Sin and Punishment:Revenant 作:アイダカズキ
高校に入学して以来、
……やや条件付きではあるが。
「おはよー……あれ、お母さんは?」
あさひが目を擦りながらリビングに入っていくと、妹のまひるはとっくに髪をポニーテールにまとめ、制服姿でトーストを齧っていた。万年帰宅部のあさひと違い、テニス部の朝練があるから朝が早くても何の不思議もないのだが。
「もうとっくに出かけたよ。今日は一日中会議で夜も遅くなるから、何か食べてきてだって」
「また?」
いつものことでしょ、とまひるはトーストを咥えたまま肩をすくめる。「未真名市上空の〈
思わずトースターにパンを突っ込む手を止めてしまった。「うえっ。気味の悪い話だなあ……なんせ相手は空の裂け目だもんね。台風や地震よりよっぽどタチが悪いよ」
「なんかヤだよね。……ほら、また猫背になってる。印象が悪くなるし何より健康に悪いって、何度も言ってるでしょ!」
「すみませんでした妹先輩!」
「まったく。少し目を離すとすぐこれなんだから。次に見かけたら矯正下着装着の刑ね」
「わかりました妹先輩!」
「よし」
まひるは眉間に皺を寄せてコーヒーを口に運んでいる。これではどっちがお姉ちゃんかわかんないな、とあさひは密かに思う。身長だって私より2センチくらいでかいし。
それにしても、顔の造作はほとんど同じなのに肌の色艶といい、唇の瑞々しさといい姉妹で段違いなのは本当に何なんだろう。いや美容とかファッションとかめっちゃ気を遣っている妹と、割とその辺無頓着な私とじゃ月とスッポンなんだが。
焼けたトーストを皿に乗せて腰を下ろすと──まひるがこちらの顔を凝視しているのに気づいた。
「……何?」
「いや、今のお姉ちゃん。私がプロデュースした結果がお姉ちゃんの今なんだからさ、それを考えると我ながらいい仕上がりだなって思って」
「陶芸家かよ……」
確かに高校入学直前、さんざん拝み倒して妹に頼み込んだのは覚えている。あの暗い中学時代をもう繰り返したくない、何でも言うことを聞くから私を変えてくれ、とか何とか。
「でもお世辞抜きでさ、お姉ちゃん、一頃よりだいぶマシになったと思うよ。あのイモくて鈍くさいお姉ちゃんがさ。それ考えたら、私もいい仕事したなあって感慨深くって」
「ねえ、イモと鈍くさ呼ばわりと、せめてどっちかにしてくれる?」
「じゃあ、イモくて鈍くさくてビビりでヘタレ」
「4つにする奴があるかよぉ!?」
まあ、認めざるを得なくはある。今のあさひが少なくとも人前に出られるような見てくれなのは、妹の厳しい指導の賜物であるのは間違いないからだ。眼鏡はコンタクトに変えたし、切りもせずだらしなく伸ばすままにしていた髪は適度に切ってハーフアップにまとめたし。
「言っとくけど、私の出した課題にお姉ちゃんが食らいついてきたからどうにかなったんだからね。結局、本人がやる気を出してくれないとどうしようもないんだよ」
中学2年にして既にテニス部部長のまひるが口にすると説得力しかない。実際、後輩からも厳しいけれど頼もしい先輩として慕われているらしい。
「ねえ、お姉ちゃん。今幸せ?」
半笑いで済まされないような真剣な口調だった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって毎日、死にそうな顔してベッドに倒れ込んでるじゃん。家に帰ってくるたびにさ」
「それだけじゃないよ。夜に電気を消してベッドに横たわった瞬間に襲いかかってくる、『ああ言えばよかった』『こう答えればよかった』の数々を一つ一つ思い返しては身悶えして……」
「ごめんそこまで聞きたくなかった」
「……うん。想像もしてなかったよ。陽キャや陰キャがどうとか以前に、まともな人間のふりをするってこんなに疲れるんだって」
「お姉ちゃんだって人間でしょ。忘れちゃったの?」
「本当にそうなのかな……? 私はもしかしたら、自分を人間と思い込んでいるナマケモノなんじゃないかな……? そうだよ……本当の私は一日中葉っぱだけ食べて、木の上でずっとのんびり暮らして、辛い思いとも惨めな思いとも無縁な一生の……」
「ほら! また人間であることから逃げようとしてる! あんたは人間! ユアヒューマン!」
苛立たしげに舌打ちされた上、目の前で指まで鳴らされた。
「人間辛いよぉ……続けるしかないにしても辛いよぉ……」
「『人の国が嫌なら、人でなしの国へ行くしかない』でしょ? お姉ちゃんに人でなしの国は向いてないよ。3日も経たず何かの餌食になると思う」
夏目漱石を引用するあたりが妹らしい。文武両道かよ。
「『そして人でなしの国は人の国より住み難かろう』……わかってるって。だから毎日こうして人間のふりをしてるんだよ」
「……そうだ、お姉ちゃんに聞きたいことがあったんだ」
「何? 私の秘めたる才能とカリスマにまひるも気づいた?」
「ビビりでヘタレのくせに何でそういう根拠のない自信だけはたっぷりあるわけ? ……そうじゃなくてさ、この人、お姉ちゃんの知り合いだよね?」
まひるはポケットからスマートフォンを取り出した。余談だが平沼家の家訓で、食事中のスマホ鑑賞は厳禁である。
そこに映し出されている顔を見て、あさひは心臓が止まりかけた。
目つきの悪い、頬の削げた凶悪そうな──しかし見覚えのある顔。
「その人が……どうかしたの?」
「どうしたもこうしたも、お姉ちゃんネット見ないの? あの相良龍一とその一味が、アジア近辺に潜伏してるって持ちきりだよ!」
「最近はゲームの攻略情報くらいしか見てなかったから」
「ああもう、お姉ちゃんって流行に聡いんだか疎いんだかよくわかんないよね」
嘘である。
ネットに接続すらできない地の果てでもない限り、相良龍一について耳にしない日はない。ただ、自分から積極的に知ろうとしなかっただけだ。
「まひるこそ、何? どうしてその人にそんなに詳しいの? まひるの中学、ファンクラブでもあるの?」
「私じゃなくてクラスの男子たちがさ。ちょっとしたダークヒーロー扱いだよ。毎日毎日、聞いてて辛いくらい」
犯罪者ファンクラブなんて凄まじい存在、あさひでさえ「世も末だ」との思いを禁じ得ない。
「ま、わかんなくはないけどね。その人がどうしてアジア圏に潜伏中なのか。噂ではさ、相良龍一とその仲間たちは……」
まひるは芝居がかって声量を落とし、
「
「……」
相良くん。
当時から他の男の子たちよりも頭ひとつ分背が高くて、その身長をいつも持て余すようにしていて。
その彼が今ではこんなことになるなんて、あさひも当人も、当時は思っていなかったのではないか。
「この人、ほとんど世界中の軍や情報機関や犯罪組織に追われているんでしょ? 犯罪予測システムが稼働している限り、彼と彼の仲間たちは地の果てまで追われるからね。だからこそ、警視庁の〈
評するまひるの口調は随分と冷ややかだ。私の何百倍も聡くて頭の回転が早くて、その分だけ思うところがいろいろある妹には、同級生の男の子など子供っぽすぎてお話にならないのかも知れない。
黙ってしまったあさひを余所に、まひるはスマートフォンの画面を見、顔をしかめている。
「うえぇ〜それにしても凶悪そうな顔。この相良って人、お姉ちゃんの元同級生だったんだっけ? 当時からそんなにやばい人だったの?」
「やばいどころか……普通の人だったよ。静かで、落ち着いていて……」
その静かで落ち着いた人が、今や街一つ、艦隊一つを吹き飛ばした犯罪者で、しかも〈
「お姉ちゃん、その人のことが好きだったの?」
もう少しでトーストを喉に詰めるところだった。
「す、好きとか嫌いとかそういうのじゃなくて……! ただ席が近くて、毎朝『おはよう』を言ってくれて、だから嬉しかっただけで……!」
──好きなのかどうなのかわかる前に彼は学校を去った、とは言えなかった。
「少なくとも、何とも思ってないわけじゃなかったんだ。『愛情は憐憫にさも似たり』だね」
またしても夏目漱石である。
「お姉ちゃんと過去にどれだけ親しかったのかは知らないけど、今はお尋ね者の犯罪者なんでしょ? 善良な一市民のお姉ちゃんができるの、自首を勧めるか、さもなきゃ通報するくらいしかできなくない?」
「せ、正論ティー……」
だが今のあさひには、その正論が胸に痛すぎる。
「……ま、思い入れも大概にした方がいいよ。お尋ね者と、善良な一般市民なんだからさ。ヘタレでビビりの」
姉の表情と、思ったよりこの話題に乗ってこないのを見て取ったのか、まひるはそう言ってこの話題をおしまいにした。その辺の機微に聡いのも、また妹らしくはある。
「っと、そろそろ出ないと何のために早起きしたんだかわかんなくなるわ。じゃ、そろそろ行ってきまーす」
言うだけ言うと、まひるは手際よく食器を片付けて出て行ってしまった。あさひは一人、リビングに残される。
「相良くん、かあ……」
あさひはぽつりと呟く。
自分でも力のない、つまらない呟きだと思った。
──その日、あさひは授業も含めて何もかもが手につかなかった。
「平沼さん、帰りにカラオケ行かない? 隣町の男子も来るって」
「ごめん、今日はちょっと気分が悪くて……」
それじゃ仕方ないね、と残念そうに返されるとこちらが申し訳なくなる。他人からのお誘いはできるだけ断らないように、と妹先輩からも口を酸っぱくして言われているのに。疑ったことはない──思えば中学時代はそれでしくじったのだ。
帰り道でも、何だか足元がふわふわと頼りなかった。まさか彼女の気持ちを反映したわけでもないだろうに、空模様まで気の滅入る曇天である。
頭の中はむしろ静かだが、そこから導き出される思考は彼女の気に入らない。
実のところ、あの相良龍一という少年を心のどこに置くべきか、あさひは今でも結論が出せずにいる。
『もう皆さんもご存知かも知れませんが……昨夜、相良龍一くんのお祖父様が強盗に殺害されました』
あの日、担任が沈痛な顔で告げた日の教室の空気を、あさひは今でも忘れられない。
あの時の自分は子供だったけど、龍一だって子供だったことについてもっと考えるべきだった。一つ屋根の下で暮らしていた祖父を殺され、同級生に別れも告げられず転校せざるを得なかった少年が何を言えるというのか。
会ったところで、私は何を言えたのだろう?
(……ちゃんと『さよなら』を言えていたら、こんなモヤついた気分にはならなかったのかな)
そうかも知れない。相良龍一が何の前触れもなく、まるで初めから存在しなかったかのようにいなくならなかったら、彼のことは少し苦いが美しい思い出の一つ、くらいにはなっていたのかも知れない。
(私は……相良くんのことが好きだったのかな?)
好意を抱いていたのは間違いない。そもそもあの頃のあさひに、何かと構ってくれたのなんて彼くらいだったし。
(それとも、だからなのかな? 好きだったんじゃなくて、優しくしてくれたから、その気持ちを好きと勘違いしてたのかな?)
何だか自分で自分がわからなくなってきた。
今の私を見て、相良くんは私だって気づいてくれるかな?
──たった今すれ違った、その青年の何が自分の気を引いたのか、最初あさひにはわからなかった。
目深にした野球帽にハーフコート、Tシャツにジーンズ。特に筋骨隆々というほどではないが、よく鍛えられた引き締まった体躯だ。スポーツでもやっているのかな、と思えば別に不思議ではない。
ただ、その極めて抑制された歩き方──まるでダンサーかバレリーナのような、一歩一歩を疎かにしない歩法には、確かに既視感があった。
自分はあの人に何を感じたのだろう? あさひの視線は、自然とその向かう方向に吸い寄せられる。
路肩に車を停めて、スマートフォンを耳に当てて誰かと会話している会社員風の男だ。そして手持ち無沙汰にしている、同僚らしき男性が傍らに2人。街中なら珍しくもない、どこででも見かける光景だ。
目の前を歩く青年の後ろ姿が、何の前触れもなく
「え……?」
思わず声を上げてしまった。たった数歩で助走した青年はそのまま路面を蹴り、電柱を蹴って跳躍し、スマートフォンをスーツの内懐に戻そうとした会社員の頭部を鷲掴みにした。
まるで鳶がぬいぐるみでも掴んで持ち去るように、
おそらく悲鳴を上げる間もなかっただろう。
そのまま自動車のルーフを蹴り、建物の壁面を蹴ってさらに高く飛び上がり、ビルの屋上へ飛び上がって消えた。
「……天狗?」
思わず声に出してしまった。左右を行き交う人々が、薄気味悪そうにあさひを見ながら通り過ぎていく。
「……あれ?
「トイレじゃねえか?」
「この一瞬でか? 俺とお前が見ている前で誰にもぶつからず走って行くとか、100メートル走のオリンピック選手でも無理だろ」
「なあ、おい? ここに落ちてるの……脇坂さんのスマホだよな?」
「本当だ……社用のスマホまで放り出して、何やってんだあの人は?」
「あ、あの……」
「はい?」
あさひは思い切って会社員たちに声をかけ、一部始終を説明しようとして──説明のしようがないことに気づく。
「て、てっ……天狗……」
「はあ?」
「い、いえ……何でもありません」
会社員たちの怪訝な視線を引きずりながら、あさひはそそくさとその場を立ち去った。
(ど、どうしよう……どうすればいいの!? 目の前で人が攫われちゃったよ!? わ、私、どうすればいいの!?)
周囲を見回したところで、答えが路面や看板に書いてあるわけでもない。
警察……いやだめだ、交番に寄っている間に見失ってしまう。第一、目撃したあさひ自身にも訳がわからないものをどう説明すればいい?
助けを求めるようにして周りを見回したあさひの視界で──何かが動いた。
(いた!?)
予備知識がなかったら、見たところで何なのか理解できなかったに違いない。頭部を鷲掴みにされた男性と、鷲掴みにした青年だ。
あさひを除き、誰も気づいていない──いや、気づいたとしても脳が理解を拒むだろう。まるで平地でも駆け抜けていくかのように、決して小柄ではない長身がひらりひらりと建物の屋根を飛び越えていく。
それにしても恐るべき膂力だ。人間の、それも成人男性の頭部を鷲掴みにして、なおかつ木から木へ飛び移る獣のように建物の屋根を飛び越えていくのだから。
考えている暇はなかった。あさひは全力で走り出した。
(ああもう! 一体どうしちゃったの私!? さっきから一体何をやってるの!?)
友達からの誘いを断って、道行く人々にヘンな目で見られて。
ブレザーの上着を脱いで抱えているおかげで、走るのが余計に大変だった。もう全身が汗まみれで、素肌に張り付いたブラウスの感触が気色悪い。
(そ、それにしても……どこまで行くの!?)
大して身体を鍛えずに漫画読みとゲーム三昧の生活が明らかに祟っている。顎などとっくに上がっているし、足元はもうふらふらだ。
もうダメだ……その場にへたり込みそうになった時、もう視界から消えそうになっていたあの青年の後ろ姿がふっと消えた。
「…………あれだ!」
数階建ての雑居ビルの屋上。間違いない。
全力で追っかけっこをした後で数階分の階段を駆け上がるのは、インドア派あさひにはとてつもない重労働だった。
もうよれよれになりながらも、屋上への出入り口に辿り着く。ドアに鍵はかかっていない。
「ひっ、ひぃ……!」
布袋でも放り出すような音に続いて、掠れた悲鳴が聞こえた。あの頭部を掴まれて攫われた男性の声だ。どうやら荷物みたいに、無造作に屋上へ放り出されたらしい。
ドアを半開きにし、恐る恐る屋上を伺う──心臓は胸部を突き破らんばかりに脈打っており、あさひはドアの向こうに鼓動が聞こえやしないかと心配になった。
「何なんだ君は……!? 金か? 金が目当てなのか? カードなら暗証番号を教えるから、それで引き出してくれ。いくらでも……!」
「お金は要りません。先に言っておくと、あなたの命も要りません」
裏返った会社員の声に対し、青年の声は静かだった。静かで、穏やかで、そして渇き切っていた。
「ただ、一つ教えて欲しいだけです。彼女は今どこに?」
「し……知るものか! 私は一介の管理職だぞ。知っていたとしても、部外者には教えられない!」
「シロタ化学の経営戦略部長が、社の創立メンバーの所在を知らない? 嘘ならもう少し説得力を持たせて欲しいですね。脇坂
低い笑い声が聞こえた。ありきたりな怒声よりも、よほど背筋が寒くなる笑い方だった。
「彼女はあなたたちにとって、戦略核兵器クラスの切り札であり、同時に最大のリスクだ。あなたたちが居場所を知らないはずがないんだ──リアルタイムで監視でもしていなければ、社の経営陣はおちおち夜も寝ていられないでしょう」
何の話をしているんだろう、あさひは眉間に皺を寄せて考え込む。金を寄越せとか、命を置いていけとか、そういう類の話でもなさそうだけど……。
「そ、そもそも君は何者なんだ!? 社内でも彼女に関しての情報は最高機密扱いなんだぞ。おいそれと明かせるようなものではないんだ!」
「俺が何者で、なぜ彼女について知ろうとしているのか。それこそあなたが知る必要のないことです」
青年の声が一段と低くなった──隠れているあさひが身を縮ませるほどに。
「どうしてもお嫌なら、口を割っていただくしかありません。あいにくとこちらには『脳から直接情報を引き出す』なんてスマートな手段の持ち合わせもなければ、そもそも時間もない。多少、荒っぽくなります。先に謝っておきますね」
(そんなので謝られても……!?)
口を割らせる──拷問する気だ。
悪い方向には異様に豊かになるあさひの想像力が災いした。拷問って、やっぱり痛いんだろうな……歯をペンチで引っこ抜くとか、爪を剥がすとか……私だったら拷問される前に喋ってしまうに違いない。……いやいやいや、私の話じゃなくて!
(防犯……防犯ブザー! とにかく誰かに知らせないと!)
夢中で鞄の中を引っかき回す。こんなビルの屋上で鳴らして、果たして誰かが気づいてくれるのか……しかし、やるしかない。
「あ」
震える手で鳴らそうとした防犯ブザー(微妙に可愛くないゆるキャラのキーホルダー付きだ)は、あさひの指の間から呆気なくこぼれ落ちた。
こつん、と軽い音が、その場の全員の耳に届く。
「誰だ?」
誰何の声に、あさひは腹を括った。やるしかない!
「そ、その人から離れてくださいぃ!」
ドアを大きく開け放ち。
あさひは鞄を盾のように両手で構えながら、完全に裏返った声を張り上げた。全身は卵豆腐のようにぷるぷると震えっぱなしだ。
「こ……このビルは警官隊が完全に包囲しています! 無駄な抵抗はやめ、大人しく投降してください! ……ほ、本当です! 嘘じゃないですからね!」
「何だと!?」
あさひの声の内容に反応したのは青年ではなく──あの脇坂の方だった。
彼はなぜか血相を変え、突き飛ばさんばかりにあさひを押し退け、そして階段を駆け降りて行ってしまった。転げ落ちないか心配になるほどの勢いで。
「よ、よかった……ミッションコンプリート……」
安堵のあまりその場にへたり込みそうになったあさひだが、手放しでは喜べない何かを感じた。あれ、あまり安心している場合ではないような?
視線を感じた。
あの青年が、ただ一人立ち尽くしているあさひを凝視していた。
「君は」
「ひいっ!?」
今度こそあさひは、その場にへなへなと尻餅をついてしまった。
もうダメだ。おしまいだ。たとえ背を向けて逃げても、あの人の脚力ならあっという間に追いついてしまうに違いない。ハムスターが虎から逃げるようなものだ。
「ご」
こうなったらもう、腹を見せて「くぅ〜ん」と鳴くしかないターンだ。
平沼あさひ、一世一代の命乞いの始まりである。
「ごめんなさい許してください殺さないでください! わ、私、目の前で人がぬいぐるみみたいに持ち上げられて攫われるのを見て、これはもう放っておけない、止めるしかないってここまで追いかけてきたんです! だって仕方ないじゃないですか、お巡りさんに話している間に見失ったら取り返しがつかないし! それに、もし後になってニュースであの人が殺されたなんて知ったら、私もそれに加担したことになっちゃう! 私、ずっとずっと勇気とも気高さとも縁のない生き方してましたけど、自分から卑怯者にはなりたくありません! もし助けられるかも知れない人を見放したら、妹にきっと軽蔑されます! ううん、妹は口は悪いけど本当は優しいから、軽蔑はせずに許してくれるかも知れません。でもそんなの嫌です! 私は……もっと素晴らしい人間になりたいんです! わ、私、中学の頃に仲の良かった男の子がいて……私は恥ずかしくってまともに話せもしなかったのに、その人は何かと私に優しくしてくれて……何の根拠もなく、ずっと傍にいてくれるって信じ込んでいたんです。でもその人、お祖父さんが強盗に殺されてしまって、さよならもなしに転校していってしまって……もう他人に期待していちゃダメだ、もし将来その人にまた会えた時、今度は胸を張って向き合えるような自分になろうって決めたんです……妹に頭を下げて、苦手な美容もファッションもべそをかきながらでも覚えて、同級生との会話を毎日少しでも増やすようにして……ああ、でも、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……痛いのも怖いのも死ぬほど嫌なのに……私には優しいお父さんもお母さんも、口は悪いけど本当は優しい妹もいるのに……! ただ、ただ人助けをしようとしただけなのに……ごめんなさい、お父さん、お母さん、まひる……」
あさひはぎゅっと目を閉じた。殺されるのを覚悟して──あるいはもっとひどいことをされるのを覚悟して。
しかし予想していた怒声も痛みもない。
「……平沼さん?」
「え」
代わりに聞こえてきたのは、困惑し切った、そしてどこか聞き覚えのある声だった。
「俺だよ。相良龍一だよ」
青年は帽子を取った。思ったより若々しい顔が露わになる。
記憶よりも少し目つきが険しく、頬が削げたように顔の輪郭が鋭くなっていたが、間違いない、かつての同級生の顔だった。
いつしか分厚い雲が割れ──その隙間から、眩い夕方の光が差し込んでいた。
あさひは首を傾げ、腕組みをして考え込み、
「えっと……相良、龍一くん?」
「うん」
素直に、素直すぎるほど彼はあっさり頷いた。
「ってことは……つまり、相良龍一くんだよね?」
「そうだよ。どうして2回言ったの?」
「ああごめん、ちょっと私も混乱してるみたい……いやそうじゃなくて、ええと……」
あさひはなおも腕組みして考え続け──そして自分の懸念の正体に気づいた。
「相良くん。ちょっとこう、こんな感じで腰を低くしてくれる?」
「どうして?」
「いいから早く!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
訳がわからない顔をしながらも腰を屈めた龍一の頭に、あさひは必死で脱いだブレザーの上着を被せようとする。
「あー、その……平沼さん、これ何のおまじない?」
「だってこうしないと、相良くんが捕まっちゃうじゃない!? この街の中にいくつ監視カメラがあると思ってるの!?」
「……もしかして平沼さん、俺を逃がそうとしてるの?」
被せられた上着の下で、彼は苦笑いをしていた。
「そうだよ! 相良くんが警察の人に連れていかれちゃうのは嫌だよ! あ、相良くんが犯罪を冒すのも嫌だけど、そっちはそっちで嫌だよ!」
「平沼さん、落ち着いて聞いて欲しいんだけど……この格好で街中を歩いたら、かえって目立つよ」
「あ」
なんで思いつかなかったんだろう──あさひはまたしても脱力した。
「ほら、俺はさっき街の中を堂々と歩けていただろ? そうは見えないだろうけど、監視カメラの顔認証を欺くマスクを顔面に貼ってあるんだ」
「私、また余計なことしたんだ……」
どうしていつもこうなんだろう──さっきまで相良龍一とはわからなかったのに。
「変わってないな、平沼さんは」
意気消沈してしまったあさひの耳に、龍一の言葉が届いた。優しい声だった。
「自分のことはどうでもいいのに、他人のことになると黙っていられない。会った時からずっとそうだった」
「……私、さっきまで相良くんだってわからなかった」
「俺もそうだよ」
苦笑。「あの頃よりずっと綺麗でお洒落だから、確信が持てなかったんだ。平沼さんによく似ているけど、よく似ている別人なのかなって」
「いやあ、綺麗でお洒落なんて妹に比べればまだまだ……じゃなくて!」
あさひは急に我に返った。「相良くん! 一つ……話しておきたいことがあるの!」
「何だい?」
「……私と一緒に、交番に行ってくれない?」
「ええっと」
怒るでもなく笑うでもなく、龍一はひたすら困惑している。
よく考えたら私がどんな素っ頓狂な言動に出ても、怒りも笑いもしない人ではあった。
「私も一緒にお巡りさんに頭を下げるから。こ、怖かったら、手を引いてあげるから……だ、大丈夫だよ、痛くないから……」
「予防接種に子供を連れて行くお母さんかな?」
龍一は苦笑いしようとして、すぐに表情を改めた。「ごめん。それはできない。たとえ平沼さんの頼みでも」
あさひは弾かれたように顔を上げる。「もしかして、相良くんは濡れ衣を着せられて逃げているの? それでお巡りさんに捕まりたくないの?」
少しだけ──ほんの少しだけだが、龍一は悲しげな目つきになった。
「いや。世間で言われていることの大半は嘘っぱちだけど、俺の犯罪行為そのものは冤罪じゃない。〈のらくらの国〉が消失したのは俺のせいじゃなくても、捕まったらそっちの方で一生刑務所だな」
「そっかあ……」
今度こそ本当の悲しみが込み上げてきて、あさひは俯いてしまう。
あの相良龍一くんは、本物の犯罪者になってしまったんだ。
「ただ、これだけは信じてほしい。俺は誰かを傷つけたり、何かを壊したりするために日本に戻ってきたんじゃない。ただ、人を探すためだけに来たんだ」
あさひの頭の中で何かが閃いた。「そっか……じゃ、私もそれを手伝うよ!」
頭の中のまひるが「市民の義務は!?」と目を剥いていたけど、あえて黙殺した。許せ妹よ、義を見てせざるは勇なきなり、だ。
「いや、平沼さんにそこまでしてもらうわけには」
「それに私、こうして相良くんを助けちゃったよね? 今さらちょっと何かを手伝ったって、法律違反は大して変わらないよ。ほら、よく言うでしょ、一人殺すも二人殺すも同じだって!」
「それはちょっと喩えが極端すぎやしないかな……」
「あ、いや、でもただの人探しなら、殺したり壊したりよりはずっと穏便だし……」
龍一の眉根がますます寄り始めた。「しかし、手伝ってもらうにしてもな……だいぶ特殊なケースなんだ。はっきり言って、ネットで調べたくらいじゃどうにもならない。だから直接、日本に戻ってくるしかなかったんだけど」
「そんなに難しい人探しなの? 総理大臣とか?」
「それが……何というか……」
龍一はひどく言いづらそうに、頬の辺りを指で掻くような仕草をしながら、
「信じてもらえるかどうかわからないんだけど……
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………なんて?」
お気づきかと思いますが、これは「プロローグ1」なので「2」もあります。
次回、日本侵入を果たした龍一に対し〈犯罪者たちの王〉もまた新たな暗殺部隊の出動を命じます。お楽しみに。