あ、ハンターの嫁候補及び新たなベビーシッターの話は既に書き終えています。
……ドンッ。
不意に響いた重たい地響きに、私はゆっくりと瞼を開いた。まぶたの裏を打つ柔らかな日差しが、私の白い身体を優しく包み込んでいる。
鼻先をくすぐるのは、風に乗って運ばれてくる草花の青く甘い香り。視界の端では、赤や黄色、青や白といった色とりどりの花々が、春の陽気に揺れていた。
貴族街の一角にある屋敷の庭園。かつて人間の貴族が暮らしていたという広大な敷地だが、手入れの行き届いていない庭園は、花壇の境界すら曖昧。様々な種類の植物が乱雑に咲いていた。けれど生命力に満ち溢れていた。
完璧に整えられた庭園の美しさとは違う。どこか無造作で、自然のままに放置された景色。
……今の私には、それが心地よかった。
完璧に整えられた美しさは、少しだけ眩しすぎる。何もかもが正しく、何もかもが満たされているような場所にいると、そこに馴染めない自分を強く意識してしまうから。その点、この庭園は違った。多少乱れてはいても、花々はそれぞれの場所でただ咲いている。
……それだけで、少しだけ気が楽になった
巨体が地面を叩く着地の衝撃で、目を覚ます。私はぼんやりとした視線を、音のした方向へ向けた。
「……おはよう、ナナさん。よく眠れたか?」
そこに立っていたのは、黄金色の瞳をもち、堂々たる体躯を持つレウスだったわ。
「……レウス?」
「はい。……悪いな、起こしたか?」
以前よりも、随分と柔らかな声音だった。私は、彼と初めて出会った日のことをふと思い出す。
あの日の彼は、今と変わらず丁寧な言葉遣いをしていた。相手を見下すような乱暴な口調でもなく、声を荒らげることもない。
それなのに……恐ろしかった。
もし敵対すれば、きっと容赦なく殺される。そう確信させるだけの威圧感が、彼にはまとわりついていた。
けれど、不思議なことに当時の彼からは、強い闘志のようなものが感じられなかった。
落ち着いている、というのとも違う。どこか無気力で、何かに期待することを完全に諦めてしまったような、生命の熱が薄い存在。
静かなのに、危険。
無気力なのに、威圧的。
相反するものを同時に抱えているような、不安定で奇妙な飛竜——それが、以前の彼だった。
……けれど、今の彼は違う。
私は知っている。彼が過去と向き合う姿を。
冷たい暗闇の中で、亡き妻の残骸と、孵ることのなかった二つの卵に向き合った彼。自分を責め、絶望に打ちひしがれながらも、最後には残された息子を愛し、父親として生きていくことを誓った彼の姿を。
悲しみを忘れたわけではない。
亡き妻への愛情が消えたわけでもない。
ただ彼は、それらを全て抱えたまま、前へ進むことを選んだのだ。
その姿を知っているからこそ、今彼が見せる穏やかな表情が、私には眩しく映った。
「……どうして、ここに?」
私が尋ねると、レウスは少しだけ首を傾げた。
「この前、約束しただろう?ナナさんの故郷へ、一緒に行くって話です」
その言葉に、胸の奥が僅かに疼いた。
故郷。かつて、夫と共に暮らしたあの場所。そして——彼を失った場所。忘れようとしても焦げ付いて離れない光景が、今も鮮明に心の奥底に残っている。
「……そう、だったわね」
私は小さく答えた。声が僅かに揺れてしまう。まだ、心の整理はついていない。夫の最期を思い出すことは、今でも息が詰まるほど苦しい。あの日、彼が私を守るために命を懸けたことも。最期に残した切ない言葉も。何一つ、忘れることなんてできない。
それでも。いつまでも、あの死線となった火山から目を背け続けるわけにはいかないのだと、頭では分かっていた。
「まあ、今すぐ行こうってわけじゃないです。ナナさんがまだ辛いなら、もう少しここで休んでてもいいですし」
レウスは私の様子を窺うように、静かに言葉を添えてくれた。そのあまりに優しく、配慮に満ちた言葉に、私は思わず小さく笑っていた。
「……あなたは、随分と気を遣うのね」
「そうか?……まあ、そうかもしれないな」
困ったように笑う彼の表情には、何の角もない。
「ナナさんに無理してほしくないんですよ」
……そう。彼は、私に無理をさせようとはしない。悲しみを早く忘れろと強要することもない。新しい幸せを見つけろとも、亡き夫への想いを断ち切れとも言わない。
ただ、私が自分の足で歩き出せるその時を、じっと待ってくれている。
それはきっと、彼自身が同じ暗闇を歩み、そうやって立ち上がってきたからなのだろう。
「……あなた、以前よりも随分と穏やかになったわね」
私が素直な思いを告げると、レウスは少しだけ目を細めた。
「……そうですか?」
「ええ。以前のあなたは、どこか……」
言葉を探す。無気力。威圧的。不安定。
けれど、それらをそのまま口にするのは、少し違う気がした。
「……生きることに、疲れているように見えたわ」
レウスは、僅かに視線を落とした。
「……まあ、色々あったからな」
低く漏らした声には、ほんの少しだけ、過去の影が滲んでいた。けれど、彼はすぐに顔を上げる。
「今は……そうでもない」
その黄金色の瞳には、穏やかで強い光が宿っていた。
私はその瞳をじっと見つめた。
彼の穏やかな表情の奥には、今も消えない悲しみがあるのだろう。けれど、それを抱えながらも、彼は確かに今を生きている。
……ならば。
(私だって、そうなれるのだろうか)
夫を愛したまま。彼を失った悲しみを抱えたまま。
それでも、前へ進むことができるのだろうか。
「……来てくれて、ありがとう」
私は静かに告げた。
「いえいえ。まだ何もしてませんから」
「それでも……約束を覚えていてくれたことが、嬉しいの」
レウスはどこか照れくさそうに、僅かに目を細めた。
「……そう言ってもらえると、俺も嬉しいですよ」
彼は私の隣に、そっと巨体を横たえた。ズシリと重量のある身体が地面を沈め込む。それでも、私を驚かせないよう、その動作はひどく慎重だった。
「ナナさん」
「……何?」
「焦らなくていい。無理に過去と向き合わなくてもいい」
レウスの瞳が、静かに私を見つめる。
「ナナさんが『行きたい』と思った時に、出発しよう。俺はそれまで待ってますから」
私は何も答えなかった。ただ、彼の言葉を胸の中で何度も、何度も反芻していた。夫を失った悲しみは、今も消えていない。彼を愛した記憶も、最期の温もりも、忘れることなんてできない。
けれど……悲しみを抱えたまま生きることは、決して亡き夫を裏切ることではないのかもしれない。
レウスは、己の生き方を通して、それを私に教えてくれていた。
だからこそ、私は思う。彼と一緒なら。彼が隣にいてくれるなら。いつかあの火山へ戻り、過去と向き合うことができるかもしれない、と。
「……もう少しだけ、ここにいてもいいかしら。覚悟を決めるのに、まだ少し時間が掛かりそうなの」
「もちろんだ、ナナさん。ゆっくり休んでくれ」
レウスは、柔らかな声で答えてくれた。庭園に、穏やかな時間と風が流れていく。
隣には、レウスがいる。彼は何も急かさない。何も強要しない。ただ暖かい体温を感じさせる距離で、静かに寄り添い続けてくれていた。
私は再び、色とりどりの花々に囲まれながら静かに目を閉じた。けれど、今度は微睡みに身を委ねるためではない。
静かに呼吸を整え、意識をゆっくりと内側へ向けていく。周囲を流れる温かな風。草花がかすかに擦れ合う音。そして、すぐ隣に横たわるレウスの、低く穏やかな呼吸。それらを一つずつ感じ取りながら、私は昂ぶりかけた心を静めようとした。
……瞑想。かつて、最愛の夫と共に暮らしていた頃にも、こうして心を静めることはよくあった。
危険な強敵との戦いを前にした時。何か大きな決断を下す前に、己の昂ぶる炎と感情に振り回されぬよう、精神を研ぎ澄ますために。
けれど、今の私に必要なのは、単に心を静めることなどではなかった。
あの場所へ、戻ること。
夫を失った、灼熱の火山。彼が最期まで私を守り抜き、その命を散らせた場所。思い浮かべるだけで、胸の奥が鋭い痛みとともに締め付けられるあの場所。
炎の熱が視界を灼く感覚も、鼻腔にこびりついた焦げ臭さも……あの滅尽龍ネルギガンテに夫が捕食され、その身体が少しずつ失われていく光景も。そして、あの時に味わった底知れぬ恐怖も……。
何一つ、薄れることなく私の心に刻まれていた。
(……駄目ね)
どれだけ深呼吸を重ねようと、どれだけ心を静めようと試みようと、あの日の凄惨な記憶が消えてなくなることなどないのだ。
覚悟なんて、決まるはずがなかった。私は今でも、夫を深く愛している。彼が私を守るために命を賭してくれたことを、今でも心の底から誇りに思っている。けれど同時に——彼を失ってしまった事実が、たまらなく苦しい。彼の最期を思い出すたび、全身の鱗が強張るほどに恐ろしい。
愛しているからこそ、思い出すことが辛いのだ。
……何という矛盾だろう。
そんなこと、他ならぬ自分自身が一番よく理解していた。けれど、傷ついた心というものは、どんな理屈を持ってしても動いてはくれない。
私は、ゆっくりと瞼を開いた。庭園の花々は、変わらず風に揺れていた。何一つとして変わらない、穏やかで平穏な景色。
ここに留まり続けていれば、きっと今日も平和に過ごせるだろう。明日も。明後日も。その先も。
レウスは、私が望むならいつまでもここで待っていてくれる。彼の差し出す言葉に一切の偽りがないことは、痛いほど分かっていた。
……だからこそ。
「……レウス」
隣で静かに寄り添う彼へ、私は声を掛けた。
「はい。どうしました、ナナさん?」
彼は余計な問いを挟まず、すぐに瞳をこちらへ向けてくれた。
「……出発しましょう」
その一言に、レウスの瞳が僅かに見開かれた。
「……本当に?」
「ええ」
私は静かに、けれど揺るぎなく頷いた。
「もう少し休んでいてもいいんですよ。無理して今決める必要はありませんから」
……やはり、彼はどこまでも優しい。私の心がまだ激しく揺れていることを、きっと見抜いているのだろう。だからこそ、決して決断を急かすことなく、何度でも私に選択を委ねてくれるのだ。けれど——
「……このまま、ここにいたところで……」
私は一度言葉を区切り、深く息を吐き出した。
「覚悟を決めることなんて、私にはきっとできないわ……」
レウスは否定も肯定もせず、黙って私の言葉に耳を傾けていた。
「ここにいれば、確かに心は穏やかでいられる。あの地獄のような場所を思い出さずに済む。あなたも、私が辛い思いをしないように、ずっと優しく待っていてくれるのでしょう?」
「……はい。もちろんです」
「でも……それでは、私はいつまで経っても変われないの」
私は僅かに視線を落とした。夫を失った深い悲しみは、今も変わらず私の中に渦巻いている。あの場所へ向かうことを想像するだけで、今すぐにでも逃げ出したくなる。それでも。
「だから……覚悟を決めないまま、行くのよ」
自分でも驚くほど、紡ぎ出した声は静かで澄んでいた。
「覚悟が決まるのを待っていたら、私は一生ここから動けないわ。ならば……覚悟なんて、全てが終わった後に決めればいい」
レウスはしばらくの間、私を黙って見つめていた。その美しい太陽のような瞳に浮かんでいるのは、深い心配だろうか。それとも、私の我儘な決断を尊重しようとしてくれているのだろうか。
やがて彼は、胸を大きく膨らませて小さく息を吐き出した。
「……分かりました」
「……いいの?」
「もちろん。ただ……」
彼は少しだけ困ったように、けれど愛おしそうに目を細めて笑った。
「辛くなったら、いつでも言ってくださいね。途中で引き返したっていいんです。俺は、ナナさんを無理やり連れて行くつもりはありませんから」
「……ええ」
私は力強く頷いた。今度は、彼の真っ直ぐな瞳から目を逸らさなかった。
「ありがとう、レウス」
彼の隣にいるからといって、私の決断が容易になったわけではない。夫を失った傷が癒えたわけでも、悲しみが薄れたわけでもない。ただ……一人では決して踏み出せなかった恐怖への第一歩を、今の私なら踏み出せる気がした。
それは、覚悟が決まったからではない。
覚悟を決められない弱さを抱えた己を、ほんの少しだけ許せるようになったからだ。
「……行きましょう」
私は白い翼をゆっくりと広げ、静かに立ち上がった。その先に待っているものが、再び私を深い悲しみと恐怖のどん底に沈めるものだとしても…今度はもう逃げず、目を背けずに向き合いたい。
私の隣には、レウスがいてくれる。
そして何より……私は今、誰に強いられたわけでもなく、自分自身の意志で、あの思い出の場所へ向かおうとしているのだから。
◆
竜の都を後にした私たちは、故郷の火山を目指して大空へと舞い上がった。眼下に広がる街並みが、羽ばたくたびに少しずつ小さく遠ざかっていく。
翼の下を勢いよく通り抜ける冷涼な風。どこまでも高く澄み渡った青空と、遠くにぽっかりと浮かぶ白い雲。本来なら、空を飛ぶこと自体は私にとって何ら特別な行為ではない。呼吸をするのと変わらない、日常の一部だ。
……けれど。火山のある南の方角へと進路を取るにつれ、私の翼は徐々にぎこちなさを増していった。羽ばたく力に、思うように力が入らない。
前へ進むための推進力も、いつもなら自然に生み出せるはずなのに、今は妙に弱々しい。翼が空気を捉える感覚も鈍り、飛行速度は少しずつ落ちていく。
身体が重いわけではない……心が、鉛のように重いのだ。
地平線の彼方に見える暗い山々。その向こうに、かつて最愛の夫と共に暮らした故郷がある。あの思い出の場所へと着実に近づいている。ただそれだけの事実が、私の身体を強張らせ、翼の動きを縛りつけていた。
「……ナナさん」
前方を滑らかに飛んでいたレウスが、ふと首を捻ってこちらへ視線を向けた。
「少し、飛行速度が落ちてきましたね」
「……そうかしら」
私は努めて平静を装い、いつもの声を作った。
「ええ。翼の動きも、少しぎこちなくなっています」
……やはり、隠し通すことなんてできなかったわね。彼は私の身体に直接触れているわけではない。それなのに、空気の乱れや飛行軌道のわずかなブレだけで、私が無理をしていることを見抜いていた。
「……大丈夫よ。まだ飛べるわ」
そう強がって答えた、まさにその直後だった。
「……うぅ……寒い」
自分でも抑えきれず、小さな呟きが唇から零れていた。上空を吹き抜ける風はたしかに冷たい。けれど、今私を痛めつけている寒さは、外気温のせいだけではなかった。
身体の内側、胸の奥深くから、青い炎を冷やしていくような凍てつく感覚。孤独だからではない。すぐ隣には、レウスが飛んでくれている。
彼が寄り添ってくれていることは、痛いほど分かっていた。以前、彼の背中に乗せてもらった時に伝わってきた、あの力強く温かな体温も覚えている。
……それなのに…あの火山へ向かっているという動かしがたい事実が、私の心を芯から凍えさせていたのだ。
怖い。夫を失った惨劇の場所へ戻ることが。
あの日引き裂かれた炎の記憶を、再び脳裏に鮮明に思い出してしまうことが。そして何より……あの場所に、もう最愛の夫がいないという圧倒的な現実を、改めて突きつけられてしまうことが。
レウスは、私の痛々しい様子をしばらく見つめていた。やがて、彼は翼の角度をすっと変え、滑らかな軌道で進路を下げていく。
「……ナナさん。少し失礼しますね」
「……レウス?」
彼の赤い巨体が、ゆっくりと私の真下へと移動してきた。
「また、俺の背中に乗ってください」
その思いがけない申し出に、私は僅かに目を見開いた。
……また?以前にも一度、彼の背中に乗せてもらった。あの時は、上空の冷たい風に晒されて震えていた私に、彼が自身の体温を惜しみなく分け与えてくれた。そして私は、彼の背中の温もりに触れることで、彼自身が胸の奥に抱えていた孤独と恐怖の深さを知ったのだ。
……今度もまた、彼の優しさに甘えてしまっていいのだろうか。
「……でも、私を乗せたらあなたに負担が掛かるでしょう?」
「大丈夫ですよ。ナナさんは軽いですから、どうってことありません」
彼は、いつもの柔らかな声音でさらりと言ってのけた。
「それに……今のナナさんは、少し頑張りすぎています」
その言葉に射抜かれ、私は思わず視線を落とした。
「……そんなに、分かりやすいかしら」
「ええ。飛び方を見ていれば、十分に」
……そう。彼は最初から、私が無理を重ねていることを見抜いていたのだ。以前のように身体を密着させて触れ合っているから分かるのではない。私の翼のわずかな躊躇い、落ちていく飛行速度、そして前へ進もうとしながらもどこか恐怖に足踏みしてしまう気配——それら全てを観察し、察してくれていた。
「……ありがとう」
私は抵抗するのをやめ、静かに彼の広大な背中へと身を預けた。大きな背にそっと身体を落ち着けると、以前感じたものと同じ、力強く胸を打つ脈動と暖かな体温が伝わってくる。
……暖かい。
ただそれだけで、先ほどまで身体の内側を冷たく侵食していた凍えるような感覚が、ふっと和らいでいくのが分かった。私は彼の背中に、そっと前脚を添えた。
「……やっぱり、暖かいわね」
「そう思ってもらえるなら、よかったです」
レウスは風を切りながら、穏やかに答えてくれた。そのまましばらく、静かな飛行が続いた。やがて、背の下から彼の低い声が響く。
「……ナナさん」
「何かしら?」
「やっぱり、一度都に戻りませんか?」
その予想外の提案に、私は僅かに身体を強張らせた。
「……戻るの?」
「はい。今のナナさんは、かなり辛そうです。無理に進む必要はありませんから。今日は一度戻って、また心を整えてから出発してもいいんですよ」
彼の言葉には、何の強制も、私を試すような色もなかった。私を責めるつもりも、一度決めた出発を否定するつもりもない。ただ純粋に、私の心と身体の痛みを案じてくれているのだ。
……心からそう思ってくれているのだと、伝わってくる…それでも。
「いいえ」
私は、静かに、けれどはっきりと首を振った。
「……ナナさん?」
「戻らないわ」
自分でも驚くほど、その声は真っ直ぐに空へ通っていた。
「……本当に、いいんですか?」
「ええ」
私は彼の背中に身を預けたまま、遥か遠くに揺らぐ山々を見つめた。恐怖が消えたわけではない。身体の内側を冷やす冷気も、夫を失った惨劇の記憶も、今なお私の心を激しく締め付け続けている……それでも。
「ここで引き返してしまったら……私は、きっとまた同じことを繰り返してしまうわ」
レウスは余計な口を挟まず、黙って私の言葉を受け止めてくれていた。
「覚悟が決まるまで待つ。心が落ち着くまで待つ。……そうやって都合よく先延ばしにしていたら、私は一生あの場所へ行けない」
私は、彼の背中にそっと身体を深く寄せた。
「怖いわ。今だって、こんなにも……」
言葉にした途端、胸の奥に深く押し込めていた恐怖が、今にも涙となって溢れ出しそうになった。
「……けれど、怖いからといって、いつまでも逃げ続けるわけにはいかないの」
レウスは、すぐには返事をしなかった。ただ、私を大きな背中に乗せたまま、力強い翼を規則正しく羽ばたかせ続けていた。やがて…
「……分かりました、ナナさん」
彼の落ち着いた声が、風に乗って静かに響いた。
「あなたの決意を尊重し、最後までお付き合いします。でも、本当に辛くなったらすぐに言ってくださいね。途中で引き返したっていいんですから。無理だけは絶対にしちゃダメだ」
「……ええ」
私は、小さく頷いた。恐怖は、依然として私の中に根強く居座っている。覚悟だって、まだ完璧に決まったわけではない。
それでも……私は今、誰のためでもなく自分自身の意志で、あの恐怖の場所へと向かっているのだ。
彼の力強い翼が、私を優しく乗せて空を進んでいく。その暖かな体温を感じながら、私は再び、遠く見えるあの火山へと視線を向けた。恐怖を振り払うように、私はふと口を開く。
「それはそうと……レウス」
「はい。なんですか?」
「レディに体重の話は禁句よ」
「………はい。すみません」
シッターの嫁候補なんですけれど、シッターが竜の都の外にいる人間で縁がある人物が居ます。ベビーシッターの1日編に登場…はしていないけれど、明確に縁がある人物が最低2人居ます。その人物の娘ですね。
皆さんはこの中ならどれが読んでみたいです?
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