上位存在ヤンデレもの 作:ヤンデレスキー
複数人の屈強な男に取り押さえられている人間──塁が意識を失うところを見て、怜は心から安堵した。決して脅威ではなかったし、結果として起きたことはただの自滅だ。事前に行った身辺調査でも異常は見つからず、むしろ御しやすい相手だと思った。
だからこそ、最初の接触で友好的な関係を築けなかったのは少し予想外だった。
挨拶の時点で、怜は塁から明確な警戒心──女性慣れしていない男が初対面の女性に向けるものではない──を感じ、その警戒は一切弱まることもなく最後まで維持された。
この聖地に招いてからも警戒心は変わらず、食事や飲み物に多少の細工をしても尚効き目はない。教主に会わせても、竜神様の絵画や彫刻を見させても一切の揺るぎはなかった。
一応竜神様に対して敬意を払っている体を装っていたが、実のところ竜神様に対して畏怖や信仰心を一切持ち合わせていない。謁見時の詳細を話しているときは特に明らかだった。
コンビニのお菓子を献上した? 本当にふざけた内容だ。竜神様との謁見に関して信仰心や能力の優劣は関係ない、という眉唾物の噂はどうやら本当らしい。
そして竜神様への祈りを拒否された。……本当に理解できない、彼は無神論者のはずで、実際他に信仰を持っているようなそぶりも見せなかった。断る理由などなかったはずだ、けれど最後まで意見を覆すことはなかった。
あまりの不可解さに、言い表す事ができない気持ち悪さが胸にこびりついている。それでも、これで面倒な問答は終わる。あとは、粛々と『処置』を進めるだけだ。
そう、確信していた矢先だった。
空間が軋むような音を立てた。次の瞬間、祈祷の間の中央──彫像のすぐ傍に見覚えのない人影が、音もなく現れる。
長い黒髪と紅い虹彩、それが一人の少女だと脳が理解するまで数秒を要した。室温が一瞬で凍りつくほど下がる。壁際に飾られていた花瓶の水はぱきりと音を立てて凍りついていた。
「……塁」
倒れ伏し、男たちに取り押さえられている塁の姿を認めた瞬間、ぽつりと少女が呟いた。少女は周囲の信者や怜には見向きもせず、おもむろに塁の方へと歩み寄る。当然、塁を取り押さえていた男の一人が少女の目の前へと立ちふさがった。
同時に、怜はすぐさま胸元から十字架を取り出した。空間に突然人が現れる──それは、怜たちにとって絶対にありえない事象というわけではない。竜神様から授かった神器にはそのような効果を持つものはあるし、個人で瞬間移動を成し遂げた人物も過去にはいたという。
しかし、明確な脅威であることには間違いなく、何より得体が知れない。少女が現れる直前、塁がつけている指輪が一瞬輝いたように見えたが、あれがトリガーなのだろうか。
少女の一挙手一投足に精神を集中させる、少しでも動きがあればすぐさま対応できるように。立ちふさがった男も同様だった、一歩下がり、腕を構える。一部の隙も無い、少しでも攻撃の予兆を感じ取った瞬間対応できる。
──そして、だからこそ対応できなかった
少女は一直線に歩みを進める。男と目と鼻の距離になっても尚、その歩みに迷いはない。あまりの敵意のなさ、自然さ──まるで自分が認識されていないような感覚を味わい、男は反応が出来ない。
そのまま少女は男を通り過ぎた。ぐしゃりという何かがつぶれる音とともに、男が地面に落ちた。
「えっ……」
声が漏れた。怜にはその光景が理解できなかった、いや、できないというよりしたくなかった。単純な話だ、少女は障害物をくり抜いて歩みを進めた。結果として、男は下半身をほとんど失い、その場に落ちた、人間が悪気なく蟻を踏み潰すように。
塁を取り押さえていた男たちがさらに数人、動揺しながらも少女に向かって飛びかかるのを見て、怜は反射的に目をつぶった。
何かが圧縮され、飛び散るような音が響く。目を開けると、誰もいない。残っていた何かも、少女が塁のそばに歩み寄った後、ぱちりと指を鳴らした瞬間全て掻き消えてしまった。
現実を受け入れられなかった。数人の人間の命が儚く散ったから──そんな理由ではない。人を命として数えていない、目の前のおぞましい化け物がこの世に存在すると信じたくなかった。
化け物は、その細い手をまるで愛おしいものに触れるかのように伸ばし、塁の頬についた血を指でふき取る。恐らく腕を切り落とした際に付着したであろうそれを、彼女は慎重に舐めとった。
その瞳には怜も、周りで固まったまま動けない信者たち誰一人として映っていない。怜自身すら、まるで自分がここには存在せず、少女と塁二人きりなのではないかと錯覚するほどだ。
一体、どれくらいの時間が経ったのだろうか。少女は塁の髪に触れたり、彼がつけている指輪を手で包みこんだり、何もせずただただずっと見つめていたりした。
怜はそのまま永遠の時が流れて、どこへ消え去ってしまえばいいと心の中で祈り続ける。
けれど、彼女の瞳が怜にゆっくりと向けられた。蛇に睨まれた蛙──という表現すら生ぬるいだろう。怜は、震える足でなんとか後ずさろうとした。だが、依然として床に根が張ったように体は動かない。
「あ、あなたは……」
答えはない。少女は、ゆっくりと怜の方へ歩みを進めた。その一歩ごとに、室内の温度がさらに下がっていく。
怜の目前で立ち止まり、膝を折って彼女の顔を覗き込んだ。瞳には何の感情も浮かんでいない、それが余計に恐怖を煽った。
「あなたが子供の頃、竜神に治してもらった病気があるそうね」
唐突にぽつりと零された一言。怜の顔からみるみる血の気が引いていった。
「な、なぜ、それを」
「教えてもらったのよ、あなた自身から。……随分と、大事な思い出のようね」
少女は微かに笑った。何か、とても面白いことを思いついたかのように。
「あれに出来たことなら、わたしにも多分、同じことができる。そしてその逆も……試してみましょうか」
少女が怜へと静かに手を伸ばす。すると触れてもいないのに、体がびくりと痙攣する。自分の体に黒い何かが纏わりつくのを怜は幻視した。
「あ、ああ……っ」
顔から、一瞬で血の気が引いていく。額に脂汗が滲み始めた。呼吸が目に見えて浅く、荒くなっていく。まるで、何年も前に克服したはずの病が、体の奥底から再び這い上がってくるかのように。
「や、やめ……」
「やめて、と言われて、やめると思う?」
どろり、怜の体の一部が腐り落ちて溶け始めた。遠い遠い、封じ込めたはずのトラウマがまた蘇り、再現される。怜にはもはや言葉を発する余裕もない。ただ、痛みと恐怖に、体を丸めてもがくことしかできない。
「そうね、一人じゃ寂しいでしょう? あなたのご家族もお仲間に入れてあげるわ」
ぽきりぽきりと、折り目がしっかりつくように少女は怜の心を畳んでゆく。決して二度と戻ることがないように。
「だ、誰か助けて……」
怜は必死に辺りを見回して助けを求めるが、誰もその場から動くことはできない。周囲の人間に助けを求める様子を見て、少女はいっそう笑みを浮かべた。
「いいえ? 誰も助けてはくれないわ」
少女が指を鳴らすと、周りを取り囲んでいた信者たちの姿が掻き消え、その場に3人だけが残された。一つずつ、丁寧に希望を潰していく少女を見て、怜は自らの運命を理解する。
この悪魔は、満足するまで自分のことを徹底的にいたぶるつもりなのだ。何年? 何十年? 何百年だろうか、もしかしたら永遠に。
助けて、という想いは今度は声にすらならなかった。
───
──誰か、助けて
意識の底で、俺はそんな声を聞いた気がした。それと、今すぐ動き出さなければ取り返しのつかないことになるという感覚。
重い瞼を、なんとかこじ開ける。視界は霞み、体には力が入らない。左腕から先の感覚は戻っているが、頭はいまだにくらくらしていた。それでも、目の前で繰り広げられている光景だけは、はっきりと見えた。
「すいません、ストップで」
無理やり体を起こした後緋雪のそばまで歩み寄り、慌てて声をかけ、肩に手をのせて静止する。緋雪はゆっくりとこちらを向き、不思議そうな顔で見つめてきた。
緋雪か、澄か、瑠璃か、3人の内誰かが駆けつけてくれること自体は計算通りだった。予想外だったのは、いつの間にかこの場に俺と緋雪と怜以外誰もいなくなっていること。それに加えて、思いの外精神的に追い詰める手法を緋雪が取っていることだった。
「……何故かしら」
「いや、ちょっとやりすぎっていうか……俺を助けに来てくれたのは嬉しいんですけど」
助けてもらった側なので少し言いづらかったが、なんとか口にする。俺の中ではすでに罪悪感の方が勝ち始めていた。『目には目を、歯には歯を』で考えたとしても、現時点で加えられた危害は脅迫ぐらいなので、やり返していいのは脅迫までである。もちろん、今後のことを考えると多少の反撃は必要だが、流石にもう十分だろう。
俺個人としてもこの宗教にそこまで強い恨みを抱いている訳ではない……まあ、最悪3人の内誰かがどうにかしてくれるだろうという前提あってのものだが。
「……嫌よ」
緋雪はぶっきらぼうに吐き捨てた。その様子は怒っているというよりは、どちらかと言うと拗ねている子供のように見えた。だが困った、生憎説得する方法は特に思いつかない。
「俺も嫌です」
「それでもやる、と私が言ったら?」
「止めます、友達なので」
緋雪は一瞬きょとんとした顔になった後、しばらく怜にかざしていた手と俺の顔を何度も見比べた。
いくらか無言の時間が続いた後、どこか納得した様子で告げる。
「……そう、なら、辞めておこうかしら」
緋雪がぱちりと指を鳴らすと、すべてが元の状態に戻った。辺りを見回すと、俺を取り押さえていたはずの男たちは地面に転がってはいるものの、規則正しい寝息を立てている。だが、その表情には恐怖が刻み込まれている。……眠っていても尚、時折びくりと体を震わせていた。
怜も、爛れていたはずの肌が何事もなかったかのように元通りになっている。それでも、その目にもさっきまでの苦痛の記憶がまざまざと残っているのが分かった。物理的な傷だけを巻き戻し、そこに至るまでの恐怖ごと消してはくれない──それが、緋雪の譲歩の限界らしかった。
「……ねえ、塁」
緋雪が、俺の顔を、じっと覗き込んできた。
「なんですか」
「本当に良かったの?」
「良いどころか、十分すぎます」
「……あなたのためを思って、言ってるのに」
拗ねたような口調だったが、その目の奥には、まだ隠しきれない怒りが燻っているのが見えた。緋雪は俺の左腕──もう、傷一つ残っていないはずのそこに、そっと指を這わせる。
周囲をぐるりと見回す。緋雪はまだ動けずにいる信者たちに、冷たい一瞥をくれた。
「今日のこと、忘れないでちょうだいね。……次はもう、この程度じゃ済まさないから」
その一言に室内の空気が、一段と張り詰めた。物理的な傷は確かに何もない。それでも、この場にいる誰もが緋雪の言葉が決して脅しだけではないことを痛いほど理解していた。
「今更ですけど、勝手に出てきて大丈夫なんですか?」
話題替えも兼ねて切り出す。澄が脱走してきたこともあったし本当に今更だけれど、一応聞いておくべきだろう。
「あら、心配してくれるの? 大丈夫よ、安心して」
緋雪は、悪戯っぽく笑った。さっきまでの酷薄な雰囲気が嘘のように、いつもの調子に戻っている。その切り替えの早さに、俺はなんとも言えない気分になった。
緋雪は顎に指を当てて考え込み始めたかと思うと、突拍子もないことを言い出した。
「そうね……しばらくはあなたから片時も離れないことにしようかしら」
「えっと、それは流石に……」
「我儘言わないの」
子供に言い聞かせるような、優しい、けれど有無を言わせぬ口調で言い、緋雪は俺の腕にしっかりと自分の腕を絡めてきた。
「大学も、しばらく休んで。……いいえ、休まなくていいから、わたしも一緒についていくわ」
「いや、俺的にも、機関的にもまずいんじゃないですかね」
「別にいいじゃない、些細な事よ」
本気とも冗談ともつかない口調で、そう言い切られる。この様子だと、しばらくは本当に一緒にいることになりそうだった。
怜がゆっくりと体を起こす。まだ足元がおぼつかない様子だったが、それでもなんとか立ち上がった。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げてくる。緋雪はその様子を冷めた目で見つめていた。
「謝るくらいなら、最初からこんなことしなければよかったのよ」
「緋雪さん」
「分かってるわ。もう、何もしない」
緋雪は俺の視線を受けて、渋々といった様子でそれ以上の追及をやめた。だが怜を見る目には、まだ明確な敵意が滲んでいた。
「今日のところはこれで見逃してあげる。……でも、次に塁に何かしたらその時は、本当に容赦しないから」
緋雪の声には有無を言わせない迫力があった。怜が震えながら、深く頭を下げる。
「肝に、銘じます……」
その様子を確認すると、緋雪は満足そうに頷いた。そして、俺の方を振り返る。
「さあ、帰りましょう、塁。今日はわたしの部屋で、ゆっくり休んで」
「いや、俺、家に帰りたいんですけど」
「駄目よ。わたしの目の届く範囲にいてもらうから」
俺の意見は最初から聞くつもりがないらしい。押し切られる形で俺は緋雪に連れられ、施設を後にすることになった。
────
「あの、緋雪さん。歩けるので、腕、離してもらえますか」
「駄目」
緋雪はそう言い切ると、もう片方の手で俺の頬に触れる。手は震えていた。
「……別に、腕を切ったぐらい、本当に何でもないはずなの。それどころか死ですら、私にとっては些細な事。だから、仮に最悪の事態が起こっても、大丈夫と、冷静にいられると思っていたのだけれど……」
緋雪は一旦そこで言葉を切る。恐る恐る、と言った様子で口を開いた。
「怖くなったの。腕を失って、血を流しているあなたを見たら」
その声には、隠しきれない切実さと恐怖が滲んでいた。俺はそれ以上、何も言えなくなった。
「今度からは、こんな無茶は絶対にしないこと。いいわね」
「はい、約束します」
……確かに、今日は流石に無茶をしすぎた。最近超常現象に慣れてそこら辺の感覚が鈍くなっているのかもしれない、反省だ。
「約束、破ったら……その時は、わたしがどうなるか、分からないから」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。それから、一つため息をつく。
「もう少し早く来れたらよかったのだけど、澄を止めるのに手間取って」
緋雪は呆れた様子でぼやいた、聞くに暴走しかけていたとか何とか。……どうやら今日起きたことは、随分と平和な方だったらしい。
空を見上げるといつの間にか、すっかり日が暮れていた。……体中に疲れがどっと湧き出る。
それでも──俺の腕に、離すまいと絡みついたままの緋雪の体温だけは不思議と心地よかった。
澄:駆けつけようとした原因は塁が祈ろうとしたから。祈ってたら不味かった
瑠璃:出かける場所とか着ていく服とかをウキウキで考えてる
石:そろそろ割れそう