次回からはベビーシッターの1日を書こうと思ってます。
(……暖かい……)
胸の奥がじんわりとほどけるような、心地よいぬくもりに包まれながら、僕はゆっくりと目を覚ました。
あの洞窟の、骨まで凍りつくような冷たい地面とは全く違う。生命の温もりに満ちあふれているこの感覚は……お父さん?
「起きたか」
僕が身動きをすると、僕を背中に乗せ、大きな翼を羽ばたかせているお父さんから、低くて優しい声が降ってきた。
「おはよう、お父さん。僕、お父さんが獲ってくれた二頭目のお肉を半分くらい食べたところで、いつの間にか寝ちゃってたみたい」
「腹いっぱい新鮮な飯を食ったからな。そりゃあ眠くもなるだろう。寝る子は育つと言うしな」
「うん。お父さんの獲ってくれた美味しいご飯をたくさん食べて……ナナさんの傍で、すごく安心して寝ちゃってた」
「ふふ、とっても可愛い寝顔だったわよ。ずっと見ていたいくらいにね」
お父さんの隣を優しく並び飛ぶナナさんが、僕を覗き込んでクスッと笑った。可愛いだなんて……大きな身体をしているのに、子ども扱いされているみたいで、ちょっとだけ恥ずかしいよ。
「ナナさんの言う通りだ。親にとって、我が子の寝顔というのは世界で一番可愛いものさ。……まあ、俺にとっては寝顔以外のお前も、どうしようもなく愛おしいものだがな」
お父さんまで、大真面目な顔をして僕を可愛いって言う……!化け物みたいな姿の自分が可愛いと言われるのは、どうしても照れくさくて、顔が真っ赤に熱くなる。でも、不器用なくらいにストレートに愛を注いでくれるのが、恥ずかしいけれど、やっぱり堪らなく嬉しい。
「さ、お前が寝ている間にかなり飛んだからな。そろそろ見えてくるぞ」
お父さんの黄金の瞳が先を見据えた。
「……?なにが、見えてくるの?」
そう言えば、僕は目を覚ましてから、お父さんが一体どこに向かって飛んでいるのかを聞いていなかった。
「俺たちの家だ。かつて人間どもから俺が簒奪し、今では俺の妻たちや子どもたちをはじめ、多くの竜たちが暮らしている巨大な竜の都だ」
お父さんが誇らしげに翼を大きく一煽りすると、赤く染まった雲の切れ目から、見たこともないほど広大で、活気に満ちあふれた巨大な建造物の群れが姿を現した。
そこは、僕がこれからお父さんや新しいお母さんたちと暮らす、第二の人生を歩むための、本当の『家』だった。
かつて孤独な暗闇にいた僕は、お父さんの広い背中に乗って、ついに未知なる眩しい世界へと辿り着いたんだ……!
――竜の都。夕焼けに染まる空の彼方から、僕たちはゆっくりと高度を下げていた。
かつて人間たちが暮らしていたというその場所には、今ではたくさんの竜たちが息づいている。遠くには天を突くような大きな塔?がそびえ立ち、建物の間を縫うように広い道がどこまでも伸びていた。その圧倒的な広さは、僕がこれまで生まれ育った、あの狭く冷たい洞窟とは比べものにならない。
(……ここが、お父さんの家……)
これから僕が暮らす場所。お父さんや、新しいお母さんたちが待っている場所。そう思った瞬間、僕の胸の奥がじんわりと優しい熱に満たされていく。
「……あれ?パパだ!」
ふと、夕暮れの街並みから、鈴を転がしたような幼い声が響いてきた。
「ほんとだ!パパが帰ってきた!」
「パパーっ!!」
見上げると、小さな竜たちがこちらに気づき、一斉に駆け出していくのが見えた。まだ身体も小さく、翼も脚も頼りない子どもたち。中には、もつれる足に転びそうになりながらも、一生懸命にこちらへ向かって走っている子までいた。その眩しい光景を前にして、僕は思わず目を丸くする。
(……お父さんの、子どもたち……?)
それは、僕にとっての兄弟だった。そうだ。お父さんには、僕以外にも子どもがいる。お母さんから直接聞いたことはなかったけれど、僕の身体の中にいるウイルスたちが教えてくれていた。お父さんにはたくさんの奥さんがいるのだから、それは当然のことなのかもしれない。
それでも、自分以外にもお父さんを待っている子どもたちがたくさんいて、こんな風に笑顔で出迎える光景は、僕にとって初めて見るものだった。
子どもたちの声を聞きつけたのか、近くにいた竜たちも次々と集まってくる。やがて、その中から、少し成長した竜たちの姿も見えてきた。
「本当だ。パパが帰ってきた!」
「今日はずいぶん遅かったね?」
「ねえ、何かお土産を持ってきてくれたかな?」
幼い子たちよりも身体が大きく、しっかりとした翼を持つ彼らも、弾んだ声を上げながら嬉しそうに空を見上げていた。お父さんを呼ぶたくさんの声。そのどれもが純粋な親愛に満ちていて、都に響き渡っていく。お父さんがいかにこの場所で愛され、必要とされているかが、彼らの表情や言葉から痛いほど伝わってきた。
(みんな、お父さんのことが大好きなんだ……)
お父さんの背中に掴まったまま、僕はその賑やかな光景をただ圧倒されて見つめることしかできなかった。
さらに、その後ろからは、幼い子どもたちよりも一回り大きな竜たちが姿を現した。僕よりは少し小さいけれど、身体つきは逞しく、翼も立派だ。
「……ようやく帰ってきたか」
「今回は少し長かったな」
「まあ、パパにも色々あるんでしょう」
あの子たちは、もうすぐ親元を離れて、自分たちだけで生きていくのだろうか。
(……みんな、お父さんの帰りを待っていたんだ)
その光景を見つめていると、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
僕には、そんな経験がない。誰かの帰りを待ったことも、誰かが帰ってくるのを心待ちにしたことも。ずっとあの冷たい洞窟の中で、ただ独り。お母さんの傍で、いつか見られるかもしれない外の世界を夢見ていただけだった。
けれど、ここには全く違う光景がある。誰かが帰ってくることを、みんなが当たり前のように喜んでいる。
それが、僕にはひどく眩しかった。
孤独しか知らなかった僕の過去と、目の前に広がる温かな家族の輪。あまりの差に、僕は喜びと同時に、どこかそわそわとした切なさを覚えていた。お父さんの背中の鱗をぎゅっと握りしめる僕の手に、気づいているのかいないのか。お父さんは羽ばたきを緩め、愛しい子どもたちが待つ地上へと、ゆっくりと舞い降りていく。
「……おう! ただいま!」
お父さんの弾んだ声が頭上から聞こえた。見上げると、お父さんは黄金色の瞳を細め、本当に嬉しそうに笑っていた。その笑顔を見て、僕の緊張も少しだけ解け、自然と頬が緩んでいく。
やがて僕たちは、都の広場へとゆっくり降り立った。着地の瞬間、お父さんの大きな翼が巻き起こした突風に、幼い子どもたちが「わあっ!」と楽しそうな歓声を上げる。
「パパ、おかえり!」
「おかえりなさい、パパ!」
「今日は何してたの?」
「お土産は!?」
「こらこら、いっぺんに喋るな!」
お父さんは苦笑しながら、一斉に群がってくる子どもたちを大きな翼で包み込むようにして、優しく受け止めた。
その様子を背中の上から見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。
僕が知っているお父さんは、圧倒的に強くて、誰よりも大きくて、黄金色の瞳を持つ、太陽のような偉大な竜だった。けれど今、目の前にいるお父さんは、小さな子どもたちにもみくちゃにされながら、困ったように眉を下げて笑っている。格好良いお父さんが、今はただの、優しいお父さんだ。
……なんだか、少しだけおかしかった。
そんな賑やかな出迎えの中、レウスの帰還を知った妻たちも広場へと集まってきた。
「おかえりなさい、あなた」
最初に声をかけたのは、落ち着いた雰囲気の雌竜だった。その穏やかな姿を見て、お父さんが優しく微笑む。
「ただいま、レイア。みんな、留守番ありがとうな」
「ええ。……それで?」
レイアさんと呼ばれた雌竜の視線が、すっと僕へと向けられた。その瞬間、僕は思わず息を呑み、身体を強張らせてしまう。
(……ぼ、僕を見てる……)
無理もない。彼女たちにとって、僕は突然お父さんの背に乗って現れた、見知らぬ奇妙な姿の竜なのだから。この化け物のような僕を見たら、一体どんな反応をされるだろう。嫌悪されるかもしれない、と恐怖が過る。
お父さんは一度、優しく僕を振り返った。そして、怯える僕を安心させるように、大きな翼をそっと寄せて温もりを伝えてくれる。
「……ああ。紹介するよ、レイア、サクラ、そしてみんな」
お父さんは集まった家族たちを誇らしげに見回し、朗々とした声で告げた。
「俺の息子だ」
「…………え?」
サクラさんと呼ばれた奥さんが、信じられないものを見るように目を見開き、思わずといった風に声を漏らした。その場にいた奥さんたちの間に、にわかに動揺が広がる。お父さんの放った一言は、それほどまでに彼女たちにとって衝撃的なものだったようだった。
「む、息子……?」
「えっ!? 旦那ァ、いつの間に!?」
狐さんが目を見開き、虫みたいな羽根の電竜さんは僕とお父さんを交互に見比べている。筋肉が凄い竜と白猫さんも、驚いたように目を丸くしていた。黒猫さんだけは、しばらく黙ったまま、僕の姿をじっと観察していた。そんな中、レイアさんが静かに呟く。
「……本当に、あなたの子なのね」
その視線に、敵意はなかった。ただ、僕がどんな竜なのかを確かめようとしているようだった。それでも、僕はどうすればいいのか分からなかった。
「……ええと」
何か言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
「ぼ、僕……」
初めまして、と言えばいいのだろうか。それとも、よろしくお願いします、と言えばいいのだろうか。そもそも、こんなに大勢の竜に囲まれた経験なんて、今まで一度もない。すると、幼い子どもたちが一斉に近づいてきた。
「ねえねえ! お兄ちゃん?」
「パパの子どもなの?」
「ねえ、なんて名前なの?」
「どこから来たの?」
「その翼、すごいね!」
「わっ、ちょ、ちょっと……!」
あっという間に、お父さんの背中を囲むように小さな竜たちが集まってきた。どうしよう。みんな、僕に興味津々だ。嫌われているわけではなさそうだけれど、どう反応すればいいのか分からない。思わずお父さんの身体へ身を寄せると、お父さんは苦笑した。
「おいおい、あんまり一度に質問してやるな。困っているだろう?」
「「「はーい!」」」
元気な返事が揃った。けれど、みんな僕の周りから離れようとしない。少し成長した子どもたちも、今度は落ち着いた様子で近づいてきた。
「……初めまして。僕たちもパパの子どもだよ」
「分からないことがあったら、何でも聞いてね」
「困ったことがあったら、僕たちも手伝うから」
そう言って、親しみ深い笑みを向けてくれる。お父さんに似た頼もしさをどこか感じさせる彼らの優しさに、僕は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……う、うん。ありがとう……」
僕が蚊の鳴くような声で答えると、彼らも嬉しそうに目を細めて笑ってくれた。さらに、少し離れたところで前脚を組むようにして様子を見ていた、あの大きな竜たちも声をかけてくる。
「まあ、これからよろしくな」
「何かあったら頼ってくれていいぞ」
「……最初は疲れるだろうからな。いずれ慣れるとはいえ、無理はするなよ」
ぶっきらぼうだけれど温かいその言葉に、僕は驚いて目を瞬かせた。誰も僕の不格好な姿を嗤わない。誰も僕を化け物だと拒絶しない。みんな、本当に優しいんだ。初めて会ったばかりの僕に、こうして当たり前のように、自然に声をかけてくれる。
(……家族って、こんなにたくさんいるんだ)
冷たい暗闇の洞窟で、お母さんと二人きりだったあの頃には想像もできなかった。僕はずっと、お母さんと二人きりだった。いや……長い間、あの暗い洞窟で実質独りきりだった。
けれど今、目の前にはこんなにもたくさんの竜がいる。僕をまっすぐに見つめて、話しかけて、優しく笑いかけてくれる竜たちが。
(……なんだか、あったかいな)
張り詰めていた心の氷が、内側からぽろぽろと解けていくような心地よさに浸っていた、そのときだった。
「…………?」
ふと、レイアさんが言葉を止めた。優しかった彼女の視線が、僕からお父さんへと向けられる。
「……あなた?」
「ん? どうした、レイア」
お父さんは不思議そうに首を傾げた。その何気ない仕草を見た瞬間――レイアさんは息を呑み、言葉を失ったようだった。
レイアさんだけではなかった。気づけば、サクラさんをはじめ、お父さんを囲む奥さんたちの視線が一斉に一点へと集まり、その場に奇妙な沈黙が広がっていく。
お父さんは、何が起きたのか分からないといった様子で瞬きを繰り返している。その瞳を、奥さんたちはまるで何か「信じられない変化」でも目撃したかのように、じっと凝視していた。
「……ねえ、レイア」
サクラさんが、小さな声で囁く。
「あなたも、そう思う?」
「……ええ。私も、今ちょうどそう思っていたところよ」
「やっぱり……」
狐さんが、美しい前脚をそっと自分の頬に添えた。
「なんだか……いつもより、格好良く見えない?」
…………え? 僕は思わず、お父さんの顔を見上げた。お父さんは、いつもどおりだった。大きな身体に赤と黒の鱗。太陽のように輝く黄金の瞳は、確かに誰が見ても格好いい、立派な竜だと思う。
けれど、奥さんたちにとっては、毎日見慣れている姿のはずだ。それなのに、彼女たちはまるで初めてお父さんに出会ったときのような、恋する少女のような顔をしてお父さんを見つめていた。
「……何だ? さっきから、みんなして俺の顔をじろじろ見て」
お父さんが困ったように眉を下げて笑う。その笑顔を見た瞬間、レイアさんの頬がほんのりと赤くなった。
「……いいえ。何でもないわ」
そう答えながらも、彼女の艶やかな視線はなかなかお父さんから離れなかった。サクラさんはいつもの明るい笑顔を浮かべようとして、なぜか途中で耐えきれなくなったように顔を背けてしまう。
「……もう。あなた、急にそういう顔をするのは反則よ……」
「そういう顔?」
「自覚がないところも含めて、ですよ……っ」
狐さんまで、お父さんの無自覚な色気にやられたように言葉に詰まっていた。一方、黒猫さんは何も言わなかった。ただ、静かにお父さんの姿をじっと見つめていた。その深い瞳には、他の奥さんたちのような照れや戸惑いだけでなく、穏やかさに加えて、どこか昔を懐かしむような色が浮かんでいる。
「……あなた、何かあったのね」
黒猫さんの確信に満ちた言葉に、お父さんは一瞬だけ黄金色の目を見開いた。けれど、すぐにすべてを包み込むような優しい微笑みを湛える。
「……ああ。ちょっとな」
それだけだった。詳しい説明はしなかった。奥さんたちは、お父さんの纏う空気の「変化」を、鋭い直感で敏感に察知していたのかもしれない。
それでも、奥さんたちはそれ以上、尋ねようとはしなかった。ただ、レイアさんがゆっくりと歩み寄り、お父さんの大きな頬へそっと自分の頬を寄せた。
「……おかえりなさい、あなた」
先ほども聞いた言葉だ。けれど今度の声は、さっきよりもずっと優しく、どこか甘えているようにも聞こえた。
「……ただいま、レイア」
お父さんは愛おしそうに目を細め、彼女の額に、自分の額をそっと寄せた。その仕草は、あまりにも自然だった。長い時間を共に過ごしてきた夫婦だからこそできる、何気ない、けれど確かな愛情表現。それなのに、レイアさんはうっとりと目を細め、本当に幸せそうに微笑んでいた。
サクラさんも、狐さんも、そんな寄り添う二頭を見て、どこか羨ましそうに頬を緩める。
「……なんだか、私まで惚れ直しちゃいそう」
サクラさんが、お父さんたちを見つめたままぽつりと呟いた。
「……『まで』じゃないわよ。私はもう、とっくに惚れ直しているもの」
レイアさんが落ち着いた口調で、けれど隠しきれない熱を帯びた声で返した。
「ええっ!? レイアまで!?」
「何を驚いているの、サクラ。自分の夫が格好良く見えることに、理由なんて必要ないでしょう?」
「そ、それはそうだけど……!」
狐さんがくすくすと笑う。
「ふふっ……でも、分かります。いつもと同じはずなのに、今日は何だか違いますから」
その言葉に、黒猫さんも小さく頷いた。
「……ええ。何かを乗り越えてきた雄の顔、なのかもしれないわね」
その瞬間、お父さんの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。そして――
「……おいおい。何をそんなに褒めているんだ。俺はいつもどおりだぞ?」
照れ隠しなのか、それとも本気で分かっていないのか。お父さんは困ったように笑いながら、大きな前脚で頭を掻いた。その隙だらけな姿を見た奥さんたちが、そろって小さく溜息を吐く。
「……そういうところよ、あなた」
「本当にね……」
「ふふっ。まったく、困った旦那様だこと」
……何だろう。僕には、まだよく分からなかった。お父さんは、いつもどおり優しい。いつもどおり強くて、いつもどおり、僕に温かく接してくれる。
けれど、奥さんたちが見つめるお父さんは、僕が知っている姿よりも、どこか眩しく見えた。
まるで、長い夜を越えた太陽が、再び空へ昇ったみたいに。
……ああ。もしかすると、僕が知らないだけで、みんなは知っているのかもしれない。
お父さんが、どれほど長い間、悲しみを抱えていたのか。そして今、ようやく、その悲しみを抱えたままでも笑えるようになったことを。
僕にはまだ、その全部は分からない。でも――
(……お父さん、笑ってる)
それが、僕には何より嬉しかった……そのときだった。
「……しっかし、予想が外れたな……」
少し離れた場所から、電竜さんの呟きが聞こえてきた。
「……ああ。まさか、こんな結果になるとはな」
隣にいた人間も、深く頷いている。
(あれ……人間?)
僕は思わずそちらを見た。どうしてこんな竜たちが暮らす都に人間が……しかも、周りの竜たちを恐れている様子がまったくない。まるで、昔から当たり前のようにここで一緒に暮らしているかのようだった。
人間は、僕たちを拒絶し、刃を向けてくる恐ろしい存在だったはずだ。それなのに、ここにいる人間は竜たちと肩を並べ、驚きながらもお父さんたちの様子を穏やかに見守っている。
(お父さんが人間から簒奪した都……でも、人間を追い出したわけじゃないの……?)
新しい驚きと疑問に、僕は思わずお父さんの背中の上で小さな身体をすくませ、その不思議な光景をじっと見つめていた。そんな彼らの会話を、お父さんも聞きつけたらしい。
「……なにがだ?」
「いや、実はな……」
ハンターは腕を組み、妙に真剣な顔で答えた。
「お前とナナ・テスカトリが番になるかどうかで、賭けをしていたんだよ」
「…………は?」
お父さんの顔から、一瞬で笑みが消えた。ナナさんも、その言葉を聞いて隣でぴくりと反応する。
「結果は見事に外れた。まさか番になるどころか、息子まで連れて帰ってくるとは……」
「…………」
お父さんは、ゆっくりとナナさんへ視線を向けた。ナナさんはといえば、その不届きな賭けの話を聞いた途端、耳まで真っ赤にしていた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 私は彼の番ではないし、未亡人なのよ!?」
「いやあ、そう言われてもなあ……」
ハンターは悪びれもせず、やれやれといった風に肩を竦めた。お父さんの圧倒的な威厳に気圧されることもなく、まるで気の置けない友人同士のように言葉を交わす人間の姿に、僕はただただ驚くばかりだった。
お父さんは呆れたように大きな溜息を吐き、そんなお父さんをからかうように、周りの奥さんたちまでがクスクスと笑い声を上げ始めている。
「ちなみに、マガドを除けば、ほぼ全員がお前らは番になるって予想してたぜ」
「何ですって!?」
ナナさんが弾かれたように声を上げた。
(……番になる?)
僕は不思議に思って首を傾げた。お父さんには、レイアさんたちのようにすでにたくさんの番がいるはずだ。それなのに、みんなはナナさんまでお父さんの番になると思っていたらしい。どういうことなのだろう。
「……なあ、何でお前らはそう思ったんだ?」
お父さんが仏頂面で尋ねると、ハンターはあっさり答えた。
「そりゃあ、俺たちはお前のことをよく知ってるからな。お前がまた天然で女をたらし込んで、本人が自覚する前に番にしちまうと思ってたんだろ」
「俺はそんな無節操な雄じゃないぞ!?」
「「「…………」」」
その瞬間、その場にいた奥さんたちとハンターが、一斉にお父さんを見た。一言も発しない、けれど完璧にシンクロしたその無言の視線が、お父さんへと突き刺さる。
……ええと……どうして、みんな何も言わないのだろう?
お父さんは「なぜそんな目で見るんだ」と言いたげに黄金色の瞳を泳がせているけれど、レイアさんは呆れたようにため息を吐き、サクラさんはジト目を向け、狐さんはクスクスと口元を隠している。黒猫さんだけは、憐れむような目で静かにお父さんを見つめていた。
お父さんは、みんなからものすごく愛されているけれど、同時にものすごく「前科」があるというか、そういう天然なところがあるらしい。
家族たちの無言の圧力に、さすがのお父さんもタジタジになっていて、そのやり取りがなんだかとてもおかしくて、僕の胸の緊張はすっかり消え去っていた。
レイアさんは小さく息を吐き、サクラさんは呆れたように笑っている。狐さんは口元を隠して肩を震わせ、電竜さんはとうとう堪えきれずに笑い出した。
「いやいや、旦那ぁ。自覚がないのが一番タチ悪いんだって!」
「そうそう! パパはすぐ女の子を口説くんだから!」
子どもたちまで、無邪気に追撃を加えている。
「口説いてない!」
「でも、ママたちにも優しいよ?」
「それは当然だろう?」
「でも、ナナさんにも優しいでしょ?」
「…………」
お父さんは言葉に詰まった。……あ、なんだか、分かってきた気がする。お父さんは、強くて、優しくて、少しだけ……いや、かなり大変な竜なのかもしれない。そんなお父さんを、みんなはよく知っているのだ。だから、こんなふうに遠慮なくからかえるのだろう。
「ほらな?」
「うるさいぞ、お前!」
ハンターの言葉に、お父さんが声を上げる。広場に温かい笑い声が広がった。
不思議な場所だ。お父さんはみんなに呆れられながらも、やっぱり世界で一番格好よくて、愛されている。そんなお父さんの子どもに生まれ、この温かい竜の都へと迎えられたことが、僕は何よりも誇らしくて、嬉しかった。
その光景を見ているうちに、僕は思わず、くすりと笑ってしまった。すると、お父さんがすぐにこちらを振り返る。
「……お? どうした?」
「ううん。何でもないよ、お父さん」
「そうか?」
お父さんは嬉しそうに目を細め、僕の頭を翼の先で優しく撫でてくれた。その不器用な優しさと温もりに、僕は自然と目を細める。
……ああ。僕は今、お父さんの隣にいる。そして、僕を迎えてくれる家族が、こんなにもたくさんいる。
まだ、みんなの名前を覚えることもできていない。
まだ、どう接すればいいのか分からない。
けれど、少しずつでいい。これから、この場所でゆっくり覚えていけばいいんだ。そんな僕の心の変化を察したのか、お父さんは改めて家族たちを見回した。
「……まあ、何はともあれだ」
お父さんの低く通る声に、広場の賑やかなざわめきが少しずつ静まっていく。みんなの温かい視線が、お父さんと、その背の上にいる僕へと集まった。
「今日から、この子も俺たちの家族だ。まだ分からないことも多いだろうし、不慣れなこともある。みんな、色々と教えてやってくれ」
「ええ、もちろんよ」
レイアさんが、母としての慈愛に満ちた眼差しで真っ先に頷いた。
「困ったことがあったら、いつでも言ってね。あの子たちはみんなあなたのお姉ちゃんだし、お兄ちゃんだから。そして私たちもお母さんだからね」
サクラさんが、弾むような優しい声で微笑む。
「お腹が空いたら、私たちにも遠慮なく言っていいのよ? 美味しいご飯をたくさん用意してあげます」
狐さんが艶やかにそう続けた。
「狩りなら私たちも教えてあげるわ。いつでもついてきなさい」
ムキムキさんが逞しく胸を張り、隣で白猫さんも頼もしげに頷いている。そして、黒猫さんは僕のすぐ近くまで歩み寄ると、そっと囁くように声をかけてくれた。
「……遠くから飛んできて、疲れたでしょう? 無理をせず、いつでも休んでいいからね」
その心に染み渡るような優しい言葉に、僕は胸がぎゅっとなって、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう……その……お母さん」
まだ、声は少し震えていた。
まだ、新しい世界への戸惑いや、ほんの少しの不安は胸の奥に残っている。
けれど、僕は確かに一歩を踏み出していた。冷たい独りきりだった暗闇から、光あふれる家族の待つ場所へ。僕はようやく、本当の意味で、自分が帰るべき場所を見つけたのだ。
(……お母さん)
ふと、心の中で亡き母親に呼びかける。
(僕、やっと……お父さんに会えたよ)
そして、今度はもう独りじゃない。僕の周りには、手を差し伸べてくれる、こんなにもたくさんの家族がいる。
(……僕、ここで頑張ってみるね)
夕焼けに染まる美しい竜の都で、僕は初めて、自分の手で紡いでいく未来を鮮やかに思い描いた。
この場所で、いつかお父さんと一緒に大空を並んで飛ぶ。
新しいお母さんたちと、他愛のないおしゃべりをする。
たくさんの兄弟たちと遊び、時には小さな喧嘩をして笑い合うのかもしれない。
そして、いつか――この優しくて広い世界を、自分の翼でどこまでも自由に飛び回るのだ。
かつて冷たい洞窟で外の世界を夢見ていたあの頃とは違う。その日が来ることを、今の僕は心から楽しみに思えた。
お父さんの大きな翼が、僕の身体をもう一度包み込む。夕暮れの空の下、都の明かりがひとつ、またひとつと灯り始め、僕たちの新しい物語を祝福するように温かく輝いていた。
レウス「……おい、マガドだけ何で違うと思ったんだ?」
マガド「そうですね……。ナナさんは、つい最近、大切な旦那様を亡くされたばかりでしょう?今はまだ、悲しみを乗り越えるどころか、ご自身の気持ちを整理するだけでも精一杯なのではないかと思ったのです。そんな状態で、新しい番を迎える余裕があるとは私には思えませんでした。もちろん、悲しみを抱えたまま誰かを愛することもあるでしょうし、いつか新しい幸せを見つけることもあると思います。でも……少なくとも、今のナナさんがすぐに旦那様の番になるとは、私は考えませんでした。ですから、私はお二人が番になるという予想には賭けなかったのです」
レウス「お、おう…。うん…なるほどな。確かに、ナナさんはまだ旦那さんを亡くしたばかりだ。無理に新しい関係を求める必要もないし、本人の気持ちが一番大事だからな」
マガド「……ええ。私も、そう思います」
レウス「…………ん?ちょっと待てよ?」
マガド「はい? どうかなさいましたか、旦那様?」
レウス「いや、ナナさんが今は番を作る余裕がないってのは分かった。分かったんだが……番にならない理由に選んだの、ナナさんの事情だけじゃねえか?」
マガド「…………」
レウス「俺のことは?俺がナナさんを番にする可能性については、どう思ってたんだ?」
マガド「…もちろん、旦那様のことは全面的に愛していますし、心から信用していますよ?」
レウス「マガド……!」
マガド「ただし、下半身に関しては、まったく信用しておりません」
レウス (´・ω・`)
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