上位存在ヤンデレもの 作:ヤンデレスキー
求人票には、最低限の情報以外ほとんど何も書かれていなかった。
施設内での軽作業及び接客作業
対人コミュニケーション能力重視。高待遇。
詳細は面接にて
なんの装飾も絵も存在しない、文章が並んでいるだけ。ページを下までスクロールすると面接の場所だけが書かれており、それ以外は本当になにもない。
大学四年、卒業単位はあらかた揃っているし、就活もまあ満足の行く結果に終わった俺にとって、それはある意味十分すぎる情報だった。何しろ今月の家賃すら払えない懐状況だ。仕事内容がどうであれ時給の欄の桁数が一つ多いなら、大抵のことは目をつぶってやれる。そういう状況である。
何か良いバイトはないかとネットの海を漂っていたところ、たどり着いたのがこのページだ。
対人コミュニケーション能力……まあ、自信はないが。
「絶対やめとけって、それ」
電話越しに、大学の同期はあっさり言い切った。まあ、そう言われるだろうとは予想していた。見た目だけでチャラいと思われがちな金髪の彼は、その実、大学の授業を休んだことがないほど真面目な男である。
大学生を経験したものがある者なら、コレがどれほどの偉業かは容易に分かるだろう。
「詳細が何も分からないのに高待遇とか、闇バイトの典型例じゃん」
極めて真っ当な指摘に、俺は何も言い返せない。
「……まあ、それはそうだけど」
「だろ」
とはいえ代案があるわけでもないらしく、電話はそれ以上の反対もなく切れた。俺は求人サイトの応募ボタンをもう一度見つめて、結局そのまま押した。家賃の督促は、闇バイトへの警戒心より雄弁だった。
面接会場は、駅から十五分歩いた雑居ビルの三階にあった。エレベーターは動いていたが、動いていること自体がどこか場違いに新しく見えた。廊下に並ぶ他のテナントは、法律事務所と、いつ開いているのか分からない占いの店。三階の扉にだけ、真新しいプレートが掛かっていた。
案内された部屋には、机を挟んで初老の男が一人。名刺には「碧落機関」とだけ印刷されていて、部署名も肩書きもなかった。
「では、いくつか質問させていただきます」
履歴書には一瞥もくれず、男は手元のファイルを開いた。
「誰かに強く必要とされた経験は、ありますか」
……実家で飼っていた犬に、だろうか。それとも期末前だけ連絡してくる友人にだろうか。
お世辞にも交友関係が広いとは言えない人生を歩んできたしなぁ……。俺が黙っていると、男は急かすでもなく、ただじっと答えを待っていた。
「あんまり、思いつかないです」
「結構です」男は表情も変えずにメモを取った。「では、他人の孤独に、どれくらい耐えられますか」
面接でする質問だろうか? それに、妙な質問だ。孤独に、ではなく、他人の孤独に……か。
「耐える、というか……まあ、放っておけない方だとは思います」
「放っておけない、と」
男は初めて、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「最後にもう一つ。誰かがあなたを、必要以上に頼ってきたら……例えば、少し重すぎるくらいに」男はそこで初めて顔を上げ、俺の目をまっすぐ見た。「あなたはそれを、どうしますか」
質問の意図が分からなかった。就活の面接なら、模範解答の一つも用意しておくところだろう。ただ俺は今日ここに来るまで、この会社の存在すら知らなかったのだ。諦めて正直に答える。
「重い分だけ、こっちも本気で相手すると思います。適当にあしらう方が、多分、あとで面倒なので」
我ながら、深く考えた回答ではなかった。単に面倒くさがりの本音である。男はしばらく黙って俺を見ていた。黙ったまま、ファイルに何かを書きつけた。
「結構です」
質問はそれで終わりだった。志望動機も、自己PRも、資格の有無も聞かれなかった。時給の具体的な話すら出なかった。狐につままれたような気分のまま会場を出て、半分忘れかけた三日後、合格の通知が届いた。
「本当に大丈夫か、これ?」
脳裏をよぎった疑問は、通知に記載された時給の桁数にあっさり押し流された。二度見して、三度見して、それでようやく納得することにした。
初出勤の日、俺は自分の見通しの甘さを思い知ることになる。
碧落機関の"施設"は、面接をした雑居ビルとは別に、郊外にぽつんと建っていた。外観は真新しい総合病院そのものなのに、正面ゲートには金属探知機と、腕章をつけた警備員が二人。バイトの初出勤で通されるにしては、明らかに物々しい。
「お預かりします」
スマホもモバイルバッテリーも、ゲートで淡々と回収された。理由を尋ねると、「規則です」とだけ返ってきた。バイトの規則にしては流石に厳しい。
エントランスで渡された誓約書は、A4用紙で八枚あった。ざっと目を通すだけでも「施設内で見聞きした内容の一切を口外しないこと」「対象の外見・特徴について記録・撮影・発言しないこと」といった文言が、判で押したように繰り返されている。バイトの契約書というより、何かの機密文書に近かった。
「対象」とは何だろうか。いよいよ取り返しのつかないことになるぞ、という予感があった。けれど、少しの焦燥と多大な好奇心が俺の背中を押した。
「サインしてもらう前に、一つ確認なんですけど」
案内係の女性職員――名札には「
「本当に、内容ちゃんと読みました?」
「え、あ、はい」
嘘だった。八枚もあれば流し読みが限界だ。立花さんは何か言いたそうな顔をしたが、結局「まあ、いいです」とだけ言って、俺を奥へ通した。
「担当」というのが、俺の役職らしい。説明された業務内容は、拍子抜けするほど地味だった。
「基本は、話し相手になること。あとはお茶を淹れたり、食事の世話をしたり。特別な資格も知識もいりません」
「それだけですか」
「それだけです」立花さんは書類をめくりながら、少し声を落とした。
「ただし、規則が一つだけあります。担当は、対象と個人的に深く関わらないこと」
「深くというのは」
「情が移らないように、ということです」
その一言だけ、声のトーンが妙に硬かった。俺は「はあ」と気の抜けた返事をした。話し相手になったり、世話をすることが仕事なのに、深く関わってはいけない……何というか、チグハグだな。
廊下の奥、分厚い扉の向こうから、病院にしては音のなさすぎる静けさが漂ってきていた。空調の音すら、遠慮しているみたいだった。
「見学、というほどのものでもないですけど」
立花さんに連れられて奥へ進むと、モニターの並んだ小部屋があった。壁一面に居室らしき映像が映っている。どの部屋も生活感がなく、置かれた家具は最低限で、まるで誰も本当には住んでいないみたいだった。画面の中で、誰かが窓辺に座ったまま微動だにしない。
「あの部屋の人たちの、話し相手になればいいんですか」
「人たち……まあ、そうですね」
立花さんは一瞬だけ言葉を選ぶ間を置いて、結局「まあ、会えば分かります」とだけ答えた。モニターの一つを見つめる立花さんの横顔は、俺を案内している間ずっと張り付いていた愛想笑いが、その瞬間だけふっと抜け落ちていた。
「明日から最初の担当についてもらいます」
ファイルを一枚差し出しながら、立花さんは心なしか気の毒そうな顔をした。
「言っても無駄かもしれませんが……一応、心の準備だけはしておいてください」
「そんなに大変な相手なんですか」
「大変、というか」
立花さんはまた少し考えて、結局それ以上は何も言わなかった。差し出されたファイルの表紙には、名前の欄が空白のまま、走り書きが一言だけ添えられていた。
――手強いです。頑張ってください。
帰りのバスの中で、俺はそのファイルを何度も開いては閉じた。名前どころか、写真の一枚も入っていない。分かるのは、明日の九時にあの静かすぎる区画の、一番奥の部屋に行けということだけだった。
同期にはひとまず「普通のバイトだった」とだけ送っておいた。噓ではないはずだ……ちょっと警備が厳重で、規則が厳しくて、仕事内容が不透明なだけ。
自分で考えたのにも関わらずあんまりな擁護に、ため息をひとつつく。スマホをしまい、窓の外に流れていく見慣れた街並みを眺めながら、俺は空白の名前欄のことを、もう一度だけ思い出すことにした。
家賃の心配だけで座った面接から、まだ一週間も経っていなかった。
九時ちょうどに、あの静かすぎる廊下を奥まで進んだ。
一番奥の扉には、名前も番号もなかった。ノックしようとして、一瞬手が止まる。立花さんの「手強いです」という走り書きが、なぜか今になって重みを増していた。
……なんだか、違和感があった。確かに俺は自分が楽観的だと自覚しているし、好奇心旺盛なところもある。けれど、こんな怪しいバイトにノコノコと最後まで付き合ってしまうほどだっただろうか。
家賃の催促? 確かに問題だ、けれど今までの大学生活でそんな状況には何度も陥ったことがある。けれど、こんな乗り切り方をしようと思ったことはない。
「なにか、おかしい……」
悩んでも答えは見つからない。結局、数瞬迷った後短くノックして、俺は中に入った。
部屋は思っていたより広く、そして思っていたより何もなかった。ベッドと椅子と小さなテーブル。窓際の椅子に、彼女は座っていた。
長い黒髪。膝の上で組まれた白い手。美少女、という言葉が具現化されたかのような整った容姿に、思わず息を呑んだ。窓の外を見ているその横顔は、写真かと思うくらい動きがなかった。
「あの、今日から担当になりました」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。紅い瞳が、俺の頭からつま先までを一往復する。
「新しい担当?」
値踏みするような、それでいてまるで興味のなさそうな声だった。
「何人目か、数えるのも馬鹿らしくなってきたわ」
「そんなに続かないんですか、この仕事」
「続かせる気がないだけよ、わたしが」
言い切ると、彼女はまた窓の外に視線を戻した。会話は終わり、というのが態度で分かった。
俺はとりあえず、教わった通りにお茶を淹れることにした。給湯室で覚えたばかりの手順を思い出しながら、湯呑みをテーブルに置く。
「どうぞ」
彼女は湯呑みを見て、それから俺を見て、また窓の外に視線を戻した。口をつける気配はなかった。
「……冷めても知りませんよ」
「知らなくて結構」
にべもない返事だった。仕方なく、俺は少し離れた椅子に座って、特に何をするでもなく待つことにした。無理に話しかけても、火に油を注ぐだけな気がした。
沈黙が続いて五分ほど経った頃、彼女の方から口を開いた。
「怖くはないの」
「何がです?」
「わたしが」
まっすぐにこちらを見る紅い瞳には、さっきまでの興味のなさとは違う、値踏みするような色があった。
「前任の何人かは、わたしと二人きりになった瞬間、顔色を変えたわ。中には、その日のうちに辞めた者もいる」
「何かされたんですか」
「何も。ただ、見ただけ」
彼女は微かに笑った。優雅というより、どこか物騒な笑い方だった。
「見ただけで人が辞めるんですね」
「見ただけで分かる者には、分かるのよ。わたしが何なのか」
俺には何も分からなかった、「鈍感」ということだろう、自覚はある。色白で、所作が綺麗で、機嫌が悪い。それくらいしか判断材料がなかった。
「じゃあ、俺は分かってないんですね。なら、教えてくださいよ、色々」
「……は?」
「見ただけじゃ、正直よく分からないので。怖がるにしても、もうちょっと情報がないと」
彼女は数秒、言葉を探すように黙った。想定していた反応と違ったらしい。
「馬鹿にしているの?」
「してないです。ただの感想です」
彼女はすっと立ち上がった。長い髪が揺れ、紅い瞳が俺の目の高さまで近づいてくる。息がかかるほどの距離で、唇の間から白い犬歯がわずかに覗いた。
「もう少し分かりやすい方がいい?」
凄んだ声で言われても、作り物のような整った顔が突然目前に出てきたことにドキドキしてマトモに思考が働かない。
あと心なしか、寒い。冬の日に感じるものとは違う、何かが底から凍りつくような感覚だ。
「……あの、ちょっと、近すぎません?」
「怖くないの、と聞いているのだけれど」
「怖いというか、単純に距離が近いので気になります」
ドキドキします、とは言わなかった。彼女は毒気を抜かれたような顔をして、一歩下がる。
「変わった人間ね」
「よく言われます」
もう一度、沈黙が落ちた。今度のそれは、さっきまでとは少し質が違う気がした。
俺は特にすることもなく、部屋の隅にあった小さな本棚に目をやった。並んでいるのは、どれも古い装丁の本ばかりで、この殺風景な部屋には妙に不釣り合いだった。
「本、好きなんですか」
「――関係ないでしょう」
答えるまでに、わずかな間があった。
そのやり取りを最後に、彼女はもう何も話さなかった。俺も無理に続けず、時間になったところで席を立った。
「今日はこれで失礼します」
返事はなかった。ドアを閉める直前、ちらりと振り返ると、彼女はまだ窓の外を見ていた。テーブルの上の湯呑みには、結局最後まで口がつけられていなかった。
けれど、もうとっくに冷めているはずなのに、湯呑みからはまだ微かに湯気が立っていた。
気のせいだろう、と思うことにした。次は、名前ぐらいは教えてもらえるといいな。
廊下に出ると、立花さんが少し離れたところで待っていた。
「どうでした?」
「お茶、飲んでくれませんでした」
「……はい?」
「いえ、なんでもないです」
それと、なんだか、寂しそうでした。正直な感想は胸の中に留める。立花さんは俺の顔をしばらく見て、それから小さく笑った。
「初日にしては、結構もった方だと思いますよ」
「もったって、何がですか」
「さあ」
立花さんは、それ以上教えてくれなかった。
需要があったら続く