爆豪♀「デク、てめェヒーローなんかやめてモデルになれ」緑谷♀「!?」 作:ギャウルギュラ
息を吸い込もうとするたびに、ドロリとした吐き気のするヘドロが鼻と口の奥へ無理矢理押し込まれてきた。
身体中に纏わりついたヴィランの泥は重くて不快で、あたしの体温を奪いながら勝手に手足の筋肉を締め上げてくる。それどころか、あたしの右腕を強引に操作して掌の汗を引火させ、周囲の街並みへ向かって爆発を乱射させやがった。自分の意思と無関係に威力を撒き散らされる屈辱で、あたしの頭の中は怒りでどうにかなりそうだった。
離せ。
この汚ぇ泥塊が。
こんな気色悪ぇもん、誰の助けも借りずにあたし自身の力だけで吹き飛ばして抜け出してやる。
掌に死ぬ気で汗を溜め、泥の内側から限界ギリギリの爆破を叩きつける。衝撃で一瞬だけ粘ついた肉体が弾け飛び、外の空気が口内に滑り込んでくるが、息を整える間もなく周囲の泥が生き物みたいに蠢いて再び顔面と首元を覆い隠してくる。何度爆発を起こしても、穴が開いた箇所へ別の部位から泥が滑り込んできて、締め付けは刻一刻と強くなる一方だった。
「このガキ……いい個性を持ってやがる……実に極上の入れ物だ……!」
「勝手に使ってんじゃねェ!!」
耳元で蠢くヴィランの濁った声に重なるように、あたしは再び右腕を爆発させた。
爆風で一瞬だけ視界が開け、煙の向こう側に群がっている野次馬の人垣が見えた。さらにその前線には、消防や警察と一緒にプロヒーローどもが何人も並んで突っ立っている。
何をしてやがるんだよ、こいつらは。指をくわえて見てんじゃねぇよ。あたしごとこの泥塊を吹き飛ばすくらいの勢いで突っ込んで来いよ。
脳内でどれだけ罵倒を浴びせようと、プロどもは爆発の火勢と人質になっているあたしの存在を理由にして、誰も前へ踏み出してこない。迂闊に手を出せない事情なんざ痛いほど理解できたが、理解できるからこそ余計に腹の底からドロついた怒りが湧き上がってくる。
助けなんざ要らねぇ。
あたし一人でこいつを叩き潰して外へ出ればいいだけだ。腕を動かそうと筋肉に力を込めとすぐに泥がそれを察知してさらに強く絞め上げてくる。掌を爆破しても、またすぐさま新しい泥が傷口を塞ぐように覆い被さってくる。
埒が明かねぇ。
それでも攻撃の手を止める気なんざ微塵もなかった。動かせる指が1本でも残っているなら爆発を起こせるし、意識が保てる間なら何度でも内側から抵抗してやる。
その時、煙で白く霞んだ視界の向こうで、野次馬の人垣が大きく揺れ動いた。
誰かが強引に周りの大人を押し退けて、禁止区域のロープをくぐり抜けて前へ躍り出てくる。
プロの誰かが腹を括って飛び出してきたのかと思った。
違った。
見間違えるはずもない、あのボサボサの緑髪だった。
「……は?」
何でだ。
何でてめェがそこに居るんだ。
デクだ。
一体何をしにそこへ出てきた。
あいつは学校の鞄を両手で抱え込んだまま、あたしの方へ向かって一直線に走っていた。見開かれた大きな目は恐怖で血走り、顔全体を青ざめさせて明らかな怯えの色を浮かべている。
止まれ。
今すぐその場で足を止めろ。
「デク! てめェ何しに────」
あたしが泥の隙間から声を張り上げるより早く、デクは人垣を飛び越えてこちらへ突っ込んできた。
意味が分からなかった。
プロのヒーローでもない。使える個性も持っていない。相手を叩きのめせる筋肉も格闘技術もない。
さっきまで後ろの安全な場所で指をくわえて見ていたはずだ。プロの大人たちすら手を出せずに立ち尽くしている怪物だと、その目で見て理解していたはずだ。
全部理解した上で、あいつは一直線に走り出してきた。
泥に囚われているあたしに向かって。
その瞬間、あたしの腹の底が急速に冷え切っていくのを感じた。
こいつ、死ぬ。
ヴィランがあたしの個性を使いながら、泥で形作られた巨大な腕を死神の鎌みたいに振り上げる。
デクは攻撃の避け方一つ知らない。
身体が恐怖で勝手に動いてしまったみたいに、ただひたすらに直線上で足を動かしているだけだ。
「来んじゃねェ!!」
声の限りに叫んでも、デクの足は止まらなかった。
あいつは走りながら抱えていた学校の鞄を振りかぶり、ヴィランの顔面へ向かって思い切り投げつけた。鞄のファスナーが弾け飛び、中に詰まっていた教科書だのノートだの筆箱だのといったくだらねぇ文房具が散らばり、その角が偶然にもヴィランの目元へクリーンヒットする。
「うおっ!?」
ヴィランが不意を突かれて一瞬だけ怯み、意識がそっちへ逸れた。
それだけだ。
たった1秒にも満たない隙を作るためだけに、こいつは死地へ突っ込んできたのだ。
馬鹿なのかこいつ。本気で死にたいのかと思って気づく。何も考えてねぇんだ。
こいつは昔から、こういう土壇場になると何も頭で計算できなくなる。
目の前で誰かが困っていたり泣いていたりすると、自分の身の安全すら忘れて身体が勝手に前へ動いてしまう。
前に何度もあたしに向かって言っていた。
ヒーローになりたい。人を救える存在になりたい。
何が無個性だ。
何が受験資格だ。
今この場で泥に押し潰されて死んだら、夢も受験も何一つ残らねぇだろうが。
「かっちゃん……!」
泥の肉体の隙間から、デクの顔が間近に見えた。
今にもボロボロと涙を溢ぼしそうな顔だった。
昔からあいつが本気で恐怖を感じている時の表情なんざ、嫌というほど知っている。目が潤んで目尻が下がり、引き攣った口元が情けなく震える。今だってまさにその顔だ。
目の前の怪物が恐ろしい。
次の瞬間に自分が殺されるかもしれない。
それを誰よりも理解している顔だ。
それなのに、あいつの細い両手だけはまっすぐあたしの方へ伸ばされていた。
その伸ばされた指先を見た瞬間、あたしの脳裏にずっと昔の消し去りたい記憶が勝手にフラッシュバックした。
小川の丸太橋。足を滑らせて川底へ落ちたあたし。泥だらけになった自分の膝。
橋の上からあたしを見下ろし、心配そうに顔を覗き込んできた幼いデク。
『大丈夫? 立ち上がれる? かっちゃん』
差し出されたあの小せぇ手。
あの頃から何一つ変わっていない。
何でこいつは、いつだってあたしに向かって手を差し伸べてくるんだ。
あたしが下で助けを求めている弱者で、こいつが上に立つ救助者であるかのような構図を勝手に作りやがる。
助けられる必要なんざ最初からねぇんだよ。
あたしはお前なんかより遥かに強いし、圧倒的に上で、完璧な存在なんだ。
無個性の出来損ないのお前が、あたしを助けようとするなんざ100年早ぇんだよ。
腹が立って仕方がなかった。
屈辱と怒りで頭のてっぺんが沸騰しそうになる。
だが次の瞬間、その激しい屈辱を全て押し潰すくらい強烈な、得体の知れない感情があたしの胸を支配した。
デクが死ぬ。
この目の前で、あたしを助けようとして泥に潰されて死ぬ。
それだけは絶対に嫌だ。
「逃げろデク!!」
自分がどんな声で何を叫んだのか、思考する時間すら与えられなかった。
ヴィランの泥の腕が上空からデクの頭上へ振り下ろされる。
届く。
あいつの華奢な首骨ごと泥の中に呑み込まれる。
そう確信した瞬間、頭上から凄まじい風圧と衝撃波が路地裏を突き抜けた。
泥の腕が形を保てずに破裂する。
視界全体が白い煙と風で覆われ、あたしの身体を拘束していた強い圧力が一気に霧散していった。
何が起きたのかを理解した時には、目の前にオールマイトの巨大な背中が立っていた。
そこからの展開は呆気ないほど早かった。
天候すら変えるオールマイトの一撃でヴィランは一瞬で制圧され、あたしは濡れたコンクリートの上へ乱暴に放り出され、周囲のプロヒーローどもが一斉に群がってきた。
「大丈夫かボク!?」
「よく一人で持ちこたえた!」
「怪我はないか!?」
うるせぇ。
気安く触んじゃねぇ。
あたしは自分の足で立てる。
実際に立ち上がろうとした瞬間、膝がわずかにガクガクと震えて倒れそうになったことは誰にも言う気はない。泥の中で長い時間呼吸を奪われ続けて酸欠状態になっていたせいだ。恐怖で足が竦んでいたわけなんざ絶対に違う。
そんなことよりもあたしは荒い息を吐きながら顔を上げた。
群がる大人たち。立ち込める煙。警察の誘導の声。遠巻きに見ている野次馬。
デクの姿がねえ。あいつどこに行ったんだ。さっきまであたしの目と鼻の先に居たはずだ。
まさか風圧で吹き飛ばされて、瓦礫の下にでも埋もれてねぇだろうな。
あたしの視線は自分の意志とは無関係に、必死になって人の隙間を捜索していた。
少し離れた警察車両の脇に、緑色のボサボサ頭が見えた。
デクだ。
あいつは地面にペタリと座り込み、プロヒーローの男に肩を叩かれながら何か小言を言われていた。
生きてる。
顔や衣服には泥が跳ね飛んでいたが、血が流れている様子はない。腕も脚も五体満足でちゃんとくっついている。
そこまで確認した瞬間、あたしの全身から固く張っていた余計な緊張がすっと抜けていった。
「……は?」
何であたしが安堵してんだ。
自分から勝手に死地へ突っ込んできたクソ馬鹿だぞ。
あたしを助けようとして足手まといになっただけの出来損ないだ。
余計なことしかしないクソナードだ。
安堵してしまった自分自身に対して、新しく激しい怒りが込み上げてきた。
現場の事故処理が終わり、警察やプロヒーローからのくだらねぇ質問責めを適当にあしらった後、一人で帰路につこうとした角でデクがあたしの前に現れた。
来んな。
今お前の顔を見たら本気で殴り倒してしまいそうだ。
「かっちゃん……」
「あ?」
デクは身体を小さく縮こまらせた。
それでも逃げ出そうとはせず、あたしの目の前まで歩み寄ってくる。
「さっきは……ごめん。ボク、何も考えてなくて……かっちゃんが苦しそうにしてるのが見えて、助けなきゃって思ったら、足が勝手に動いちゃって……」
予想通りの答えすぎて、頭の奥が痛くなってきた。
足が勝手に動いた。
そんな理由でヴィランの目の前へ飛び込んだのか。
こいつは本物の規格外の馬鹿だ。
「二度とあたしの前に助けに来んじゃねぇ!!」
デクの顔が凍りついた。
さっき泥の化け物の前で見せていた恐怖の顔よりも、少しだけ別の意味で深く傷ついたような表情だった。
知るか。
そんな被害者みたいな顔をするな。
「かっちゃん……」
「あたしはお前みたいな無個性の雑魚に助けてもらうほど落ちぶれちゃいねぇんだよ! 戦う術もねぇ奴が勝手に現場へ突っ込んで来んな! 邪魔なんだよ死ね!」
叫び散らしてから、あたし自身も自分の感情の整理がつかなくなっていた。
あたしに助けなんざ要らない。
それは紛れもない本心だ。
デクが現場に来たところで足手まといにしかならない。
それも絶対に間違っていない事実だ。
だったら何であいつの身体へ泥の腕が伸びた時、あたしの頭の中は真っ白になったんだ。
何で逃げろなんて悲鳴みたいな声を張り上げたんだ。
何であいつが無傷で生きているのを確認しただけで、胸の底から安堵のため息が漏れたんだ。
分からねぇ。
そんな理由なんざ分かりたくもない。
デクは何か言いかけようとして口を開いたが、あたしの表情を見て結局言葉を飲み込んだ。
「……うん。ごめんね」
その消え入りそうな声すらも気に食わなくて、あたしはデクに背を向けて一気に歩き出した。
家に帰って風呂場へ直行し、シャワーを限界まで熱くして頭から浴びても気分は最悪のままだった。
身体にまとわりついていた気色悪い泥の臭いは完全に洗い流した。
髪も皮膚も石鹸で何度も擦って洗った。
自分のベッドに入り込んで目を閉じれば、今日の惨劇なんざこれで完全に終わりだ。
そうなるはずだった。
だが、まぶたの裏に目を閉じると、真っ先に浮かび上がってくるのはあの涙目のデクの顔だった。
あたしに向かって必死に伸びていた細い手。
そのすぐ後ろで迫っていた巨大な泥の怪物。
あたしは勢いよく目を開けた。
「……クソが」
乱暴に寝返りを打つ。
呼吸を整えてからもう一度深く目を閉じる。
やっぱり同じ光景が脳裏に再生される。
ふざけるな。
あんな命の危険を理解できない狂人を、ヒーローの現場に出せるわけがないだろうが。
無個性で、戦う技術も肉体もない。恐怖で足腰を震わせているくせに、危険な場所へ迷わず飛び込んでいく。自分が死ぬかもしれないという最低限の計算すら吹き飛ばしてあたしを助けに来やがる。
そんな奴がプロの現場に出たら、いつか絶対に手足を引きちぎられて死ぬ。
だからお前にヒーローは向いていないんだ。
昔からあたしが言い続けてきた言葉通りじゃないか。
何一つ間違っていない。
あたしの言っている理屈こそが正しい。
頭の中でそう結論を固め、今度こそ深呼吸をして目を閉じた。
これでようやく眠れると思った。
だが数分後、あたしの脳裏には再び泥に呑まれそうになりながらあたしへ手を伸ばすデクの青ざめた顔が浮かび上がっていた。