進むにつれて、濃密だった暗闇が薄れ、砕けた大岩の向こうから、眩しいほどの光が差し込んできた。洞窟の外へ出て、ナナさんと我が子の元へ飛んでいく。
◆
戻っていくと、変わらない温かい光景が待っていた。白い美しい翼を優しく広げ、俺の帰りをじっと待ってくれていたナナさん。そしてその翼の中で、丸々とお腹を膨らませたまま、スースーと幸せそうな寝息を立てて熟睡している、俺の愛しい息子。
「おかえりなさい、リオレウス。……良い顔になったわね」
ナナさんが黄金の瞳を細め、心からの優しい微笑みを浮かべて俺を迎えてくれた。
「ああ、ナナさん。……待たせてごめん。もう、全部大丈夫だ」
俺は静かに笑い、再び息子の傍らへと歩み寄った。朝日に照らされた我が子のマーブル模様の鱗が、まるで新しい世界の色彩を映し出すように、キラキラと美しく輝いている。胸の奥の心臓は、穏やかに、けれど力強く、これからの長い竜生を生き抜くための鼓動を刻んでいた。
「よし……それじゃあ、都へ帰ろうか」
俺は我が子を起こさないように、そっとその大きな身体を再び俺の広い背中へと乗せた。ナナさんも俺の隣でその白い翼を広げる。
「ええ、行きましょう。あなたの賑やかで、愛おしい家族たちの待つ場所へ」
食事を終えると、俺は静かに笑い、立ち上がって我が子を起こさないように、そっとその大きな身体を広い背中へと乗せた。
太陽の光に照らされた息子の鱗が、まるで新しい世界の色彩を映し出すように、キラキラと美しく輝いている。あの日の冷たい暗闇の底には、もう二度と戻ることはない。俺が戻らせない。
◆
「その次は約束通り、ナナさんの旦那様が眠る火山へ向かいましょう」
……ええ……そうね。
彼がこれほど大きな過去を乗り越え、我が子という奇跡を抱きしめたのだもの。次は……私の番よ……。
いざ、夫の命が散ったあの火山へ戻る。そう意識した瞬間、私の白い身体が、過去の恐怖を思い出してほんの少しだけ小さく震えてしまった。
すると、それを察したリオレウスが、私の隣へそっと静かに寄り添ってきた。
「大丈夫です。我が子の恩人であるあなたは、俺が守ってみせます」
彼の瞳は……新大陸の荒野で出会った、あの誇り高き私の夫と同じ優しさと、深い慈愛に満ち溢れていた……。
彼が隣にいてくれるなら、私はきっと、あの凄惨な過去のその先へ、もう一歩を踏み出せる。私は深く息を吸い込み、彼の黄金の瞳を見つめ返して力強く頷いた。二頭の巨大な翼が同時に風を捉え、私たちは愛に満ちた「竜の都」への帰路へと一気に舞い上がった。
レウス、知らない間にまた家族を亡くす。
しかも今度は妹弟ではなく息子または娘という…。
レウスはこの過去を受け入れながら生きることになります。
自分で書いてて人の心無ぇなと思いますね…。
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