上位存在ヤンデレもの 作:ヤンデレスキー
翌日も、俺は同じ時間に同じ部屋を訪ねた。彼女は前日と同じ椅子に座って、同じように窓の外を見ている。
ただ唯一、俺が入ってきた瞬間、ほんの少し肩が動いた気がした。
見なかったことにして、またお茶を淹れる。
「昨日と同じ茶葉?」
窓の外を向いたまま彼女が聞いてくる。会話をする気はない、という態度の割に質問だけはしてくる。そのちぐはぐさが、なんとなく面白かった。
「はい。他のがどこにあるか、まだ把握してなくて。」
「そう」
それだけ言って、また黙る。それでも、昨日までとは何かが違っていた。無視されているのは間違いない。無視することにわざわざ労力を使っている、そんな気がする。
俺は湯呑みをテーブルに置いて、いつも通り少し離れた椅子に座った。彼女はやっぱり口をつけなかったが、視線だけは、湯呑みの湯気を数秒だけ追っていた。
無言のまま、数分の時が流れる。嫌な沈黙というわけではなかったが、流石にこのままずっと黙ったままでは職務放棄になるかと思い、口を開く。
「名前、聞いてもいいですか」
「……」
「言いたくなければ、別にいいです」
「
思ったより早く、返事が来た。
「わたしの名前。緋雪」
「
彼女はそれきり、また窓の外に視線を戻した。けれど、湯呑みからはまだ、確かに湯気が立っていた。淹れてから、もう十分以上は経っているはずなのに。
気のせいだろう、と、俺はまた思うことにした。二日連続の出来事に、我ながら少し無理を感じ始めていたけれど。
三日目も、同じ時間に同じ部屋のドアを叩いた。
「入ります」と声をかけた瞬間、椅子に座ったままの背中が、確かにぴくりと動いた。昨日も似たような反応があったが、今日の方が早く、大きい。そんなことに気づいている自分に少し呆れた。
「お茶、淹れますね」
「……好きにすれば」
好きにすれば、というのは、昨日までの「知らなくて結構」よりは、多少なりとも会話として成立しているんじゃないか。俺はいつも通り給湯室で茶を淹れ、テーブルに置いた。一連の動作に徐々に慣れてきたように思う。三日目だから、自惚れかもしれないが。
緋雪は今日も窓の外を見ている。けれど、視線が完全に外を向いているわけではないことに、俺は気づき始めていた。窓ガラスにその瞳が時折こちらを映す瞬間がある。本人が意識しているのかは分からない。
四日目、五日目と数えていくうちに、俺たちの間には奇妙な「日課」のようなものができていった。俺がお茶を淹れる。緋雪は口をつけない。俺は少し離れた椅子に座って、特に何をするでもなく時間を過ごす。会話は少ないが、皆無ではない。
「今日、外暑かったですよね」
「知らないわ、出ていないもの」
「そうか、そりゃそうですよね」
内容のない、けれどどこか続いていく会話。緋雪の返事は相変わらず素っ気なかったが、無視の"質"が変わってきているのは、さすがに俺でも分かった。
俺は特に気負うこともなく、その日常に馴染んでいった。そもそも、緊張感を保ち続けるには、緋雪の態度は素っ気なさすぎた。かといって本当に無関心というわけでもない。その中間のどこかに、俺は毎日腰を落ち着けていた。
……あと、美少女と個室で2人っきりという状況は、男として悪い気はしない。
「あなた、家賃のためにここに来たのよね」
ある日、唐突に聞かれた。給湯室での立ち話か何かで、誰かが漏らしたのだろうか。
「よく知ってましたね、それ」
「風の噂よ」
「風の噂って、そんな噂になるような話でもないと思うんですけど」
「……さあ」
緋雪はそれ以上答えず、窓の外に視線を戻した。だが、聞かれたということは、少なくとも俺の事情に多少の興味はある、ということなのだろう。ちょっとした収穫のように感じた。
ある日、給湯室で余っていた個包装の煎餅を、大した考えもなくポケットに入れて、緋雪の部屋に持っていった。
「これ、良かったらどうぞ」
テーブルに置くと、緋雪はしばらくそれを睨むように見ていた。
「……何のつもり」
「別に。余ってたので、何となく」
「何となく、で他人に物を渡すの、あなた」
「駄目でした?」
緋雪は答えなかった。やがて、そっと手を伸ばし、包装を開けもせずに、ただ両手で包み込むようにして持った。
「……別に、いらないとは言ってないでしょう」
食べる気配はなかった。だが、その日の帰り際まで、煎餅はずっと彼女の手の中にあった。
別の日、流石に何か話題が欲しいと思ってスマホの持ち込み許可を申請してみた。正直拒否されると思っていたので、他にも代案は色々と用意していたのだが……機能の制限はつけられたものの、申請は拍子抜けするほどすんなり通った。
暇つぶしのつもりで、俺はスマホの画面を見せてみた。インターネット上にある無数の動画の中の一つ、渋谷のスクランブル交差点で、信号が変わった瞬間に人波が一斉に動き出す映像だった。
「これ、見てください。すごい人ですよね、俺、こういう人混み苦手で」
緋雪は最初、興味なさそうに一瞥しただけだった。だが、画面の中で人波が動き出すのを見て、わずかに目を見開いた。
「……こんなに、人間が増えたのね」
「増えたというか、東京はもともとこんな感じですけど」
「わたしが最後に外を歩いた頃は、こんなじゃなかったわ」
「いつ頃の話です?」
緋雪は答えなかった。ただ、画面をもう一度見つめて、それから静かに視線を逸らした。
「もう、いいわ。戻して」
短いやり取りだったが、彼女がどれだけ長い時間、この部屋の中だけで過ごしてきたのかを、俺はほんの少しだけ実感した気がした。
一通り見せたい動画を見せ終え、暇を持て余した俺は、部屋の隅の本棚に目をやった。初日から気になっていたのだが、並んでいる本は、どれも見るからに古い装丁のものばかりだ。革張りの背表紙、金の箔押しの文字は掠れて読み取れないものも多い。博物館の展示品に近い佇まいだった。
「これ、読んでみもいいですか」
本棚へと足を向け、近づこうとした瞬間。
「触らないで」
鋭い声が飛んできた。振り返ると、緋雪はいつの間にか、窓辺の椅子から半分身を乗り出すような格好になっていた。紅い瞳が、俺の手元に注がれている。
「すみません、勝手に」
「……いいから、そのまま下がって」
言われた通り、本を棚に戻した。緋雪は詰めていた息を吐くように、椅子に座り直した。
「大事な本なんですか?」
「別に」
「別に、にしては反応早かった気がしますけど」
「気のせいよ」
相変わらず誤魔化すのは下手らしい、おかしくなって俺は少し笑った。
「その本、いつ頃のものなんです?」
「知らなくていいでしょう、あなたには」
素っ気ない返事だったが、なぜか話はそこで終わらなかった。何かを懐かしむような目になった後、渋々といった調子で口を開く。
「……随分昔のものよ。もう、ほとんど誰も読めない言葉で書かれているようなもの」
「読めるんですか、緋雪さんは」
「当然でしょう」
心なしか、声に誇らしさのようなものが滲んでいる。俺は椅子に座ったまま、それ以上は踏み込まずに黙っていた。無理に聞き出そうとしたら、逆に話してくれなくなる。話したかったらあっちの方から話してくれるはずだ。
案の定というべきか、緋雪の方から続きが漏れてきた。
「昔、こういう本を集めるのが好きだった時期があったの。今となっては、読む理由もほとんどないけれど」
「理由、いります?」
「……は?」
「読みたいから読む、でよくないですか。俺、本とかあんまり読まないんで分からないですけど」
緋雪はしばらく黙って俺を見ていた。値踏みするような視線ではなく、何か考え込むような目だった。
「本当に変な人間ね、あなた」
「初日にも言われました、それ」
「そう。何度でも言うわ、変わり者だと思うたびに」
言葉の割に、声のトーンは刺々しくなかった。俺はそのことに、少しだけ安堵した。この数日間の交流は、無駄だったわけではないらしい。
その日を境に、緋雪との間の距離がほんの少しだけ近くなった気がした。気がしただけかもしれないが。
ある日、俺は給湯室にあった数種類の茶葉の中から、いつもと違う一つを試しに淹れてみることにした。前に何かの拍子に、緋雪が「昔はもっと渋い茶を好んで飲んでいた」というようなことを、ぽつりと零していたのを覚えていたからだ。
「今日、ちょっと違う茶葉にしてみました」
出したお茶に、緋雪は珍しくすぐに視線を向けた。
「……渋いお茶」
「合わなかったら、次から戻しますけど」
緋雪はしばらく湯呑みを見つめていたが、やがて、初めて自分から手を伸ばし口をつけた。ほんの一口だけだったが、それでも初めてだった。
「悪くないわ」
それだけ言って、また窓の外を向いてしまったが、その日、湯呑みが置かれることはなかった。
数日後、その日は朝から蒸し暑かった。バスの中で汗をかき、施設に着く頃にはすっかり体力を消耗していた。
とっくに家賃は稼ぎ終わっていたが、緋雪とのやり取りをすっかり気に入ってしまい、俺は律儀にこの仕事を続けていた。
「暑いですね、今日」
部屋に入るなり、大した意図もなく零した一言だった。世間話のつもりだった。
「そう」
「あ、そういえば、来週から他の人の担当にもなるらしいです」
エントランスで仕入れたばかりの情報を、大した意図もなく続けて口にした。返事はなかった。ただ、部屋の空気が、一瞬で変わった。
肌に触れる空気が、明らかに冷たくなっている。エアコンの効きが急に強くなった、というような単純な話ではなかった。窓を背にした緋雪の周りだけ、空気そのものの密度が変わったような、そんな感覚だった。
「……緋雪さん?」
「別に。何も」
平坦な声だった。だが、テーブルに置いた湯呑みの表面に、薄く氷の膜が張り始めているのが見えた。
これは、さすがに気のせいでは片付けられない気がした。
「あの、ちょっと寒くなってきた気がするんですけど」
「気のせいでしょう」
自分がさんざん使ってきた言い訳を、まさか相手から返される日が来るとは。テーブルの上の湯呑みを見る。氷の膜は、心なしか厚みを増している。
「湯呑みが凍りかけてる気がします」
「……」
緋雪は窓の外を向いたまま、何も答えなかった。ただ、耳のあたりが、ほんの少しだけ赤くなっている気がした。寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、俺には判断がつかなかった。
俺はしばらく考えて、結局いつも通りの対応をすることにした。
「まあ、涼しいのも今の時期はありがたいですね」
言った瞬間、部屋の温度が、また変わった。今度は逆方向に。
一気に、というわけではないが、さっきまでの冷え込みが噓みたいに和らいでいく。湯呑みの氷は、みるみるうちに溶けて、いつも通りの湯気に戻っていった。
「……勝手に暑くなったり寒くなったり、変な部屋ですね、ここ」
「知らないわよ、そんなこと」
心なしか、いつもより早口だった。
「他の担当が増えるの、そんなに嫌なんですか?」
聞くつもりのなかった質問が、口をついて出た。緋雪の肩が、目に見えて強張った。
「べつに、嫌とかそういう話じゃないでしょう。あなたの仕事なんだから、好きにすればいい」
「そうですか」
「そうよ」
言い切った直後、また少しだけ、室温が下がった気がした。今度は湯呑みが凍るほどではなかったが。
それ以上は突っ込まなかった。突っ込んだところで、答えが返ってくる気がしなかったし、自分でもまだ、これをどう捉えればいいのか分かっていなかった。
その日以来、俺はひそかに、緋雪の機嫌と室温の関係を観察するようになっていた。無論、面と向かって指摘するつもりはない。あくまで、担当としての情報収集、という体で。
機嫌がいい時――正確には、機嫌が悪くない時――は、室温はいつも通りだった。機嫌を損ねた時は、目に見えて冷える。
「最近ずっと暑くて参ってたんですけど、この部屋、なんか過ごしやすいですね」
試しに、そんな言葉を零してみたことがある。緋雪は窓の外を見たまま、何も答えなかった。だが、室温は、心なしかさらに一段階、心地よい方向に傾いた気がした。
我ながら意地の悪い実験だとは思ったが、正直、好奇心が刺激されてやめられなかった。
その日の帰り際、モニター室の前を通りかかった時、いつもは静かなその部屋から、珍しく人の声が漏れていた。
「……機材の故障ではない。三回同じ数値が出てるんだぞ」
「じゃあ何だって言うんですか、これ」
聞き覚えのない声が二つ、少し焦った調子でやり取りしている。ドアの隙間から、モニターの並んだ部屋の中で白衣の職員が二人、画面を指さしながら何かを言い合っているのが見えた。
「あ」
俺に気づいた片方が、慌てたようにドアを閉める。……なんか、結構ガバガバだな、この施設。
何かあったんですか、と聞こうか迷ったが、結局聞かなかった。「ここ」に深く入り込みすぎてはいけない、そんな気がした。
(まあ……もう手遅れかもなぁ)
バスに揺られながら、俺は今日の出来事を頭の中で反芻した。冷えていく空気、凍りかけた湯呑み、そしてまた元に戻っていく部屋。どれも、常識で説明のつく話ではなかった。
けれど不思議と、恐怖はない。むしろ、緋雪の耳が赤くなっていたことの方が、よほど気になった。
我ながら、色々とずれている自覚はあった。