貴女はテイワットで著名な作家だ 作:原神にわか
まさか自分が誘拐されるなど誰が想像するだろう。
背後から追ってくる靴音がいつまでも途切れないだとか、普段なら見向きもしない人気のない路地へ何故か足を踏み入れてしまうとか。物語の中であればそうした些細な歪みが何気ない日常の端々へ少しずつ紛れ込み、やがて何かが起こるのだという予感をナイフの如く喉元へじわじわと押し当ててくるのだろうが、現実はそんな気の利いた前触れなど何一つ用意してはくれなかった。
その日はただ、母の店を手伝った帰りにパンを買い、明日の朝食の事をぼんやり考えながら歩いていただけだった。空は薄く、夕暮れとも夜ともつかない色で街の輪郭だけが柔らかく滲んでいた。
そうして、その背後から何の前触れもなく手が伸びてきては私の視界と呼吸を同時に奪っていった。抵抗の余地や理解の時間、物語的な猶予も一切存在しなかった。そうして抵抗虚しく私はあっさりと意識を失った。
次に目を開けた時、体は椅子に縛り付けられていた。
生憎と片腕は自由のままだったが、右手を残し、両足首と左手は金属と思しき手錠と足枷で椅子に繋がれていた。
天井には煤けた梁が何本も走り、古い木材の匂いが乾いた空気に沈んでいる。窓はすべて板の様なもので塞がれ、外界は内側は愚か、外からもその一切を確認出来ないだろう。唯一の光源は卓上のランプのみで、黄色い炎が揺れる度に影が壁を舐めるように伸び縮みしている。足首を動かすと重たい足枷が皮膚を擦り、手首にも同じ圧が返ってきた。
視界の先、影の溜まった部屋の隅に小柄な人影が見えた。
「……先に申し上げておきますが、私の家はあなたが想像しているほど裕福ではありません」
返事はない。ランプの火だけが僅かに揺れている。
「本は売れていますが、それは生活を豪奢にするほどではありませんし、印税を枕の下に積んで眠る趣味もありません。出版社に請求しても望んだ結果が得られるかは保証致しかねますし、両親を巻き込むのはもっとお勧めしません。母は気が動転すると何をしでかすか予想できませんし、父に至ってはファデュイに属しています。なので、身代金目的ならもう少し穏やかな相手を選ぶべきかと進言しておきます」
言い終えた所で部屋の隅がぴくりと動いた。
ローブの裾から覗く水色の靴を見るに女性だろうか。黒い外套を纏い、顔の上半分を仮面の様なもので覆っている。光の届かない場所に立っているのにその存在だけが妙に輪郭を持って見えた気がした。
「……質問しても?」
「どうぞ」
やはり女性で間違いない様だ。そのソプラノの声は意外なほど落ち着いていて、余計に不気味に感じられた。
「貴女は誘拐犯という認識で間違いありませんか」
「はい」
即答。ためらいがない分むしろ現実味が増す一方だ。
「金銭目的ですか?」
「いいえ」
「それでは、ファデュイである父への報復ですか?」
「違います」
「母の知人ですか?」
「存じませんわ」
「私個人への恨みですか?」
「ありません。むしろ逆です」
その一言で胸の奥がつんと冷えていく。しかし彼女の物言いは何処か覚えがあった。善意の形をしている癖に厄介な方向へ転がる類いのもの。私が最も苦手とする感情を蓄えた人間のそれだ。
「……逆、とは」
すると女はゆっくりと自身の懐へと手を入れた。反射的に肩が強張るも、しかし出てきたのは刃物でも銃でもなく、一冊の本だった。
青い表紙に金色の少年が描かれた本。
飽きるほど眺めた事のある、私の本だ。
「先生の作品は、すべて読んでいます」
「……」
反射的に、あぁ、と思った。
なんとなく続く言葉が予想出来てしまう。
「『幸福な王子』は初版と改訂版、両方持っています。五周年記念版も持っています。初版は紙質や箔押しの繊細さが当時の出版文化そのものを閉じ込めているようで、特に表紙の金の発色が少し落ち着いているところに時代の空気を感じられるのが好きです。改訂版は文章のリズムが整えられていて読みやすく、物語としての完成度はこちらの方が高いと感じる場面もあります。五周年記念版は装丁が一番華やかで、特に挿絵の色彩設計が物語の悲しさと優しさをより強調していて、王子の表情の描き方ひとつ取っても解釈の幅が広がるのが印象的でした。個人的には初版の静謐さも捨てがたいですが、物語の感情をより直接的に受け取れるという意味では記念版の挿絵が一番作品に寄り添っていると感じますわ」
「……詳しいですね」
「ファンですから」
思わず体を強く引こうとしたが椅子に縛り付けられたままなのに気付き叶わず、木造の椅子の軋む感触だけが背中へと返ってきた。目の前の言葉の重さに理解が追いつくより先に本能的な拒否感が立ち上がり、すぐに取り繕おうとしたが表情の硬さだけはどうしても隠しきれなかった。
「……ファンだと言うなら、私を平穏無事に帰していただけますか」
「勿論です。ですがまだ目的が達成されていないので、残念ながら今すぐ先生を解放する事はできません」
私はつい天井を見上げた。板で塞がれた窓の向こうに神の気配を探すような無意味な視線を投げる。木目の隙間から差し込むわずかな光が埃を浮かび上がらせ、ゆっくりと揺れるそれらはまるで祈りの残滓のようにも見えた。
おお、神よ。この世界には七柱も実在しているのだから、せめて一柱くらいは私を助けてくださいよ。
返事は当然ない。
静寂は重く耳の奥に沈殿するようだった。ランプの火が小さく爆ぜる音だけがやけに大きく響く。分厚い鉄枷で拘束された足の感覚がじわじわと体温を奪い、指先の血流が鈍く滞っているのが分かる。
「先生が書かないからです」
女が静かに語り始める。まるで最初から用意していた台詞を読み上げるような、迷いのない声だった。ランプの光が外套の縁を揺らし、その影が壁へと細く伸びる。
女は一瞬だけ視線を落としたが、すぐにこちらへ戻した。その声はこちらの息が詰まるほど真剣で、冗談や衝動とは程遠い厄介さを宿している。
私は思わず眉を顰める。喉の奥に引っかかった言葉を押し出すように慎重に確認した。
「……本当にそれだけですか?」
「ええ、それだけです」
私は椅子の背に体重を預け、乾いた笑いを漏らした。
「貴女の基準はどうなっているんですか。普通はですね、もう少し段階というものがあるでしょう。手紙を書くとか、あるいは出版社に抗議するとか」
女は小さく首を振った。
「それはもうやりました」
「……はい?」
「ですから、既に全部遂げた後なのです」
その言葉に、私は一瞬言葉を失う。
女は淡々と続けた。
「手紙を送り、出版社にも問い合わせ済です。返事は来ませんでしたが、今は時間が必要だろうと待ち続けました。……ですが、何時まで待とうとも先生は書かなかった」
「……だからって誘拐は飛躍しすぎではありませんか」
「2年と7か月です」
その数字を口にした瞬間、女の声が僅かに低くなる。
「2年と7か月、何も新しい物語が出なかった。私はその間、何度も書店へと足を運びました。新刊棚の前で立ち尽くして、何もないのを確認して帰る。それを何度繰り返したか分かりません」
「……」
女はそこで一度言葉を切り、ゆっくりと息を吐いた。
「先生が新作を出さなくなってから2年と7か月と12日。先生の無事だけを祈る日々でした。半年経っても情報がなくて不安になり、そこから先は待つという行為そのものが酷く苦痛になっていきました」
女の声は淡々としているのに、時間だけがそこに沈殿していくようだった。
「書店へ行っても、そこにある筈のものがないという事実だけが毎度同じ形で私を絶望の淵にへ突き落とした。手紙も書きました。急がなくていい、いつか読めればいい、それだけでいいと書き綴りながら、実際にはその“いつか”が永遠に来ないことを想像しながら、それでも書かずにはいられませんでした。書いている間だけは、先生がまだどこかで生きていて、次のページの向こう側で息をしているような錯覚があったからです」
「……私に、手紙を」
「先生へ宛てた手紙は、正確には合計で17通になります。最初の一通はただの感想でした。『幸福な王子』を読んだ直後、どうしても胸の奥が熱くなってしまって、気付けば便箋を取り出していました。そこからはもう止められず、新刊が出る度に一通、過去作を読み返す度に一通。どうしても伝えたい気持ちが溢れた時に一通と、気付けば積み重なっていきました。どの手紙も内容は違いますが、結局は同じことを書いています。先生の物語に救われたこと、次を待っていること、そして無理をしないでほしいということです。返事が来ないことは分かっていました。それでも書かずにはいられなかったので、結果として17通になってしまいました」
「……貴方も承知しているとは思いますが、作家がすべての手紙に目を通し、その全てに返す義務はありません」
「分かっています。だから待ちました。世界がどう変わろうと、私の時間だけが先生の不在の形に削られていくのを感じながら、それでも待ち続けました。けれど待てど待てど、状況は一向に変わらなかった」
怒鳴るわけでも、興奮して暴れるわけでもない。ただ淡々と当然のようにこちらの自由を奪い、当然のように会話を続けている。その落ち着き様がむしろ一番危険なものに見えた。感情の揺れがない人間は予測ができない。予測できないものは対処のしようがない。
そして何より恐ろしいのは、この女が「自分の行為を正しいと信じ切っている」ことだった。
「療養だと言っていたのに先生は外で働いていました。編集部からそう発表があったのに、市場の喧騒の中で、あの人混みの中でまるで何事もなかったかのように、当然のようにそこに立っていたんです。本屋にも来ていました。あの新刊棚の前で、まるで待たせている側であることを忘れたみたいに。指先で本の背表紙をなぞって、息をして、目を細めて、普通に、あまりにも普通にそこに存在していました」
「療養は寝たきりを意味しません。その日はたまたま体調が良かったんでしょう」
「では、なぜ書かないんですか」
あまりにも真っ直ぐな問いだった。刃物のような鋭さはないのに、むしろその無防備さが逃げ道を塞いでくる。正面から差し出された言葉は受け流すことも冗談に変えることもできず、ただこちらの内側に沈んでいくしかなかった。
私は一瞬だけ黙り、喉の奥に言葉が引っかかるのを感じながらゆっくりと視線を落とした。机の上の紙の白さがやけに眩しく見え、指先に残るインクの匂いだけが現実の輪郭を保っていた。
「書きたくとも書けなくなったんです」
「先生は書けますよ。だって何処も悪くないのですから」
「……」
女はゆっくりと机へ視線を落とし、指先でそこを示した。
視線を追うと、そこには必要以上に整えられた一式が並んでいるのが分かる。紙は一枚の乱れもなく角を揃えて重ねられ、インク壺は蓋が開かれたまますぐにでも筆を浸せる状態で置かれていた。万年筆は新品のように磨かれ、光を受けて細く鈍く光っている。さらにその横には湯気こそ立っていないが温かさを保っているのが分かる水差しと、簡素ながら栄養を考えられた食事が、まるで作業工程の一部であるかのように無駄なく配置されていた。
その整然さがかえってこの空間の歪さを際立たせている。
「先生にはここで執筆をしていただきます。正確に言えば、先生が書けなくなった理由を取り除き、その上で再び物語を生み出せる状態に戻るまでここで生活しながら執筆を続けていただくつもりです」
こんな話を何処かで聞いた事がある様な気がした。全くもって冗談じゃない、馬鹿みたいな話だ。
「私は先生の作品を読んで救われましたし、同時に待つことの苦しさも知りました。だからこそ、ただ待つのではなく、先生が再び書けるようになる環境そのものをこちらで用意しようと考えたのです。外界の評価や編集部の圧力、過去の作品への罪悪感や迷いといったものを一度すべて切り離し、純粋に書くことだけに集中できる場所を作る。それが私の目的です」
私は紙と女を交互に見た。白い原稿用紙の束はつい先ほどまで自分の指先から生まれていた筈なのに、今はまるで別の生き物のように机の上で沈黙している。一方で女は、その沈黙を当然のものとして受け入れている顔をしていた。ランプの光が揺れる度に彼女の影が壁にわずかに伸び縮みし、部屋全体が呼吸しているように見える。なんて恐ろしい光景だろうか。
「拒否権は?」
「あります」
「では拒否します」
「……そうですか、それは残念ですね」
返答はあまりにもあっさりしていた。まるで天気の話でも聞いたかのような調子で、そこに感情の揺れはほとんどない。しかし次の瞬間、女はゆっくりと懐へ手を差し入れた。その動作には無駄がなく、同時にためらいもない。布地が擦れる微かな音だけがやけに耳に残るのみだ。
取り出されたのは無骨な工具だった。用途を一目で特定できない、しかし「人の身体に触れるために作られた」ことだけは直感的に理解できる形をしていた。金属部分は使い込まれて曇り、所々に細かな傷が走っていたが、その鈍い表面すらランプの光を受けると不気味なほど滑らかに光を返してくる。
女の指はその工具を迷いなく握っている。握力の強さがそのまま意志の強さのように見え、部屋の空気が一段階だけ重くなる気がした。ランプの炎が小さく揺れ影が一瞬だけ歪んだ。私はその光の揺らぎを見ながら、喉の奥に乾いた感覚が広がっていくのを自覚していた。
「拒否された場合、先生の爪を一枚ずつ」
「書きます」
「まだ説明は終わっていませんが……」
「結構です。結末は見えています。……最初から最後まで、だいたい想像がつきますので説明は不要です」
「快諾していただきありがとうございます。先生にあまり手荒な事はしたくありませんでしたから」
すると手枷の南京錠が開錠された。手首に残る僅かな圧迫感が軋みとして残っている。軽く指を動かすと、まだ全部ある事に感謝の気持ちさえ湧いてくる。
「それで、貴女は何を書けば満足ですか」
「先生の新作なら何でも」
「望んでおきながら丸投げですか」
「先生が書きたいものを」
一番困る要求だ。
「……後から苦情は受け付けませんからね」
それからの記憶は何処か朧げだった。
朝が来た事には窓を見ずとも指先に当たる陽光で気付いていた。
何時間も同じ姿勢でペンを握り続けていた所為で右手の中指には赤い窪みが出来ている。慣れない椅子だからか背中が痛い。肩は石でも詰められたように重く、眠気はとうに限界を越えて妙な清涼感へ置き変わっている。机の端に置かれた紅茶は何杯目なのか分からず、最後に口を付けたものなどすっかり冷めていた。
それでも頭だけは冴えていた。むしろ夜が深くなるほど余計なものが削ぎ落とされ、私の世界には紙とインク、それから生み出されていく不確かな物語しか残らなくなっていた。
この物語に名前を付けるのは後でで構わない。
とにかく怪物は創造主を追い続けた。愛される事を知らないまま生み落とされた異物でしかなかったが、それでも最初から憎しみしか持たなかった訳ではない。言葉を覚え、人を知り、優しさへ手を伸ばし、それが拒絶される度に何かが少しずつ壊れていく。悪意によって怪物になったのではなく、怪物として扱われ続けた末に自らその役を引き受けてしまったという稚拙な真実。
怪物を作った創造主である存在もまた、ただの悪人にはしなかった。それではつまらない。
自らの知性へ酔い、死すら征服出来ると信じた傲慢な人間。けれど自分の手から生まれたものを見て、これは本当に自分が作るべきものだったのかと無責任にも怯えたのだ。そうして実際に生命が目を開けた瞬間、自らの行いを直視出来ずに逃げる事を選んだ。私はその臆病さにどうしようもない人間性を感じずにはいられなかった。怪物もそんな創造主へ失望の果てに愛を見出し、だから手を掛けずには居られなかったのかもしれない。そう、怪物は創造主を愛していた。
……なんだか、随分と身に覚えのある話になってしまった。
「…………」
ペン先が紙の上で止まった。
怪物ではない。むしろ私が近いのは、その向こう側だ。
何かをこの世界へ持ち込み、形にして、人々へ見せておきながら、後になってその行為そのものへ怯えた。全て捨てて逃げようとした創造主と同じ様に、どうしようもない岐路に立たされている。その先が崖だと知っていながらも、自身の脳髄を撫でる様な物語を書いている。
そこまで考えた所で、腹の底が少しだけ冷えていく。
「先生?」
向かいから不思議そうな声が飛んでくる。
私は顔を上げない。
「話しかけないでください。今、非常に嫌な事に気付いた所なんです」
「どんな事でしょう」
「言いたくありません」
「では聞きません」
「……そこは少し食い下がってください。私だけ気付いて終わると妙に負けた気がします」
「難しい方ですね」
「また一つコミュニケーションを学べましたね。おめでとうございます」
小さく息を吐き、もう一度原稿へ目を戻した。
記憶の中にある物語をなぞりながらも言葉は別物へ置き換わっていく。当たり前の事だが、前世で読んだ文章を一字一句覚えている筈がなく、この世界にはこの世界の語彙があり、文化がある。錬金術の扱いも、生命観も、神という存在への距離感もまた違う。
神が実在するテイワットで、人が生命を作ろうとする事にはどんな意味が生まれるのか。創造主と被造物の間にある断絶は何によって最も鋭くなるだろう。
北の果て。恋人の様な壮絶な追いかけっこの果てに置かれた、死と喪失。そして怪物自身もまた、何も残らない場所へ自らを使い果たしてしまうのだ。
それが生み出した者と生み出されたものの正しい結末の様な気がして、胸の奥にらしくない熱が灯った。
ああ……私はまた。
「……終わりましたよ」
しわがれたような声が出た時、自分でも少し驚いた。
女が椅子から身を起こす。
「完成したんですか?」
「えぇ、恐らくは」
「恐らく……? なんとも、煮え切らない返答ですのね」
「小説というものは最後の一行を書いた瞬間に完成する訳ではありません。読み返せば直したい箇所が、叩けば埃の様に出てくるものです。前半と後半で人物の口調がずれているかもしれないし、伏線を置き忘れている可能性もある。昨日の私と今の私は殆ど別人なので、最初の方を読んだら全部書き直したくなるでしょうね」
「では、まだ未完成であると?」
「……私から言い出した事ですが、そういう事を言われるといつまで経っても終われなくなるので辞めましょう。ただ、過度な期待はするなと言いたかっただけです」
私はペンを置いた。指を開こうとするとうまく伸びない。無意識に握る形のまま固まっていて、反対の手で1本ずつ伸ばすと鈍い痛みが走った。2年ほど前に置いてきた、慣れ親しんだ感覚だった。
机の上には原稿が積まれている。昨夜まで何もなかった場所に1冊分の物語がそこにはあった。
それを見た途端、何とも言えない感覚が胸へ落ちた。
達成感とは少し違う。
嬉しい、と素直に言うには罪悪感の様な感情が湧く。
怖い。それでも、どこか懐かしい。
子供の頃、父から貰った日記帳へ初めて物語を書き終えた朝と似ていた。夜を丸ごと使い果たし、目は痛く、指も疲れているのに机の上に存在しなかった世界が生まれている感動にも似た幼い感情。
あの頃の私は愚かで、それを自分のものだと疑わなかった。
「先生」
「何です」
「読んでも、宜しいですか?」
女が原稿へ目を向けている。
この女はその為だけに私を誘拐したのだから、当然、真っ先に読むつもりなのだろうと思っていた。
「どうぞ。それは貴女のものです」
原稿を揃え、両手で持ち上げる。
ずしりと重いそれは、紙の重量だけではない気がした。私はそれを女へ差し出した。
「ただし、先に言った様に内容について苦情は受け付けませんからね」
女は原稿を見た。
それから私を見る。
「分かりました」
手を伸ばすが、しかし女の手は途中で止まった。
「……何です?」
「受け取れません」
「は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「今、読んでもいいかと聞きましたよね」
「はい」
「私はどうぞと言いました」
「そうですね」
「ならさっさと受け取ってください。私の腕は今かなり疲れているので、これ以上この重さを支え続けるのは地味に辛いんです」
「いいえ。その原稿は編集部へ持っていってください」
私は動きを止めた。
「……もう一度お願いします」
「編集部へ持っていって、出版してもらってください」
「…………」
眠気の所為だろうか。
聞き間違いかもしれない。
「貴女、何の為に私を誘拐したんでしたっけ」
「先生に続きを書いていただく為です」
「そうでしたね。私の認識も同じです。では、その続きを今ここに用意しました。徹夜です。ほぼ丸一晩使いました。貴女に爪を剥ぐと脅迫されながら」
「それは、申し訳ありませんでした」
「謝罪は結構です。では受け取ってください」
「ですから、私は受け取りません」
「……一応聞きますが、何故です?」
「書店で買いたいのです」
私は原稿を机へ戻した。
慎重に。そうしなければ、女の顔へ投げつけてしまいそうだったから。
「貴女、正気ですか?」
「はい」
「そこは今すぐ『いいえ』と言った方が、まだ話が早かったんですけどね」
「先生の新作を読みたい気持ちに嘘はありません。しかし、私だけ先に読むのは違うと思い直したのです。確かに私は先生を攫い、嫌がる貴女に無理やり物語を書かせました。だからといって、私だけが最初の読者になる権利まであるとは思いません」
「誘拐しておいて、そこだけ倫理観を唱えられてもね」
「誘拐については反省しています」
「現在進行形でしょう」
「もう拘束はしていません」
「場所を教えず帰していない時点で継続中です」
「……確かに」
「そこは納得せず、貫いてくださいよ」
頭痛がする。徹夜の所為だけではない。私はこめかみを揉みながら、女を睨んだ。
「では何ですか。貴女は私を攫って、脅して、書かせておきながら、完成した原稿は読まずに『出版社へ持っていけ』と?」
「はい。その後、書店へ行って買います」
「それは……勝手にしてください」
「出来れば装丁は以前の作品と同じ方にお願いしたいです。先生の本は背表紙を並べた時の統一感がとても綺麗なので」
「注文が多いですね」
思わず机を指で叩くと、原稿の山が僅かにズレてしまい、慌てて揃える。
女がその様子をじっと見ていた。
「先生」
「……何です」
「大事なんですね、その原稿」
言われて、手が止まった。
私は紙の端を揃えたまま黙る。
「当然でしょう。一晩中書いたんですから」
「それだけですか?」
「それ以外に何があるんです」
「捨ててもいいと思っているものなら、今みたいに端が少しずれただけで直さないと思います」
「…………」
嫌な女だ。
人が触れたくないところばかり、無遠慮に指を差す所など、いっとう気に入らない。
「私はこれを名作だと思ってはいても、自分から生まれたものだとは思っていません」
「はい」
「出版したいとも言っていません」
「はい」
「読み返したら全部嫌になる可能性だってあります」
「はい」
「……でも」
言葉が詰まった。
机の上の原稿を見る。
黒い文字が並んでいる。
私が書いた字。私の文章。
元は別人が生んだ物語だ。
この世界で読まれるように考え、悩み、選び直した言葉の集合。私はそれを何と呼べばいいのか、まだ分からなかった。
「……それでも、燃やされたら、嫌でしょうね」
自分でも驚くほど小さな声だった。
女は笑わなかった。それが何だか有り難かった。
「なら、持って帰ってください」
「貴女に言われなくてもそうします」
「編集部へ?」
「……まだ決めていません」
「私は待ちます」
「勝手にしてください」
女は少しだけ笑った。
私は溜息を吐き、原稿の束へ紐を掛ける。持ち運ぶ為に纏めながら、不意に思う。
この女は狂っている。
それは間違いない。
普通の読者は作者を誘拐しないし、書かないと拒否されただけで爪を剥ぐなどと脅さない。しかも目的を達した後で原稿を読まず、書店で買うと言い出す人間など物語へ出したら編集長に「現実味がない」と赤を入れられそうなほど狂っている。
それでも。
「……もう1つだけ聞いても?」
「はい」
「もし、この作品が出版されなかったらどうするんですか」
女は少し考えた。
「残念です」
「それだけ?」
「はい。でも先生が書いたという事実は変わりませんから」
「また誘拐する、とか言いませんよね」
「必要があれば」
「やめてください」
「では次も書いてください」
「脅迫ですよ、それ」
「お願いです」
「貴女のお願いには工具が付属するので信用出来ません」
今度は本当に、女が少し笑った。
私はその顔を眺めながら、ふと気付く。
怒っている。
呆れている。
眠い。
疲れた。
帰りたい。
なのに、少しだけ。ほんの少しだけ、胸の奥が軽いのだ。それは誤魔化し様のない事実だった。
「……帰してください」
「分かりました」
「今度こそ本当にですよ。途中で別の部屋へ連れて行って『次は短編を』などと言い出したら、流石に私も本気で抵抗します」
「しません。先生は約束を守ってくださいましたから」
女は窓際へ歩き、板の一部を外した。
隙間から朝の光が差し込む。
白い。
雪が積もっている。
夜の間ずっと閉じ込められていた世界が、急に外と繋がった。
「先生」
「何です?」
「完成、おめでとうございます」
私は振り返った。
女はそれ以上何も言わない。
何故だかそれに、言い様のない孤独を感じさせた。
「……そうですね。でも貴女を許した訳ではありませんからね」
「分かっています」
「……さようなら。もう二度と、顔を合わせない事を願います」
そう言いながら、私は今度こそ自由となった身でその場を後にした。
しかしその時はまだ知らなかった。
この一晩で書き上げた『フランケンシュタイン』が、2年半振りの新作として出版される事や、初版が店頭へ並んだその日のうちに姿を消し、印刷所が悲鳴を上げるほど再版の注文が殺到する事も。
フォンテーヌでは「人は生命の創造主たり得るか」を巡って新聞各紙が論争を始め、スメールでは教令院の研究者たちが勝手に論文の題材へ使い始め、璃月では錬金術師と医師の間で長い議論が起きる事も。
何より、私自身がそれを目の前に突き付けられる事も。
この時の私は、まだ。
「……すみません。今の所だけ、もう一度言ってくれませんか。どうにも私の聞き間違いである可能性を捨て切れなくて」
数週間後、私は出版社の応接室で編集長と向かい合って座っていた。
冬の午後の事だ。窓の向こうでは相変わらず雪が降っている。暖炉には薪がくべられ、室内は上着を脱いでも充分なほど暖かい。それでも膝の上へ置いた指先だけは妙に冷たかった。
原因は分かっている。
机の中央に置かれた1冊の本。
『フランケンシュタイン』。
黒を基調とした装丁に銀の箔押し。中央には人の手を思わせる図案があり、その掌から手首へ向かって細い亀裂が走っている。死者を縫い合わせて作られた生命を露骨に描くのではなく、ひと目では意味を掴めない程度に抑えた意匠が風情があって良い。編集部へ原稿を渡してから装丁家と何度も揉めただけの甲斐はあったと思う出来栄えだった。
そして、その表紙の下にはククーシュカ・レスキン。
見慣れていた筈の名前がある。
書店へ行けば自分の名前が並んでおり、知らない誰かが私の本を抱えて歩いている。子供の頃の私は、それを見る度に胸の奥がくすぐったくなるような喜びを覚えていた。
本来この物語が帰属する場所がった事を、私だけが知っている。だから売れれば売れるほど、喜びより先に胸の奥へ小さな棘が立つ様だった。
けれど同時に、この『フランケンシュタイン』が、私の記憶にあるものと全く同じではない事も理解している。
テイワットにおける生命とは何か。魂を人の手で定着させるとはどういう行為なのか。神が実在する世界で、人間が創造主を僭称する事にはどんな意味があるのか。
それを考えたのは、本来あるべきから歪めたのは、私だ。だから余計に始末が悪く、ささくれ立った申し訳なさが胸を突き抜ける。
「聞き間違いじゃない。初版は完売した」
編集長は、私が聞きたくなかった現実をあっさり繰り返した。
「正確には、スネージナヤ国内へ回した分はほぼ全滅だ。国外分も予約で大半が押さえられている。フォンテーヌの提携出版社からは『次の便を待っていたら機会損失になる、予定を前倒ししろ』と朝から催促が来ているし、璃月側は翻訳版の初回部数を倍にしたいそうだ。スメールはもっと酷い。教令院の連中が研究資料扱いでまとめて買っている」
「……発売されて、まだ数日ですよね?」
「俺も昨日まではそう思っていた」
「日付の概念まで疑わないでください。そこまで来ると私まで不安になるじゃないですか」
「安心しろ。日付は合ってる。おかしいのは売れ方だ」
そう言って、編集長は傍らに置いていた書類をこちらへ滑らせた。
売上報告。
追加発注、増刷申請。
翻訳出版に関する問い合わせ。
数字の羅列を追うだけで目が痛くなってくる。私は途中で読むのをやめた。
「……何なんですか、これ」
「見れば分かるだろ」
「見れば分かるから聞いているんです。2年半も新刊を出していなかった作家が突然戻ってきて、陰気な男と醜い怪物が互いに人生を滅茶苦茶にする話を出したんですよ。普通なら作風が変わったと困惑する所でしょう」
「それは恐らく、2年半も待たされたからだろうな。お前が思っているより、読者はククーシュカ・レスキンという名前に飢えていたんだ。それに、内容そのものが随分議論を呼んでいる。読んだ奴が他人へ話して、その相手が気になって買う。今はその繰り返しだ」
飢えていた、か。
その言葉が妙に胸へ残った。
私は2年半、彼らを待たせたつもりなどなかった。ただ逃げていただけなのに。
その間も向こう側には、それでも待っている人間がいたのかと。
それを思うと申し訳なさが込み上げる一方で、では待たれていたから書かなければならなかったのかと問われれば、それもまた違う気がした。
「……それで、実際に読んだ方々は何と?」
口にしてから後悔したが、もう遅い。編集長は僅かに眉を上げた。
「聞くのか?」
「やっぱり聞かなかった事にしてください」
「もう遅いな」
「では、せめて手加減してください。今の私は久し振りに世間へ作品を放り出したばかりで、見た目以上に繊細なんです」
「自分で言う奴は大抵大丈夫だ」
「その雑な判断基準で作家を扱わないでください」
編集長は笑いながら、新聞の切り抜きを1枚取り出した。
「スネージナヤでは『怪物とは誰か』で割れている。造られた存在こそ怪物なのか。それとも、自ら生命を生み出しておきながら、その姿に怯えて責任を放棄した創造主の方なのか。特に後者を巡って、評論家が随分好き勝手書いているな」
「……そうですか」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
その問いは元からこの物語の中にあった。しかし、テイワットで同じ問いが成立するよう形を整えたのは私だった。
「フォンテーヌはもっと派手だぞ。生命を造った事自体が罪なのか、それとも生み出した後で責任を捨てた事こそ罪なのかで、評論家同士が新聞越しに喧嘩を始めた。片方が『創造した時点で人の領分を越えている』と書けば、翌日には別の奴が『なら親は全員罪人なのか』と返す。しばらく終わらんだろうな」
「好きですね、フォンテーヌの方々はそういう議論」
「お前、ちょっと嬉しそうだな」
「気の所為です」
「そうか?」
「そうです。自分が書いたものを挟んで、知らない方々が本気で喧嘩している状況を面白がるほど性格は悪くありません」
嘘だった。実は少し面白いと思っている。
物語の中へ投げた問いを見知らぬ誰かが拾った。拾って、自分なりに考えているという事実に底知れない親しみを感じている。
作家だった頃、私はそれが好きだった。読者が私の意図と全く違う読み方をしていても構わなかった。むしろ自分では気付かなかった意味を発見される事こそ興味深く、面白かった。
忘れていた感覚が胸の底から小さな泡のように浮かんでくる様で、冷静な自分が冷や水を掛けた。
少し落ち着いた。
編集長はそんな私を暫く眺めた後、わざとらしく咳払いした。
「それからスメールだな。教令院から正式に問い合わせが来た。作中に出てくる『魂の定着』について、どの論文、あるいはどの学派の研究を参照したのか知りたいそうだ。錬金術関連の記述についても、既存理論との類似性を検討したいと」
「答えないでください」
「お、おう?」
「絶対にです。何なら問い合わせ自体なかった事にしてください」
「何故そこまで嫌がる。参考文献があるなら教えてやれば――」
「ありませんよ」
私は思わず身を乗り出した。
「そんなもの。あれは徹夜の最中に、この世界で単に死体が動いただけでは読者が驚かないだろうと考えて、どうすれば人間が踏み越えてはいけない領域として成立するか悩んだ末に私が勝手に考えた設定です。魂という不確かなものを世界の法則へ結び付けて、肉体ではなく存在そのものへ干渉する形にすれば――」
そこで止まった。
編集長も口を閉じた。
妙な沈黙が落ち、私はゆっくり身体を椅子へ戻した。
「……何です、その顔は」
「いや」
「その『いや』の後に言いたい事がある顔をしています。黙って含みを持たせられる方が腹立たしいので、さっさと言ってください」
編集長は少しだけ笑った。
「お前、今『私が考えた設定』って言ったな」
胸の奥を、指先で直接触られたような気がした。
「言葉の綾です……何ですか」
「いや? そういう事にしておいてやってもいいが、前のお前ならその言葉すら口にしなかっただろうなと思っただけだ」
反論しかけて、やめた。
多分その通りだったから。少し前の私ならまず疑っただろう。本当に自分で考えたのか。前世で何か似たものを読んでいなかったか。あるいは忘れているだけではないのか。
そうやって記憶の底を掻き回し、証明出来ない事に怯え、最後には紙ごと捨てていただろう。
今だって、その癖が消えた訳ではない。
ただ、『フランケンシュタイン』を書いたあの夜から、頭の中でまた何かが動き始めた感触が消えない。
まだ物語と呼ぶには小さすぎるもの。
窓辺に立つ女。
雪の中へ続いている足跡。
誰も乗っていない馬車。
海を見た事がない少年が、青い絵具ばかり買い集めている理由。
どれも脈絡はない。始まりも結末もない。つまりはただの断片。けれど以前の私は、そんなものが浮かぶ度に叩き潰していた筈だ。
誰のものだ。
どこで読んだ。
何に似ている。
本当に私が考えたのか。今も最初の問いは浮かぶ。それでもその問いを考える事くらいは許してもいいのではないかと思い始めている。
「それで」
編集長の声に意識を戻すと、彼は椅子へ深く身体を預け、いかにも何でもない事のように尋ねた。
「次は何を書く?」
私は数秒、彼の顔を眺めた。
「……貴方、あの誘拐犯と話が合いそうですね」
「心外だな。俺は作家を椅子へ縛り付けたりしない」
「代わりに締切で机へ縛り付けるでしょう」
「爪は剥がさんぞ」
「比較対象が底を突き抜けていますよ。誘拐犯より良心的である事を誇らないでください」
「なら締切だけにしておく」
「帰ります」
立ち上がろうとすると、編集長が笑いながら片手を上げた。
「待て。今すぐ書けとは言ってない。あれだけの事があった直後だ。しばらく休んだって誰も文句は言わないだろう。ただ、次に何か浮かんだ時まで、また2年半も『これは自分のものじゃないかもしれない』って理由だけで捨てるなと言ってる」
先程までのふざけた空気とは思えない、真面目な言葉だった。
「……随分と簡単に言いますね」
「簡単だとは思ってない。お前が2年半かけても出来なかった事だからな。ただ、書いた後で悩む事は出来るだろ」
「書いてしまったら、あとに残りますよ」
「残せ。捨てるかどうかは、その後決めればいい」
「他人事ですね」
「他人だからな。ただし、お前の原稿に関しては一番近い他人のつもりだ」
嫌な言い方だが、反論もし難い。
私は溜息をつき、今度こそ席を立とうとした、その時だった。机の端に、1通だけ離して置かれた封筒がある事に気付いた。
他の郵便物に紛れず、まるで私へ見つけさせる為にそこへ置かれていた。
初めて見たというのに、何故だが妙に見覚えがある気がした。
いやいや。
ある筈がない。
見た所、差出人の名前もないし、封蝋にも特徴はない。それなのに、背中を薄いものが這った気がした。
「……これは何です?」
編集長の口元が僅かに引きつった。その反応だけで、途端に開けたくなくなってしまう。
「読者からだ」
「それは見れば分かります。私が聞いているのは、毎日山ほど届く読者からの手紙の中で、どうしてこれだけが私の目の前へ丁寧に隔離されているのか、という意味です」
「俺も迷ったんだよ。渡すべきか、衛兵へ渡すべきか」
「なら後者にしてください」
「そのつもりだ。だがまずはお前に見せてからの方が良いかと思ってな」
「今の一言で、読むべきではないという確信がかなり強くなりましたよ」
それでも手を伸ばしてしまった。嫌なものほど確かめたくなると言えばいいのか。人間というものはつくづく好奇心に忠実なのだろう。
封を切る。
便箋は1枚だけだった。気は進まないものの、渋々文字を追う。
『ククーシュカ先生へ。
新刊、とても素晴らしかったです。
特に怪物が創造主へ向け、自らの生を問う場面は何度も読み返しました。先生があの夜、何度も書き直していた理由が実際に手に取る事でようやく分かった気がします。
次回作も楽しみにしています。
追伸。
先生の手はとても綺麗だったので、爪を剥がさずに済んだ事を自分の事のように嬉しく思います。それから、普段からスイーツばかり召し上がるのはあまり感心しません。執筆中だけでなく、もう少し栄養のあるものを召し上がってください。
それから、やはり先生は書いている時が一番素敵だと思います。
貴女の一番の読者より』
「…………」
途中から文字を読んでいるのに、意味を理解したくなくなった。
そういえばあの女は以前、母の店で私を見たと言っていた。
「……編集長」
「なんだ」
「この手紙、いつ届きました?」
「昨日だが」
「消印は?」
編集長が答える。
聞き覚えのある地区だった。私の家からそれほど遠くない。
「そうですか」
「顔が怖いぞ」
「私は今、自分を誘拐した人間が解放後も生活圏のかなり近くにいる可能性について知らされた所なんです。笑っていたらそちらの方が怖いでしょう」
丁寧に便箋を折り、封筒へ戻す。それを持って暖炉まで歩いた所で止められる。
「おい、証拠じゃないのか」
背後から編集長の声が飛んでくる。腹立たしいが正論である。
「……貴方、こういう時だけ編集者ではなく常識人になるの、やめてくれませんか」
仕方なく暖炉へ投げ込むのは諦めた。
代わりに封筒を机へ戻し、椅子へ深く腰を落とした。
数秒、天井を仰いだ。本当なら空でも眺めて気分を紛らわせたい所だが、生憎ここは屋内である。視界に広がるのは、雲一つない青空などではなく、無骨で装飾の一つもない天井だけだった。眺めていたところで気の利いた答えが降ってくる筈もない。
それから編集長を見る。
「国外へ行きたいです」
「随分急だな。取材か?」
「亡命です。出来れば海を越えたいですね」
「何から逃げるんだよ」
「読者ですよ。正確には読者を名乗る誘拐犯兼監視者からです。私、作家になってから初めて読者との適切な距離感について真剣に考えています」
編集長が堪え切れずに吹き出した。
私は少しも笑えない。笑えないのだが、その抗議を口にするより先に、ふと視界の端へ小さな手帳が引っ掛かった。
編集長が走り書きにでも使っているものだろう。暖炉脇の小机へ無造作に置かれ、開きかけた頁が暖炉の熱を受けて僅かに反り返っている。その隙間から覗く白が、妙に目についた。
昔なら、白紙を見るだけで胸が騒いだ。
そこには何だって書けた。まだ誰の顔も持たない登場人物を歩かせてもよかったし、地図にも載っていない街を造ってもよかった。思いついた一文を書き留めれば、その前後へ言葉が寄り集まり、いつしか自分でも知らなかった物語へと育っていく。白紙とは何もない場所ではなく、これから何かが生まれる余白だった。
けれど、この2年半は違った。
何も書かれていないからこそ怖かった。
最初の一文字を置いてしまえば、それが誰のものなのか疑わなければならない。私が考えたのか、忘れていたものを思い出しただけなのか。だから白紙を白紙のままにしておく事だけが、誰からも何も奪わずに済む唯一の方法だと思っていた。
さて。
今はどうだろう。
「…………」
考えるより先に、私は手帳へ手を伸ばしていた。編集長が怪訝そうにこちらを見ている。
「ペンを借りても?」
「構わんが……何を書く気だ?」
「別に。少々、腹が立っているだけです」
差し出されたペンを受け取り、指先で一度だけ回す。
燃やしてしまいたかった手紙は、証拠品という至極真っ当な理由によって机の上に生き残っている。ならばせめて、こちらも言いたい事の一つくらい返してやらなければ気が済まないというものだ。
人を攫っておいて次回作を楽しみにするな。人の爪を剥がすと脅しておいて手が綺麗だったなどと褒めるな。何より、人が普段何を食べているかまで把握し、尚且つ指図をするな。
文句なら幾らでも浮かんだ。それをどう書けば最も嫌味に、最も冷静に、そして二度と私の生活圏へ近付こうなどと思わない程度には刺々しく伝えられるだろう。
そう考えながら白い頁へペン先を置き――ふと、私は手を止めた。
おかしな話だった。以前まで、あれほど白紙を恐れていた筈なのに。今はもう何を書くべきかを考えているのだから。
やはり私も存外に、愚かであるらしい。
執行官やスネージナヤキャラとイチャらせたい
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